第2話 涙と炎の中継

第2章 涙と炎の中継


♫ジャジャジャ〜ン!


ブラウン管の奥で、今夜も虹色のロゴが回転している。四隅が丸く光り、ノイズの薄い膜が画面全体を覆っていた。映像の粒子がちらつくたびに、観客席の拍手がぶわっと膨らみ、まるで空気自体が振動しているように思える。照明は赤と紫に切り替わり、天井から吊るされたパーライトが熱を孕んで白い霧を吐き出していた。


第7位の歌手、美空リリィがステージ中央に立つ。羽根飾りのついたロングドレスは金色の粉をまぶしたかのように照明を反射し、首筋の汗は宝石のように煌めいている。彼女はマイクを両手で抱え込むように持ち、かすかに掠れたアルトで歌い出した。


「♪ネオン街で あなたと踊れば〜」


観客の声援が飛ぶ。舞台前方で揺れるペンライトは、昭和の時代には本来存在しなかったはずの色彩を作り出し、ブラウン管越しの家庭の居間にまで星屑を振りまく。


だが、舞台裏はまったく別の温度だった。廊下は冷房が効きすぎているのか、妙に冷たい。コンクリートの壁に貼られた進行表が冷気で波打ち、そこに赤鉛筆で殴り書きされた「転換3分」「提供③」「中継予備」という文字が汗のようににじんでいる。


ADの山下は額に浮かぶ汗を拭うことも忘れ、インカムを握りしめていた。喉は渇ききり、口の中が砂を噛んだようにざらついている。


「ディレクター! 本当に星野メグさんの件、警察に伝えなくていいんですか!?」


声が裏返る。自分でも情けなく思うが、口からは止まらない。


ディレクターは進行表を団扇代わりにしながら、肩を怒らせて吐き捨てる。

「今止められるか! スポンサーが黙っちゃいないぞ。警察は呼んでる。来るまでは“事故”で通せ!」


「で、でも……倒れて……」

「事故だ。そう言え。事故なら視聴者も納得する」


山下は口を噤む。脳裏に浮かぶのは、ほんの数十分前に見た光景。楽屋A3の赤く濡れたカーペット。倒れた星野メグの姿。額に落ちた照明スタンド。醤油と甘い香水が混ざった匂い。思い出すだけで胃がひっくり返る。


そのとき、背後からふいに声がした。

「まぁぁ! 山下くん、目の下が涙袋じゃなくて“怯え袋”になってるわよ」


振り向くと、黒柳トット子が立っていた。巨大なマッシュルームヘアが廊下の蛍光灯を反射し、ドレスのポケットからは飴玉の銀紙がのぞいている。だが瞳の奥は、舞台上で見せる無邪気さとは違い、研ぎ澄まされた光を放っていた。


