マシュマロ=クロニクル

@nonnon0319

第一話 新月にお願い

 大晦日の夜。

 新月の空は雲ひとつなく澄みきっていて、

 星々の光がいっそうくっきりと瞬いていた。


 吸い込んだ空気は冷たくて、

 吐いた白い息は薄く広がりながら、

 夜の中にゆっくりと溶けていく。


 耳をすませると、遠くの街のざわめきが

 ガラス越しに聞こえるようにかすかに響いた。


 その向こうでは、

 風と灯篭の揺れる僅かな音と光が、

 この場所の時間を刻んでいるように見える。


 今、わたしたち姉妹がいるのは、

 郊外の高台にある大きな神社の石段の下。


 境内は高い場所にあって、

 夜の街の光が足元の向こうに静かにまたたいて見えた。


 長く続く石段は上へ向かってゆるやかにのびていて、

 その両脇に灯篭がひとつずつ並んでいる。


 灯りが石の表面をやわらかく照らし、

 まるで星の道が天へ続いているように見える。


 大晦日の夜になると、この神社はたくさんの人でにぎわう。

 けれど、多くの人は車で上まで行ってしまうから、

 この石段を登る人はほとんどいない。

 父と母も車で上まで行っている。


 だからここだけ少し静かで、

 息を吐く音さえもゆっくりと夜に溶けていく。


 隣に立つのは、一つ上のお姉ちゃん――

 白井しらい茉白ましろ。中学三年生。


 お姉ちゃんは明るくて、誰にでもやさしい。

 ちょっとドジなところもあるけれど、

 まわりをあたためるような笑顔があって、

 わたしは小さいころからそんなお姉ちゃんが大好きだった。


 そして、わたしはその妹――

 白井しらい瑚白こはく。中学ニ年生。

 お姉ちゃんみたいに、自然に人を笑顔にできるタイプじゃない。

 どちらかといえば、慎重で、考えすぎてしまうほう。


 でも、そういう自分を少しずつ変えたくて、

 お姉ちゃんの後ろを歩きながら、

 いつか同じ景色を見てみたいと思っている。


 気がつけば、大晦日にはいつもお姉ちゃんと一緒に

 この石段を登るようになっていた。


 この石段を登るたび、

 小学校のころ初めて最後まで登りきった日のことを思い出す。

 途中で転びそうになって泣きそうになったけど、

 お姉ちゃんが手を引いてくれた。


 でも、最後の数段は意地を張って自分の足で登った。

 あのとき見えた街の光を、今も覚えている。


 ――あれから何年も経って、

 今年もまた、同じ石段を登ろうとしている。

 冷たい空気が肌を刺して、

 夜空の星が少し滲んで見えた。


「……だって長いんだもん」

 思わずこぼれた弱音に、お姉ちゃんが口元だけで笑う。


「うん、長いよね。でも……瑚白なら、ちゃんと登れるよ」


 そう言って、お姉ちゃんは自分のマフラーを軽く整え、

 ふわっと巻き直した。


 その仕草は、冬の光をすくうみたいにやさしかった。


 整え終えると、両腕を軽く開いて合図をくれる。

「はい、こっち向いて」


 声に素直に振り向くと、

 お姉ちゃんの指先がわたしのマフラーの端をそっと摘み、

 ねじれを直してくれた。


 それから首の後ろへ回してふわっと高さを作り、

 結び目をほんの少しだけ下げる。


「ほら、曲がってる。これじゃ風が入っちゃうでしょ」

「別に平気だよ」

「だーめ。瑚白はほっそりしてるから、

 風が入らないように、しっかり巻いておかないとね」


「お姉ちゃんだって細いじゃん」

「私はいいの」


 お姉ちゃんは笑いながら、もう一度そっと布を押さえた。

 指先から、ほんのりぬくもりが伝わってくる。


「うん、これでよし」

「ありがとう」

「うん。――じゃあ、行こうか」


 お姉ちゃんが軽く息を整えて、一段目を踏む。

