24時間放棄(2007)

Nemoto Ryusho

24時間放棄(2007)

   #1




 どけよ、危ねえじゃねえかよ。さっさと歩け! 何ニヤニヤ笑ってんだ。手なんかつないでんじゃねえ、はっ倒すぞ。そんなもん見せつけんじゃねえ! ほらほら、チリンチリンうるせえ。ひき殺されてえのか、おばちゃんよ。若い連中が気に入らねえのかい? 「昔は違ったのよ。昔は素敵だったわ」

 まだ追いかけてきてやがる。いい加減あきらめろ。お前はバイトだろ。 eq \* jc2 \* "Font:MS ゴシック" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(・・・・・),お前んとこ)じゃたった三本だ!

 商店街を疾走。駅を目指しながら凄まじい勢いで愚痴が零れ落ち、無言で障害物に呪いを送る。息が切れたらおしまい。肺胞がしきりに酸素二酸化炭素の交代劇を出ハケを興じている。

「シンナーって英語でどういうか知ってる? エーテルっていうんだ」

 このままじゃ死んじまうかもしれねえ、と、ばくばくに踏ん張る松果体が呟おて、エンドルフィンがトランペットでファンファーレを吹き鳴らした。後は第四コーナーを曲がりきるだけだが失敗すれば落馬必定の理、つまらない三面記事をにぎやかすことになる。

「日本語の有機溶剤が英語じゃエーテル。シンナーってわけでしょ」

 アーケードの出口を駆け抜けると赤信号を無視して渡る。オレは今品川区で一番早く動いている人間だ。

「俺、物理とか科学とか理科とか覚えてないっていうか全部忘れたでしょ、万有引力ってね、ええと、重力でいいんだっけ。それでいいんだよね。その重力がみんなに、みんなってのはさ、俺も啓介も冷蔵庫も掃除機も、とにかくみんなにあるわけなんだよね。でも見えないでしょ? でも何かに押さえつけられて地面にくっついてんだって。水ん中でも水圧ってあるよね。魚は気付いてないけど水が魚を押さえつけてるんだ。で、陸でも水じゃない何かが俺たちを押さえてんだよ。その何かがエーテルっていうんだってさ。おかしいよね?」

 頼む、マコト。しばらく黙ってくれ!

「俺たちの周りのエーテルを発見したのがニュートンでしょ。啓介聞いてる? あれ? アインシュタインだったかな。どっちでもいいか。エライ学者が見つけたんだ」

 次の信号左。

「俺たちは気がつかないけどエーテルに囲まれて暮らしてんだよね。だって重力が地面に押さえつけてんだからさ。だからね、俺らはエーテル、シンナーに包まれてんだ」

 ここの交差点をまたしてもスルー。すなわち駅!

「他の人達が楽しそうに生きてるかっていうとさ。エーテル、英語のシンナーだよ。それでラリってるからなんだ」

 太股を叩きつける自動改札機を飛び越える。バイトは苦々しそうにオレを睨んでいた。

 悔しいか? 

 息を弾ませる彼をもう一度仰いで階段を上った。ふくらはぎが引き攣り哀しいくらい痛かった。息は上がったままだ。呼吸は落ち着かない。オレは吹きさらしの路線橋に白い息を吐き続ける。マコトの話が本当なら、オレは間違いなくエーテル過剰吸引で卒倒して、鼻から脳味噌と鼻水を放出するドリンクバーだ。

 ニュートン先生の学説は間違っている。じゃなきゃ戦争なんて起きやしない。

 山手線のドアは閉まる。

「へえ、まだ諦めないんだ」

 マコトは驚きの声を上げた。バイトは律義にオレンジ色の切符を片手に掲げて階段を駆け降りてくる。彼の息も白い。空気の吸いすぎだ。ラリっちまうぜ!

「泥棒!」

 ドアガラス三センチ越しに彼はオレらを罵った。

 グリーンとシルバーで色付いた電車はのっそりと動きだした。バイトは電車にあわせて走り出す。マコトはバイトに手を振る。まるでB級青春映画のラストのようだ。

 ホームにアナウンスが響く。

 ホームが風とともにバイト君と彼方に去っていった。

 オレはようやく人心地ついた。

 他の乗客たちが金太郎飴を微塵切りしたような表情でオレらを窺っていた。みんな一様に眉を細めて目を顰め鼻の穴を少し大きく開いて口元は微妙に歪んでいる。なんということだ。

 視線は電子レンジ並に eq \* jc2 \* "Font:MS ゴシック" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(オールレンジ),全方向)から放射され、ターンテーブルに回るオレの尻の具合と股間の位置具合をおかしくし、車内暖房以上の不快な汗を滲ませた。ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げようとするとべっとりとレンズに指紋がつき、ティッシュで拭こうとしても持ち合わせがなく、シャツで拭いたら汗がぽたりとレンズに落ちて乱反射する。周囲の咳払いによる喝采が苛立ちをひきたたせる。

 次第に虚ろとしてきた。身体もだるくなってきた。灰皿代わりの水を入れた空き缶を覗いた気分だ。車内には腐った水とニコチンとタールの弩茶色の匂いが漂っている。飲み干して痙攣死したくなる。

 リュックを片肩から降ろし咳止めシロップの一つ取り出した。紙箱を強引に破る。シロップを一気に呑みくだした。甘ったるく、舌根や食道がシロップを拒絶してるようでひくひく唸った。まずさに、いぃい、と喉が鳴った。

 今回の収穫はどれくらいだろうか?

 五店は回った。二十本を越えているなら十日はしのげるし、そのうち実家から仕送りも届く。当分は今日みたいな追いかけっこはしなくてもいい。

 マコトは嬉しそうに路線図を口ずさんでいる

 マコトは単なる見張り役なのに、なぜか一緒に逃げてきやがった。これでは「オレら共犯ですよ」と教えているようなものだ。次はもっと綿密に打ち合わせをしなければならない。ここで説教してやってもいいが、皆さんにこれ以上白い目を剥かれるのは酷すぎる。せっかくシロップを呑んだのだ。今に弛くなってくる。厄介事は避けて通るのが聖人君子たる生き方だ。とにかく次の駅で降りよう。

 説教はそれからだ。



一月一七日

 ぼんやりとした将来への不安などない。

 空っぽな心と空っぽになった時間にオレはシロップを注ぎ込む。咳止めシロップ、コデイン&塩酸エフェドリンが満たしてくれる。

 一日二十四時間は長すぎる。

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 時計は二時を指していた。

「起きろよ」

 シロップの空き箱を投げると、半開きになったマコトの口に当たってこつんといい音を鳴らす。

 マコトは瞼をこするとうううと唸った。まだ安定剤が残っているようだ。パチモンにしてはマコトの手に入れてくる安定剤はよく効くらしい。この安定剤のことをマコト自身はゼーパンと呼んでいたがオレは信じちゃいない。

「おい! さっさと食えよ」

 三時をまわった紫陽花亭は昼飯ラッシュの夢の跡、客もまばらで厨房からは店員のおしゃべりが届いていた。

 オレは三鷹に住んでいる。お気に入りの街だ。中央線の特快も停まるし学校にも近い。何より三鷹中央通りには薬局が多い。当然のことだが三鷹では eq \* jc2 \* "Font:MS ゴシック" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(’’’),仕入れ)はしない。住む場所だけはクリーンにする。今流の公害対策と同じだ。

「カニンゲンって知ってる?」

 カボチャコロッケを箸でこねくりながらマコトが言った。マコトもオレも三分の一近くの料理を残している。別にマズイのではない。むしろおいしいはずだ。だがオレたちには食欲はなかった。何となく食う。ただの習慣だ。一日二回、朝飯兼昼飯と晩飯を摂取する。生命としての中毒だ。

「カニ隠元?」

「・・・・・・そう、蚊人間」

 マコトの目はいつも通りどんよりしている。

「知らねえ」

 オレは鼻をすすった。そういえば鼻炎の薬を飲み忘れていた。

「蚊人間てのはね。蚊の人間なんだよ」

「ああ、モスキートマンってことか」

「そう。それそれ。モスキートマンだよね。見た目はね・・・・・・蚊じゃないなあ、でっかい羽のないアメンボに似てんだ」

「じゃあ、アメンボマンだろ」

「違うんだ。蚊人間なんだよ。ひょろ長くて真っ黒な身体に長細い六本の手足があるんだ・・・・・・うーん、脚が二本かな・・・・・・でも二本脚で立ってたからやっぱり手が四本だよね。蚊人間は立つと人よりでかくなるんだ。でね、歩くんじゃないんだ。三段跳をするんだよ。知ってるでしょ? 啓介、三段跳びなんだよ。体育でやったことあるでしょ。ホップステップジャンプてね。ちょん、ちょん、ちょーんと両脚合わせて飛ぶんだ。ちょんの部分が一メートルくらいで、ちょーんは五メートルくらい。チョコボールのキョロちゃんのような光ってる眼ん玉とストローみたいな細長い口が付いててね、その口で人の血を吸うんだ」

「どこの映画だ」

「違うよ。夢。俺の夢だよ。昨日見たんだ。昨日の夜、見て吃驚したんだ。すっごい怖かったんだよ。で、蚊人間に血を吸われた人間は、三段階の変化をするんだ。まずね、顔がアンパンマンのようにパンパンに膨れんだよね。ホントにパンパンなんだよ。むくんだ顔なんて比じゃないんだから。それでパンパンになった顔がポロンって胴体から落ちんだ。ナメクジのようにウネウネと地面を這うんだよ。階段だって上るんだから。絶対啓介が見てもビビるでしょ。最後に、ふわんって空中に飛ぶんだ。高さは・・・・・・ええと、蚊人間に血を吸われる前に頭があった場所かな。風船みたいでしょ?」

 オレは聞き流した。まただ。リアルにどうでもいい話だ。

「それがどうした」

「それに昨日、襲われた夢を見たんだ」

「どっちに?」

「え?」

「蚊人間と蚊人間に血を吸われた人間のどっちに襲われたんだよ?」

 マコトは両腕を組んだまま黙りこんだ。

 また戯れ事を聞かされてしまった。垂れ流すという点ではオレの鼻炎よりもたちが悪い。無意味なのだ。納得ができる分、おばあちゃんの知恵袋かマニアの蘊蓄を聞かされていたほうがマシだ。マコトの話は本当に無駄だ。マコトだって明日になったらきれいさっぱり忘れている。

 考えこむマコトの脇をぬってウエイトレスのお姉さんがコップに水を注いでくれた。飲料水の増量は喜ばしいが、陰喩に早く帰れということだろう。

 考えることを忘れたのか、マコトがゼーパンと彼自身がそう呼ぶ錠剤を噛みはじめたのでアパートに戻ることにした。ウエイトレスの彼女もそう勧めてくれているし鼻炎もひどい。今よりももっと呂律の回らなくなるマコトを相手にするのも億劫だ。蚊人間みみずの婚約者レゲエの小銭入れ神様のTシャツ踊る広辞苑火星の石の音・・・・・・きりがなく不毛だ。

「両方だよ、両方。蚊人間と蚊人間に血を吸われた人間、両方に襲われたんだ」

 マコトは顔を上げてにやあと笑った。目はキラキラと晴れた日のドブ川のように輝いていた。

 オレは水を飲み干し、席を立つ、

「先に帰るわ」

「俺、朝子ん家に泊まらなきゃ」

 ああ、そうしてくれ。そう言い残して店を出た。手鼻でかんだ鼻水はぬるぬるとして不思議なノスタルジーを与えてくれた。変に温かくて手汗に満ちたオレの親指にしっかりとフィットした。

 アパートのドアに一枚の紙切れが挟まっていた。葉書サイズの白い紙切れで運送屋のからの不在通知であった。送り主は知らない奴だ。紙切れで鼻をかむとゴミ箱に捨てた。鼻はひりひりしている。




一月二〇日

 沈んでいく。どこまでも沈んでいく。とっくに底に着いているはずなのに一向に終わることなく律義に万有引力している。重力の中心があればそこで終わるはずだ。中心点についたら落下も停止する、そこで目を瞑ればいい。動かず動かされず静かに眠れる。はるか上のことなどお構いなしに奥底で潜もう。

 だがもし終わらない無限点に中心があるなら?