「ト、トット子さん……」

「大丈夫。——でもね、事故って言葉は便利すぎるの」


彼女は進行表をすっと抜き取り、ペン先で空を突いた。

「さぁ、番組は止まらない。だから私たちも止まっちゃだめ。山下くん、証言を集めるわよ」


第9位を歌い終えたばかりの桜井ミナが楽屋へ戻るところだった。目元の化粧は涙で崩れ、白いハンカチに黒い筋が残っている。


「ミナちゃん、リハで星野メグちゃんと口論してたそうね」

「そ、そんな……ちょっとキーの高さで意見が合わなかっただけです!」


声は震えているが、彼女の“泣き顔”は売り物だ。演技と現実の境界は誰にも分からない。


「まぁぁ! 涙は心の化粧ね。でも、化粧は落ちるもの」


ミナは答えに詰まり、袖へ走り去った。


楽器を抱えた雷堂ケンは、THE 炎の楽屋前にいた。白いタオルを首にかけ、目を逸らす。


「ねえケンちゃん。メグちゃんの楽屋に“E弦”が落ちてたのよ」

「……そ、それ、俺のじゃねえです。弦なんてすぐ切れるし、誰でも持ってます」


口は強がっているが、指先はストラップをいじり続け、落ち着きがない。爪の間には黒い粉。照明の金属粉のように光った。


「まぁぁ! 音は嘘をつかないけど、人はつくのよね」


ケンの眉がピクリと動いた。


その隣の楽屋からは、揚げ油の匂いが漂ってきた。大川銀次郎は麻の着物を片肌脱ぎにして、唐揚げを片手に握っている。


「銀次郎さん、醤油の瓶、メグちゃんの楽屋にありましたわ」

「わしが差し入れた。唐揚げは醤油をつけて食うもんだろ?」

「まぁぁ! そうね。でも“事故”に香りを運んだのも、あなた」


銀次郎は目を細め、すぐに笑みで隠した。


さらに奥の楽屋、炊事場シンガーズ。社長令嬢ミカが鏡の前で髪を整えている。手首のブレスレットの留め金に、透明の糸の切れ端が絡まっていた。


「まぁぁ! おしゃれねぇ。でも……ちょっと“糸の名残”が見えるわ」

「……飾りです」

「まぁぁ! 飾りは隠すと余計に光るものよ」


ミカは無言で笑顔を作り直した。


トット子は司会席に戻る。久米ひろしが淡々と原稿を読み、観客に向けて言葉を投げる。

「え〜、次は地方中継です」


「まぁぁ! 鹿児島の港から! サンダーボーイズのみなさんです!」

観客「ワ〜〜!」


だがモニターに映ったのは真っ暗な画面。ノイズが走り、耳障りなハウリング。次の瞬間、女の悲鳴が混線した。


「キャァァ……!」


観客は一瞬ざわめき、すぐに「演出だ」と思ったのかまた拍手に戻る。だがトット子の目は鋭く細められた。暗闇に一瞬だけ映った影。白いセーラー服の裾に似ていた。


中継はすぐ復旧し、サンダーボーイズが元気よく「稲妻のエチュード」を歌い出す。観客は何事もなかったように盛り上がる。


久米が小声で囁く。

「……今の、演出ですか?」

「まぁぁ! 違うわ。——第二の事件の兆候よ」


袖で山下に低く言う。

「山下くん、もう一度A3を見直して。銀色のスパンコール、絶対に数が合わないはず」

「はい……」


炊事場シンガーズが出番を待ち、舞台袖で円陣を組む。ミカのバッグから何かが床に転がり落ちた。透明の糸。銀のスパンコール。


トット子はそれを見逃さなかった。飴玉をひとつ口に含み、ゆっくりと噛み砕く。


「まぁぁ……星はひとつ、落ちた。でもまだ、誰かが糸を引いてる」


スポットが炊事場シンガーズを照らし、観客の拍手がまた波のように押し寄せた。

——第二の幕が、今、上がろうとしていた。


♫ジャジャジャ〜ン!


スタジオの空気は、客席の熱と機材の熱とをまとめて一度に吸い込んで、吐くのを忘れてしまったかのように重たかった。ブラウン管の四隅は丸く光り、赤と紫の照明が交互に走るたび、ステージの床に敷かれた黒いゴムの目地が、まるで心電図のゼロ線のように細く震えた。客席からは拍手と口笛、それから笑い声。マイクを通らない生の喉音が天井の鉄骨に当たって跳ね返り、袖の暗がりへ降ってくる。生放送は、呼吸の仕方すら誰かに命じられているかのように進む。


「え〜、続いては第4位。特別中継のあと、スタジオに戻ってきます」


久米ひろしの乾いた声が、進行表の行間を滑らかに埋めていく。原稿用紙の裏でシャープペンが微かに走る音は、インカムのハウリングと見分けがつかないほど薄い。彼の視線は紙の上にありながら、ステージ袖の気配を捉えるために、常にほんの少しだけ正面より左の空気を見ている。


黒柳トット子は司会台からひとつ下がったポイント、カメラが一段引きでふたりを絵に納めるときの“余白”に自分の身体を置いた。ドレスのポケットには飴玉が3つ、予備のメモが1枚、ピンのついていない安全ピンが1本。照明の熱で飴の角が柔らかくなっているのを、指先の感触で知る。彼女は客席を見上げ、舞台の光の海の向こうで、不規則に瞬くサイリウムの波のリズムを測る。乱れは小さい。お茶の間の波も、まだ落ちてはいない。


