第3話 巣から落ちた雛鳥

数日が経過した、放課後のことでございます。


本日の『主役』高坂詩織は、再びあの進路指導室へと呼び出されておりました。

数日前の面談で彼女が一度は殺したはずの自らの魂。その死体検分を行うかのような、最終確認の儀式が始まろうとしていたのです。


室内に漂う教師のかすかな香水の匂いと重苦しい空気。詩織はその甘ったるい匂いに吐き気を覚えます、そして諦観に満ちた表情で静かに椅子に腰かけておりました。


そして、その中に、相田七海様が侵入しておりましたことは、言うまでもございません。七海様は教師と詩織が向かい合う机の、ちょうど真ん中に立っておりますが、もちろんその姿は二人には見えておりません。


舞台の役者は、自らの運命が、脚本家によって定められていることを決して知らないのです。


「高坂さん、気持ちの整理はついたかしら」


女性教師は満足げな笑みを浮かべ、医学部のパンフレットを机に広げます。

詩織は、ただ魂の抜けた人形のように小さく頷きました。


その、最も無防備で、最も抵抗の意思を失った瞬間を、七海様は見逃しませんでした。


儀式が、静かに開始されたのでございます。


七海様は、詩織の背後に、まるで影のようにぴったりと寄り添いました。

そして、その耳元に、そっと唇を寄せます。


「本当は、こんな話、聞きたくもないのでしょう?」


詩織の肩が、びくりと震えました。誰にも聞こえるはずのない、甘い囁き声。


(だ、だれ……?)


「あなたのその指は、メスではなく、絵筆を握るためにあるのに」


その言葉と同時に、七海様の指が詩織の制服の僅かな隙間から、その背中へと忍び込みました。

ひやりとした指先が、白い肌の上をゆっくりと滑っていきます。


詩織は息を飲みました。目の前の教師に気づかれてはならない。

その一心で、身じろぎ一つできません。


(やめて……)


「いいんですよ、もっと感じて。これが、あなたの本当の姿なのですから」


囁きは彼女が押し殺した本心を的確に暴き、指先は彼女が知らなかった身体の熱を執拗に呼び覚ましていきます。言葉による精神の侵犯と指先による身体の支配。この二重の攻撃に詩織の理性の檻は音を立てて軋み始めておりました。


「…では、この進路で頑張りましょうね」


教師が、面談を締めくくろうとした、その瞬間でございます。

七海様の指先が、詩織の身体の最も敏感な一点に、ことり、と触れました。


詩織の身体が弓なりにしなります。


(ひっ)


その一度の刺激だけでは、七海様はご満足なされませんでした。

まるで、これから始まる演奏の調律をするかのように、その指は、さらに深く罪深い場所へと進んでいきます。

もう片方の手は、彼女のうなじを優しく撫で、囁きのための完璧な舞台を整えます。


「ほら、あなたの身体は、正直ですよ」


甘い声が、直接鼓膜を震わせます。

生ぬるい吐息が、彼女の耳を愛撫します。


「この退屈なお話よりも、ずっと楽しいでしょう?」


指先が服の下で、まるでダンスを踊るかのように、彼女の肌をその柔らかな起伏を、執拗になぞり始めました。


詩織の身体は急速に熱を帯び、呼吸は浅く速くなります。スカートの中で両膝が小刻みに震え、互いに擦り合わされるのを必死にこらえておりました。


机の下で、彼女は自分のスカートの生地を、爪が白くなるほど強く握りしめました。


その痛みで、背中を這い回るこの屈辱的な感覚を、少しでも上書きしようとしたのでございます。


(や、やめて、ください)


「…詩織さん? 何か言いましたか?」


教師の怪訝な声が、まるで水の中から聞こえるように、遠く響きました。


返事をしなければ。


完璧な委員長として、いつも通りに。しかし、今口を開けば間違いなく漏れ出るのは言葉ではなく、みっともない喘ぎ声でしょう。その恐怖が、彼女の唇を固く結ばせました。


彼女の意識は、もはや教師には向いておりません。ただ一点、背後で見えざる指を滑らせる、この悪魔にのみ集中しておりました。


(やめて)


(やめてください)


