第3話 あの醤油は嘘をつく(前編)

♫ジャジャジャ〜ン!


タイトルロゴ【ザ・ベストテン96】がブラウン管の奥を回転し、画面下の白帯にはいつもよりひとつ長い行が流れた。

【提供:マルハチ醤油/マルハチ醤油/マルハチ醤油/三丁目電器/星見堂製菓】

——まるで呪文だ、と久米ひろしは原稿の陰で思う。


スタジオは今夜、歌番組というより「醤油の祭り」だった。舞台両袖に吊られた赤い提灯、金の房が揺れるのぼり、試食ブースの屋台。客席には小瓶が配られ、拍手のたびに一斉に蓋が開く。しょっぱくて、すこし甘い匂いが空調の風に乗ってひらひらと漂い、照明の熱と混じり合って、スタジオ全体が“煮物の鍋”みたいに温まっている。


「え〜、今夜はスペシャル。歌って、食べて、提供を読む二時間です」


久米の乾いた声が出ると、客席から素直な笑いが返る。

「まぁぁ! お茶の間のみなさん、白いごはんの準備はよろしいかしらぁ?」

黒柳トット子は、マッシュルームの髪をふるふると揺らしながら、ドレスのポケットで飴玉を指先でもてあそぶ。甘さの角が体温で少し丸くなっているのを確かめると、彼女の視線は人知れず袖の奥へ滑った。


(柑橘しょうゆの匂い。悲鳴のカセット。透明糸の結び——外科結び)


星野メグの血の赤と醤油の茶色が、目の奥で薄い膜になって重なっている。ディレクターの「止めるな」の合図、観客の笑い声、進行表の矢印。生放送は前にしか進まない。だから彼女は、歩きながら考える。考えながら笑う。笑いながら手を動かす。


「ではまず、特設ブースから“利き醤油コーナー”!」


司会台がせりで下がり、代わりに屋台の台がニョキッとせり上がる。ガラスの瓶が並ぶ。ラベルの赤は微妙に色が違い、限定、熟成、柑橘、減塩、復刻——棚が一本まるまる提供読みだ。屋台の前に立つ白エプロンの若者たちの中に、炊事場シンガーズの社長令嬢ミカがいる。笑顔の角度が完璧で、照明の白に負けない歯の白さ。手首のブレスレットは銀色、留め金の輪に、透明糸の切れ端が一本、毛羽のように立っている。


(外科結びの跡は薄くなってる。ほどいたのね、出番前に)


「まぁぁ! ミカさん、今日もお肌がつややかぁ。何を塗ってるの?」

「マルハチの新作、柑橘しょうゆ——はもちろん冗談で、ちゃんと乳液です!」


笑い。カメラは“ワイプ”で客席の顔を抜き、屋台のガラス天板に照明が白い鈍光を落とす。トット子は屋台の端に並ぶ「限定ラベル」の列に指を滑らせた。一本、ラベルが斜めに貼られている。ガラスの肩に、褐色の指紋の縁。小瓶で配られた量では付かない濃さだ。搬入の手、あるいは舞台の手。


(一本だけ違う。わたしに“見せたい”一本か、“見られたくない”一本か)


「こちら、限定ラベルで〜す」ミカが自然に瓶を持ち上げる。持ち上げ方が美しい。親指と人差し指で肩を挟み、ラベルがカメラに正対する角度で止める。

「まぁぁ! おしゃれね、この一本だけ斜め」

「抽選の当たり印なんです。ちょっと遊び心で」

即答。用意していた返し。だが声の芯に、わずかに硬さが混じる。


久米が原稿に目を落とし、わざとらしく溜息をつく。

「提供の時間が、歌より長い……これが昭和というものです」

客席笑い。スポンサー席笑い。副調整室(サブ)の空気は笑っていない。スイッチャーが小声で「中継準備、波高い。音、気を付けて」と言う。音声卓の上、三丁目電器の「震える針ラジカセ」。テープには油性ペンで【月面BGM】、その横に無地のカセットが一つ。角に、またもや褐色の指紋。


(悲鳴のテープ。もう一回仕込む気ね)


