第二話 夕焼けと先輩
年が明けて三日。
窓の外には薄い雲が流れていて、
朝の白い光が部屋の奥で静かに揺れていた。
わたしは――
性格は落ち着いているとよく言われる。
でもそれは、まわりをよく見て、
感じたことを自分の中でゆっくり考えて、それから行動するからだと思う。
そんな性格になったのは、
小さいころから身近に、尊敬できる人がいたからかもしれない。
その人は同じ水泳スクールに通っている先輩。
先輩は綺麗で、優しくて、そして芯の強い人。
その姿を見ていると、自然と背筋が伸びるような気がする。
だから――その先輩から「スクールをやめる」と聞いたとき、
胸の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
驚きよりも先に広がったのは、静かな寂しさ。
けれど、先輩の決めたことなら、それはきっと先輩なりの想いがあるはず。
そう思っても、心のどこかで願ってしまう。
もう少しだけ、先輩と一緒にいたい――と。
先輩の中学校卒業も、もうすぐ。
先輩と過ごせる時間は、あとほんの少し。
この冬を逃したら、
たぶんもう、あまり会う機会はなくなる。
〈先輩、今日、少し出かけませんか〉
送信ボタンを押す瞬間、指が少し震えた。
返ってきた短い返信――
〈いいね。午後なら空いてる〉
その文字を見た瞬間、
胸の奥で固まっていた何かが、静かにほどけていった。
午後の駅前は、冬の日差しが透けるほどに明るかった。
人の声が響き合い、
透明な空気の中を笑いがいくつも通り抜けていく。
その中で、先輩を見つけた。
落ち着いていて、上品で、どこか近づきがたい。
肩にかかる髪が光を受けてやわらかく揺れ、
すらりとした姿が冬の空気に溶けていた。
――
先輩とは、家が近くて、昔からよく知っている。
小さいころから変わらず落ち着いていて、
どんな時も周りに流されない人。
わたしにとって、ずっと憧れの存在だった。
わたしは小さく息を吸い込んで、
心の中で「大丈夫」とつぶやいてから、そっと声をかけた。
「凛先輩、お待たせしました」
先輩がこちらを振り向いて、柔らかく微笑む。
その瞬間、
胸の奥で冷たい冬の空気がゆっくりと温まっていくのを感じた。
「藍……あけましておめでとう」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
先輩が小さく頷いて笑う。
「寒かったでしょう? 手、冷えてない?」
「少しだけ……でも大丈夫です」
先輩は「そう?」と微笑んで、
わたしの赤くなった指先を見つめて、
ポケットからそっと何かを取り出し、
わたしの手を包み込むように握らせた。
指先に、やわらかな熱がじんわりと広がっていく。
見ると、それは小さなカイロだった。
その感触は、思っていたよりもずっとあたたかかった。
「冷たい手は、早く温めないとね」
「……ありがとうございます」
やさしい声が、冬の空に溶けていく。
その瞬間、
胸の奥で何かがほのかに灯った気がした。
先輩と一緒に歩くと、時間が少しゆっくり流れる気がする。
その静けさが、わたしの心まで落ち着かせてくれる。
穏やかな笑顔の奥には、誰も気づかない芯の強さがあった。
――わたしは、それをずっと知っている。
買い物を終えて、ふたりでカフェに入った。
ガラス越しに射し込む光が、
湯気と一緒にふわりと立ちのぼる。
わたしはカフェラテを、先輩はストレートティーを。
カップを両手で包む先輩の指先が白くて、
その長いまつげの影まで、どこかやさしかった。
「コーヒーって、ちょっと背伸びですよね」
「そうかも。でも、藍が飲んでるとすごく自然に見えるね」
「ありがとうございます。
凛先輩も紅茶がとてもよく似合うと思います。
静かで、香りが柔らかで……凛先輩の雰囲気そのままって感じがします」
先輩は少し照れたように微笑んで、
「……ありがとう。私も紅茶みたいに、そっと誰かを温められたらいいんだけどね」
――先輩は、もう十分あったかい人ですよ。
心の中でそう思ったけれど、言葉にはしなかった。
カップの中の泡が静かに消えていく。
その音のない時間が、少しだけ長く感じた。
――スクールのこと、触れないほうがいいのかもしれない。
そう思いながらも、どうしても聞きたくて、
わたしは意を決して口を開いた。
「スクール、年末で終わりましたね」
先輩は少しだけ目を伏せて、
ティーカップを指先でなぞった。
「そうだね」
小さく息をついてから、静かに続けた。
「なんか、不思議だった」
「不思議?」
「長く通ってたのに、もう行く理由がなくなったんだなって」
その言葉は、ため息のように静かだった。
湯気の向こうで、冬の光が淡く揺れていた。
――先輩の声が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
でも、その奥には、ちゃんと前を向こうとする強さがあった。
わたしは、その姿をずっと見てきた。
「……先輩」
言葉を選びながら、そっと口を開いた。
「今まで、たくさん教えてくれてありがとうございました。
練習のときも、行事のときも、
いつも先輩がいたから頑張れたんです。
……だから、やめるって聞いた時、少し寂しかったけど、
前を向いてる先輩を見てたら、
わたしも頑張ろうって思いました。」
先輩は目を伏せて、ほんの一瞬だけまばたきをした。
湯気の向こうで、微笑んでいるように見えた。
「……ありがとう。藍にそう言ってもらえるの、嬉しい」
