第5話 泥なんて、なにさ
夜の空気は、秋のはじまりを思わせるひんやりとした冴えをまとっていた。
廊下の窓を開けると、遠い虫の音が静かに響いたのを、いまも覚えている。
夜の静けさは、人の心をほどく。
それを嫌というほど知っているから、足音はできるだけ立てない。
踏み板の鳴る場所を避け、影を選んで歩くのは、癖というより染みついた生き方だ。
初めての街でも、誰に会えば何が動くのかを探るのは、呼吸をするように身についている。
そうして得た小さな糸口が、命を救ったことも、一度や二度ではない。
その夜、わたしは――踏み入れてはならない部屋の前に立っていた。
いや、部屋ではない。
彼女のそばに、だ。
恋などしてはならない相手だ――そう幾度も己に言い聞かせてきた。
平民の生まれであるわたしが、大貴族の娘に抱いてよい感情ではない。
その距離を知っているからこそ、踏み越えぬ術を覚えてきた。
それなのに、彼女の声を聞くたび、心の奥で何かがわずかに軋む。
それが何か、名をつけるのが恐ろしくて、いつもそこで思考を止めていた。
今夜もきっと、同じだ。
「――入って」
そう言われ、扉を開く。
いつでも片手は動けるように癖で腰の位置に置き、もう片方の手で静かに扉を押した。
セレフィーナ嬢は、ベッドの脇に腰掛けていた。
月光がカーテンの隙間から射し、彼女の金髪を、まるで繭のように柔らかく包んでいた。
「……お呼びとのことでしたが」
「ええ。来てくれてありがとう、ロジオン」
目を伏せたまま、小さくそう言った彼女の声音は、どこかいつもより頼りなげで――それがかえって胸に来た。
「……最近、少しだけ眠りづらくて。夢を見て、夜中に目が覚めてしまうのです」
「……夢、ですか」
彼女は頷いたが、その目はどこか遠くを見ていた。
「――だから今日は……その、寝つくまで、手を握っていてほしいのです」
まるで幼い子どもが、怖い夜をやりすごすために懇願するような声だった。
そして、差し出された小さな手。
その指先は、かすかに震えていた。
……細くて、冷たい指先だった。
躊躇いはたしかにあった。
けれど気づいたときには、わたしの手は、彼女の指をそっと包んでいた。
「ありがとう……あたたかいですわ」
彼女はそう言って、ベッドに身を横たえる。
わたしは椅子を引き寄せ、そのそばに腰を下ろした。
静寂が訪れる。
けれど、それはどこか心地よくて――
「……覚えていますか、ロジオン」
唐突に、彼女が口を開いた。
「わたくしが魔王国に人質として送られた日のこと」
「ええ。忘れるはずがありません」
あの夜の空の色。彼女の顔を見たときの、あの胸の詰まるような感情。
誰よりも気丈に見えた彼女が、馬車を降りたあとで、そっとわたしの手を握ってきたときの、あの細い手の震え。
「……あの日も、眠れなかったのです。あの場所で眠れば、もう目覚めたときには、すべてが変わってしまっている気がして……」
「……」
「だから、あなたの手を握って……目を閉じた。
そうすれば、心が少しだけ、戻ってこれたのです」
わたしの指を、彼女がきゅっと握り返した。
「それからも、たくさん……あったでしょう?」
「ええ、たくさん」
「魔王国での日々。朝の訓練に、秘密の図書室、夜の踊りのお稽古。
お祭りの夜、二人で食べた、あの……甘い果実の串焼き……」
思い出す光景は、なぜかどれも月明かりの下にあった。
「……そしてあの日の夜のこと、覚えていますか?」
ベッドの上、彼女の声はかすかに震えていた。
でも、それは寒さのせいではないと、わたしには分かっていた。
「魔王城が落ち、わたくしとあなたが……暗闇に紛れて逃げた、あの夜のことです」
逃避の旅の第一夜。
あれは確か、森を抜けたばかりの断崖の上。
道もわからず、焚き火もできず、岩陰に身を潜めて――
「寒くて、怖くて。
……この手が、わたくしの命綱でした」
彼女の指が、そっと強くなる。
まるで、あの夜の闇の中で手を握り返したときのように。
「空を見上げましたら、驚くほど星がきれいで……
でも、それが余計に、現実味をなくしていたのです」
「……夢のようだったと?」
「ええ……でも、夢ではありませんでした。
だって、あなたが手を握ってくれていたから。
それだけは、夢なんかじゃなかったから」
しん、と音が吸い込まれてゆく。
まるで部屋の空気そのものが、彼女の言葉に耳を澄ませているようだった。
「ねえ、ロジオン。
夢と現実って、どこで分かれるのでしょう?」
「……境界は、案外曖昧なものです」
「だから……最近、こわいのです」
「夢を見ているとき、わたくしはとても幸福で。
でも、それが夢だと気づくたび、胸が、ちくりと痛むのです」