「え〜、続いては第9位、泣き顔アイドル・桜井ミナさん!」


袖で待機するミナは、白いドレスの裾を握っている。目の下はうっすら赤く、けれど泣き腫らしたというより“泣き顔を作る筋肉”が準備運動を終えた顔だ。

「大丈夫?」トット子は囁く。

「はい……歌います」

ミナは一礼してステージへ。

「♪ガラス越しの——」


客席が光る。ペンライトが小川のように揺れる。二番に入る短い間。彼女は一瞬、膝を折った。

「キャッ」

悲鳴というより驚きの声。客席がざわめく。ミナはすぐに立ち上がり、歌に戻る。その間、ほんの一秒。足元に小さく銀が跳ねた。トット子は袖から歩幅を変えずに寄る。ピン、という乾いた音。拾い上げる。スパンコール——メグの衣装と同じ大きさ、同じ質、同じ銀。


(滑り込ませたのね、“疑い”を)


歌が終わって観客の拍手がふくらむ。ミナは袖に戻ると、息を乱してトット子の手元を見る。

「わたしじゃない……」

「まぁぁ! 知ってるわ。あなたは“泣き顔”のプロ。泣くタイミングを間違えない子は、こんな雑な仕掛け、しないの」


ミナの肩がわずかに震え、すぐに静かになった。

「ありがとうございます」

「礼を言うのは、番組が無事に終わってから」


照明の熱が新しい曲のために上がり、THE 炎のセットが転がり込む。ステージ後方、火薬演出の金具に見慣れない光。トット子は立ち位置を変え、手元を遮るようにスカートを翻す。白い布の陰で、金具に触れる。そこにあるべきクランプの代わりに、安全ピンが差してある。ピンの頭は少し曲がり、力がかかった癖が残っている。仮留め。力をかければ外れる。曲のサビでドンと鳴らすと同時に、火が“予定より大きく”出る。


(安全ピンで安全を縫う——皮肉が過ぎるわ)


袖の暗がりに指を伸ばし、照明チーフに目だけで合図する。彼は短く頷き、ピンの箇所をティッシュで覆ってから、素早くクランプに交換した。客席には見えない速度と角度。舞台は笑いを見せ、幕裏は血管のように張り巡らされた安全の指先が忙しく動く。


「第6位、THE 炎『抱きしめてダイナマイト』!」


火薬の白煙が上がり、観客が歓声を上げる。ケンのギターが吠える。ドラムが爆ぜる。照明の照り返しで、ミラーボールの面のひとつが鋭く光った。ミラーボールの吊り高さが、いつもより数センチ低い、とトット子は一拍で感じ取る。安全ワイヤは生きている。でも横揺れの幅が大きい。吊り環の金具に、髪の毛ほどの透明糸が絡んでいる。結び目は——やっぱり二重巻きの外科結び。


(仕掛け直してきた? 誰が、いつ)


「え〜、このあと中継を挟みまして、提供が三本続きます」


久米の声の“提供”だけがやけに瑞々しく聞こえる。客席が笑う。笑い声の裏で、トット子はサブのドアをノックした。


副調整室は熱い。モニターの白が目に刺さる。ラジカセの蓋の隙間に、透明糸が見えた。糸は、再生ボタンの角に“軽く”かかり、端はドアの方へ伸びている。ドアが開けば、糸が引かれ、ボタンが沈む。悲鳴が鳴る。

(簡単で、確実。偶然に見える。偶然は準備できる)


「これ、誰が置きました?」

音声マンは目を泳がせる。

「その……悲鳴は、演出として……」

「まぁぁ! 演出は人を傷つけないわ」


彼女は糸を持ち上げ、結び目を指でなぞる。キュ、キュ、と化繊の音がする。固い。解けにくい。手芸の手だ。ふつうの現場の人間は、糸を“急ぎ”で留める。結び目は甘く、すぐほどける。ほどけるように、できている。だが、これは違う。ほどけないように、結ばれている。


透明糸を外し、ポケットに滑らせた。無地のカセットはそのまま。誰かが仕掛け直しに来る。来れば手癖が残る。彼女は“釣り針”をわざと残す方を選んだ。


戻る途中、屋台の前を通る。ミカは瓶を拭いている。布巾の動きが、無駄に美しい。指先の関節が平らに伸び、ラベルの端を“斜め”に整える。見せる手だ。トット子は瓶の肩に指を触れた。褐色の指紋に、さらに薄い指紋の輪が重なる。重ねる指紋。その上から拭けば、古い輪だけが残る。