 コツン、と乾いた音が夜に響いた。

 その背中を追って、わたしも足を上げた。


 灯篭の明かりが下から上へと続き、

 影がゆらゆらと伸びていく。


 「コト、コト」と靴底が石段を打つ音が、

 夜気の中でくっきり響いた。


 お姉ちゃんはゆっくりとした足取りで、

 ときどきわたしを振り返る。


 そのたびに目が合って、

 わたしは自然と笑ってしまう。


 やがてお姉ちゃんは立ち止まり、

 わたしが追いつくのを待ってくれた。

 目が合うと、ふっと微笑んで、やさしく言った。


「ここからは、一緒に歩こうか」


 その声にうなずいて、わたしが横に並ぶと、

 お姉ちゃんは歩幅を合わせて、ゆっくりと歩き出した。


 肩と肩がほんの少し触れそうで、

 冬の匂いと、お姉ちゃんの髪の香りがまじり合う。


「ねぇ、お姉ちゃん、去年ここ登るとき転んだの覚えてる?」

「えっ、わたし? そんなことあったっけ?」

「あったよ。最後の段でつまずいて、手袋まっ黒にしてたじゃん」

「あ〜……あったかも。あのとき、瑚白めっちゃ笑ってたでしょ」

「だって、お姉ちゃんがあんなドジするなんて思わなくて」

「ひどい〜。あれは、石段が悪いんだよ」

「それ言い訳〜」


 二人で顔を見合わせて笑った。

 白い息が重なって、灯篭の光の中でふわっと消えていく。


「でもね、お姉ちゃん。

 そういうとこも、ちょっと好きだよ」

「え? 転んだ話のどこに好きになる要素があるの?」

「ふふ、ちゃんとあるよ」

「どこどこ?」

「失敗してもすぐ笑って前向きになるとこ。

 なんか、お姉ちゃんらしいなって思うの」


 お姉ちゃんは少し照れくさそうに笑って、

 マフラーの端を軽く指でつまんだ。


「もう、なにそれ瑚白〜。それって褒めてるの?」

「ううん、褒めてるんじゃないよ。尊敬してるんだよ」


 お姉ちゃんは目を瞬かせて、

 小さく笑いながら肩をすくめた。


「ふふ、ありがと。なんか照れるね」


 その笑顔を見たら、

 胸の奥がほんのりあたたかくなって、

 息が白くほどけていった。


 半分ほど登った踊り場で、お姉ちゃんが言った。

「ちょっと休憩する?」

「うん、少ししたいかも」


 二人で踊り場にある石のベンチに腰を下ろす。

 石の上は冷たくて、座ると体の熱が逃げていくのがわかる。


 息を整えながら空を見上げると、

 星が驚くほど近くに見えた。


 お姉ちゃんも同じように見上げて、

 ぽつりとつぶやく。


「ねえ、瑚白。お願い、決めてる?」

「うん、決めてきたよ」

「なに?」

「……みんなが健康で過ごせますように、って」


 わたしが答えると、お姉ちゃんは星空を見上げたまま、

 やわらかく笑った。


「瑚白らしいね」

「うん。……お姉ちゃんは?」


 お姉ちゃんは一瞬、息をのんだように目を細めて、

 空の高いところを見つめた。

 少し間をおいて、


「わたしも……うーん、同じようなものかも」


 とつぶやく。


「え、なに? どんなの?」

「えーっと、ほら、似たようなやつ」

「え〜、教えてよ」

「やだ、なんか恥ずかしいじゃん」


 お姉ちゃんは照れたように笑って、

 首もとを少しすくめた。

 その拍子にマフラーがふわっと揺れて、

 白い息がこぼれる。

 その仕草がかわいくて、

 わたしは思わず笑ってしまう。


「……お姉ちゃん、絶対同じこと思ってるでしょ」

「さて、どうだろう?」

「もう〜」


 わたしは頬をぷくっと膨らませて、

 肩で軽くお姉ちゃんの肩を押した。


 お姉ちゃんは笑いながら、

「やめてよ〜」とくすっと声を漏らす。


 そしてわたしの顔を見て、