「目が覚めても、その想いは……消えてくれませんの」
彼女の言葉が夜に溶けていく。
わたしは、ただ手を握り返すことでしか応えることができなかった。
「……まるで、夢が、続いているようで」
「セレフィーナ様」
呼びかけた名は、夜の静寂に吸い込まれていった。
彼女の睫毛がわずかに揺れる。
「――その夢の中に、わたしは……出てくるのですか?」
数秒の沈黙。
彼女は、答えない。
けれど、答えが要らないほどに、
彼女の指先が――そっと、わたしの手を握り返していた。
それだけで十分だった。
「……魔王國のこと、思い出しますの」
わたしは、彼女の手を包みながら、小さく頷いた。
「あの夜……あのお二人を逃がすため、わがままなご令嬢のふりをして喚いておられたのを、今もよく覚えております」
一人は魔王の娘、もう一人はその娘付きの猫耳メイド。
二人は――セレフィーナ嬢が生まれて初めて、心から友と呼べた相手だった。
だからこそ、あの夜の彼女の選択は、決して芝居などではなかった。
「……まあ。忘れていただいて結構ですわ。恥ずかしいこと」
けれどその声は、どこかくすぐったそうだった。
「……泥をかぶってでも、誰かを守る。
わたくしには、あれが最初の選択でしたの」
ロジオンは、何も言わず彼女の指を軽く握った。
「ロジオン。あなたは、あのときわたくしに言いました。
家名に泥がつく、と。
でも――」
彼女はそこで、くるりと身体を返す。
ランプの灯りが、彼女のまつげを照らしていた。
「――泥なんて、なにさ、って。
あれは強がりでも、演技でもございませんの」
ふっと笑ったその顔は、意地っ張りで、でもどこか不安げで。
その笑みの奥に、わたしは別の色を見た。
迷いと、そして――何かを決めかけている瞳の色を。
――彼女の手のひらが、わたしの指を絡めとるように、ぎゅっと握り返した。
触れているはずの手よりも、ずっと心に近い場所で結ばれる感触だった。
「……でも、違うのです」
「夢に溺れているだけのわたくしでは、嫌なのです」
「だから、決めましたの」
彼女の瞳は、月明かりを映していた。
透き通って、揺らがなくて――それでいて、胸の奥を灼くほど熱い。
「――わたくしの幸せな記憶は、すべてあなたと共にあるの」
呼吸が、止まった。
それはあまりにも真っ直ぐで、逃げ場のない言葉だった。
「だから、その続きを……あなたと作りたいのです」
その声は震えていなかった。
ただ、胸の奥を真っ直ぐに突く、柔らかい熱だけがあった。
わたしは、息を呑んだ。
それは告白ではなく――ただの事実のように響いたから。
「だから……」
彼女の視線が、ふと揺れる。
ほんの一瞬、迷うように睫毛が伏せられ、息を整える仕草。
そして、顔を上げたとき、その瞳にはもう迷いがなかった。
「……だから、決めましたの。
あなたに領地を得ていただきますわ」
唐突なようで、唐突でない。
けれど、この瞬間までのすべてが、この言葉に繋がっていた。
「……セレフィーナ様、それは……」
言葉が喉に詰まった。
平民の生まれである自分に、その資格があるのか――頭の片隅で、古い棘が疼く。
だが、彼女は小さく笑った。
まるでその心の内を読んだかのように。
「お嬢様、しかし、それでは……」
「――いまさら、わたくしが『泥』を気にするとでも思って?」
その瞳は、月明かりよりも澄んでいた。
あの魔王国の夜に、泥にまみれて笑った彼女と、何ひとつ変わらない光がそこにあった。
言葉が詰まった。
こういう場面で、わたしはいつも一呼吸置く。
立場を間違えれば、すべてが壊れる場を、これまで何度も見てきたからだ。
だが今夜だけは、その一呼吸がひどく重く感じられた。
だが、彼女は逃げなかった。
目を逸らさなかった。
顔を赤らめながら、それでも真っ直ぐに、わたしを見ていた。
「つまりは、そういうことですの。
言わせないでくださいませ。わたくし、今でも……恥ずかしいのですから」
その声は、必死だった。
震える指先で、自分自身を支えているような。
その震えが、自分に向けられていることを、わたしは知ってしまった。
だから、もう――目を逸らすことはできなかった。
「……あなたの力で領地を得る。それが叶ったなら……
そのとき、わたくしが、すべてを受け止めて差し上げますわ」
言い切ったあと、彼女の睫毛が、ふるりと震えた。
わたしは、すぐには言葉を返せなかった。
だが、確かに感じていた。
この手の震えが――彼女の精一杯であることを。
そして、その精一杯が、自分に向けられていることを。
それだけで、胸が、どうしようもなく熱くなる。
……最低限を持ち帰れ。
それ以上は――『わたくしが』なんとかいたします。
彼女はそう告げていた。
