兵吾の変
確かにこれが兵吾の初戦であった。
それはあまりにも戦と呼ぶには小さいものである。しかし、それでも兵吾にとっては戦であり、心震わせるものであることに変わることはなかった。
草いきれがむっとする中、兵吾達は朝から敵を待ち続けている。そろそろ日もいちばん高いところへと上ろうとするところであった。蝉の鳴き声が鳴り響く中で、耳を澄ませば遠くでトンビの鳴き声が聞こえてくる。
兵吾の軍は岡崎村の村人たちと浅倉大将の家来達からなる敵が昼ごろに向こうから攻めてくる。それが兵吾が知るすべてである。だがそれが兵吾にとってなんら不足を感じさせることはなかった。
彼の軍勢はほとんどすべて彼の村の者しかいない。それ以外にいるのは昨日から村に来てあれこれと皆に偉そうに指示をする浅倉大将の家来達だけであった。その軍勢は総勢百五十にも満たない小さな一軍でしかない。急きょ集められた、にわかの軍隊であるから仕方のないことではあるのだが。しかも、兵吾たちが持っている武器は今朝渡されたばかりの刃こぼれのひどい槍一本だけであった。身を守る胴鎧などは渡されるはずなどはない。もちろん、彼らの大部分が戦経験はなかった。それはなんとも心もとない一軍であることか。
兵吾達はみんな草の上に座って待っている。みんなはひそひそと小声で話している。そろそろ待ち飽きたと言ってもおかしくはないだろう。多少緊張感が緩んできていた。無論、みんなが敵軍を待ち望んでいるわけでもないのであるが。おそらく中には戦があるということ事態が無くなったのではないかとひそかに期待をしているものもいることであろう。
右隣の茂吉は、神妙な顔つきでずっと、浅倉大将の家来が言っていた敵が来る方向を見つめている。茂吉は兵吾がもっとも信頼している一番の兄貴分であり、そして村の中でも若年寄として村のみんなから絶大の信頼を得ている男であった。兵吾はこの男の隣にいるのは心なしカ兵吾が茂吉を頼っているからであることは言うまでもない。
一方、左の田島は先までの大ほらを、それは兵吾が田島の話を聞きながらそう思っていたことだが、吹くのを止めすっかりとだんまりしている。兵吾は、茂吉にたいしてとは別に、田島は嫌いであった。偉そうに講釈を立てる割には、田島自身は何も行わないからである。なぜこ自分の初戦を迎えるときにの男が傍にいるのかわからなかった。村人にも疎まれた存在であった。しかし、面白いことになぜか茂吉とは仲がよく見える。
兵吾がいつのころから自分のことを「兵吾」と呼んだかは、彼自身は覚えていない。、子供の時の彼は、ほんの半年くらいまでであるが、五六と呼ばれていた。和尚は孔子の五つの徳と念仏の六文字からとったと言うが、兵吾にはその弱そうな響きが気に入らなかった。それに彼の両親が付けた名前でもなかったため、五六と言う名には愛着などは全くなかった。もし捨てられたとはいえ名前だけでも付けてくれていたならその名前を嫌うということなどはなかったかもしれない。
兵吾の年齢はまだ十六に満たず一人前と言うにはまだ早いかもしれない。確かにこの戦に集められた岡崎村の男達の中ではいちばん若かった。茂吉はすでに二十を越えており、田島などは後に年で三十を回る。兵吾の次に若い義郎さえも十八であった。侍ではないかき集められた農兵にしては格段に若いのである。
兵吾が戦の知らせを聞いたのは昨日突然行われた寄り合いの後である。
その日の昼過ぎに、慌てながら村長が和尚を訪ねてきたときから、兵吾は何か起こっていると感じていた。その後、兵吾は和尚に言われ村の男達に、夜に寄合をするから集まるように伝え回った。
月明かりの明るい三日月の夜であった。
寄り合いは常に村の男達だけが集まって行うのだが、この夜は武装した浅倉大将の家来まで来ていた。後で、和尚に訪ねたら戦の知らせを村長に伝えたのは彼からだったそうだ。