「まぁぁ! 鹿児島港から! サンダーボーイズのみなさんです!」


客席の拍手が弾け、スイッチャーの掛け声が副調整室(サブ)の空気を切る。「中継いくよ、V出し、3、2、1——」


画面は暗闇。ザザッ、と古い砂の音が混ざる。ハウリングが細い針のように耳の奥を刺し、次の瞬間、女の悲鳴が混線した。


「キャァァ……!」


観客のざわめきが、波の向きだけを変えて戻ってくる。「わざとよ」と笑う者もいれば、息を吸うのを忘れた顔もある。すぐに絵が戻り、港の照明に照らされた少年たちが、元気よくギターを鳴らして手を振った。マイクの前に立つボーカルの口は、いまの悲鳴など存在しなかったかのように、きちんと歌詞の形に動く。おそらく本当に何事もなかったのだろう。あるいは、何事もなかったように見せる努力が完璧だったのだ。


トット子は、さっきの画面のどこかに白いものがひらめいたのを覚えている。ほんの瞬きの間、ネオンの下に白い布の裾——セーラー服の裾に似たものが揺れた。星野メグの衣裳と同じ白。鹿児島の潮風に揺れるもの。それとも、画面のバグが作り出した幻影。生放送の幻は、いつでも証拠の上に薄い膜をかける。


「……今の、演出ですか」


久米がわずかに顔を傾け、横目で問う。声は客席には届かない高さで落とされている。


「まぁぁ! 違うわ。合図よ」


彼女は答え、視線だけで袖の出口を確かめる。山下ADが、目を大きくしてこちらを見ていた。手には、使い慣れない検証のためのビデオのリモコン。


「山下くん、A3、もう一度。蝶番の粉の中の銀、数を数えられる?」


「え、粉を、数える……?」


「銀色のスパンコール。1粒だけじゃない。あそこには系列が落ちてるはず。——銀が“月”を呼ぶの」


言った意味を理解するより早く、山下はうなずいて駆け出した。彼の足音が、コンクリートの廊下に乾いた小さな点々を打つ。乾いた点はすぐに番組の低音に吸い込まれ、消える。


美空リリィの歌が終わり、観客の拍手が一点に集まって花火みたいに弾けた。袖に戻ってきた彼女は、ロングドレスの裾を左手で軽く持ち上げ、右手のシャンパングラスをメイクに渡す瞬間まで微笑みを崩さない。汗の粒が首の後ろに3つ、並んで光っている。トット子は近づき、ささやく。


「素敵だったわ。ねぇ、衣裳の担当さんは?」


「向こう。わたしの控室の、手前」


「ありがとう。——それと、さっき、鹿児島の中継、見えた?」


リリィは目だけで、ほんの少し頷いた。


衣裳室のドアの前に、ミシンの小さな音が漏れていた。細い針が織物を行き来する軽い律動。その奥で、ミラーボール☆レディが銀のドレスをチェックしている背中が見える。彼女が自分の身体をわずかにひねるたび、壁に掛かったメタリックの破片が室内に星の雨を降らせた。裾のスパンコールの列は、ところどころ空白を抱いている。とくに左脇のラインに沿った部分が歯抜けだ。


「ねえ、直す?」


トット子が何気ない声で言うと、ミラーボール☆レディは苦笑いを浮かべた。


「直したいけど、本番までは無理です。針が一番細いやつ、どこかにいってて」


「針は、よく姿を消すの。わたしの飴も時々ね」


彼女は冗談のように笑いながら、ミラーボール☆レディの手首に目を落とす。薄い線。透明糸が一度巻かれて、外されたときに残る浅い跡。さっきより薄くなっている。手首を洗ったのだろう。舞台の汗と粉とを洗い流すための、小さな洗面所の匂いが、銀の匂いに混じる。


「さっきの中継、見た?」


「見てません。ストレッチしてました」


嘘をつく者の視線は、カメラを探す。彼女の目は、見えないカメラをいつも探している。プロの目だ。嘘よりも、画づらの正しさを先に考える。


衣裳部屋を出ると、廊下の空気が少し変わっていた。油と電気の匂いに、冷たい金属の甘い匂いが混ざる。安全ピンの束を握った小道具の男が、何やら急いで走っていく。彼の腰のポーチの端に、透明の細い糸がひっかかり、しゅるしゅると出ては床に落ちた。トット子は指でひょいと拾い上げる。糸は、針で布をすくうには心許ないが、何かを静かに引くには十分な強度がある。光にかざすと、ほんのわずかに青い。