 からめ捕られそうになるくらい、ねっとりとどんよりしている。深海二千五百十四メートル、水は重く腐っている。身体の周りにはどろどろになった死体が彷徨っているようだ。これが眼球、これは胆嚢、これは海馬、これは舌根、これは子宮。パーツに別れた死体は引き寄せようなんて気もないくせに勝手に離散集合を繰り返してはオレにぬるぬると接触、かすめていって挨拶もせずに行き来する。

 吐く息は黒い。もし咽奥に指を突っこんで描きだせばいい感じに腐った内臓をエクトプラズムのように引き抜けて、きっと周りの死体は「いい感じね」と褒めてくれるのだろう。褒めてくれなくとも群れから「また会いましょう」と手を振ってくれる。

 世界は輝く膿で覆われている。

 オレは世界を泳ぐ。膿にまみれようが透明になろうが関係ない。出口なんてどうせない。最初の入り口も忘れた。入口すらもないかもしれないのだ。

 沈殿するまでだ。

 無限点から彷徨いながらすべてを忘れたい。だからオレを忘れてください。

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 アルコールを飲まないのは、飲んでも気持ちがよくならないからだ。飲むと全身がだんだら模様に赤く変色して心臓の鼓動から蟀谷静脈の躍動までが外面内面ソナーが感じ取る。それが不快だ。

 だが飲み続けていた。

 店に入ったときから嫌な雰囲気でひりひりしていた。

 マコトはいつもよりまともだった。が、朝子や彼女の友達------裕子というらしい------が鼻についた。

 朝子はオレを嫌っている。むしろ憎んでいる。オレがマコトを変えたかららしいが、朝子の嫌悪はテレパスやカウンセラーでなくても読めるくらい露骨だ。なのに今日はオレを誉めはやしおだてる。からかわれている気分だ。

 隣に座る裕子がしきりに身体に触れてきた。その都度オレはおどけたり気にしなかったりする。何やってんだろ。シロップを忘れてきたことを悔やまれた。シロップがあればこの時間をやり過ごせたはずなのに。

 身体が限界に近づいている。酒だ。煙草じゃ追いつかない。ジョッキを空ける。「スゴーい」と女二人が手を叩く、まだだ。何かが後ろからひたひたと附いてくる、空けるしかない。

 朝子が「用事があるの」とそらぞらしく謝って、マコトと二人寄り添いながらそそくさと帰っていった。心臓の鼓動が彼らの足音とダブる。『風の谷のナウシカ』巨神兵の足音と同じ音だ。

 頭が鈍すぎて落ち着かない。すっかり空っぽだ。まだ一日は終わらない。

「ねえ、飲み直しましょうよ」

 裕子がオレの腕にまとわりついた。

「みゃああ」

 オレの喉からは奇妙な音が漏れた。

 意識が飛んだ。

 駅近くのバー「ポールスミス」にいた。裕子はにこにこ笑っている。何がそんなに嬉しいのだろう。裕子とオレは寄り添ってカウンターに座っていた。女の柔らかさをジャケット越しに感じる。

 女だ。

 股間は躍動していた。

 裕子の顔をまだ一度も見ていなかった。いや、認識していなかった。必要なのはアルコールでも女でもない。一瓶の咳止めシロップ、塩酸エフェドリンとコデイン。手を伸ばせば届くのに手が伸ばせない。邪魔だ。毒だろうが薬だろうが、悪だろうが善だろうが、埋めなきゃいけないのだ。

「埋めて埋めて埋めて埋めて」と唱えながらオレの肘は裕子の乳を弄っている。

 再び意識が飛んだ。

 自分のベッドの中だ。

 気怠かった。脳が痺れていた。レレレのおじさんがニューロンをお掃除していた。おじさんは神経質に箒をはたいているのに、少しも片づかない。きっと整えるつもりはないのだ。雑然とした神経組織、これでいいのだ。

 タリラリランと呟いた瞬間、胃が収縮した。急いでトイレに駈けこむ。咽に手を突っこんだ。手は冷たい。人差し指と中指が甘臭い匂いでつんとする。咽奥に一瞬の快感が走った後、寄せ集めた代理品どもが逆流した。エクトプラズムは出なかったが、すっきりした。右手の甲からは甘そうな科学的な匂いが漂っている。オレは水で口をゆすぐと咳止めシロップを一本空けた。

 ベッドには裕子がいた。

 不可解だった。

 オレの袂には裕子が寝そべっていた。ベッドに眠る裕子はシュールで滑稽だった。毒リンゴで眠った白雪姫の処女膜には七つの小さな穴が開いていた。そんなマコトの戯れ事を思い出し苦笑する。裕子は「ああん」と唸って寝返りをうった。仰向けになった裕子から楽しそうなへそが覗いていた。乳首がぴんと立っている。裕子を抱き起こし、オレは粘膜と粘液を擦りあった。




 カーテンで閉めきった薄暗闇のアパートの一室、陽光を浴びた埃が微かに舞い降りて醜が美に、美が醜に移り変わる狭間。埃は静かに、でも確実に降り積もる。

 化粧が剥れた eq \* jc2 \* "Font:MS ゴシック" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(’’),それ)は浮腫んで、肌も荒れ、目脂を伴って寝言か寝息か唸り呻いている。

 これは吠えているのではないだろうか。

 初めて夢精をしたときの自己異生物性を喚起させる不安に似ていた。

 すべてが嘘のようで夢だと夢みたい。これほど強烈な欲望を塩酸エフェドリンとコデイン以外に最近持っていなかった。

「参ったな」

 まったく厄介なことになってしまった。神妙に顎を手で擦りながら、今後の身の振りようを思い描こうとするも「・・・・・・しかしながらも」と自然に口から逆接の接続詞がざばんと飛び出し、頭の思考を裏切って身体が暴走というか頭自身も爆走しはじめて「顔と裸体は別の存在だ」などと肯定的な意見が支配する中、熟睡する裕子も何のその、そのまま粘膜粘液の摩擦を繰り返す。分泌液や肉壁を貪りながら汚れの念がジーザス・クライストの磔模様黙想するマルクス・アウレリウス光悦のマグダラのマリアの順にフラッシュバックする。にもかかわらず身体は昂ぶった。やがて裕子も目が覚めて、淫行すること風のごとし。




 時計は午後五時を過ぎた。

 オレと裕子は敷布団の上で向かいあって正座していた。

 オレはトランクス。裕子はブラのみ。

 苦肉の策だ。

 お互い言葉はなかった。部屋にはオレの鼻を鳴らす音だけがした。

 やはり裕子の顔は変だ。顔が醜悪なのではない。美人ではないだけで、第三者視点では、総合点でかわいいと結論づけられるだろう。むしろ顔よりも情況が変なのであって、それが彼女の顔を歪めている。

 異常な情狂だ。

 そもそも裕子と性交に成功すること自体がおかしいし、面倒を忌んでいるオレにはあってはならないのだ。なぜなら擦り愛をするのは愛しあう二人であって、オレが裕子に資金援助をするでもないし、裕子が色情狂なわけでも、いわゆる大人の恋愛などとほざくほど割り切っているはずもない。

 裕子がじっと見つめてくる。そのくせ視線が交差するたびちらりと俯き視線を逃がす。駄目だ。駄目だこんなの。これではリアルに彼氏と彼女だ。

「悪いが帰ってくれないか。嫌なんだよ。裕子が嫌いとか好きとかのレベルじゃないんだ。ギュウギュウになった気分、ほら、満員の中央線なんて嫌だろ? そんな感じがするんだよ。そういうときって『オレ以外のやつがいなかったら楽なのに!』て思うよな。でも一番いい解決法は自分自身が電車から降りてホームに行けばいいわけじゃないか。な? わかるよな」

 オレは努めて穏便に話した。

 しかしオレの説明も虚しく、裕子の表情はみるみる一転した。

「最低ぇ」

 眼には大量の涙が溜まっていた。

「バカじゃないの。中央線とかホームとか私たちに関係ないじゃない!」

 鼻水が鬱陶しい。どう言えば納得してもらえるだろうか。気が付いたらセックスしてたんだ。記憶はないんだ。記憶はあるけどセックスしたかっただけなんだ。お前のこと嫌いじゃないけど、好きでもないんだ。お互いに時間をつぶせてよかっただろ。

 一生懸命考えて出てきた言葉は「参ったな」の一言だった。

「最悪!」

 裕子はそう喚くと、もっと怒って立ち上がった。

「あ、待て!立つんじゃない」

 裕子はオレの要望を却下し、立ち上がって衣服を着はじめた。

 揺れる乳と見え隠れするアンダーヘアーにオレは再欲情した。無理やりオレは裕子を押し倒して嫌がる裕子に貪って、裕子も抵抗から喘ぎに移行して擦り合った。激流に対抗する鮭の気持ちはわからないが、せめて交尾後命を失う鮭が羨ましい。


   #2




 あ? これ? 鼻水止めだよ。オレはアレルギー性鼻炎なんだ。花粉症? 今、十二月だぜ。どこの杉の木が花を咲かしてんだ。風物詩じゃなくて、オレ、ハウスダストなんだよ。そうそう、家の塵だ。ダニの死骸やらがアレルゲン、鼻ストレスの元凶で呑まないと鼻がグズグズして垂れっぱなしなんだ。お前も嫌だろ。嫌じゃない? 大丈夫か、お前? いやいや純粋百パーセントの鼻水で、混じりけなしだから汚くない。見る? 黄色みなんて全然ない。透明の水だ。唾よりはきれいだぜ。いらない? じゃあっちいってろよ。え? 別にただの咳止め薬だよ。風邪なんてひいてねえって。熱も咳も出てない。呑むと気分がすっきりするんだよ。余計なお世話だ。他人ん家の台所を勝手に覗くな。ガキや病人じゃねえんだし関係ねえって。パッケージに書いてあるって何がだ? 呑み過ぎに気をつけろ? バカか! 死ぬわけないだろう。だから市販の薬なんてよっぽど薄めてあるから平気なんだよ。濃かったらクレームで困るじゃないか。知らねえよ。製薬会社さんは面倒が嫌なんだろ。致死量なんかないよ。軟膏とか呑んでるわけじゃない。呑み薬なんだからさ。だから気分がすっきりするから呑んでんだって。うるせえな。悪いことだったら普通の薬局で売ってるかよ! 余計なお世話だ。邪魔すんな。中毒? 違えよ。何言ってんだ。はあ? 卑怯で結構だよ。そうだ。逃げてんだ。悪かったな。はい、オレは逃げてます。だからなんだ? 別にお前に迷惑をかけてないだろ。わかった。頼むから邪魔しないでくれ。頭ん中も身体もむずむずして気持ち悪いんだ。キスでもセックスでも、愛の囁きだってするよ。して欲しいなら、即興で愛の歌も唄ってやる。だからそうごちゃごちゃ面倒しないでくれ。な? 頼むからどいてくれ。邪魔しないでオレを安心させてくれ。ホンの一瞬なんだ。お前が黙ってくれてる一瞬でいいんだよ。な? 頼むよ。




 郵便受けにまた不在通知がきていた。性欲に夢中で気付かなかったらしい。

「宅急便がきたら受け取っておいてくれ。ハンコはそこの引出しん中にあるから。帰るんだったら鍵を開けたままでいいよ」

 どれだけ擦り合ったか覚えていない。飽きるほどなのは確かだ。だがセックスの快感は執拗な人間関係に劣る。裕子にはさっさと帰って欲しかった。彼氏彼女という絡み合った二重螺旋よりも、よっぽど咳止めシロップがおしとやかだ。

「気をつけてね」

 ドアが閉まった途端、晴天に三尺玉が打ち上がった感じがした。久しぶりに独りになった。

 ガストには食いかけのハンバーグを刻んでいるマコトが待っていた。ラリ抜けらしく、無表情でぼんやりとしている。まあ、普段からぼんやりしているのだから、結局はいつもぼんやりしているのだが。まだせっぱ詰まってはなさそうだ。