「ほら、そんな顔してたら、

 寒さでりんごほっぺになってるよ」


 と笑った。


「え、うそ……そんなに?」

「うん、かわいいけど、このままだと本物のりんごになっちゃうかも」


 そう言って、お姉ちゃんは自分のマフラーを外して、

 ふわりとそのまま、わたしの首に二重になるように巻きつけてくれた。

 布のぬくもりがふわっと広がり、

 お姉ちゃんの指先がそっと触れるたびに、胸の奥があたたかくなる。

 最後に結び目を整えて、微笑む。


「はい、これであったかい」


 首元よりも、お姉ちゃんの笑顔のほうがずっとあたたかかった。


「……お姉ちゃんは寒くない?」

 お姉ちゃんは優しく首を横に振って、


「大丈夫。さあ、もうちょっとがんばろっか」


 と笑った。


 やがて登りきると、境内の明かりが見えてきた。

 屋台の灯りがぽつぽつと並び、空気が少しあたたかくなる。


 母が手を振って待っていた。


「二人ともおつかれさま。冷えたでしょ」

「うん。でも、お姉ちゃんと一緒だったから大丈夫」


 母はわたしの首元を見て、くすっと笑った。


「……あら、二重マフラー。あったかそうね」

「ちょっと苦しいけど、とってもあったかいよ」


 お姉ちゃんは少し照れくさそうに笑っている。

 母はそんな娘の様子を見て、自分のマフラーを外した。


「じゃあ、私も」


 そう言って、お姉ちゃんの首にそっと巻く。


「ありがとう」

「ううん。寒くない?」

「大丈夫」


 三人で顔を見合わせて笑った。


「そうそう、お父さんね。

 返納の絵馬、車に取りに行ってるんだけど、

 さっき連絡があって、

 家に忘れてきちゃったみたいなの。

 だから、もう今日は車で待ってるって」


「えー、また?」


 お姉ちゃんが思わず吹き出す。

 わたしもつられて笑った。


「お父さんらしいね」

「ほんと、そうよね」


 母も苦笑いして肩をすくめる。


「じゃあ、せっかくだから三人でお参りしていこうか」


 母の言葉にうなずき、三人で並んで手を合わせる。

 鈴の音が澄んだ空気の中に響き、

 白い息が星の光に溶けていった。


 帰り道、灯篭の明かりがまた静かに続いている。


「ね、瑚白。車まで競走する?」

「え、今から?」

「うん、今から」


「ちょっと待って、心の準備――」

「よーい……どん!」


 お姉ちゃんは軽やかに駆け出した。


「ずるい!」


 慌てて追いかける。砂利の上で靴音が跳ね、

 白い息が背後に流れていく。


「待ってってば!」

「がんばれ〜!」


 笑い声が灯篭のあいだからこぼれて、夜空へ消えていく。

 新月の空は暗くても、星々が鮮やかに光っていた。


 お姉ちゃんの背中を追いながら、胸の中でそっと思う。


 お姉ちゃんのお願いは、きっとわたしと同じだった。

 それがすごく嬉しかった。

 お姉ちゃんに、少し近づけたような気がして。


 でも、わたしはお姉ちゃんにはなれない。

 あの優しさも、あのあたたかさも、真似なんてできない。

 だからこそ、わたしはわたしなりに――

 お姉ちゃんの横にいても恥ずかしくないような人間になっていきたいと思った。


 夜空では、星の光が静かに瞬き、

 風に揺れる灯篭の光が

 石段の影をゆっくりと溶かしていく。


 吐いた白い息が空に昇って、

 街の灯りと混ざり合いながら、

 やがて見えなくなった。


 冬の夜の静けさの中で、

 ほんの少し、空気の色が変わった気がした。

 次の季節が、もうすぐそこまで来ている。


 春の気配が、ゆっくりと近づいていた。

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