「青……」


副調整室のドアをコンコンと叩くと、中の空気は外より暑かった。モニターが壁一面に並び、各カメラの絵が格子状に並ぶ。タイムコードが秒とフレームを刻み、フェーダーの上げ下げに合わせて、画面の色温度がいくらか息をする。ディレクターは汗でシャツの背中を肌に貼り付け、スイッチャーは片手でカウント、片手でボタンを叩く。音声卓の上には、遠足の子どもが持ってくるような小さなラジカセ——三丁目電器の「震える針ラジカセ」が置かれ、テープには油性ペンで「月面BGM」と書いてあった。その横に、もう1本、無地のカセット。ラベルには何もないが、角の一辺に醤油色の小さな指紋が押されている。


「まぁぁ! いいおもちゃね」


トット子が何でもないように言うと、音声マンがビクリと肩を揺らした。


「こ、これは使ってませんよ。ええっと……中継の予備で、BGM入れる時用に置いてるだけで」


「さっきの悲鳴は、予備かしらね」


音声マンは言葉を喉で踏みとどめた。彼自身の仕事ではない。誰かが勝手にテープを差し込めば、ボタンひとつで“偶然の音”が起きる。副調整室の誰にも見えない瞬間の小さな手。スポンサーサイドの人間でも、出入りは自由だ。提供読みのたびに、誰かが出入りする。飴玉を配るのと同じ簡単さで、音は混ざる。


「黒柳さん、戻って」


インカム越しにフロアディレクターの声。次の転換が押している。彼女はラジカセの無地のカセットに、目で印を付けておいた。後で戻る。音は匂いと同じく、どこかに染み込むから、たとえ隠されても、指で辿れる。


ステージに戻ると、THE 炎の準備が始まっていた。ドラムのマコト“爆裂”遠藤が、スティックをもてあそび、ベースの青年は指を軽く震わせて試し弾きをする。雷堂ケンは弦を押さえ、ペグをわずかに回して音程を探る。ギターのヘッドについた銀の星のシールが、ステージのライトの下で鈍く輝いた。


セットの奥では、巨大なミラーボールが天井から吊られている。いつもより下げ位置が低い、とトット子は一瞬で感じ取った。安全ワイヤはある。だが、サブの照明マンがいま、見慣れない手付きで支柱のクランプを少し直した。クランプの銀の金具に、髪の毛ほどの透明な糸が、たわみながら引っかかっている。結び目は、外科結び。ビーズ手芸や釣り糸で使われる、摩擦の大きい初手2回巻きの結び——ミシンの人たちがする結び方ではない。衣裳の縫い手は、糸の端を淡い角度で巻き、目立たないところへ逃がす。結びの癖は、職業の癖だ。


「……低いわね」


彼女は照明マンにささやいた。彼は気づいているのかいないのか、肩をすくめただけで、台本の左の余白に「ミラボ位置→4」と鉛筆で書いた。数字は現実の位置と一致していない。設定の数字は現実から目を逸らすためにあることが、現場にはよくある。


「第6位、THE 炎『抱きしめてダイナマイト』!」


ナレーターが叫び、火薬の匂いが空に広がる。ドカン、と白い煙。観客が歓声を上げ、音の壁が前に押し出される。ケンがギターを鳴らし、足をアンプにかけた。ミラーボールは緩やかに回り、銀の粒が客席の上に撒かれる。——そのとき、透明糸がどこかで引かれた。


ミラーボールの支点が、ほんの数ミリ、ズレる。安全ワイヤは生きている。落ちはしない。けれど、横振れがいつもより大きい。振れの軌道の先に、次に歌う桜井ミナの立ち位置を示す白いテープが見えた。そこに彼女が立てば、顔の高さに銀の巨体がゆっくりと入ってくるはずだ。事故に見せかけるには十分な速度。死に至らないとしても、顔に傷。アイドルに傷。番組に傷。


「山下くん、立ち位置——ズラすの」


トット子は袖で囁いた。山下は「えっ」と声を裏返しながらも、即座にうなずく。彼は白いテープを10センチ右へ移動させ、観客には見えない角度で、照明の影に紛れさせた。ミナが袖にやって来る。泣き顔の名手は、今も目元を濡らしている。だがその涙は、照明を見上げた瞬間に、ほんの一拍だけ止まった。勘の良い歌い手は、危険を嗅ぎ取る。彼女は何も言わず、ただ立ち位置を確認する視線だけを、指示された新しいテープへ滑らせた。


