生きづらいのは自分が悪いのか、社会が悪いのか
君山洋太朗
第1話 日常の違和感
朝の通勤電車で、ふと周りを見渡す。みんなスマートフォンを見つめているか、虚空を見つめているか、目を閉じているかのいずれかだ。誰も誰とも目を合わせようとしない。私も同じように下を向いてスマートフォンの画面をスクロールしているが、実際には何も読んでいない。ただ、他の人と同じように振る舞っているだけだ。
この瞬間、なぜかわからない重苦しさが胸に宿る。別に誰かに迷惑をかけられているわけでもないし、嫌なことがあったわけでもない。けれど、なんとなく息が詰まるような感覚がある。この感覚に名前をつけるとすれば、それは「息苦しさ」とでも呼ぶべきものだろう。
職場に着いても、その感覚は続く。朝の挨拶を交わしながら、相手の表情を読み取ろうとする。今日の機嫌はどうか、何か気に触ることを言ってしまわないか、適度な距離感を保てているか。そんなことを考えているうちに、自分が何を言いたいのかさえわからなくなってしまう。
「おはようございます」という単純な挨拶一つにも、微妙な温度調節が必要だ。明るすぎると浮いてしまうし、暗すぎると心配される。ちょうどいい塩梅を見つけるのは、まるで綱渡りのようだ。
会議室では、また別の緊張が待っている。発言のタイミング、声のトーン、相槌の打ち方。すべてに気を遣いながら、本当は何を考えているのかを隠し続ける。時々、「本音で話せる関係って何だろう」と思うが、そもそも本音とは何なのかすらわからなくなってしまった。
昼休みにSNSを開くと、今度は別の種類の重苦しさがやってくる。友人たちの充実した日常、キラキラした写真、前向きなメッセージ。みんなそれぞれ頑張っている様子が画面越しに伝わってくる。素晴らしいことだと思う一方で、なぜか自分だけが取り残されているような気分になる。
「充実した毎日を送ろう」「ポジティブに生きよう」「夢を追いかけよう」。そうしたメッセージが画面いっぱいに踊っている。それらはきっと正しいことなのだろう。でも、なぜかそのメッセージが重荷に感じられてしまう。まるで「そうであらねばならない」という圧力のように。
帰りの電車でも、朝と同じような息苦しさが戻ってくる。今日一日を振り返りながら、「今日もうまくやれただろうか」と自問する。特に大きな失敗があったわけではない。でも、完璧でもなかった。そんな中途半端な感覚が、また新たな不安を呼び起こす。
家に帰っても、その感覚は完全には消えない。テレビをつければ、成功した人たちの話や、努力で夢を叶えた人たちの話が流れてくる。ネットを見れば、様々な意見や価値観が飛び交っている。その中で、自分はどこに立っているのか、どこに向かっているのか、よくわからなくなってしまう。
こうした日常の小さな違和感の積み重ねが、やがて大きな疑問となって頭を持ち上げる。「どうしてこんなに息苦しいのか」と。この息苦しさは一体何なのか。そして、この息苦しさの原因はどこにあるのか。
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