寄り合いは寺の本堂の中で行われていた。兵吾はその若さと寺の飯炊き小僧と言う身分ゆえにまだ寄合には参加できないのであった。寄合に加われない兵吾は、その間ずっと境内で待っていた。何度か思い切って本道に入ってみようか考えたが、追い出されるのが落ちでありひたすら待つしかできなかった。カエルの声に混じって時折り犬の遠吠えが聞こえてくる。
寄り合いは今までになく長いものであった。寄り合いの間に、三日月はとうに昇りきってしまい徐々に沈み始めていた。月は時折り雲に隠れ、そのたびに月影の中薄暗く本堂の中が浮かび上がる。
突然、本堂の中の人影が大きくなった。そしてその人影は本堂の戸を開け、人影は人となり、人は本堂から出てきた。
どうやら寄り合いは終わったらしい。最初の人影は田島であった。それに続いて村人たちが出てくる。
兵吾は寄り合いのことが聞きたくて田島に駆け寄った。
「戦だとよ、戦。しかも明日だ、明日。侍どもはいったい何を考えていやがる。おれら百姓まで駆り出すなんてよ。たまったもんじゃないぜ。」
「田島、それは本当かよ。」
そう兵吾が田島に尋ねると田島はむっとし兵吾を睨みつけた。
「ガキが口出しするんじゃねえ。」
そういうとさっさと境内を通り抜け、石段を降りていってしまった。
他の本堂から出てきた男達はみんな顔色が悪く見えた。それは月明かりの下にいるからという理由ではない。みんな無言でいるか、ぼそぼそととささやきあっているだけだった。そんな中でカエルの鳴き声だけは変わらず響いていた。
兵吾は我慢できず本堂に入っていった。中には和尚と村長、茂吉、大将の家来が丸く座って話し合っていた。
「和尚。」
兵吾は言う。
「戦とは本当か。」
「兵吾、おまえは外で待っておれ。」
和尚は厳しく兵吾を叱った。兵吾は和尚の言いつけに従わず黙ってうつむいたまま立っていると、
「では、明日の朝には槍が来る。おまえらも覚悟して待っておくがいい。まあ、そんなに気後れすることもない。百姓といえども、手柄を立てれば褒美もくれてやるし、取り立ててやらんこともない。こんな機会は戦くらいしかないであろう。」
大将の家来は兵吾に目をくれることもなくにやりと笑いながら茂吉に言った。
「おいっ、村長行くぞ。」
そして、大将の家来はそう言うと村長を連れて出ていってしまった。
兵吾は大将の家来と村長が出ていくのを見計らい、再び同じことを茂吉に聞いた。
「そうだ。」
茂吉は下を向いたまま答えた。
そして兵吾は自分の戦への意志を迷わず答えた。
言うまでもなく和尚は兵吾の戦への参加を反対した。
しかし、和尚だけではなく
「兵吾、おまえはまだ若すぎる。そんなに死に急いでどうすんだ。」
と茂吉にまで反対されてしまった。兵吾はまさか茂吉が反対するとは思わなかった。それどころか、兵吾の心意気を褒めるのではないかとまで思っていたのである。なぜ戦になったかは兵吾は知らない。だが、茂吉が常に村の一大事に対してはもっとも気を配る男であることは兵吾は知っていた。だから、このようなときに、村のことを思う茂吉が、村を守るという兵吾に反対するとは思えなかったのだ。
確かに、彼らの言い分も兵吾にわからないことはない。農兵としては戦に出るにははるかに若いのかもしれない。しかし、兵吾は、
「村の一大事におれも茂吉のように村の役に立ちたいんだ。」
と言い続けた。もしかすると和尚も茂吉もそれが兵吾の本心でないことを見抜いていたのかもしれない。二人の反対はひたすら続いた。
兵吾は和尚と茂吉の説得にたいして
「おれも村を守る。」
とだけ言い張った。そして本心をうすら隠し、
「でも、侍の子であったならば・・・。」
と心の中ではそう思い、心の中で反論し続けた。言えば和尚に、
「おまえは侍なんかではない。」
と言い返されるのは目に見えているからだ。