「俺、もうゼーパンなくなりそうなんだ。でもお金ないしね。だからさ、啓介にね、手伝って欲しいんだ」

 オレは大袈裟に肩をすくめてから、メニューからキノコ雑炊を選んで呼び出しベルを押す。

「いくらだ?」

 忙しそうに店内を駈けまわるウエイトレスの一人に注文するとオレは煙草に火をつけた。

「貸してくれるの? 助かるよ。もう一回分しか残ってないんだ。朝子にもお金、もらったんだけど当分もらえそうもないしね。朝子にバレたら怒りそうじゃない。朝子ってあれだしね。あの身体動かすのが好きな人たち・・・・・・体育会系じゃない。だからさ、怒ると思うんだ。だって俺が啓介の家に泊まるだけでうるさいんだよ。朝子の家じゃハイミナールやれないでしょ。隠れてやるんだけどね。でも最近朝子が機嫌いいんだ。俺、ずっと啓介の家行ってないもんね。裕子ちゃんがいるから行けないんだもんね」

 朝子がオレに裕子を紹介したのはそういうわけか。当て馬みたいなもんか。当て馬にさせ馬。馬は馬だ。

「ねえ、どうしたの? 啓介、怒った?」

「何でもない。いくらで足りる?」

「うーん、三万円くらいかな」

 オレは吸いかけの煙草を灰皿に擦りつけた。

 冗談じゃない。三万? 今月の仕送りまで残り五日しかないのに、そんな金手許にあるはずがない。しばしばマコトに金を貸したことがあるが中学生の小遣い程度だ。額が一桁多い。

「そんなに金ないんだよ。5千円くらいなら渡せるけど」

 オレは言いながら、マコトが落胆して、彼独特の皺を寄せた表情になることを予想していた。捨て犬が通行人に「かわいい」と撫でられ抱きしめられたのに、何のこともなしにその人間がただの通行人に戻っていく姿を眺めている顔だ。

 しかしマコトは表情一つ変わらなかった。

「いいよ、いいんだ。啓介にはいつも借りてるし。でね」

 キノコ雑炊がきた。オレはレンゲで米をすくう。米は逃げ不細工なキノコが残る。

「で、なんだ?」

「啓介に手伝ってもらおうと思ってるんだ。あのね、道に歩いてるおばさんのお金を借りようと思うんだ。ね? それだったら啓介も大丈夫でしょ」

「ひったくるのか?」

「手伝ってくれるでしょ?」

「ああ」




『どうしておじさんは女の子のアソコを『観音さま』って拝むか知ってる?』

 携帯のメールに頭が痛くなった。不慮というか思いがけないっていうか、なんでこのタイミングなんだ。

 空は青い。風は冷たい。からっ風は咽に厳しく鼻炎鼻を苦しめた。寒いはずなのに身体は暑いとさえ感じていた。だが、人は平然と道を歩いていって振り向きもせずに足早に去っていく。

『あれね、女の子のアソコが観音さまじゃないんだよ。だって観音さまって人の形しているよね。女の子のアソコって穴があるだけだもんね。ね? 啓介もわかるでしょ? アソコに拝んでいるじゃないんだよね。本当は自分なんだよ。おじさんのアソコに降臨した観音さまに拝んでいるんだよ。頭を下げてるのは開いた女の子のアソコじゃなくておじさんのアソコなんだ。だって拝んでるおじさんのポーズ見たらわかるでしょ。土下座っぽくて、でもアソコは立ってるじゃない。だからさ、女の子のアソコって観音さまを置く場所なんだ』

 しっぽのちぎれた野良猫が前を通った。毛づやが存在したことすらなさそうな猫はおどおどとオレの顔を窺うとさっと逃げた。

『観音さまって美しいと思わない? ね? 啓介。思ったんだけどさ、どうして観音さまがあんなへんてこりんな置き場を求めているのかわからないんだ。だってあんなにきれいなのに変でしょ? きれいなものはきれいなとこってのが普通じゃない。だって料理したモノがきれいでもお皿が汚かったら駄目だよね。もしかするとみんなに観音さまがやってくるわけじゃないのかなあ。本当の置き場を求めてる人だけのとこに来るのかもしれないね』

 タクシーがけたたましくクラクションを鳴らしていた。おばあさんがへこへこと頭を下げて必死になって全力疾走する。おばあさんの努力は認められない。ブーイングは止まらない。

 マコトに、メールはいいからさっさとやれ! と呪いを送る。

『俺はきれいな観音さまを絶対あんなへんてこりんなところにおきたくないんだ。だけどさ、朝子が怒っちゃうんだよね』

 溜め息までもがゆっくりと進んでいく。もっと雲が速く空を過ってくれればいい。もっとカラスも速く空を飛べればいい。そうすれば日もすぐに沈むし、おばあさんもマッハで動く。

『でも最近観音さまに見捨てられたような気がするんだ』

 目の前でおばさんが嬉しそうに口をぱくぱく動かしている。

 ゴメンなおばさん。交番の場所は知ってるんだ。

 口奥に埋没した金奥歯までを開けっ広げにするおばさんはものすごくセクシーで親切だった。このおばさんならここからシャンゼリゼ通りだって教えてくれるだろう。

 この親切なおばさんなら喜んでマコトに金を寄付してくれる。

 オレが「あの道をずっとまっすぐに行って二つ目の信号を左に曲がって」と指を差すと彼女はうんうんと頷いた。

「だからね、この道をまっすぐに行って・・・・・・」

 おばさんもつられて道順を手で示しはじめた。おばさんの手振りは全盛期のカラヤンよりも素晴らしかった。きっと有能な指揮者になれただろう。

 オレが微かに鼻で笑うと、おばさんは訝しそうに指揮棒をとめた。ノーガードになったおばさんの後ろからマコトが躍りでて彼女の左手に持つバッグを脇から奪う。

 薬が抜けかかりのマコトは短絡的であるが決断力と実行力に優れてくる。躊躇いなしにそのままおばさんの指さすこの道を走っていく。そのまま行けば田無タワーだ。

 おばさんはひょうきんな顔をしていた。何が起こったのか、わからないらしい。

 マコトは三〇メートル先を走っていく。

「泥棒」

 オレは彼女を尻目にそう軽く叫ぶとマコトを追った。

 さらば、おばさん。縁があったら道を歩くオレの前で頬笑んでくれ。

 二十メートルくらい離れたところで、ようやくおばさんの叫び声を背中に受けた。いたたましい声は風に乗ってオレの脳髄を掻き毟ると、けたたましい笑い声となってオレの口から飛びだした。

 マコトは高校時代陸上部にいただけあって、見事なフォームでアスファルトの上を駈けていく。その上元サイクリング部副部長でもあったわけで、筋組織の中に化学物質が紛れていてもちゃんと機能している。一方でやっぱりエーテルってのは空気中にあるのかもしれないと心なしか思った。

 人通りの少ない午後、彼女がこの道と呼んだこの道を走る者はオレとマコトしかおらず、誰もオレらに気付かない。怪訝そうに振り返る子連れのお母さんや貧弱アベックがいたが、誰もマコトを、そしてオレを追跡してくるものはいなかった。些細な日常は注目に値しない。

 マコトは大通りを左に曲がり住宅街へと逃げた。

 マコトの後ろ姿が確認できなくなるとこまで追いかけて東小金井駅の方へオレは戻った。

 おばさんとはさよならでこの世にて二度とあうことはないだろう。だが、オレはこれから三鷹に戻ってマコトにあわなければならない。もうマコトは新小金井駅に着いているころだ。




 アパートの階段を上ると鉄階段はみしみしと音を立て、錆びた鉄を地面に落とした。

 右手にはシロシベクベンシスとラベルされた九グラムの小袋。マコトに渡そうとした五千円の使い道がなくなったため、渋谷の露店で交換してきたのだ。

 咳止めシロップは一週間ほど持つし仕送りも近い。その上今日はダウンタウンDXもある。右手にはシロシベクベンシス。自然と鼻歌が漏れる。

「お帰りなさい」

 裕子がオレを出迎えた。

 気の利かない女だ、と改めて思う。だが今日は初めての大仕事に成功したんだ。利益なんてなかったけど(二万千円の臨時収入は全部マコトに貸しちまった)、気分がよかった。会社から帰ってきた親父の顔がほころぶのはそういう訳だ。

「ねえ、宅配便が届いたわよ」

「開けたのか?」

 裕子は軽く微笑んで、ううんとかぶりを振った。

「ご飯食べてきた?」

「いや」

「じゃあ私がつくろっか?」

 なんて素敵な瞬間なんだ。オレには咳止めシロップもシロシベクベンシスも依存症の連れも飯を作ってくれる女もいる。素晴らしい。なんて素晴らしいんだ。シロシベクベンシスを冷蔵庫にしまう。

 ベッドの傍には置かれた段ボールが置かれていた。

 それは小汚かった。広辞苑でも言葉が見つからないくらい形容しがたいオーラを発していた。その劣悪な材質は、あきらかに日本のものではなかった。

 箱の色は死んだ伯父さんの肌の色に似ていた。伯父さんは重度の鬱病から一族総出のリハビリテーション、回復したと思いきや心臓マヒで死んでしまった。あっけない幕切れだった。そういえば伯父さんの死肌と裕子の肌の色は似ている。だからオレはいまいち裕子を好きにならないのか。いや、少なくても嫌いではない。好きじゃないだけだ。この段ボールのように。

「冷蔵庫の中に何もないじゃない。これじゃ何もつくれないよ。角のスーパーで買ってくるね。啓介、何食べたい? 何つくってあげようか?」

「何でもいいよ」

 差出人を確認する。アメリカからだ。

『from Tanakasaori』とある。

 オレは英語が苦手だった。裕子ならわかるかもしれない。もう行ってしまったか。

 読む。

 さっぱりわからない。

 オレはタナカサオリを知らない。田中 沙織か、棚 傘織か。さらにオレの住所は上連雀。カミレンジャクと読む。だがジョウレンジャク。そう記されている。オレの知り合いではない。

 爆弾か。

 そんなわけない。

 段ボールを蹴飛ばすと鈍い音と乾いた音を入り交じらせてテーブルにぶつかった。ボールとあるだけに意外と遠くに飛ぶらしい。見かけほど重くもない。爆発もしない。

 死肌色に巻きついたガムテープは------これもまた不快な色で瘡蓋色だ-------容易に外せなかった。もちろん、爆風を避けるために、段ボールからできるだけ体を遠ざけているせいもある。鋏を使う。刃を入れたときには、さすがに冷や汗が流れたが、爆発しないようだ。

 少し照れて、もう一回段ボール蹴飛ばした。

「ただいま。待ってて。今すぐつくるから」

 段ボールからは毒毒しい大型プラスチック容器に入ったピーナッツバター四つと裏煤けたインスタントラーメン一セットと埃塗れのインスタントパスタ一セットが出てきた。

 夢をみているようだった。

 人間は不思議に直面すると怒りを覚える。こんなものを送り付けてくるタナカサオリがムカつくし、ピーナッツバターがベトベトと粘着してくる。ジーンズに擦ってもベトベトは落ちない。さらにMaruchan。ローマ字表記のメーカー名が癪に障った。何となく、むぁるちゅあん。そう呼ぶよう強要されているようでムカつく。むぁるちゅあんと呟いた自分にムカつく。

「冷蔵庫にある食べ物使っちゃってもいい? どうせ啓介腐らせちゃうでしょ」

「ああ、好きにしなよ」

 訳がわからなかった。こんなものを他人に送る奴の気が知れない。

 やっぱりテロだ。

「ちょっと訊きたいことがあるんだけど……何これ? ロスアンゼルスからじゃない。誰からなの?」

 裕子はミニキッチンから顔を出すと、段ボールを覗きこんだ。

「タナカサオリからだ」

「友だちなの?」

「知らない奴だな。向こうはオレを知り合いだと思ってるから送ったんだろうけど」

「変な物送ってくる子ね」

 ロスアンゼルスか。そういえば仁美が留学中だった。メールで訊いてみるか。

「はい、お待ちどうさま」

 裕子がミニキッチンでこしらえていたものはオムライスだった。巨大なギョウザみたいだった。寝技をやられすぎた柔道選手の耳のような形状に、申し訳程度のキャベツがそえられていた。かわいらしさに頬が引き攣る。

「どう? おいしい?」

「うん? まあね」

 普通だった。食えないことはないとすると失礼だがまずくはない。文句のつけ場所はないが褒め場所もなかった。

 裕子は盗人を見張る女主人のようにオレを眺めている。マコトにぼんやりと見つめられるのも気持ち悪いが、裕子の視線を浴びつづけるのも尻の穴がこそばゆい。

「大変だったんだよ。啓介の冷蔵庫ってカルピスとキノコしかないじゃない。まだお米と炊飯器があったから助かったけど。でも大変だったわ」

 キノコ?