「まぁぁ! ミカさん、わたしにもそれ、一本いただける?」

「もちろん! 抽選箱に入れますね」

「抽選箱は、どこ?」

「袖の机の上です」

袖の机。A3に近い。メグの楽屋。——偶然が並ぶ。


「久米さん」

司会席に戻りながら、トット子は肩で囁く。

「今夜はわたし、提供の前フリを長めに貰うわ」

「台本、また無視しますか」

「まぁぁ! 台本は予告された偶然。今夜は未予告の偶然が多すぎるから」


観客の笑い。ステージは次の曲へ。炊事場シンガーズが円陣を組み、AD山下が汗を拭いながら駆け寄る。目はさっきよりも硬いが、前を見る目になっている。


「黒柳さん……A3の蝶番の粉、銀の粒、五つありました。あと、ミラーボールの吊り金具、透明糸の跡が……」

「ありがとう、山下くん。銀は“月”の欠け。五つ欠けたら、次は満ちる。——ミラーボール、位置を上げて。あの子(ミナ)の立ち位置、白テープを十センチ右へ」


「え、でも照明の当たりが……」

「照明は動く。人は血が出る」


山下はゴクリと喉を鳴らし、黙って走った。彼の背中に、観客の笑いが降りかかる。笑いと悲鳴の間には、いつでも指一本ぶんの薄い膜しかない。


「それでは、地方中継! 鹿児島・港から、サンダーボーイズ!」


画面が切り替わる。夜風に揺れるのぼり、海面に揺らぐ光。少年たちの後ろ、群衆の中で白いリボンがひらりと跳ねた。カメラがズームすると、幼い少女が口を丸く開けて叫ぶ。「メグちゃーん!」

(呼び出しの言葉。口の形は合図。——呼べば、開く)


画面がパーンして歌に戻る。袖の陰を風が通り抜け、冷たい。トット子は飴玉を口に入れ、噛まずに舌で転がす。甘さの膜が思考に薄い油を塗り、余計な摩擦を消す。飴が口の中で回る速さと同じ速さで、彼女の視線は袖から副調整室へ、屋台へ、ミラーボールへと往復する。


「炊事場シンガーズ、スタンバイ!」


社長令嬢ミカがマイクを握る。ドレスの袖口から、透明糸の短い毛羽が一本のぞく。手首のブレスレットの結び目は、さっきより締まっている。糸をほどいたあと、反対側を固く結び直したのだろう。彼女は軽いステップで前へ出る。

「いくよー!」

「Love is Tempura!」


音程は外れるが、勢いが勝つ。観客は笑い、手を叩く。トット子は笑いながら、視線だけでミカのバッグの口を見た。透明糸の小さな束、銀のスパンコールが、内ポケットの縁に引っ掛かっている。落ちそうで落ちない——それは、「落ちないように結んである」からだ。落ちたときのための演出。落ちたときのための台詞。

(あなたは、落とすことも拾うことも準備する人)


曲が終わり、拍手が巻き起こる。トット子は両手を広げて受け、微笑みを一段明るくして言った。

「まぁぁ! すてき! では、ここで少し——手首を拝見いたしましょうか」


客席が「え?」とざわつく。演出だと思って笑う顔、舞台の“参加型”だと思って手を挙げる顔。

「出演者のみなさん、です」

袖から桜井ミナ、雷堂ケン、大川銀次郎、ミラーボール☆レディ、ミカが一列になって出てくる。カメラはその列を横移動でなめ、手首のアップを丁寧に抜く。ミナの手首は白く、細い。ケンの手首には硬いタコ。銀次郎の手首は厚く、醤油の薄い色が残り、指の節に小さな黒ずみ。ミラーボール☆レディの手首には銀の粉。ミカの手首——ブレスレットの下、薄い線。外科結びの跡。


「まぁぁ……」

彼女は言いかけて飲み込む。観客の笑いが期待で沸き、スポンサー席の笑いが固くなり、ディレクターのインカムの罵声が耳の内側で鈍く響く。「余計なことするな」。余計ではない、とトット子は飴を舌の奥へ押しやった。今は、刺さない。刺せば、逃げる。逃げれば、また誰かが傷つく。舞台の上の捜査は、笑いのテンポと同じ速さでやる。呼吸が合わなければ、観客は酔う。