兵吾はみんなに反対されながらも、それでも戦に出ようと言い張ったのは、兵吾には夢があったからだ。もちろん、和尚が兵吾をゆくゆくは村の誰かに婿に出そうと思っていたことは知っていたし、昔一度、和尚の思いを、兵吾が仏門に入り和尚の後を継ぐことであったのだが、裏切った兵吾としては、またも和尚の思いを裏切るわけにはいかなかった。しかも、孤児として捨てられた兵吾を育ててもらったという大恩もある。また、茂吉もそんな和尚の気持ち感じ取って兵吾に言い聞かせることも何度となくあったし、茂吉自身が兵吾を村の寄り合いの仕切り手として欲していたことも知っていた。しかし、兵吾にはこの夢だけは決して譲れなかった。そして、もし兵吾がこの戦に出ることができないならば、彼の夢を捨て去ってしまうことのように感じられたのである。それほど兵吾の夢は強いものであった。そしてその兵吾の夢とは侍になることである。
なぜ侍になりたいかは、決して兵吾はその理由を答えることはできないだろう。自分でもはっきりとわからない。それが本心だからである。だが、もし答えるとすれば彼が幼いころの思い出が一つの理由であることは確かであった。
その思い出とは、かつて兵吾が養われていた岡崎村の寺に、一人の侍が従者を連れて和尚を訪ねてきたことがあった。その時の威風堂々とした侍に兵吾はあこがれていたのである。兵吾の思いの侍は決してただ刀をぶら下げているただそれだけの存在はなかった。無論、浅倉大将の家来達のようにただ威張り腐った風の侍からははなはだ縁遠いものである。それは夏の終わりを告げる心静かな秋風であった。もしくは大空に悠然と一人飛ぶ大鷲であった。
当時、飯炊き小僧であった兵吾が、今も兵吾が飯炊き小僧であることにたして差はないのだが、その侍と何か特別に話をして気に入られたというわけではない。それどころか寺の境内の杉の陰から覗いてた程度でしかない。しかし、それでもその時に侍は兵吾のあこがれの的となったのであった。そして時が経ちあこがれは理想と変わっていった。
後に兵吾はその侍について和尚に聞いたことがあったが和尚は教えてくれなかった。無論知ったところで兵吾にはどうしようもないことかもしれないが。
しかし、それ以後兵吾は侍になろうと決意し、和尚から隠れて自分なりの剣の修業を続けてきた。それが兵吾にとっての侍になる道であり方法であった。それを続けるかぎり、兵吾は侍になれる気がした。
その意味で兵吾にとってこの戦は全くの絵空事ではなかった。そして、それは剣の修業遊びよりもより具体的に侍になれる道と方法を示していた。
この戦に出ることによって、本当の侍になれる。兵吾は今日の戦の話を田島から聞いたときに直感していたのかもしれない。
突然、茂吉がすっと立ち上がった。
「来たぞ。」
その村の若年寄はそう静かに言いながら、大将の家来から渡されていた錆び交じりの槍を彼は握り直した。
その言葉を耳にした兵吾に緊張が走った。一瞬、兵吾には蝉の声さえも聞こえなくなった。
「てっ敵じゃあー。」
と今度は田島が立ち上がり大声で叫んだのが聞こえてきた。
岡崎村の農兵と大将の家来達に動揺が伝わりみんな一斉に立ち上がり始めた。しかし、一向にざわざわとなかなか静まらない。農兵達の槍はふらふらと、風になびく案山子のように揺れている。
兵吾は自分の心臓の鼓動の音がずいぶんと近くから聞こえているのを感じた。
「静まらんか。」
そう叫ぶ大将の家来も動揺は隠せてはいない。
「みっみんな慌てるな、それでは勝てる戦も勝てんぞ。」
田島は大将の家来に続いて言う。そんな田島の手が震えているに兵吾は気付いていた。
そして、兵吾はつぶやく。
「勝てる戦。」