 オレはケチャップにまみれたキノコをほじくり出した。そういえばこのキノコ、オムライスに入れるようなマッシュルーム的なキノコじゃない。もっと魔法的だ。忘れるはずがない。

「冷蔵庫のキノコ、使ったの?」

「ダメだった?」

 言葉につまった。五千円のシロシベクベンシスがたった二人前のオムライスになったのだ。三グラムでLSD並の幻覚が見えるのに一人当たり四.五グラムの割当て。大丈夫だろうか。なんて言えるか。

「オレは気にしてないよ」

 嘘はいってない。裕子をパニックに陥らせて、バッドトリップにさせるわけにはいかない。泣き喚かれて架空の地獄とリアルの地獄に直行するのはゴメンだ。それよりも「実はこんな素敵なことが隠されていたのです」と後で報告したほうがいい。

 そうと決まれば早い。ツアーコンダクターとなったオレは細心の注意をもって裕子に接する必要がある。もてなすことが仕事だ。オレだけが悪い夢を見るかもしれないが、裕子に心を配って己の心もなだめ旅行を満喫する、そんな魔法みたいな芸当ができるはずない。

「いいよ。私がやるから」と腰を上げかけた裕子を制して後片づけをする。キッチンは整理されていたから片づけはすぐに終わった。オレはBGMのCDをイギー・ポップから癒し系CDの『IMAGE』に変えた。気抜けするような音楽でむしゃくしゃするがオレはツアコンだ。お客様に快適な旅を提供する。提供しなければならないのだ。

 裕子と一緒にベッドに腰をかけると静かに時間を待った。

 何も起きない。ステレオからは「お前のどうしようもない心を癒してやるよ」と卑しい音楽が響いている。

 裕子はオレの肩に頭を委ねてきた。

 CDをイギーに戻す。

「どうしたの? さっきから落ち着かないじゃない」

 本当に気が利かない女だ。どうしようもない心を癒してやっているのがわからないらしい。旅の優劣は客の協力も必要なのだ。

「あのキノコ、マジックマッシュルームなんだ」

 我慢できなかった。だからお客様、離陸の時は座席ベルトをしっかり締めないと首の骨がぽっきりと折れて血達磨首風船が破裂して座席は血の海。とばっちりに私の服にも血潮が飛んだって機上には生憎着替えはありません。着陸後すぐに着替え&まっすぐクリーニングへゴーになるので私に迷惑がかかるのですよ。

「そうなんだ」

 裕子は平然としていた。

「食べても大丈夫なんでしょ?」

「ま、まあ、そうだけど」

「私のこと心配してくれてんだ」

 裕子はふふっと笑ってオレの右腕に胸を押し付けてきた。オレは蟷螂の雄だ。いつか食われる。

 蟷螂の雄の気持ちになっていると天井の蛍光灯から光の帯が舞い降りてきてゆらゆらと蜘蛛の糸のようになびいた。糸は風もないのにしぼんだり開いたりしていて教育番組で見たクラゲの足みたいだった。白壁はモザイクだった。びっしりと六角形上のパネルを精密に組み合わせて、そのパネルが親亀子亀孫亀みたいに盛り上がったりへっこんだりした。テレビの右半分が左半分より小さくなってメガホンのようになっているのにテレビの上のガンダムフィギアは倒れない。部屋が鼓動している。

 裕子は「効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。・・・・・・」と呟いている。オレが裕子の腕を振りほどくと「効いてきた。効いてきた。効いてきた」女はベッドに埋められる。

 小便がしたくなって腰を上げた。腰が立たなかった。酔拳のジャッキー・チェンよりもふらふらしていた。よろめきながらトイレに向かうとトイレまでも鼓動していた。ファニーな壁紙が遠くに行って戻ってきた。はるか遠くにタンクが見えた。トムとジェリーみたいに壁紙が走り回る。洋式便器の開いた便座が女性器みたいにぱくぱくする。女性器が開いた瞬間を狙って小便すると女性器は二つに別れくっついたり離れたりする。小便もディズニーのイリュージョンのように拡散したり集中したりする。

 時計は十時を指している。ダウンタウンDXの時間だ。確かオレは見ようと思っていたんだ。CDラックをガチャガチャ揺らしCDを探す。あれ? CDを手に取る。あれ? 時計は十時一分。ダウンタウンDXを見る。オレはストーンズの『メインストリートのならず者』を選ぶ。あれ? CDラックはガチャガチャ鳴る。オレはCDを手に取った。あれ? 時計は十時二分。十時ってこんなに暗かったか。十時ってもっと明るくないか。十時って明るいよな? あれ? ダウンタウンDXだ。あれ? 見るってなんだっけ? そうだ。ストーンズだ。オレはCDを片手にラックを探した。十時。十時は夜だ。暗い。じゃあ明るい十時とは何だ? 十時? 十時とは何だ。ずれた眼鏡を掛け直そうとすると眼鏡は顔にめり込んだ。あれ? オレはCDを取り換えた。右手には眼鏡。掛け直す。眼鏡はめりこんで脳髄に溶けこむとどっかに消えた。オレは夢を見ているのか。心の誰かが叫んだ。十時六分。暗い。ダウンタウンDX。なぜ彼らを見なきゃいけないのだ。右手には眼鏡。眼鏡を掛け直す。眼鏡はめり込んで消えた。オレは夢を見ているのか。誰かが叫ぶ。右手がねじれた。千歳飴だ。指がしゅるしゅる腕の中に埋没していく。しゅるしゅると腕に入っていく。右手は消えた。右手はある。左足がない。右手がねじれた。千歳飴だ。しゅるしゅる。指が腕の中に埋没していく。十時ってなんだ。なぜ奴らは喋るんだ。オレの口の左端が歪んでいく。口がめくれたかと思うと顎になる。顎になったオレの口は頭になる。オレは夢を見ているのか。十時八分。

 小便だ。右足はない。左手と頭は復活。めくれて消える。トイレは鼓動している。壁紙もトム&ジェリーだ。便座もぱくぱく。オレのズボンから勝手に性器が染み出てくる。南無観音菩薩。お帰りなさいませ。オレの性器はトムとジェリーとと一緒にズボンから生えたり消えたり二つになったりくねくねしていたりする。オレは夢を見ているのか。生えた二つの性器から放尿する。じんわりと温かいものが左脚を伝った。オレは夢を見ている。

 あれ? 携帯が鳴っている。携帯を眺めていると左手に眼鏡がある。めり込むと鬱陶しいから捨てる。左脚がひやひやしている。オレは夢を見ている。ベッドに上ろうとすると落ちる。カーテンに手をかけカーテンが落ちる。外は十時なのに真っ暗だ。オレは夢を見ている。ベッドの端に何かある。オレは邪魔しないように小さくなる。冷たい。十時十三分、携帯が鳴る。時間? 時間は何を示す? まだ十時なのに。左脚が冷たい。オレは夢を見ているのだ。携帯を投げた。

 左脚が冷たい。布団をかぶった。布団をかぶっても左脚は暖まらない。オレは夢を見ているのだ。左脚を暖めようと布団をいくらかぶり直しても冷たいままだ。シーツが蠢いて冷たい。時計は十時十八分。十時なのに周りが暗い。左脚が冷たい訳がわかった。オレが認識しているからだ。世界はオレの認識によって成り立つ。世界はオレの認識の積み重ねだ。敷布団が二次元になり三次元になった。ね? やっぱりオレの認識によって世界は変わる。ベッドのスチールパイプが途中から透けている。壁がモザイク。世界はオレの認識だ。敷布団が四次元になった。外は暗いままだ。怖い。頭と脚の位置を変えた。外は暗いままだ。オレは怖い。敷布団が二次元に戻ってシーツの模様が抽象化された。壁のモザイクも六角形の角が取れて滑らかになった。オレは怖い。オレが世界だ。すべてがオレの認識の積み重ねだ。親父もお袋も仁美もダウンタウンも十時もオレの認識だ。親父? 認識だ。オレが創った。オレの認識により存在する。オレは独りだ。オレしか存在しえない。三次元になった。オレは叫んだ。オレはアパートを飛びだした、オレは独りだ。世界はオレしかいない。オレの認識が作り出した。オレは部屋に戻った。蜜蜂の巣のような部屋。すべての建物の壁床天井が透けている。オレの認識によって世界が生まれ消えていく。オレは窓を叩いた。世界は変わらない。オレは叫んだ。壁を叩いた。壁を噛みモザイクを噛みちぎった。ベッドを揺さぶった。オレが考え続けるかぎり世界は存在する。怖い。考えが続けなければ。考えないと。オレの認識に呼応してシーツは抽象具象を繰り返す。その都度オレの思考は振り出しに戻る。オレは休めない。永遠に抽象具象の世界を考える。すべてはまた振り出しに戻る。オレは消えたい。考え続けたくない。消えても思考は生まれる。オレは独りだ。曖昧の中に作り揺らぐ。十分オレは無限の反覆を続けてきた。もうこれ以上の永遠は続けたくない。オレは頭の位置と脚の位置を変えた。シーツは二次元から一次元になった。永遠だ。永遠と繰り返される。足が冷たい。世界にはオレしかいない。そして孤独な反復を繰り返す。消えたい。親父もお袋も仁美もダウンタウンも繰り返しだ。死にたい。頭を殴った。消えなかった。首を切ろうとした。切れない。世界は終わらない。オレは独りのまま考え続けなければならない。独りだ。独りで永遠に考えなければならない。

 シーツが再び抽象化されて四次元になったとき、オレは絶叫した。






























   #3




 六時。

 六時? 

 六時って何だっけ。

 外が明るい。考えたくない。考えるたびに世界は創造されて破壊されていく。オレは独りなのだ。創造したくない。考えたくない。いや、考えなきゃ。考えないと。認識しないと。世界を認識せねば。

 オレは蛍光灯を付け直した。

 骨抜きされた世界はかたかたとハードディスクが回転するように再構築される。オレは夢を見ていたのだ。マジックマッシュルームで飛んでいたのだ。

 すさまじい夢だった。気が狂うところだった。バッド・トリップなんて洒落にならない。けれどもオレは渾沌から秩序の世界の創世に成功した。夢から帰ったのだ。しかしまだ頭が世界を認識しきっていない。

 構築せねば、統一的な意識で構築せねば。

 どれくらい経ったのだろうか? 今は六時。八時間近くだ。心臓の鼓動が速く脳内からは様々な意識が沸き起こるが心地よかった。

「あれ?」

 再構築された部屋はいまだ混沌としていた。引きちぎられたカーテンからほのかな朝日が差している。絨毯には掻き毟ったようなベッドの擦れ跡があった。吸い殻入れの空き缶は倒れどす黒い液体を絨毯にしみ込ませていた。部屋の隅に落ちていた眼鏡は指紋でベトベトだ。胸が悪くなる。壁には弧を描いた傷跡があって壁紙が毟り取られていた。トイレの床には小便が滴っていた。

 どうしようもない現実と堪えられない不安。夢ではなかったのだ。オレは世界を破壊していた。錯乱は夢と現実の狭間で揺すられていた。

 動悸が激しくなる。オレは何をしたのか? オレは何をしていたのか? どこまでが夢だったのか? どこからが夢なのか?

