第48話 (番外編)重い初恋⑤

「重い初恋」シリーズの5話目です。


12年前のエシャ(松本 仁香)とヒオス(ジョシュア・エバンズ)の出会いと、ジョシュア・エバンズがバイオリニストになって、やめるまでのお話です。


このシリーズだけ読んでも楽しめる内容になってると思います。


初めて立ち寄っていただいた方にも、読んでいただけると嬉しいです!!


前提として、松本 仁香とジョシュア・エバンズは前世では夫婦、仁香には前世の記憶があるけど、ジョシュアはまだその記憶を取り戻してない。ここだけ押さえていただければ、これまでの話を読んでいなくても大丈夫!!

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 ちょっとチートしたけど、ビザは2日で入手できた。

 神のお使いをする時、私たちは一般的な移動手段を使う。電車、バス、車、飛行機などである。絶対に、もっと簡単な移動方法があるはずなのに、なぜかずっとそうだ。ずっと昔は、徒歩、馬、馬車で何日もかけて移動したこともあった。ただ、こういったビザなんかの手続きはチートさせてもらえる。私事都合で使うのも、たまには良いよね。




 彼を連れてモスクワのドモジェドヴォ空港に到着した。


 到着後は直ぐに、彼のバイオリンの先生と合流した。ヨハン・ヤーコプスと言う名の七十才くらいの優しそうな普通のおじいさんって感じだった。二人を傍から見ていると祖父と孫のようにも見える。ジョシュアの家の近くに住んでいて、元々は彼の母親がバイオリンを習いに行っていたらしい。


 明後日から二日間の一次予選が始まり、その後二日置いて二日間の二次予選、また二日置いて本選となる。これから約十日間の熱い戦いが始まるのだが、この二人を見ているとそんな緊張は全く感じられない。


「貴方が仁香にかさんですか、貴方の話はジョシュアからよく聞いています。彼の憧れの人だと。」


「仁香が、僕がバイオリニストになったら付き合ってくれるって言ったから、先生の所でこの一年頑張って来たんだ。」


 憧れの人が、こんな感じでなんだか申し訳ない…きっと、もっとすごい美人を想像していたんじゃなかろうかと、ちょっと恐縮してしまった。



 その後、彼はバイオリンに触ることもなく観光を楽しみ、ヤーコプス先生も特にその事について何を言うでもなく、一緒に観光を楽しんでいた。


「先生、ジョシュアは練習しなくて大丈夫なのでしょうか?」

 私が心配することじゃないと思ったが、つい尋ねてしまった。


「彼はそう言う次元じゃありませんからね。」


「…どういうことですか?」


「貴方が一番ご存じかと思っていました。不思議な子です。バイオリンを弾く時だけ他の誰かが憑依したような状態になるんです。」


 他の人が乗り移っている訳じゃないんだけど、はたから見たらそう見えるのかも…そう言う囲碁の漫画があったな、あれ面白かったな、なんて事を考えてしまった。


 私は、彼にとって人前でバイオリンを弾く事がどれだけ辛いものかを理解しているつもりだった。しかし、それを乗り越え、また多くの人たちから認められ、称賛されれば、自信を取り戻すのではないかとも考えていた。人前で弾くのをやめた後でも、バイオリン自体を嫌いになった訳ではない事を知っていたからだ。だから、彼がまた大勢の観客の前でバイオリンを弾く日がやって来たことが純粋に嬉しかった。


「彼にとって、今一番大切なのは精神の安定です。彼はずっと、バイオリニストにならなければという思いと、人前で演奏したくないという思いのジレンマに苦しめられています。貴方が来てくれたおかげで、随分と落ち着いているように見えます。」


「…ずっとですか…」


 私のお陰で落ち着いているかもしれないけど、彼が苦しむ原因を作ったのは私だ。

 ずっと彼が苦しんでいたなんて知らなかった。この一年間、彼が送って来たメールにはバイオリンの事なんか一言も書かれていなかった。日々の楽しかったこと、面白かったことが書かれていただけだった。




 一次予選が始まった、ジョシュアは緊張するでもなく、興味深げに他の出場者の演奏を聴いて、どこが良かったとか、自分とはアプローチが違うなどと、気になった点を先生や私に話した。

 自分の番が近づくと彼は立ち上がり、


「仁香、今日は仁香のためだけに弾くから、ちゃんと僕を見ててね。」

 彼の目は虚ろだった。そして、先生に向かって謝った。

「ごめんね、ヤーコプス先生、仁香の事だけ思って弾きます。」


「ああ、それがいい。」

 そう言って、ヤーコプス先生は優しく微笑んだ。



 ジョシュアが去った後、ヤーコプス先生が

「もし優勝しなかったとしても、今日、彼がいつも通りに演奏したら、彼はバイオリニストになってしまうでしょう。卓越した技術と表現力、あの容姿、そして話題性。一度、彼が世にさらされてしまえば、世間は彼を放っておかないでしょう。」