このときやっと兵吾は戦には勝ち負けがあることに初めて気が付いた。それは、あまりにも遅すぎる発見であるかもしれない。しかし、その自覚は兵吾に負けを、すなわち、究極的個人の敗北である死を意識させた。自分のかいていた冷や汗に兵吾は今更気付く。そして、いいようのない虚無への離陸が兵吾の中で始まりつつあった。兵吾の槍は揺れ始める。
押さえきれない思いが徐々に膨らむそんな中、揺れる地面に一つ揺れないものが兵吾の視界に入った。それは、若年寄の足、茂吉であった。
兵吾は茂吉を下から見上げた。茂吉は静かに敵を見つめ、強く握りしめた槍を天に向けて立っていた。兵吾は蒸し暑いこの陽の下で、涼しい風を瞬間肌に感じた。
兵吾も槍を持ち直し茂吉の視線と同じく前方を見た。見ると昔戯れに兵吾の作った弓矢が届く距離程のところに敵軍はいるではないか。兵吾は敵兵達を見て背中にさらに冷たいものが走る。だが、兵吾は敵から目をそらさなかった。
彼ら敵兵達は農兵達目掛けて徐々に目の前に迫ってくる。それはまさに、農兵達の命を刈り取ろうとする集団であった。
敵兵達は兵吾達よりも多勢であった。その数およそ三百はいるだろうか。数の感情のできない農兵達にも容易にわかりえた。しかも彼らは兵吾達よりはるかに勇ましい兵達であった。そしてその敵兵達に目前に迫られた兵吾達は、そうなりえないままであった。たとえるなら兵隊アリと働きアリとの差であるか。しかし追いつめられれば働きアリといえども戦うのである、率いるアリさえ立ち上がれば。
茂吉は、すっと息をすって声を上げる。
「おまえらあ、村の女や子供たちを守るんじゃないのか。なんのためにおれたちはここにいるんだ。いい加減に覚悟を決めろ。」
農兵の中に茂吉の声が行き渡った。茂吉の声を聞いた槍は次々と自分を取り戻す。沸騰していた動揺は水となった。
「行けエエ。」
浅倉大将の家来はここぞとばかり号令をかける。
水は今敵兵へと流れ出した。
攻め始めた農兵達に呼応して敵兵達も動きを速めた。
みんなが覚悟を決め敵兵達に立ち向かいその距離を詰め行く中、大声をあげて突っ込んでくる敵達を兵吾は凝視できなかった。戦への恐怖に取りつかれたのではない。それは死への自覚が遅れた所以であろうか。あまりに強烈に感じられる生死の境界のために己の存在を再び見失ったのである。
そしてついに戦は始められた。
兵吾が呆然とする間、次々と敵兵達は兵吾の仲間達を、農兵はその敵達を襲っていく。そこら中で断末魔の叫び声が血柱とともに躍り上がり、つい先まで一緒にいた仲間達は敵兵達を友として次々と永遠の大地の床につく。敵味方入り交じった血に兵吾は染められていく。しかし、それでも兵吾はこの場に帰れないでいた。
死の予感が現実となり、現実が死となっていく、それが戦である。
揺れる兵吾に一人の男が兵吾の前に立ちふさがった。顔に生えた虎鬚、お世辞にも澪守れるとは言えない申し訳程度の胴鎧、手に持っている兵吾に劣らずぼろぼろの槍、男は見るからに野侍と言った風貌だった。歳は三十を回ったくらいであろう。
「死ねえっ、童あ。」
男の槍が兵吾に目掛けてやってくる。
混濁する意識の中、兵吾は人間の殺気というものを初めて感じ取った。この死へと導く激情は兵吾を生死別れる現実世界へと引きずり戻した。すべてが実感となった。生を感じ死を予感する。それが戦でという場所での現実世界である。
槍先にこもる殺意の固まり。普通に村に暮らし、戦に一度も出なければ一生感じられないであろうただ己だけの生へ刹那的な気迫。それがわずか十五の兵吾にも伝わってきた。
「殺す。」
「生きる。」
その二つだけが存在し混在している。それは単純な論理である。戦の底辺に横たわる不動の真理。すべて戦に何かを求めるものはここから始まると言って過言ではなかろうか。
兵吾は自分が返り血に染まっている自分に気が付いた。それから自分のおかれた状況、自分のなすべきこと、そして進み行く道を今一度思い出す。