 胃の辺りが落ち着かない。とにかくシロップを飲みたい。まだあるはずだ。

 キッチンの収納からシロップが消えていた。正確には十一本の咳止めシロップ。なぜない? シロップが消えた。シロップ! 世界が世界を構築しなければならないのだ。

 裕子だ。

 世界にはまだ裕子は存在していなかった。裕子を再び構築し、ベッドに寝ている裕子を揺さぶり起こした。

「・・・・・・すごいきれいで楽しかった」

「シロップは? 咳止めシロップはどこにある?」

「すっごい楽しかった・・・・・・」

 オレは舌打った。冗談じゃない。咽が渇く。胃が、腸が収縮する。旅の土産話なんて聞くだけで鬱陶しい。早くシロップだ。シロップを出せ。オレに返せ。

「台所のシロップはどこに置いた」

「あの咳止め薬? あれ、捨てちゃった。だってダメだよ。あんなの飲んでちゃ身体に悪いよ。私、啓介の身体が心配だからなの。ね? だから私・・・・・・」

 血管が膨張してヘモグロビンが解放大回転する音が頭蓋内にこだまする。食いしばった歯が軋み、瞳孔が開いていくのが自分にもわかる。

「出てけ」

「えっ?」

「こっから出てけ!」

「だって啓介のこと考えて・・・・・・」

「いいから消えろ!」

 ベッドから裕子を引きずり落とした。裕子は悲鳴を上げた。オレは襟元を掴むと外へと放った。

 裕子は哀れんだ目で見上げていた。

「わからないの? 私はあなたが好きなの。好きな人が自分の体を傷つけるのを・・・・・・」

 一方的な愛の押し売りならゴメンだ。そんなの渋谷でも新宿でもどこでもある。祈ってくれる。幸せのためにいくらでも押し売ってくれる。愛の自給自足ができないならそこで慰めてもらえばいい。

「じゃあな」

 オレは裕子の荷物を裕子に投げるとドアを閉めた。何度もチャイムが鳴った。

 全身がだるかった。神が一週間で、宇宙が一五〇億年かけて行った作業をオレは六時間で成し遂げたのだ。

 持ち金は千円をきっていた。これではシロップ一つも買えやしない。汗がにじんでくる。いや、最初からにじんでいたのか。違和感に溢れていた。自分の汗じゃないようだ。どうして寒いのに汗が出てくるのだ。

 携帯を探す。記憶が正しければ携帯はテレビの裏にある。壁に放った映像が脳髄に残っている。

 あった。

 オレはマコトを呼んだ。




「大丈夫? 啓介」

 ああ、オレは頭を振った。マコトは電話一本ですっ飛んできてくれた。朝七時というのに来てくれたのだ。

「でも、まだ薬局やってないよね。大丈夫? 後二時間くらいあるよ」

「だけどやばいんだ。身体がやばそうなんだよ」

「わかるよ。それにさあ、俺も今日辺り啓介ん家行こうと思ってたんだ。わかるでしょ? 朝子ん家にはエーテル置けないじゃない」

 マコトはジャケットから茶色の瓶を取り出すとオレの目の前でたぷたぷと揺らして見せた。蓋が取られた瓶は異臭を放っていた。

 身体の軋みで気付かなかったが、マコトはシンナー臭い。

「よかったらやってもいいよ。・・・・・・ホントはあんまりあげたくないんだけどさ。前に手伝ってもらったでしょ? だからね。そのお礼」

 マコトはそう言うとポケットから取り出したハンカチにシンナーを染みこませてオレの前に差し出した。グレーのハンカチに真っ黒に染みて、エーテルは笑みを浮かべる。

 オレは唾を飲みこんだ。

「いや、いいや」

 エーテルは空気中に満ちている。オレは希うのはたっぷりの塩酸エフェドリン、コデイン。有機溶剤とは違う。

「じゃ、店、開いたら一緒に借りに行こう」

 マコトはハンカチを鼻に当て思いきり吸うと「う」と鼻声で唸った。部屋はシンナー臭で充満していた。どいつもこいつもアホばかりで世界は歪んでいる。オレはそっぽを向かれている。

「裕子ちゃんはどうしたの?」

 それから二時間マコトの質問攻めとシンナー臭と戯れ事が続いた。激しい下痢までもよおした。だるいのに下痢が出てくる。体力はどんどんすり減らされていく。

 九時になったとき、オレは「借りてくる」と言い張るマコトをなだめクレジットカードを渡しその暗証番号を教えて買いに行かせた。

  トイレに行くたびに負のヴァイブレーションを感じた。理由は三つだ。一つはマジックマッシュルームによる渾沌の残滓。もう一つはマコトが朝子の目を逃れるためにトイレに隠していったシンナーの小瓶。最後はシロップを買いに行くマコトを待ちながら、携帯で何度もマコトに、ちゃんと買うんだぞ、ぱくるなよ、と叫んでいたときに気付いた携帯の留守録。

 仁美からであった。

 仁美。我儘傲慢自己愛追及快楽八方美人な女で、訳のわからん言動行動で人を振り回し、オレの精神肉体全部をぐたぐたにしてもケロリとしている悪魔のような女だ。そしてオレの友達で数少なき理解者だ。

 伝言内容は次のようだった。死肌色の段ボールは仁美の友達の所有物(当然、中身も)であること。オレがそれを一時的に預かり、いずれ仁美の友達の友達が取りに来るということ。そして仁美の友達の友達の友達に彼女の友達の友達が渡すということ。

「なんでそんなことなきゃいけねえんだ! 冗談じゃねえ」

 仁美は太平洋の先にいる。

 下痢と焦燥に満ちたトイレでオレは留守電を繰り返し聴きつづけた。マコトを待つ間、小便で床が濡れたトイレの中でオレはジュリエットの気持ちを完全に理解した。




 咳止めシロップの一本の金額、およそ千二百円。日に一本、滅入ったときは二本は飲むから、三日で三本と考えて月計算は四十五本近くとなる。千二百円×四十五本=五万四千円で、オレの仕送りの余費、食費&遊興費八万五千円から比べると自給自足で賄えそうではあるが、仕送り末期はそんなわけにはいかないので、仕入れと称しマコトとかっぱらいにいかなければならない。ホントの中毒者は月に十万〜二十万円をシロップ瓶に捧げているらしいから、オレは中毒者ではない。

 薬の原価などたかがしれていているし、人生持ちつ持たれつというわけで仕入れに関しては別に気にならない。だがカード借金地獄だけ避けたかった。肉体的に蝕まれるのは構わないが、金という抽象概念のせいで平穏を破壊されたくない。オレもマコトも実に平和で優しい小市民なのだ。

 オレとマコトは基本的に同じなのだと思う。だが明確な違いはある。マコトは繊細すぎる。そしてマコトはシンナーに手を出した。

「だってさあ、ハイミナールは高いでしょ? でも結果を考えるとさ、エーテルだって一緒でしょ? 安いんだよ。わかる? 一消費者としては安いほうを選ぶほうが当然だよね?」

 確かに溶けかかっている脳みそにしてはマコトの計算は当たっている。だが悪名高いシンナーなんて最悪だ。




 三日後の深夜、携帯が鳴り轟いた。

 ひっきりなしに裕子から電話がかかってきていた。オレのどこがいいのか知らないが、執念深くやり直しをせがんできた。裕子は間違っている。やり直しどころか何も始まってもいない。

 裕子は泣いたり喚いたり、半狂乱になっていた。無視すると、非通知電話や公衆電話からかけてくるようになった。だから今度の電話も裕子からだと思った。

 違った。野太いくせに舌足らずな喋り方をする男からだった。

「仁美の友達だけど」

「はあ」

「今から荷物取りに行きます」

「今ってもう十一時ですよ」

「今町田にいるんだけどそっちはどこですか?」

「三鷹ですけど」

「車なんだけど、どう行けばいい?」

「地図かなんか、持ってますか?」

「持ってない」

「ええ〜とですね。ちょっと待ってください」

 オレは地図を探した。

「もういいです」

「はあ?」

「わかんないなら、明日でいいです」

「はあ?」

「明日、午後空いてます?」

「はあ」

「じゃあ、明日の午後また連絡します」

 オレは咳止めシロップの封を開ける。相変わらず甘かった。確かに予定は空いているが、と考えるも続きは出てこない。

 十一時。ベッドで眠っていた。

「今から行きます・・・どう行けば良い?」

「・・・・・・じゃあ、三鷹駅まで来てください」

「わかった」

「あっ。どれくらいで来れます?」

「三十分から一時間」

「分かりました。着いたら電話ください」

 寝癖頭を掻き毟り眼鏡を装着し深呼吸してシロップを飲み干した。

 一時間経った。連絡はない。一時間半経った。連絡はない。二時間経った。連絡はない。

 二時間十五分後に連絡が入った。

「今武蔵境駅にいるんだけど三鷹駅わからないから、武蔵境駅まで持って来てくれる?」

 オレは三鷹駅までの順序を伝えると段ボールを持って家を出た。汗だくになりながら歩くこと二十分間。武蔵境駅につくと黒人の大男が待っていた。

「仁美の友達だけど」

「はあ、どうも」

「荷物、どうも」

「はあ、どうぞ」

「明日か明後日、もう一つ荷物届くんだけど・・・・・・」

「はあ?」

「何時取りに行けばいい?」

「ちょっと待ってください。オレにだって用事があるんですよ。だから、そんなこと急に言われても困りますよ」

「でも明日か明後日に届く」

「そんなの知らないんですよ」

「荷物が届くんで」

 そう言い残し黒人は去っていった。段ボールをムキムキ運ぶ黒人の巨躯を遠目に溜め息が洩れた。何やってんだ、 eq \* jc2 \* "Font:MS ゴシック" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(仁美),あの女)。空は青いが世界はドス黒い。




 今度の差出人は仁美本人だった。

 前とは違い卑猥な赤色サンタクロースの包装紙で包まれていた。暗澹とした気持ちをより暗澹とさせる、そんなサンタクロースだった。

 携帯を取り履歴をさぐる。

「もしもし、仁美の友人です」

「えっ?」

「荷物が届きました」

「えっ? ちょっと、待って」

「だから、荷物が届いたんですよ」

「今、あいついないんですけど」

「あいつってあの黒人の方ですか? だったら彼に伝えてください」

「えっ?」

「オレ、しばらく実家に帰るから荷物はオレの方で預るって。帰ったら、また連絡するって」

 サンタの顔が憎々しく歪んで見えた。好奇心が湧く。きれいに放送を外し、もともと汚いから心配する必要はなかったが、中を開けた。

 紅茶葉を入れた小箱が六つ入っていた。ビッグベンを背景に衛兵がきりきりと行進している。

 携帯がいきなり鳴った。

「はい!?」

 裕子だった。

「あの、私、裕子」

「だから、なんだよ」

「えっ? だからって?」

「オレが質問してんだ。オレに訊くなよな」

「啓介が元気かなって思って。今、大丈夫かな。話してもいい?」

「大丈夫じゃない。せっかくの気分が台無しだ。今すぐにシロップを飲みたいところだ」

「ごめんね。啓介のこと何も考えないで」

「それだけか? じゃあな」

「待って。ちょっと待って、啓介」

「何?」

「私達やり直せないかな。啓介ともう一度だけやり直したいんだ。反省してる。勝手に啓介のモノ捨てちゃったこととか・・・・・・」

「やり直す? 何をやり直す。私達? オレを一人称複数の中に入れんなよ」

「だから、私、啓介とやり直したいの。咳止め薬が欲しいなら私が買う。私が捨てちゃった分も返すから。お願い。もう一度だけチャンスが欲しいの」

 心が揺れた。裕子がシロップを用意してくれる。それが本心か否かは別として、仕入れをする必要はなくなるかもしれない。

「お願い。何でもするから。私、啓介と一緒にいたいの」

「オレはいたくない」

 電話を切った。

 オレは依存する側であってされる側じゃない。オレ独りで完結する。オレ独りですべての恩恵も咎も受け入れる。他人が入る隙は作りたくない。バランスが崩れる。

 わざと舌打ちをしてみた。意識的にしたそれは軽く聞こえ、今一自分の感情に乗っていなく思えた。シロップに手を伸ばす。咽がひりついた。いつまでこうしているのか。いつまでこれに頼るのか。