 でも、もう後戻りは出来ない。それに、自分の中に淡い期待が残っていることに自分でも気づいている。


「…私、また見たいんです。彼が大勢の前で嬉しそうにバイオリンを弾く姿を、もう二度と見れないと思っていたけど、もしかしたらって…」

 私は何を言っているのだろう。

 彼が数回前の人生でバイオリニストだったなんてことをヤーコプス先生は知らないし、話してはいけないことだ。そして、なぜかわからないが涙が溢れて来た。


「彼は、前世か何かでバイオリンを弾いていたんですか?まあ、その方が納得が行きます…今となっては、私たちに出来るのは彼を見守る事だけです。」

 そう言って、ヤーコプス先生は前を向いた。




 彼が舞台袖から現れ、中央に立った。

 静寂のなか、演奏が始まった。

 演奏が終わると、一瞬の静寂の後、会場からは割れんばかりの拍手と喝采。

 しかし、彼が微笑むことは無かった。

 二次予選、本選と進み、彼は優勝した。


 無名のスコットランド人が優勝したとあって、マスコミにも大きく取り上げられた。その後は、レコード会社と契約、ツアーの決定と話はとんとん拍子に進んだ。


 彼の両親は、彼が何かに打ち込んだのはこれが初めてだと言って、コンクールにかかる費用は出してくれていたが、一次予選にすら通過しないと思っていたようで、彼の演奏を見に来ることはなく、また、彼も優勝したことを誰にも連絡しなかったので、後日、彼の家族も友達もテレビや新聞で彼の優勝を知ることになった。


 演奏の時はピクリとも笑わなかった彼だが、コンクール後のインタビューでは、いつもの感じに近い受け答えをしていた。まさか自分が優勝するなんてとか、良いお話があればバイオリニストとして頑張って行きたいとか、世間の目には才能あふれる健気で可愛らしさが残る美しい青年に映っただろう。インタビューの後にはすぐに、その筋の業界の大人たちに囲まれていた。



 その後、彼はヤーコプス先生とスカイ島へ、私は一人で墨田区のアパートへ帰って行った。

 帰り際に彼から、

「仁香、僕、バイオリニストになるよ。だから、これからも会ってくれるよね?会いに行っても良いよね。」


 私に断る権利などもうない。


「勿論だよ。」


「電話してもいい?」


「うん、勿論だよ。」


「ありがとう。」

 そう言って彼は微笑んだけど、どこか寂しそうに見えた。


 帰りの飛行機の中では何も考えたくなくて、私はひたすら映画を観ていた。





 その後も、彼から毎日メールが届いた。


 彼の父親のスコッチウイスキーの事業が軌道に乗ったため、彼の家族はスカイ島を離れて、エディンバラに帰ることになり、ヤーコプス先生と離れることになり、とても寂しいとか。

 彼の母親はバイオリニストになることに大賛成で、大喜びしているとか。

 父親は難色をしめしたけど、彼がSQAとかいう大学に行くのに必要なCertificationを取ることが出来たので、一旦は納得してくれたとか。

 自分は、ロンドンに引っ越すことになったとか。


 初めのうちは、彼の生活が大きく変化したことの報告が多かった。

 そのうち、ツアーで日本にも行くから観に来て欲しいとか、会いたいとか、そんなメールが届いた。




 大阪と東京の両方の公演を観に行った。

 どちらの公演でも、観客から盛大な拍手と喝采を受けたが、彼は全く微笑むことはなく、拍手をされるたびに申し訳なさそうに目を伏せていた。


 大阪から東京へは同じ新幹線に乗ったけど、別の車両で他人の様な顔をして乗った。彼のマネージャーは私のことを知っていて、何となく私たち関係も察している様だった。彼女からは、人前では他人の振りをして欲しいと言われていた。


 それでも彼は、東京にいる間は私のアパートにいた。彼のマネージャーから二人で外を出歩かないように言われていたので、殆ど二人で部屋にいた。数回だけ、買い物と外食に出掛けた。

「大袈裟なんだよね、僕のことなんか誰も知らないよ、きっと。」

 彼はそう言っていたけど、喫茶店でパフェを食べていた時に、後ろの席から彼の名前が聞こえてきた。




 彼は一回のツアーで二度日本に来た。直向ひたむきに演奏をする彼が二つだけ言い張ったわがままのうちの一つが、もう一回日本に行きたいということ。もう一つは、仁香と過ごす時間がもう少し欲しいということだったらしい。