その穏やかな声が、
冬の午後に静かに染み込んでいった。
カフェを出ると、空の色が少しずつ変わり始めていた。
白っぽかった光が、やわらかい橙に溶けていく。
帰り道は、あの坂をもう少し上ればすぐ家だった。
風が冷たくて、マフラーの端が頬にあたる。
隣を歩く先輩の影が長く伸びて、
夕陽の中に二人の足跡が並んだ。
「この道、懐かしいですね」
「うん。小学生のころから通ってたよね」
「先輩にターンを教えてもらったの、あの角でした」
「覚えてる。すごく真剣だった」
先輩が少し笑う。
その声を聞いた瞬間、あの時の光景が蘇った。
「……あの時の見本、今でも覚えてます」
「見本?」
「はい。『勢いが大事!』って言って回った瞬間に、
ランドセルの中身が全部、飛び出しましたよね」
先輩の足が止まった。
「……それ、覚えてたの?」
「もちろんです。ノートもペンケースも、すごく勢いよく飛んでて。
“重いものから遠くに飛んでいくからね”って言いながら片付けてたの、
すごく印象に残ってます」
先輩は、少し目をそらして照れ笑いをした。
「……あの時は、本気で焦ってたんだよ」
「そうなんですか? でも、あれで理解できました。
勢いの制御って大事なんだなって」
「ふふ、それは学びすぎ」
そう言って、先輩がわずかに笑ったとき、
夕陽が先輩の横顔をやわらかく照らした。
「あの時、先輩が落としたクマのペンケース、
頭を撫でて“ごめんね”って言ってたの、見てました」
先輩が少し驚いたように目を丸くした。
「……覚えてるんだ」
「はい。なんか、いつもの先輩と違って、失礼かもしれないですけど……すごく可愛かったので、よく覚えています」
その言葉に、先輩はほんのり頬を染めて、
マフラーの端を指でいじった。
「……あれは、その、つい……」
「すみません、変なこと言っちゃって……でも、それも含めて、先輩はすごいと思います」
凛先輩はくすっと笑って言った。
「何それ、藍、それって褒めてるの?」
「尊敬してます」
先輩は「ふふっ」と笑って、軽く首をかしげた。
冬の光の中、その笑顔がふっとやわらかくほどける。
「もう、藍は真面目すぎるよ……」
――あのクマのペンケースも、
あの笑い声も、全部わたしの中で静かに光っている。
きっとあの頃から、
先輩の背中を追いかけることが、わたしの道になった。
その想いを胸の奥で確かめながら、静かな坂道を歩いた。
まもなく家に着く。
今日のこの道が、先輩と歩く最後の坂になるかもしれない――
そう思うと、胸の奥が少しだけきゅっとした。
坂を登る途中、小さな神社がある。
赤い鳥居の屋根にうっすら雪が積もり、
夕暮れの光がそれをやわらかく照らしていた。
「ねえ、少し寄っていかない?」
「ここ、入ったことありませんでしたね」
「うん。もうすぐ家だけど……なんとなく今日は行ってみたい気分」
先輩の声は穏やかで、少し遠くを見ていた。
その横顔が、沈みゆく夕陽の中で金色に照らされていた。
鈴を鳴らすと、
澄んだ音が冬の空に響いた。
空気は冷たいのに、その音だけがやさしくて温かかった。
わたしも手を合わせる。
隣で祈る先輩の横顔を見ていると、
胸の奥がきゅっとした。
手を離すと、先輩が小さくつぶやいた。
「ねえ、藍。自分で決めるって、難しいね」
「え?」
「水泳をやめるって決めたけど、
次に何を始めるかはまだ決めてないんだ。
だから今は、停滞期間……かな?」
先輩は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
わたしは小さく息を吸い込んで、
その横顔を見つめながら言葉を探した。
冬の風が、ほんの少し頬を撫でていく。
その冷たさの中で、胸の奥に小さなあたたかさが灯った。
「でも、先輩はもう次に進んでいると思います。
だって、やめるって決めたのは先輩じゃないですか。
それって、もう進んでるってことだと思うんです」
先輩は驚いたように目を細めて、
やがて小さく笑った。
「……藍って、たまに大人びてるね」
「そうでしょうか。
でも……悪くないと思いませんか?」
「うん、そう思う。ちゃんと届いた」
冬の風がふたりの間をすり抜け、
鈴が小さく鳴った。
その音が合図のように、わたしたちは顔を見合わせて笑った。
張りつめていた空気がふっとやわらぐ。
風がまた頬をかすめて、
夕焼けの光が少しずつ色を変えていく。
わたしはポケットから、
先輩にもらった小さなカイロを取り出した。
「凛先輩……これ、ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい……もう十分温まりました。
次は先輩が……」
わたしが手渡すと、
先輩は受け取って、指先でその温もりを確かめた。
「……あったかいね」
「はい、とても……」
――その温もりが、互いの心に静かに残った。
少しずつ変わっていく季節のように、
わたしたちも、それぞれの道を歩き始めている。
もう同じ場所で泳ぐことはないかもしれない。
それでも、あの日の水音と光だけは、きっと消えない。
夕暮れの空に、細い三日月が浮かんでいた。
その光はどこか優しくて、
未来へ続く道をそっと照らしているように見えた。
――季節は動いている。
そして、わたしたちも。
空の向こうで風が鳴った。
その音は、次の季節の足音みたいだった。
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