「大ニュースだよ」

 背後の声にオレは慌てた。マコトが頬を緩ませて玄関に立っていた。

「またかよ!」

「どうしたの?」

「いや、いろいろあってな」

 へへ、とマコトは薄笑いを浮かべて中に入ってきた。有機臭が鼻を擽った。

「これ何?」

 マコトはベッドに腰を下ろすと部屋に転がる紅茶葉箱を指さした。

「アメリカ野郎が送ってきやがったんだよ。あれだ。仁美の友達の友達からだって。前にお前が来たときも変な段ボール箱あっただろ? 覚えてないか?」

 首をかしげるマコトはおそらく覚えていない。マコトにとっては今のこの現実は悪夢でしかない。

 仁美の友達の友達について説明する。マコトは本当に聞いているのか紅茶葉箱を撫で回していた。

「おい、聞いてんのかよ」

「聞いてるよ。なんかさ。怪しいね」

 マコトがぼそりと呟いた。

「ああ、怪しさ満点だ」

「売人かな」

「あ」

 そういうことか。目覚めていたのはマコトの方だった。マコトによれば「学生相手のちゃちな手口」だそうだ。

 そのステップを表すと、


 最初の荷物の場合


タナカサオリ(仁美の友達)

オレ

黒人(仁美の友達)

タナカサオリの友達


 二個目の荷物の場合


仁美(仮)

オレ

黒人

仁美の友達


 と、何人かクッションを置くことで売人自体をぼやかしている。もしオレに何かあっても、捜査は売人本人までは届かない。直通でないかぎりは足がつかない。

 オレは黒人の名前を知らなかった。仁美の友達の名前ももタナカサオリの友達の名前も。そして不可解な中身。ピーナッツバターもインスタントラーメンも紅茶葉もわざわざ日本に送る必要がない。五〇ドルも払って航空便で送らない。せめて船便だ。

 いつのまにかオレは密輸空輸間接輸送に加わっていたのだ。ミスコンなら「友達が勝手に応募したんです」と言っても失笑するだけですむが、オレの場合は洒落になっていない。運が悪ければ警察に厄介になる。

 自分の推測が確信を得たのか、マコトの目が輝きだしてにたあと顔を破顔させた。こいつ箱を開ける気だ。

「その箱開けるなよ」

 マコトは無視して箱を開ける。

 オレの手は空中でとまっていた。

 中からは小さな袋入りの茶色く乾燥した花のつぼみのようなものが出てきた。オレは何も言わなかった。大仰だった割にちんけだった。

「ところで大ニュースってなんだ」

 ガンジャを玩んでいたマコトは手をとめるとオレの目を見つめてきた。

「智哉、死んだんだ」

「智哉が?」

「まだ死んじゃいないよね。でも正確には死んだも一緒なんだ」

「どういうことだよ?」

「俺もね。よくわからないんだ。でもね、植物人間って知ってるでしょ。智哉、あれになっちゃったんだって」

「何で」

「ええと、詳しくは俺も知らないんだ。さっき、朝子から聞いたんだよ。詳しくはね、知らないんだ」

「本当か?」

「マジだと思う。後ね、もっと驚くんだろうな、啓介。絶対驚くよ。俺もね。智哉はああそうなんだ、ってしか思わなかったんだけどね。でも、もう一個のは『マジで!』って思っちゃった」

「何だよ?」

「奈緒子知ってるよね。奈緒子がさ、頭。精神の方がいいのかな? 頭だったら脳みそだからやっぱり精神だね。あのね、奈緒子の精神がおかしくなったんだってさ」

「はあ?」

「奈緒子が発狂したんだ」

 智哉が植物状態で奈緒子が発狂。

「そうか」とだけ呟くとオレは溜め息をついた。

 訳がわからないことが突拍子もなく出現すると、案外平常心で受け入れられるものらしい。

 オレもマコトも仁美も朝子も智哉も奈緒子もサイクリング部に所属していた。

 オレは部長だった。マコトは副部長だった。今から考えるとラリ中二人が執行部なんておかしな部だが、当時は結構上手くやっていた。シロップに頼ることなく、それなりにみんなと仲良くしていたしそれなりに楽しかった。

 部を辞めた理由は至極簡単だ。奈緒子を後輩で次期部長の智哉にとられたからだ。よくある話だ。

 もともと部には穴兄弟に棒姉妹が多い。一学年上の例を挙げると、♀敬子は♂山下と♂山浦と突き合って、山浦は♀絵里香と♀桜と、そして♀絵里香とアゲインをした。♂清隆は♀桜と。♀絵里香は♂山浦と♂二宮と♂健児と。兄弟姉妹が多いのはよくある話だ。

 オレを宥めるためにマコトはひとつの脚本を書いた。簡単な話だ。智哉が詫びる機会をセッティングしたのだ。

 丸く収まる。そう思った。智哉と仲良くする必要はない。形だけ取り繕っておけば円滑になる。

 しかし智哉のアドリブはオレの名演技を御釈迦にしてくれた。

「啓介、大人になったね」

 そのときオレは智哉を右フックをかまし左犬歯をクラッシュさせた。

 だから部を辞めた。それだけの話だ。




 こびりついた糞便が目を離れず一刻も早く出ていきたいが、そうもいかない。目と鼻を閉じるが、こういうときに限って鼻炎は発症しない。極限まで呼吸を止める。和製R&BをBGMで流れてくる。惨めになる。BGMに乗った汚物が耳を侵してくるようだ。肝心の小便もなかなか解放してくれず膀胱は萎縮している。

 マコトと燻っているところ、朝子がオレのアパートまでマコトを連れ戻しにきた。と、思っていたら違い、朝子はオレらに奈緒子の病状を報告にきたのだ。奈緒子とは会えなかったが、そこで他の部員から事情を手に入れてきた。オレは俄然智哉の面を拝みたくなった。

 便所から戻ると、食い差しのポテトやナゲットが散らばるテーブルの上でマコトが面白そうに紙巻き煙草を捲いていた。

「そろそろ行くぞ」

 智哉はまだ生きている。

 マックを出るとマコトは巻き煙草に火をつけた。

「そんなの吸うようになったのか」

 マコトは「へへへ」と笑って巻き煙草に火をつけた。至高の料理に舌鼓を打つかのごとく燻らせた。マコトの恍惚とした表情にオレは一服せがんだ。

 フィルターによる国境をニコチンとタールが素通りして密入国するかと用心していたが意外だった。その巻き煙草は優しかった。甘く、ふんわりと抱きしめてくれるようで、肉体的浮遊感と精神的富裕感が同時に訪れた。

「何これ?」

「ガンジャでしょ」

「ガンジャ?」

 マコトは、当然でしょ、当たり前じゃない、啓介。知ってたでしょ? 知っててわざと聞いてみたんだよね。と、暗黙のままオレに頷いてきた。くすねてやがったのだ。

 だがガンジャに揺られることしばらくなぜオレがマジックマッシュルームでバッドトリップになり裕子だけグッドトリップに浸ったのかを悟った。無自覚的な精神状態が適合するのだ。下手に力むと空回りして地獄に垂直落下する。現にオレは落ちた。

 オレはマコトとジェットコースターから観覧車に乗りかえて智哉を観覧しにいく。

 真白な病院に着くとヘラヘラ笑いながら智哉の病室に突撃した。すでに朝子から病室は聞いている。受付護婦を駆け抜けた。白衣の天使と白衣の大六天魔王に擦れ違い、売店で売店護婦からコーヒー牛乳を購入「うまい。こんなにうまかったか」と、感激にむせびながら幼年幼女少年青年青女中女老年を奔り逝くと「奔るな」と怒護婦に怒られてあはあは愛想笑う。

 個室だった。トントコトントン、トコトンノックして、逝かすリズムで開けゴマ。中の返事で開けるゴマとドアノブを握った。

 ベッドの智哉の傍らに智哉の母親が神妙そうに座っていた。マコトが名乗って、ついでに彼がオレを彼女に紹介した。マコトにしては上出来だ。

「わざわざありがとうございます」

 母親は目頭を抑えた。ソファーに勧められてありがたく座るが、話題は続かなかった。葬式なら故人の話題だろうが、半分死んでいるなら何の話題だ?

「あー」「うー」などと呟いていたら、察したのか母親は病室から出て行った。おかげで腹筋がつらずにすんだ。

 緊張感がまったくなかった。

 そんな原因なのだ。

 しかも植物状態に入ってもう四日目だ。悲しんでも悲しんでも涙は枯れる。涙が枯れれば悲しみ尽きる。悲しみが尽きれば緊張感すら失われる。

 すべてはラブホではじまった。二人は童貞処女だった。二人とも知識不足で悪戦苦闘したらしい。ああやって、こうやって、そうやって、どうやって、の順に試してみたけれど実践とは違い、セクスマニュアルの不備を呪っていたら、痛い痛い違う違うもっと下もっと舌まだまだダメダメ待って待っての奈緒子の情感命令。不器用ながらも大胆智哉、意地になって自棄っぱちんちんのカチカチ山、奈緒子に無理矢理突入それいけどんどんパンパカパンパン。奈緒子炸裂嫌嫌痛痛。「そこ違う!」とあまりの苦痛のサルカニ合戦。奈緒子のアナル爆発。搦め捕ったはいいがの智哉、溢れ出てくる血の色溶岩流。「ひょっとしてとれちゃった?」と勘違いの自失漢。プラス思春期にありがちの性に対する罪悪感か、意想外の大江戸捜査網、見事捕まり大岡裁き、と同時に起こった「ちょっとバカじゃないの! 早く抜いてよ!」という奈緒子の大きな罵声。これらが一緒になりまして智哉大混乱。喘息を起こし、呼吸を忘れて大足掻き。最初はさすがの純情元少女の羞恥の心、救急コールを躊躇うも、いよいよ危ないと思った奈緒子は救急車を呼ぶ。陸に上がった魚の如く、奈緒子の背後に悶え苦しむ智哉は、見る見る顔が青くなり、自分の顔首胸と奈緒子の背中尻を掻き毟る。肩越しにみた智哉は白目をひん剥いて舌をデレデレデレン、顔は真っ青。涙鼻水涎の大嵐。一刻も早く離れたし、されど、激痛が許さない智哉が三本足でござ早漏。自分も智哉も体は爪傷跡の湧き血流、尻からは溶岩流。いつまでも一緒にいれるといいわと囁いた、昨日の明日が懐かしく、今はひたすら離れろ消えろあっちいけ。まもなく参上するは救急隊員ラブホ従業員救急車付近弥次馬看護婦医者一族郎党お友達。奈緒子が待つは誹謗中傷肛門の傷。否、救急隊員。あれ、智君ってこんな顔してたっけって、それより智君死んじゃうって、これ私のせいになるのかなって、あーん、お尻が痛いようって、ここはどこだっけ?って、何してんのって、智君思ったより変な顔じゃなくないって、あ〜あ怒られちゃうなあって、私血達磨じゃんって達磨さん転んだ久しぶり、智君ってガリガリって、皆笑っちゃうんなだろうなって、傷だらけになっちゃったって、明日は天気いいのかなって、智君息してないって、汗が傷に染みるなあって、ああぁ、オシッコ漏らしちゃったのかしらって、汚れちゃったなあって、いやん、智君、大きいほうも出ているじゃないのって、勉強しなきゃなあって、そういえば明日お父さんの誕生日じゃんって時計は高いしなあ、と気が付いたかどうかは知らない。救急隊員が駆けつけたころには奈緒子は爪で自分の乳房を引き裂いていた。