歌が始まり、ミラーボールはゆっくり振れる。銀の面のひとつが、ひやりと冷たい光でミナの頬を撫でる直前、彼女は半歩だけ、予定のない足取りで客席側へ踏み出した。振れは空を切り、照明のバーがカーンと小さく鳴る。それは客席からは聞こえないほどに小さい、鉄の痛みの音。トット子は息を吐いた。胸の飴が溶けきって、舌の上に甘さの薄い膜を残した。


「危なかったですね」


久米が肩で囁く。彼の声は、紙の乾いた匂いに似ている。


「まぁぁ! 危ないのは、いつも“ほんの少しズレた位置”なの」


「犯人、わかってるんですか」


「糸の結び目が、教えてくれるわ」


彼女は袖から透明糸の切れ端を取り出し、光にかざした。青い。青い透明は、単なる釣り糸ではない。照明の熱で伸び、結び目が固まりやすい化繊。ビーズ手芸用に出回っているタイプ。社長令嬢ミカの手首のブレスレットの留め金には、同じ青み。ドレスの裾のスパンコールからは、銀の粉。A3の蝶番の黒い粉の中にも、銀。副調整室のカセットの角には、醤油の指紋。香りは柑橘。スポンサーの「マルハチ柑橘しょうゆ」試供品は、今日、出演者に配られた。唐揚げの褐色は指に残る。銀次郎の指にも、薄く。


糸は、引くために結ばれていた。仕掛けは“待つために”作られていた。引く人間は、台本を知っている。誰が、いつ立ち、いつドアを開け、いつ光が落ちるか。台本のあるところに、糸のあるところ。スポンサーの席は、台本の余白に自由に出入りできる。


CMのジングルが流れ、提供のテロップが画面の下でゆっくり漂った。マルハチ醤油のロゴ。三丁目電器。星見堂製菓。トット子は、提供読みの短い“影の時間”をつかんで、炊事場シンガーズを呼び止める。社長令嬢ミカがバッグを肩にかけ、鏡前の小さなブラシで髪の表面の毛羽立ちを押さえている。


「まぁぁ! 可愛いわ、ミカさん。今日はラップ、するの?」


「台本次第ですね。現場の空気で変えます」


「そう、台本は空気に弱いから」


彼女は笑った。笑顔は、練習された角度できちんと止まる。バッグの口から、透明の糸の小さな束が顔を出している。飴玉と違って、これは見せて歩く種類のものではない。彼女は何気なく指でそれを押し込んだ——その指の爪の端に、醤油色の指紋が乾いて光る。台所の色。提供の色。


「さっき、鹿児島の中継、悲鳴が入ったわね」


「そうなんですか? 楽屋にいたので」


「楽屋の鏡は何も映さない?」


「鏡は、映すものしか映しませんよ」


ミカは笑って、目をそらさない。トット子はポケットの飴の代わりに、ピンの失われた安全ピンを指で弾いた。金属が、小さく鳴る。安全ピンはセーフティにはならない。クランプの代わりにはならない。誰かが「安全ピンで仮留めしておきました」と言えば、それは“安全ではない”という合図だ。


副調整室に戻ると、音声マンがラジカセの横に置いていた無地のカセットを、別の場所に移していた。彼の目は泳いでいる。ディレクターは「次、中継返し! スタジオセット入るよ!」と怒鳴る。中継先は、今度は空港ロビー。砂嵐はない。代わりに、人の波。手を振る群衆。そこに、白いリボンをした少女が、小さく跳ねる。星野メグに似たリボン。似ていることは罪ではない。だが、似ていることを利用することは、番組にとっては罪に近い。