押しつけでも夢物語でもない。だが、その最低限こそが、平民上がりのわたしにとってはもっとも遠い場所にある。
分かっている。所領を得るということが、どれほどの縁と才と幸運を要するのかを。
それでも――頭の中ではすでに筋道が描かれていた。
どこに向かい、誰に会い、何を押さえれば最短で目的に届くのか。
それが、わたしの生き方であり、唯一の取り柄だった。
だが同時に、分かっていた。
彼女が口にした「待つ」という言葉が、どれほどの覚悟を伴っているのかを。
貴族の娘として、婚期や立場、家の意向――すべてを背にしての「待つ」なのだ。
それは、ただの猶予ではない。
彼女が、自分の未来をこの手に預けてくれるということだった。
命を繋ぐために磨き続けてきた術を、今度は――お嬢様のために使う。
彼女が「待つ」と言った覚悟の重さを知っているから。
その未来を、この手で掴むために。
(……どうして、気づかなかったのだろうな)
胸の奥に、じんわりとした熱が広がる。
ずっと傍にいて、仕えて、守ってきたはずなのに――
そのすべてが、今ようやくひとつに結びついていく。
目を伏せる彼女の睫毛が、震えていた。
呼吸は浅く、けれど確かに語っている。
――わたしを「待っている」と。
(これが――恋、か)
その一言を心の中で呟いたとき、世界が静かに変わった。
もう、護衛としての距離では見られない。
今この瞬間、わたしの前にいるのは――心を預けてくれた、たったひとりの女性だった。
(この手を、もう二度と離したくないと、思ってしまった)
そう気づいてしまった以上、もう目は逸らせなかった。
わたしは、そっと彼女の手をもう一度、包み直した。
今度は、護衛としての手ではない。
ひとりの男として、彼女の告白に、想いに、応える手だった。
「……かしこまりました、お嬢様」
低く、静かな声。
けれど、その言葉には――かすかに、熱があった。
「あなたのために、領地を得ましょう。
――あなたが、わたしを待っていてくださるのなら」
そう言ったとき、彼女の睫毛がふるりと揺れ、瞳がゆっくりと上がった。
その瞳の奥に、安堵と喜びと、まだ信じられないような戸惑いが一瞬にして浮かび、そして――やがて、ぽたりと一滴、涙がこぼれた。
わたしは、その涙に何も言わなかった。
ただ、手を放さなかった。
それだけが、わたしのすべてだった。
*
*
*
朝靄がまだ街を包んでいるうちに、わたしは馬に鞍をかけていた。
その背に声がかかる。
「……ロジオン」
振り返れば、セレフィーナ嬢がいた。
夜明け前から支度していたのだろう。風に揺れる髪と、その眼差しは、どこか凛としていた。
「魔王国との戦は終わりましたけれど、まだ混乱の続く地もございます……どうか、危険な場所へはお近づきにならないでくださいませね」
「それは……難しいご注文ですね」
苦笑すると、彼女はむっとした顔をして、ふいと顔を背けた。
「わたくし、怒っていますのよ。あんな夜に、あんな話をして……。
その翌朝には、あなたがもう、旅立つなんて」
「……申し訳ありません」
「でも……」
彼女は一歩だけ近づき、ロジオンのマントの端をそっと握った。
「――無茶をしないと、約束してくださいまし。
わたくし、待つのは……得意ではありませんのよ」
その声音には、わずかな震えと、はっきりとした信頼があった。
「……はい。必ず、帰ります」
ロジオンは彼女の手をとって、そっと握る。
「あなたが、わたしを待っていてくださるのなら」
その言葉に、セレフィーナ嬢の頬がわずかに赤く染まった。
けれど彼女は、視線を逸らさず、頷いた。
「――わたくしが、あなたを待っております」
そして、その一言を残して、彼女は背を向ける。
ロジオンが馬に跨ると、朝日が昇り始めた。
ひとつ深呼吸をして、彼は手綱を握る。
「では――行って参ります、お嬢様」
彼女は振り返らなかった。
ただ、肩が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
*
*
*
――そして、一週間後。
ロジオンは、帰ってきた。
一週間で、帰ってきた。
―――――――――――
あとがき。
第5話をお読み頂きありがとうございました。
楽しかった、続きが少しでも気になる思われましたら⭐︎⭐︎⭐︎評価や作品フォローをどうぞよろしくお願いします!
次話は明日19:03に投稿致します。ぜひご覧下さい。
―――――――――――
⭐︎⭐︎⭐︎は最新話下部、もしくは目次ページ下部の「星で讃える」から行って下さい。★★★だと嬉しいです〜!
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