「おれは侍になるんだ。」
次いで兵吾は槍を静かに構えた。すべては殺し、そして生きることから始めなければならない。その先にきっと侍への道はあると兵吾は感覚的に悟った。
虎鬚の男の突いた槍先はまさしく兵吾の命を食いちぎろうとしていた。
だが、重すぎる生への情念が切っ先を鈍らせたのであろうか。もし彼を捨てた親の感情がそうでないというのならば、初めて兵吾へと向けられた殺意は、兵吾の肉を突き抜くにはあまりにも遅すぎる。極めて簡単に虎鬚の男の痛恨の槍先をかわす。兵吾は殺意の刃が横にそれていくのを肌に感じた。
兵吾は今まで天か地にしか向けたことのない槍先を虎鬚の男に向ける。
そして、兵吾の槍は男の生を断ち切りにと突っ込んでいく。その勢いに迷いはない。生死の境を越えたところにある覚悟の境地にでも入ったか、その心ははるかに澄んでいた。
ぐぐっと兵吾の腕に柔らかい感触が伝わる。伝わる心臓の鼓動。その音は静かに兵吾のものと響きあう。男が鈍いうめき声をあげる。
「童ぃ。」
それが男の最後の言葉であった。兵吾は男を貫いた槍から伝わる男の重さと命、そして死を感じ取った。
槍の一つ差し挟んだ命のやり取り。場合によれば反対に自分がそうなっていたかもしれない。ただ、槍に感じるその重さからそう思わざるを得なかった。
兵吾はそれ以上、男の命の残がいに触れていたくはなかった。兵吾に自分の死の気配をも感じさせるものだからである。
しかし彼は自分の槍を男から解放しなければならない。兵吾は、彼の槍とその持ち主に支えられて立ち尽くしている亡きがらから、自分の槍を引き離した。槍を引き抜いたその腹からは血液がどぼどぼと流れ出る。槍を男から引き抜く瞬間、兵吾の腹に重い感触がなぜか感じられた。
その後兵吾は何人の男の息の根を止めたのだろうか。
兵吾に向かって敵が襲って来るたびに、ただ兵吾は兵吾を襲う殺意から身をかわし、自分の槍先を相手の生に向けて突き、命を断ち切っていく。ただそれだけのことであった。極めて簡単な作業である。無論、兵吾も多少の傷を負うことはあったが、その作業を行うのにさほどの支障はなかった。もともと、兵吾には戦人としての素質があったのだろう。とにかく、この戦の中においてはなかなかの強者であった。
ふと兵吾は敵兵と農兵達の刃が入り乱れる中周りを見た。ようやく兵吾にもその余裕ができたのであろう。
周りを見はるかすと、意外や意外、農兵達は敵と善戦をしていた。もちろん、それは数において遥に勝る敵を殲滅させるということで決してない。あくまで善戦であるということなのだが、それでも互角と言ってもおかしくない大接戦であった。
言うまでもなく戦は両者が互角であればあるほど激しくなっていく。結果、戦の副産物である屍も多く生まれた。そして戦場でのその副産物は激しく躍動する生に対する動かざる静であった。
そのような中、兵吾は草むらに多く伏せる屍の中に多くの顔を見つけた。
それは義郎であった。
それは三本松の仁佐であった。
それは村長の若息子、次郎助であった。
岡崎村の顔が敵にまぎれて多く地に臥していた。
兵吾はその顔が尾に出会うたび、瞬間悲しみを覚えるが、戦は人を悲しみという感情にくれ続けることは許さない。すぐに目に涙を溜めたまま彼らとは別の世界へと戻った。別の世界と言っても、そこからは限りなく近いともいえるし、遠いともといえるだろうが。
再び敵達を屍へと兵吾は変えていく。また一人、また一人と。多くの村人の屍を見たからであろうか。だが今度は、それに加え一つの動作が兵吾に加えられた。
茂吉を探すということである。
兵吾はいとも簡単に茂吉を探し出せた。
なぜなら兵吾の周りでいちばん悲鳴を上げている男のすぐそばにいたからである。それは茂吉が悪鬼羅刹のような強さであったため敵兵達が恐怖のあまり絶叫しているのではない。