「——みなさん、手首にも歌があるのよ。タコの歌、涙の歌、そして結び目の歌」


久米が助け船を出す。

「結び目の歌……今夜のテーマですね」

「まぁぁ! そう。今夜は“結んでほどく”ナイト」

客席笑い。ミカも笑う。笑いながら、指がブレスレットの結び目を撫でる。撫でる指は、ほどく前の指。ほどく指は、震える。震える指は、糸を引く。


副調整室のラジカセの上、誰かの影が動いた。音声マンが振り返ろうとした瞬間、ドアがほんの少しだけ開き、閉まる。透明糸は今はない——はずだ。けれど、ボタンの角には、さっきより“新しい”擦り傷が増えている。トット子の胸の奥で、飴玉がわずかにきしんだ。甘さが、薄くなっていく。時間が減る味だ。


「え〜、ここでたっぷり提供を三本!」


久米の声が、今夜一番の張りを持つ。客席笑い。屋台が前へ。ミカが限定ラベルをまた持ち上げる。ラベルは斜めのまま、しかし角の浮きは先ほどより深い。剥がして貼り直した痕。瓶の肩の褐色は、今度は拭き取りの輪郭がはっきり残っている。拭いたあと、もう一度触ったのだ。誰が? いつ? どこで?


(抽選箱は袖の机。鹿児島中継の合間。副調整室の行き来——誰でも出入りできる時間)


トット子は瓶を受け取り、笑顔で客席に見せる。親指の腹でラベルの端を“押さえ”、そのままほんのわずか剥がす。内側に、別のラベルの切れ端が重なっている。赤ではない、黄色い帯。——“柑橘しょうゆ”。瓶は“二重”だ。外側は限定ラベル、内側は柑橘しょうゆの正札。匂いの正体、指紋の褐色、メグの楽屋に残っていた香り。すべて一本で繋がる。


「まぁぁ! 遊び心、二重ね」


ミカが一瞬だけ瞬きを忘れた。ほんの瞬き一つぶんの長さ。だが、その一拍は長い。彼女はすぐに笑顔を戻し、マイクに向けて言った。

「抽選の……演出ですよ。スタッフさんのアイディアで」

「スタッフは、忙しくて二重貼りなんてしないのよ」


拍手の波を背に、トット子は瓶を袖の机に戻した。抽選箱のふたは少し開いている。中に入った白いカードの角に、透明糸の短い欠片が絡みついている。——箱を開け閉めするたび、糸が外に出る。出入りの痕は、舞台が教えてくれる。


観客は笑い、歌手は歌い、スポンサーは満足そうにうなずく。ディレクターの声は少し荒いが、進行の列は崩れていない。崩れていないように見える。見せている。ブラウン管は嘘をつかない。ただ、見えるものしか映さない。


「まぁぁ! 事故は準備された偶然——みなさん、覚えておいてね」


トット子の一言に、客席がハハハと笑う。笑いながら、ひとり、ふたり、三人、スポンサー席の背筋が固くなる。副調整室で、音声マンが無地のカセットをそっと別の場所に移す。移した先の棚には、透明糸の切れ端が一本、孤独に残っている。ミラーボールの吊り金具の揺れは収まってきた。だが、別の場所で金属がピンと鳴る、細い弦の音がした——どこで?


飴玉はもう、舌の上で角を失っていた。甘さは、ほとんど透明になり、彼女の歯の先で小さく割れた。砂糖の粒が歯列の間を転がる音を、彼女だけが聞いた。


(まだ、終わらない。終わらせない。——後編で刺す)


トット子は笑顔を上げ、観客に深くお辞儀をする。マッシュルームの丸い影が床に落ち、舞台上の配線の蛇たちの上を柔らかく撫でる。照明が少しだけ落ち、提供ジングルへと繋がる。

【提供:マルハチ醤油】


屋台の奥、袖の机の上の抽選箱のふたが、誰も触れていないのに、ほんのわずか——紙一枚ぶん——持ち上がった。


(つづく)



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