「黒柳さん、警察が——」


山下が駆け寄ってきた。呼吸は上がっているが、目はさっきより強い。


「警察、来てます。でも、ディレクターが、あと1ブロックは——」


「まぁぁ! ブロックって便利ね。事件もブロックで区切れたらいいのに」


「A3、蝶番の粉の中、銀の粒、5つ見つけました。……たぶん、連続した列の欠落です」


「5つ。左裾のライン。——月は欠けて満ちる。誰の衣裳?」


「ミラーボール☆レディの左脇、欠けてます。でも彼女、ずっと衣裳部屋に……」


「“ずっと”は、テレビが一番上手につく言葉」


彼女は山下の肩を軽く叩いた。彼の肩が緊張で硬く、骨が皮膚の下で角ばっている。


再びステージへ。観客に向けた言葉を、彼女は一拍だけ飲み込んだ。そして、意図的に吐き出した。


「まぁぁ! みなさん、今夜は“泣き顔アイドル祭り”って知ってました?」


客席の笑いが起きる。桜井ミナが、袖で苦笑いする。彼女の笑いは、今日一番自然だった。泣き顔の名手が、いまは笑い顔を作る。人は、役から降りた時に素顔を見せる。


「ミラーボール、少し上げます」


照明チーフの短い声。ケーブルを巻く音。透明糸のたわみが、天井へ吸い込まれた。誰かの仕掛けは、無に帰る。仕掛けを知っている者にしか、仕掛けの回収はできない。犯人は、回収の機会を失った。回収される前に、仕掛けを仕掛け直すしかない。そうすれば、次は焦りの跡が残る。


中継から戻ったタイミングで、炊事場シンガーズのコーナーが入る。社長令嬢ミカは、客席に向けた笑顔でマイクを握る。彼女の手首のブレスレットから、透明の糸のわずかな切れ端が、照明の熱に揺れる。


「まぁぁ! “Love is Tempura”!」


軽いドラム、外れるコーラス、勢いで押し切る笑い。ステージの隅で、大川銀次郎がそれを見ている。彼の指には、まだ醤油の薄い色が残っている。唐揚げの脂は落ちたが、匂いは落ちない。匂いは、証言だ。匂いが運んだのは、記憶と、仕掛けの“合図”。星野メグは醤油を取りに行く癖があった。その癖は、誰かが知っていた。


トット子は、ミカの歌の終わり際、客席に向かって両手を広げた。拍手が収束し、余韻の白い泡が空中に浮かぶ。


「まぁぁ! すてき! ——ちょっと、みなさん、手首を見せてくださる?」


客席がどよめく。冗談だと思う者、何かの参加型演出だと思う者。彼女は笑って首を振る。


「出演者の、みなさん」


袖にいた歌手たちが、顔を見合わせながら手首を差し出す。桜井ミナ、白い細い手首。雷堂ケン、弦の硬いタコのある手首。大川銀次郎、厚い手首。ミラーボール☆レディ、銀の粉がついた手首。社長令嬢ミカ、ブレスレットの下、薄い線。


トット子はひとりずつ見て、ほんのわずかな時間をかけて、最後にミカの手首の上に視線を置いた。ブレスレットの留め金の結び目。外科結び。結びの癖は、指の癖。糸の色は、目の癖。癖は、隠せない。


「まぁぁ……」


彼女は言いかけて、飲み込んだ。ここで言ってしまえば、番組が崩れる。犯人は、言葉にすれば逃げる。逃げるための言葉を準備している。準備された偶然が、もう一度舞台に置かれる前に——彼女は別の“合図”を用意しなければならない。


副調整室のラジカセ。無地のカセット。角の醤油色。悲鳴。中継。白い裾。次はどこで、どう鳴らす。鳴らさせる。音は糸だ。糸は音だ。結び目は、リズムを持つ。生放送のテンポに合わせて引かれる糸は、いちばん目立たない場所で音を出す。


「久米さん、あとで“月”の話をしてね」


「台本にないですが」


「まぁぁ! 台本って、驚くための予言書」


彼女はいたずらっぽく笑って、袖の端を足で踏んだ。足元に、透明の糸の切れ端が絡んでいるのを、わざと見せるように拾い上げる。ミカの視線がそこに吸い寄せられ、ほんのわずかに焦点を失った。焦る目は、光を嫌う。


警備員が袖に現れ、短く会釈する。警察が来ている。だが、ディレクターは手で「待て」を作り、インカム越しに怒鳴る。「最後まで! 最後までいく!」


生放送は続く。観客は、何も知らないかのように笑い、泣き、手を叩く。だが、空気は知っている。空気は、音のわずかな濁りを記憶する。ミラーボールの支点が一瞬鳴らした鉄の痛み。副調整室のカセットの蓋が、指に押されるときの小さなクリック音。A3の蝶番の粉の中で、銀の粒が粉の重さに逆らって擦れ合う音。すべてが、指に触れる前に、耳に触れる。