 というわけで智哉はこのベッドの上で寝ているのだが、すべてを受け入れたのか、気の抜けた顔で管一杯の生命維持装置に命を預けていた。

 あいかわらず付け鼻のように嘘っぽい鼻だった。薄く白目を剥いた目。呼吸器から覗いた左犬歯は欠けたままだった。血色はいいから、やはり生きてはいるのだろう。

 マコトは椅子から身を乗り出すように智哉を眺めていた。オレはー他の見舞客からだろうーお見舞いの菓子を摘んでいた。『白いの恋人』白は甘くうまい。こんな状態でも菓子詰めを持ってくるとは結構なことだ。香典はいくらくらい包むのだろう? オレは呼ばれないか。他にも千羽鶴。「頑張れ智哉」「早く元気になってね」と書かれた寄せ書きの色紙があった。智哉にもう回復の見込みがない。

「馬鹿だよね、智哉」

「智哉か?」

「そう」

「馬鹿か?」

「そうでしょ」

「腹上死だもんな」

「うん」

「馬鹿だな」

「でも羨ましいなあ」

「そうか?」

「だって羨ましいでしょ。すごい幸せだと思うけどなあ。なんか阿部定の夫みたいじゃない。だって阿部定の夫って殺されるとき阿部定に微笑んだんでしょ。羨ましいよね」

「朝子にしてもらいたいのか」

「俺はいいや」

「オレもだ」

「でも、ちょっと羨ましいでしょ」

「まあな」

 くくくくく。マコトは笑い出した。

「不謹慎だぜ、マコト」

「そうかな? 智哉の方がよっぽど不謹慎だと思うけどさあ」

 堰が切れたようにマコトと二人で笑い転げた。塞き止められていた笑いが一気に射精されてスカッと爽快。ひいひいとむせる合間に智哉を叱る。

「不謹慎だぜ、お前。そこで謹慎しとけ」

 マコトは笑いながらオレを咎めた。

「不謹慎は禁止だよ。啓介」

「だって謹慎、キッシンジャー」

「あっ! その口、キッシングラミー」

 マコトが唇を突き出す中、ドアが開いて母親と女達が入ってきた。母親は彼女達を案内する向きだったので、オレとマコトの不謹慎に気が付かなかったらしい。しかし彼女達にはもろに不謹慎を見られた。二匹のキッシングラミー、不謹慎禁止、謹慎キッシンジャーだ。

「啓介さん。マコトさん。来てたんですか」

 彼女達は凍り付いていた。口元がぶるぶる震えていた

 オレは俯き右手をあげて答えた。マコトも横で俯いている。脇腹がひくひくと痙攣していた。泣き堪えているようにもみえる。マコトにしては上出来だ。

 女達はきっとオレらを睨むと、そのうち冷たくなってウエルダンにされて坪入れされる予定の智哉のベッドに近寄った。彼女達もサイクリング部のメンバーだ。

「あら、あなたが啓介さん?」

「はあ、そうですけど」

「沢村さんって紹介だったから判らなかったわ。あなたが啓介さんなの?」

「はあ、そうですけど」

「智哉ったら、いつもあなたのこと話してたのよ。ずいぶんと御世話になったそうで・・・・・・。前の部長さんだったんですってね」

「はあ、そうですけど」

「まあ・・・・・・」

 智哉母が簡単的感嘆詞を挙げた途端、女達の号泣が耳を劈いた。

 ぐぐふ、智哉さあ〜ん。はぐふずるずずずう、智哉すわ〜ん。びいきゅる、ともやっすん。ぐぐぐぐほ、ともすおーん。ずびるげぷぅ、ともやあっさん。ぐげずぽぴゅ、智哉さあ〜んぬ。ずるずずずう、ともやっさん、きゅる、智哉すわ〜ん。はぐふずるずず、智哉さあ〜ん。ずびい。ここまでくるとホラーだ。ともやあっさんってモオパッサンにちっと似ているな、と思った。

 智哉母は目元を押さえると涙一流が零れた。マコトは素知らぬ振りで寄せ書きの色紙に『成仏』と書き込んでいる。ダメだ。笑わずにはいられない。

「便所行ってくる」

 マコトに耳打ちすると『成仏』にハートマークを付け加えていた。

 壁側に豪快な鼻くそが捻りつけられたトイレでオレは出もしない尿をする。「モオパッサン」と呟いても小便すら出なかった。もう一発智哉を殴っておけばよかったな。生命維持装置のコンセントを抜いてみるか。しかし智哉の最期は馬鹿でしかない。「モーパッサン」と今度は自然に口にできた。

 尿意もほどほどに手を洗う。鏡を見ると智哉が立っていた。後ろにいた。

「啓介さん」

「あ」

 相変わらず智哉の鼻は付け鼻のようだった。

「まだ怒ってます?」

 もう一度手を洗う。水は冷たい。

「・・・・・・奈緒子のこと」

「何で?」

 オレは溜め息をついた。智哉は幻だ。

「・・・・・・だって」

 智哉は弱腰だった。これは幻覚だ。現実じゃない。オレの頭の中の愛すべき智哉の幻だ。ガンジャだ。オレはガンジャを吸って幻覚を見ている。だからこれは現実じゃない。智哉は殆ど死んでいる。だからここにいるはずはないのだ。オレは落ち着いていた。

「気にしてんのか?」

「・・・・・・ええ」

「ふーん」

「・・・・・・」

「遅いだろ? 今さらさ」

「・・・・・・はい」

「で、どうしたいの?」

「・・・・・・だから」

「だから?」

「怒ってますか?」

 智哉は意味を喪失している。が面白かった。

「・・・・・・智哉」

「はい」

「大人になったな」

「はい」




 目の前に並ぶ十二本の咳止めシロップを見て思った。これを呑まなきゃやめられるんじゃないかと。

 歯車が狂っていた。オレはすでに病んでいるのではないかと不安になった。摂取量が日増しに増えている。身体が気怠く、その一日の気怠さを振り切るために呑み、明日になれば同じことの繰り返す。

 シロップはオレの部屋の入り口に置いてあった。

 ぱんぱんに膨れ上がったビニール袋には咳止めシロップがぎっしりと詰まっていて、取っ手は今にも切れそうだった。中には裕子からの手紙があった。

 裕子の供給に頼るのは悪くなかった。裕子がどれだけ金をもっているかしらないが、仕送りと合わせれば仕入れはもうしなくてもすむかもしれない。

 狂った歯車を無理やり回したくなかった。力づくでも歯車は回転する。だけど歯は徐々に擦り減る。いつか、それがいつなのかは知ったことではないが、オレは動けなくなる。動けなくなるのは構わない。オレはそれを望んでいるのだ。

 だが本当にそうなのか。もういいんじゃないのか。

 裕子は『いつか』を速めるだろう。裕子に世話になる、厄介になるのはよくない。腐っていくのは結構だが、腐らされるのは御免だ。

 本当に構わないのか?

 ビニール袋を破り咳止めシロップを手にした。封を開けて飲み干した。何かが鳴った気がする。

 オレには何もわからない。




「荷物いつ取りにくればいい?」

「今オレ実家にいるんですよ。渡したくても渡せないんです。だから待ってくれませんか?」

「いつ帰ってくる?」

「ちょっといろいろ立て込んでて、いつ帰れるか今んところはっきりと言えない。だから帰ったら連絡します」

 連中の催促は続いていた。一日二回のときもあった。一度無視を決め込んでみたが、携帯はずっと鳴りつづけた。

 たまたまマコトがオレの部屋にいるときだった。キレた。

「いい加減にしろよ! お前らが何考えてんだよ! ふざけるんじゃねえよ! オレが直接仁美の友達に送ってやるよ! それでいいだろ!」

「悪いから取りに行きます」

「あんたが取りに来るのが一番悪いんだよ! 電話して来るのが迷惑なんだ。さっさと住所を教えなよ」

「いやあ、住所わからないんですけど」

「お前らが送るんだろうが!」

「場所は知ってるけど住所はわからない」

「調べろよ。知り合いなんだろ。わかったら連絡しろ。わかったな」

 荷物を持っているのはオレだ。主導権はオレが握る。オレは知っていた。最初から仁美の友達なんて存在しない。だが、オレはどうしたいんだ?

 マコトはそんなことなど興味がないらしい。紙巻き煙草を捲いていた。マコトはまたもガンジャをくすねたのだ。

「勝手にいじるな、マコト。お前のモノでもオレのモノでもないんだ」

 マコトは肩をすくめた。いけ好かない仕草だった。ガンジャだ。吸うのが待ち遠しくて堪らないのだろう。オレはラッキーストライクをくわえ火をつける。マコトも完成したらしくオレの火をねだる。

 光悦の表情をするマコトは菩薩のようだった。マイルドで性別を越えた顔だ。悔しい。オレも菩薩に加わった。

「仁美ちゃん、アメリカでも啓介に迷惑かけてくるんだね」

 流し目でマコトはオレを見た。ずいぶんと色っぽかった。オレは照れて苦笑する。

「みんな知らないところで起きているんだね。すごいよ。すごいでしょ」

 何がすごいのかよくわからなかった。だけど実感できた。なんかすごいのだ。すごく感じすごく思えるのだ。

「ねえ、知ってる? 授業で習ったよね。あの、なんだったけ。バプテズマのヨハネ?」

「ヨハネがどうした?」

 マコトにもうもう一服せがんだ。うっすらとベールに覆われたようだ。ピースフルだ。セクシーにピースフルだ。いつかきっとオレも仏様になれる。

「あれさあ、誰だっけ。首を切られちゃうんだよね。ええと、サロメだ。サロメが踊ったご褒美に首を切っちゃうんだよね」

「母親に唆されて獄につながれたヨハネの首をねだるんだろ」

「ね? 面白いよね。だってサロメが上手に踊れなかったらヨハネは死なないですんだんだでしょ。下手な踊りだったらヘロデもご褒美あげないもんね」

「瘤取りジイさんだな。下手な踊りではご褒美はもらえない」

「ヨハネは何も知らずに首を切られたんだよね。だって牢屋にいたんでしょ。すごいよね。お城でそんな踊りがあったなんて」

「まあ、首を切られるなら踊りを拝んで切られたいよな。バプテズマのヨハネにしてはいいとばっちりだ」

「啓介と同じだよ」

 靄が消し飛んだ。マコトは天使の顔でうくくくくくくくくくと笑っていた。

「何だって?」

 訊き返してもマコトはうくくくくくくくと天使のままだった。まるでソドムかゴモラでも眺めているようだった。

「笑うな、マコト」

「どうして?」

 マコトの顔が消えた。顔の部分がぼんやりとした影、そこに白目と歯だけ浮かんでいた。圧倒的な存在だった。悪魔だった。

 オレはひいいと悲鳴を上げてトイレに逃げ込み、全力でドアノブを引っぱる。どこからか、うくくくくくくと悪魔の笑い声が忍び込んできて、やっぱり近くに潜んでいる、部屋中に悪魔の気配が感じられた。悪魔が部屋に飛び交っているのだ。

 これも仁美のせいだ。仁美が持ち込んできたことだ。悪魔の言う通りだ。オレは何も知らない。オレは何もわからない。関係ないのだ。仁美が勝手に踊ったのだ。ただの巻き添えだ。本当に関係ないのだ。

 扉の向こうで悪魔がけたけたけたと笑っている。オレは笑ってない。踊っているのは仁美だ。オレじゃないのだ。海の遠くで仁美が踊っている。オレは関係ない。トイレに篭っているだけだ。海の上にちっぽけな船に乗っていただけだ。どんぶらざばんと波が荒れれば、嵐が来れば、遭難難破で溺れる身体、船の揺れるたびに気が遠くなる。神の気紛れか運命の皮肉か海は荒れ模様。大海原を翔び抜けて仁美は踊りを踊る。ヘロデのために踊りを踊って、オレが居ぬ間で一踊り。見事な踊りでクルクルリ。ヘロデの狂喜、艶容の褒美。サロメはヨハネの首が欲しいのです。艶美な踊りの褒美で御座いましょう。美麗に舞ってクルクルリ。乗ったは王妃の口車、オレは知らねえ存じてねえ。見事な踊りぞサロメ姫汝の望み聞き遂げよう。あれや嬉しやお父様早く妾はヨハネの首が欲しゅう御座居ます。良かろう持ってけクルクルリ。そんなにオレの首が欲しいのか。待ち切れなくてクルクルリ。牢に響いた獄卒の足音。今に届くぞ、オレの首。銀のお盆を忘れるな。唯々首狩り首狩るクルクルリ。引きずり出されて首狩れ首狩れクルクルリ。オレは首を差し出し候。踊れ踊れやLAサロメ。オレは下宿屋ヨハネ。いつでも首を差し出し候。クルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルリ。何時でも首を差し出し候。