農兵の一人が死をあまりに恐れるため刃が光り輝くたびに声を上げているのである。
その農兵とは、先まで大言壮語をしていた男、田島であった。
兵吾はこのような田島にたいしてあきれるしかなかった。しかし、決して責めようとまでは思わない。死を恐れることはなんら恥じ入ることではないからだ。死の恐怖を感じたことが一度もない人間がいるだろうか。強い信念と絶大な自身、あるいは心が鈍くなりににでもしないかぎりはありえない。兵吾自身も先程まで死を直視したために呆然としてしまっていた。
普段からあれほどの大口をたたく男の化けの皮をはがしてみれば、ただの茂吉の後ろに隠れておびえるだけのみじめな男であった。そのことが兵吾にとっての意外であり軽蔑であった。その気持ちは勇敢に戦う茂吉の傍ではいっそう増していく。
茂吉に関しては兵吾が心配するまでもなかった。
茂吉は勇ましかった。
兵吾もそれには感嘆せざるを得なかった。決して強いのではない。ましてや戦上手なんかではない。だが、それとは全く別の何かが茂吉にはあった。
その何かが茂吉に力を与えているのである。兵吾のような鋭さはないが、どっしりとした安定があった。
茂吉もまた次々と敵を討っていく。茂吉を見た兵吾は心なしかほっとした。そして兵吾には茂吉が一人打つ旅に味方の勢いが強まっていくように感じられた。
「この戦勝てる。」
この生と死の対極同士が混在する状況で兵吾はそれを感じ取った。
おおおおおっっ。
すさまじい怒号とともに一人の若武者が茂吉に襲いかかるのを兵吾はまた敵を一人槍で突き通した瞬間に見た。
その若武者は他の武骨な地侍達と全く別であった。それはしっかりと守られた防具だけではない。その怒号からは考えもできないほど、若武者はしなやかで華麗であった。流れるように刀で茂吉を切りかかる。
茂吉も負けずに、ぎこちなくはあるが、槍で若武者の攻撃を交わしては突き返す。兵吾には彼らは互角に見えた。若武者が刀を茂吉に向けて振り下ろすたびに後ろの田島が悲鳴を上げる。
田島の悲鳴のせいなのだろうか。兵吾は急に茂吉の命に不安を覚えた。
兵吾は茂吉を助けるために茂吉の傍へと走り寄る。そして兵吾は茂吉と並んで若武者と対峙した。
兵吾が茂吉を見るとにやりと茂吉は笑う。その笑顔の兵吾は戦の勝利を予感した。
「ましか丸っ。無茶をするんじゃないっ。」
若武者の左斜め後方から激の声が飛んでくる。思わす兵吾はその声の方向を見た。
その方向の先には、若武者と同じくほかの敵兵とは全く身なりの違う侍がいた。おそらく彼がその声の持ち主なのであろう。決して華美ではないが、自信にあふれた鎧。軽くない圧倒的な落ち着き。そして殺意無き存在感。顔には威厳ある髭と年月を感じさせる年輪が刻まれている。
きっと大将なのだろうと兵吾は思った。その侍は自分の周りに兵を率いているが、けっして守られているのではなかった。あくまで、付き従えている風であった。
その存在、そのあり方は兵吾が幼いころ見た侍を感じさせた。鮮明にその時の記憶がよみがえる。
遠い秋の日。
石段を登り来る侍。兵吾はその時境内で落ち葉をほうき払っていた。
侍は静かに境内を横切って本堂へと望んだ。
そして、そっと本堂に祀られている毘沙門天に手を合わせた。従者達もそれに続く。
和尚が本堂から出て来る。
侍は和尚に一礼し、和尚もそれに返す。
それからしばらく本堂の前で二人は談笑をした。
兵吾は境内の陰からからずっとかれらを眺めていた。
心地よい秋風を肌に感じる。
空の雲は速く流れている。
和尚は本堂から陰に隠れる兵吾を指さした。侍も和尚に従い和尚の指先にいる兵吾を見やる。
二人の突然の注目に兵吾は驚いた。本堂を覗き見るような姿のまま兵吾は固まってしまった。「おれはなにをしている?」という気持ちと「おれはどうすればいいのだ?」という気持ちで兵吾の心は慌てうろたえる。