「中継返し、港!」


ディレクターの声。画面はまた港へ。少年たちの背中の向こう、海風に揺れる白いものがひらひらした。今度ははっきりと見えた。白いリボン。カメラがパーンして、群衆の中の少女を捉える。彼女は手を振り、口を丸くして叫ぶ。「メグちゃーん!」——合図だ。音だけでなく、口の形も合図だ。誰かが“星野メグ”を呼ぶ。呼べば、ドアは開く。“事故”は起きる。それは、仕掛けを仕掛けた者が、一度成功を覚えた時に繰り返す、手癖のような快感。


トット子は、飴玉を口に入れた。甘さが、舌の上で均等に広がる前に砕いた。砂糖の角が歯の先で散って、小さな音を作る。飴の音は、彼女に時間をくれる。飴が溶ける間だけ、言葉を止める権利をくれる。言葉を止めている間に、彼女は歩く。副調整室に。ラジカセに。無地のカセットに。


「これ、少し借ります」


彼女がカセットを指でつまむと、音声マンが反射的に手を伸ばした。届かない。トット子はほんの少しだけ上に持ち上げ、彼の視線を追わせた。視線の先、ラジカセの再生ボタンの際。そこに、透明の糸の細い先が絡んでいる。糸は、ボタンに軽く引っかかり、薄い輪になっている。誰かが袖の端から糸を引けば、ボタンは勝手に下がる。悲鳴は、糸に従って鳴る。糸の先は、誰の手首。


「外科結び、ね」


彼女は小さく呟いて、糸を外した。糸の輪はほどけず、固いまま指に触れる。固く、二重に巻かれている。ビーズの人、あるいは釣りの人。衣裳の人ではない。音の人でもない。スポンサーの、飾りを扱う人。社長令嬢の、趣味。手芸。台所から舞台へ。提供席から副調整室へ。提供読みの間に、糸を結び、指で輪を作る時間はたっぷりある。生放送の裏にある、もうひとつの舞台。


「黒柳さん」


警備員がまた現れた。今度は背後に、スーツ姿の男が立っている。視線は冷たいが、礼儀はある。


「警察です。少し、お時間を」


「まぁぁ! 時間はいつも足りないのよ」


彼女は微笑んだ。微笑みは、客席に向けるそれと同じ角度で、しかし目の奥の光は違う。光は、糸の先を追う光。糸はまだ、完全には手に入っていない。糸の先は、誰かの指に絡みついている。引けば暴れる。暴れれば、言葉を生む。言葉が欲しい。彼女は、言葉を舞台に呼ぶ。推理は、発声だ。


ステージに戻る。BGMが上がり、照明がふたたび熱を放つ。観客はいつものように手を叩き、笑い、泣く準備ができている。


「まぁぁ! みなさん」


黒柳トット子は、ブラウン管の向こうの何百万の目を、まっすぐ見て言った。


「事件は、生放送です。糸は、月の下で鳴ります。——でも、切れるのもまた、月の下」


彼女の声はさらりと冗談の形をして、しかし袖のひとりにだけ、刃の形で届いた。社長令嬢ミカは、その瞬間、ほんのわずかに、手首のブレスレットを反対の手で撫でた。撫でる指は、結び目を探す指。探す指は、ほどく指。ほどく指は、ほどく前に震える。


曲が終わり、拍手が満ち、ジングルが鳴る。提供のテロップが、またゆっくりと画面の下を流れた。その白い帯に、黒い文字。スポンサー。スポンサーの娘。娘の手の中の透明な糸。糸の結び目の青。


廊下の隅では、山下がA3の蝶番の粉から拾った銀の粒を、小さなビニール袋に入れて、大事に握っていた。彼は気づいていない。自分が初めて、証拠というものを指の中に持っていることを。彼の手のひらは、緊張で汗ばみ、袋の内側で銀の粒が小さくカラリと音を立てた。月の欠片のような音。音は、糸に伝わる。


「続きは、CMのあとで」


久米ひろしが、何事もないように言った。だが、その声の末尾の半音は、彼自身の驚きと緊張で、ほんの少しだけ上がっていた。彼の乾いた声にも、湿度が宿る夜がある。今夜は、その夜だ。


——生放送は止まらない。歌も、笑いも、事件も。それでも、糸は切れる。誰かが、切る。誰かが、結び直す。誰が。どこで。いつ。黒柳トット子は、飴玉の最後の小さな角を舌で転がしながら、その答えを、次のジングルの裏で掴みにいった。次に鳴る音が、誰の手首に繋がっているのかを確かめるために。



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