 二度目の日本公演でも公演中の彼が微笑むことは無かった。


 そしてまた、彼は私のアパートにやって来た。正直、私は、二人が付き合っていることが世間にばれても構わないと思ってい始めていた。彼に迷惑がかかるのは気が重かったが、自分がショタコンの犯罪者扱いされることはもうどうでもいいやと思っていた。


 ただ、心配だったのは、演奏中も思っていたが、彼が前回よりもやつれている気がして、その事が気がかりだった。


「ご飯食べてるの?」


「食べてるよ。」


「それならばいいけど、何だか前より痩せた気がしたから。」


「体重は変わってないよ。」


 彼はそう言っていたが、どう見ても痩せている気がする。

 せめて自分と一緒にいるときは沢山食べてもらおうと、頑張っていろいろ作って食べさせた。料理が得意って程じゃないけど、全く出来ない訳ではない。彼も楽しそうに料理を手伝ってくれた。悔しいことに彼の方が手際が良かった。




 ツアーが終わるとレコーディングや、声を掛けてくれたオーケストラでの演奏、来年のツアーの準備なんかで、かなり忙しいようだった。


 それでもメールは毎日届いた。そして、彼からの電話も頻繁になった、その度に、仁香に会いたいと言った。その声は元気そうだったけど、何だか、側に行ってあげないと彼が崩れてしまうようなそんな気がして、彼の声を聞くたびに少し不安になった。


 折を見ては、彼のロンドンのアパートや、海外の演奏を観に行くようになった。彼はとても喜んでくれた。でも、会うたびに、彼はやつれていくように見えた。


 エディンバラでの公演で久しぶりにヤーコプス先生に会った。先生もジョシュアの事を心配していて、

「随分と無理をしているように見えるね、命を削ってバイオリンを弾いているみたいだ。プロはみんなそうだろうけど、彼の場合、その度合いが尋常じゃない気がする。」

 彼の演奏を聴いて先生がそう言った。


 エディンバラでは彼の両親にも会った。彼は嬉しそうに私のことを「僕の大切な人」と両親に紹介した。





 翌年の春から、またツアーが始まった。昨年のツアーが好評だったため、巡る国も増えていた。そして、日本には三回来ることになっていた。


 一回目の日本公演の時から、既に彼の情調は不安定になっていた。

 演奏がある日の朝になると、少し落ち着きがなくなり、行きたくないと言った。ただ、時間になると迎えの車に乗って会場に向かって行った。演奏には影響が出ていないようだったが、どこまで持ち堪えられるのか不安になった。


 彼が日本を離れる前の晩、突然、彼がこう尋ねた。

「仁香は、バイオリニストだから僕と会ってくれるの?バイオリニストじゃなくなったらもう僕のこと嫌いになっちゃうの?」


「そんな訳ないじゃない。ジョシュアが好きなの。」


 そう言うと、彼は安心したような表情になった。


「よかった。僕も好き。仁香のこと大好き。愛してる。」

 そう言って眠った。




 二回目の公演の時、彼のマネージャーから話がしたいと言われ、彼女が泊っているホテルの部屋で彼女と話をした。


「急に売れ出した若い音楽家には時々ある事だけど、彼の精神状態はかなり不安定です。」

 彼女がそう話を切り出した。


 彼女の名前はミランダ・クラーク、四十代前半くらいの黒髪に緑の瞳のイギリス人で、ジョシュアがデビューしてから一年半になるが、その間、ずっと彼のマネージャーをしている。彼のスケジュール管理は彼女が行っていた。


「そう言う場合、通常は演奏にも影響が出て来るので、公演を延期したり中止したりせざる得ない場合もあるけど、彼の場合、演奏には影響が出ていないというか、以前より良くなっているんです。より研ぎ澄まされたと言うか、集中力が高まった感じと言うか。」


「不安定って、どんな感じなんですか?」


「演奏の前はトイレの個室で泣いてるんだと思う、人に見られないように気を使ってるみたいだけど。休みの日は、体が痛いと言って一人で部屋でじっとしていることが多くなってきたの。病院には連れて行ったけど、身体的な問題は見つからず、精神的な問題じゃないかって。彼は元々好き嫌いが多い方で、一人だと甘いパンなんかを食べて食事を終わらせちゃうから、仕事の時はバランスの良い食事をと思っているのんだけど、最近は、仕事の時も食事を簡単に済ませることが増えてきて、そもそも、食欲があまりないみたい。」


 彼女からの依頼は、彼を出来るだけ安心させてあげて欲しいと言う事だった。





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