そして侍は兵吾を見るとにこりと微笑んだ。
ほのかに赤く色づいた木の葉が宙に舞っていた。
兵吾は立身出世がしたくて侍になりたかったのではない。
元来、兵吾には野望という考えや贅沢という思考を持ち合わせてはいなかった。そのため和尚が望んだように寺の跡を継いでもよかった。だがもし兵吾が侍になれれば、その侍に近づけるのではないか。そしてまたあの笑顔に出会えるのではないか。兵吾はそう思っていたのである。
いつしか兵吾は侍の笑顔をすっかり忘れてしまっていた。だがしかし、常にその侍を思い出すたびに兵吾は胸に懐かしいものを感じた。それは侍に会ったあの時の、侍の笑顔の幻影だったのかもしれない。それでも兵吾は、それがたとえ幻影であろうと、その幻影をしっかりとつかみたかった。そして侍の笑顔を思い出すために、さわやかな秋風を感じるために兵吾は剣の鍛練をしていたのであった。
兵吾は自分が侍になりたかった理由を今明確に思い出した。
あの侍にもう一度会うため、その侍に父親を感じたためである。
兵吾はましか丸という若武者の陰からもう一人の侍を覗き見た。
もう一人の侍は兵吾の方へ指さす。若武者の方へその侍の家来が駆け寄ってくる。走り寄ってくる侍の背後にもう一人の侍が見え隠れした。侍はまた悠然と戦い始める。
どうやらもう一人の侍は若武者の父親であるらしい。兵吾は視線を若武者に戻すとそう思った。
兵吾の心は黒雲に覆われていく。
そして急に兵吾には戦場の叫喚が聞こえなくなった。兵吾には深い憎しみが沸き起こる。もはや内なる激音しか聞こえない中で兵吾の憎しみのはもう一人の侍へと向けられた。
かつての侍は兵吾のあこがれであった。理想であった。そして父親の陰であった。
兵吾自身の理想はこの戦場ではほかに存在してはいけなかった。それは兵吾への裏切りであった。
何よりも兵吾の父親の陰であった侍が、兵吾ではなく、別の息子とともに出陣してきたのが許せなかった。しかも敵方に。
すさまじい怒りとともに猛烈な嫉妬が兵吾の心を握りつぶす。
「この男がいるからおれは侍になれないのか。」
兵吾は瞬間にそう思ってしまった。小汚い槍をしっかり持ち直す。そして、侍をしっかとにらみつける。
激昂が頂点に達したとき、兵吾はもう一人の侍目掛けて走り出していた。
「よせぇっ、兵吾。行くなあーっ。」
兵吾は今までの人生で一番の大声を出したかもしれない。それは憤怒うずめく腹の奥底から絞りだした声であった。
いやああぁっ。
この侍を殺せばおれは侍になれる。兵吾はそう思った。
兵吾はその時初めて己を越えた殺意というものを持った。そこには自分が入り込める一寸の隙もない。それは燃え盛る一塊の石ころであった。燃えに燃えて耐えきれなくついに爆発する。
そしてその塊は槍先に詰め込むには鈍く重すぎる。その槍への負荷は兵吾の体までを重くした。しかし、それでも鈍重で激しすぎる殺気は侍に向かって飛びかかっていった、兵吾の槍とともに。
おれはあの侍になるんだ。
兵吾は自分の腹に重いものを感じた。それはとても冷たかった。その冷たさとともに兵吾の怒りは腹から背へと流れ出した。
腹に突き抜かれた槍一本間に、兵吾はもう一人の侍を見た。
侍は毅然と兵吾を貫く槍を両手に握っている。その顔にはあの笑顔はなかった。
兵吾は侍の槍を両手で握り侍に微笑んだ。
侍になりたい。
そう思うやいなや彼の目に闇が襲い彼の四肢の力はなえいく。
そしてその若き侍は静かに沈黙した。
アレスの丘(2000) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing
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