声にならない叫びが、心の中で木霊します。彼女は背筋に全ての力を込め、その不快な侵入を、必死に拒もうといたしました。

しかし、その抵抗は虚しく、むしろ身体の熱を、その正直な疼きを、増幅させるだけだったのでございます。


「さあ、この人に教えてあげなさい。あなたが、本当は何をしたいのかを」


七海様が、とどめの一撃と言わんばかりに、最も抗いがたい刺激を、その指先で与えました。詩織の理性の糸が、限界を超えて、ついに焼き切れました。


「あっ…んぅ…っ!」


か細く、しかし、明らかに熱を帯びた甘い声。

それが静かな進路指導室に確かに漏れ聞こえてしまったのでございます。


「…高坂さん?どうしました」


教師が怪訝な顔でこちらを見ました。

その、訝しむような視線が詩織の心臓に冷たい杭のように突き刺さりました。


詩織の顔が真っ赤に燃え上がります。


(ああ、聞かれた)


(もう、おしまいだ)


(とにかくごまかさないと)


羞恥と絶望とそして全てを破壊されたことによる狂気的な怒り。それらが彼女の中で一つになりました。


そして彼女の中で、何かが、ぷつりと、完全に切れ落ちたのでございます。


「…あの、先生」


先ほどの甘い声をごまかすように。

衝動的に、しかし、はっきりとした声を出します。


「…私、医学部には、行きません」


教師は一瞬、驚きに目を見開きましたが、すぐに冷静さを取り戻します。


「…そう。では、どうするつもりなの?」


詩織は答えられませんでした。その沈黙が、彼女の行動がただの衝動であることを雄弁に物語ります。


全てを察した教師の目に浮かんだのは、もはや失望ですらない、ただ『興味を失った』という冷たい無関心でした。


「…そう。分かったわ。あなたの人生だものね。よく、考えてみなさい」


その目は、もはや詩織を期待の星として見ておりませんでした。ただ、何を考えているか分からない、『面倒な生徒』としてしか見ていなかったのです。


詩織は、宣言したことによる強烈な解放感と、教師のその『無関心の目』がもたらす、取り返しのつかない喪失感を同時に味わい、呆然とするばかりでした。


詩織の体に触れていたた手はもうすでになく。ただ体の疼きだけが残っているのでございます。


ーーー


その日の夜、詩織は自室のベッドの中で、眠れずにいました。

昼間の解放感は、静寂の中で一転して、底知れない恐怖へと変わっておりました。レールを外れてしまったことへの不安。もう昨日の私には戻れないという、不可逆的な変化への恐怖。そして、失われた庇護への、どうしようもない渇望。暗闇の中、彼女の頬を、静かに涙が伝っておりました。


数日後の放課後、彼女は誰もいない美術室におりました。


刷毛がキャンパスをなでる音だけが、美術室に響いております。


虚ろな目で、無気力にただキャンバスに向かっています。それは夢への情熱などではなく、何をすればいいか分からないという焦りから、かろうじて得意だった『絵』という行為にしがみついているに過ぎません。


そこに、七海様が、初めて彼女の前にはっきりと姿を現しました。


「これはこれは、無様なお姿ですね、高坂さん」


背後からの、楽しそうな囁き声。


「七海さん…あの声、やっぱり七海さんだったのね」


「せっかく私が、その鳥籠から解放してあげたというのに。…もしかして、私を恨んでいますか?」


七海様の言葉は詩織の魂の最も痛い部分を正確に抉り出しました。

彼女は怒りに燃えて振り返ります。


「私は…!」


しかし、その後の言葉が出てきません。

解放されたかったのは本心。だが、こんな形は望んでいなかった。


目の前のこの少女を心の底から憎んでいるのも、また本心。

その絶対的な矛盾に彼女の思考は完全に停止いたしました。


何も言い返せず、ただか細く呟くだけ。その瞳からは悔しさと屈辱と、そして行き場のない悲しみが混じり合った、大粒の涙が後から後から溢れ出してきます。

彼女は、ただ拳を握りしめ、嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちました。


その、あまりにも美しい絶望の表情を、

七海様がただただうっとりと満足げに鑑賞しておりましたことを、本日のお話の結びといたします。

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七海様は、イタズラがお好き ローワン @Rowan_

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