   #4




「ごめんね。勝手に帰っちゃって。でも啓介トイレから出てこないんだもん」

 頭がきりきりする。まただ。

「ああ、いいよ。オレもバッドトリップ中だったしさ」

 三回目のバッドトリップだ。マコトが羨ましい。百発百中のグッドトリップ。いつもいい夢見ているのだから現実に戻りたくないのもよくわかる。だが、目の前でそれを賛美するのはやめてくれ。

「啓介ってバッドトリップしかしたことないんだ」

「・・・・・・グッドトリップもちょっとならある。最後にバッドになるだけだ」

「じゃ、ガンジャも?」

 マコトが窺うようにオレの部屋を見回していた。連中のガンジャを探しているのだろう。だが隠してある。

「ガンジャもだ」

「へえ、ガンジャって幻覚をみないはずなのになあ。エーテルでもバッドトリップになっちゃうのかな? ね、啓介。そうだよね。どう? やってみない」

 オレはかぶりを振った。

「ふうん。楽しいのに。すごい気持ちいんだよ。一回、やってみればいいのになあ。絶対イケるよ。すごいの見れるんだよ」

「どんな?」

「ええとね。どんなんだったけ? 忘れたのかな。前に思いついたんだけど。あっ、思い出した。エーテル関係ないや。LSDなんだけど。いいでしょ? 別に。いいよね」

 オレは先を促した。

「幻覚ってさ、ラリぱっぱでしょ。あれってすごいよね。でもさ、スーパーマリオ知ってる? 流行ったよね。俺、思うんだけどスーパーマリオって作った人、絶対アシッドやってたんだよ。だってさ、変でしょ。真っ青な空でキノコ採ったら大きくなるし、花を取ったら白くなるし、星を取ったら無敵だし。ね、ラリラリでしょ。そっか、あれ、もしかしたらリビドーゲームかも知れないな。敵はキノコに足が生えてるやつか、亀でしょ。土管から毒花がぱっくり口を開けてるし、やっぱ、リビドーだよね。そう思うでしょ。ってことは、クッパも亀の大親分でピーチ姫はお尻かなあ。そっか、だからマリオはイタリア人なんだ。だって変じゃない。ふつう子供がするゲームの主人公はかっこいい少年が定番だよね。どうしてイタリア人のおっさんなの。イタリア人は男性リビドーの象徴なんだよ。ってことは、淫乱アナル姫がイタリアフェロモンとバイブレーターの狭間に動く乙女心だね。ね? そう思わない。すごいよね。啓介。そう思うでしょ」

 まったくの戯れ事だった。マコトの見ている幻覚は一体なんだ。スーパーマリオのフロイト的解釈がマコトの幻覚なのか。それとも今がマコトの幻覚なのか。

 それからマコトが本題に入るまで一苦労だった。奈緒子は隔離病棟から一般病棟へ移ったそうだ。智哉は他人のために自らの臓器を提供し、供養されたそうだ。無論智哉の意志なんてすでに存在しない。

「かわいそうだよね、二人とも」

 言葉とは裏腹にガンジャを諦めたマコトはシンナーを吸いこませたハンカチをひくひくと嗅ぎはじめた。ときどき「うぃ」と奇声を上げている。

「勘弁してくれよマコト」

 オレの部屋はシンナー臭で一杯だった。煙草の火一つで引火しかねない。オレは窓を開けると玄関のドアを全開にする。冬の寒気と裕子がマコトの戯れ事を吹っ飛ばした。

 玄関には裕子がいた。手にビニール袋を抱えて。

 俯いたまま祐子は、上目遣いにじっとオレの目を見つめてきた。

「啓介、ゴメンね。どうしても言わなきゃいけないことがあって・・・・・・」

 ぼそぼそと話し始める裕子、その両手で抱えた一杯の咳止めシロップ、絡みつくような視線、全部が鬱陶しかった。オレは右手で彼女を追い払う。

「帰れよ。お前に用があってもオレにはない」

「待って。お願い。お願いだから話を聞いて」

「話を聞くお礼が袋一杯の咳止めシロップか。心遣いは素敵だが、そ関わってくるんじゃねえ。置いていくなら置いてけばいい。嫌なら、お前が中毒になりゃいいさ」

「啓介、聞いて」

「帰ったほうがいいんじゃないか」

「聞いて、私、来ないの」

「来てんじゃないか」

「子供、出来ちゃったかもしれないの」

 オレは玄関に鍵をかけた。部屋はエーテルにたちまち占領される。部屋にはシンナー中毒とコデイン中毒の二人、外にはセックス中毒の女一人と子供一人。なんてにぎやかなんだ。

 あまりに早い創造だ。まだ三ヶ月も経っていない。出来るはずがない。情けないくらい間抜けな嘘だ。

「裕子ちゃん、どうしたの?」

「知らねえよ」

 フラフラになったマコトが立っていた。まだ酩酊するまでには達していないようで呂律はしっかりしている。

 オレ達は黙って外にたたずむ裕子の見えない影を眺めていた。ドア一枚隔てた向こうからは蜘蛛の糸のようにオレを捕ろうとする、情念がひしひしと圧迫してきた。泣き声さえ聞こえないだけ、一層とその存在が感じられた。

「オレの子供ができたんだと」

「啓介の子供かあ。面白いじゃない。面白いよね」

「冗談じゃない。そんなん簡単にできてたまるかよ。世間にどれだけ不妊で悩んでいる夫婦がいると思ってんだ」

「でもさあ、もしかしたらってあるよねえ。どうするの? 啓介。産んでもらうの? 責任とるの? 結婚するの? 学校辞めるの?」

「さあな」

「それとも堕ろしちゃう?」

 ドア一枚隔てたの祐子にこの話は届いているのだろうか? なんとなくそんなことが気にかかった。そんなことなどどうでもいいはずなのに。

「だから必死に頭回転させて。考えてんじゃないか。もしも、ってのはあるかもしれない。オレが裕子だったらさっさと終わらせる。でもオレは裕子じゃない。オレには関係ない。どうするって訊かれてもなにもない。向こうからの一方的な要求だ」

「じゃ、何がして欲しいの?」

 して欲しいこと?

 して欲しくないことは一杯ある。いくらでも答えられる。だがして欲しいこと? オレは一体何を望んでいるのだ。

「あああ、わかった。わかったよ」

 マコトは焦れたのか大声をあげた。

「わかったよ。啓介のして欲しいこと」

「・・・・・・何が?」

「殺して欲しいんでしょ?」

 マコトの言葉に息を飲んだ。マコトは壁にもたれながら、がっかりしたように呟いた。

「なんだ。違うのか」

 捨て犬の顔だった。濁りきったマコトの瞳はすべてを見透かしているようだった。オレは死にたくなかった。だけど生きたくもない。だから殺されたい、自分で終わらすのではなくて、終わって欲しい。だけど死にたくなかった。一方で瞬間的な怒りがオレの中で沸き上がった。羞恥心とも憎悪ともとれる、ささやかで馬鹿げた感情だった。

 だが相手はマコトだ。かっぱらい程度のちょっぴりな悪事で世間を困らしてはいるが、ただ死体になりたいという願望しか持ち合わせていない男なのだ。

 オレは軽くため息をつくと謝るようにマコトに言った。

「なあ、マコト、オレら、酒が飲めたらどんだけ楽だったんだろう。酒だったらどこにだって溢れている。かっぱらいや引ったくりもしなくてすむし、好きなだけ酔えたら一日もすぐ終わるし、楽しくやっていられる。本当に酒が飲めたら良かったのにな」

 マコトはオレの目をじっと見つめている。またオレを見透かしている。オレの本心をほじくり出そうとしている。オレは目を逸らした。読まれることに堪えられなかった。

「なあ、そう思わないか?」

「啓介は後悔しているでしょ」

「何を」

「いろんなこと。全部だよ、全部。今までのこと」

 何も言い返せなかった。マコトの言う通りだった。付け加えることなんかなかった。正確な答えが提示されても何か言わなければならないのに口が動かなかった。

「俺裕子ちゃんを送ってくるね」

 オレは微かに頷いた。

 マコトはオレに一言の言葉を残した。とても優しくて残酷な一言だ。

「啓介は今でも仁美ちゃんが好きなんだよね。好きだから今みたいになっちゃったんだよね。本当は智哉のことも学校のことも咳止めシロップも関係ないんだよね」

 涙がとめどなく流れ出た。オレはマコトに殺されるべきだった。オレはマコトを裏切った。マコトはオレの情けない上辺だけのスタイルを全部見抜いていた。その暴露こそがオレにとって大きな恐怖であり、そのために全てを隠し、自分さえも欺むいてきた。でも、マコトはわかっていた。些細でたわいもないことを取り繕うために、全てを誤魔化してきたことを。

 オレはマコトを見捨てた。マコトに行くなと言えばオレの部屋に留まったに違いない。しかしオレはマコトに見放されたのだ。見捨てることがオレにとって可能で最高の弁解だった。

 部屋のエーテルの残り香はだんだん薄くなっていた。マコトはオレを見限った。




「どうしてあんたはそうやってのうのうとしてられんのよ!」

 朝子に睨まれると、どうもマコトみたいにおどおどとした態度になる。この女は人格改造光線を放射している。きっと自覚してそう振る舞っているのだろう。よくもマコトはこの女と二人きりでいられたものだ。

「どうしてマコトが捕まって、あんたは何にもないわけ? 全部、あんたがマコトにさせたんでしょ? マコトが薬をやるようになったのはあんたのせいでしょうが」

 彼女の剣幕をかわすように、オレはおどけて両手をひらひらさせた。誤魔化すことがオレの精いっぱいの抵抗だ。

「お前の言う通りだよ。でもオレはシンナーの瓶を持ってふらつくなんて真似はしないぜ。きっかけはオレだよ。だけどオレのせいにするなよな。お前があいつを追い込んだから薬に手を出したんだろうが。お前がそうやって追い込むから、オレん家まで来てラリってんじゃねえのかよ」

「ふうん、あんた、また逃げるの? いっつもそうじゃない。サイクリング部のときだって。裕子もそうよ。マコトだって。何がラリる原因よ。友達が捕まったのよ。彼女が妊娠したかもしれないのよ。あんたこそ人に無責任なんて言える柄かしら?」

「マコトは実家隔離で裕子は妊娠疑惑だ。しっかりと現実を認識しろよな」

「あんたこそ、咳止めシロップなんて頼らないで素面で現実認識したら。裕子に貢がせてるんだって?」

 オレは意図的に激しい舌打ちをするとソファーに踏んぞりかえった。朝子は目元を歪ませて鼻をひくつかせる。

 マコトが警察に捕まって、実家の金沢で保護者預かりの身分となった。どうやら祐子を送った後、通りすがりのお巡りさんから不審人物云々となったようだ。激怒のあまりマコトの家族は朝子すらも連絡を取り次がないらしい。社会復帰に向けて家族総出のリハビリテーションとのことだ。

 マコトがガンジャを持っていなかったことが最低の中の救いだった。おかげでオレはガストで朝子と素晴らしい会食を饗している。

「マコトは確かにオレにつきあってジャンキーになったよ。オレがシロップ呑むのを見ていて、気がついたらあいつもやっていた。あいつは安定剤だったけどな。シロップは今一なんだってさ。バロウズ先生の受け売りだとさ。で、金がなくなってシンナーになった。そんだけだ。オレは阿呆たれと思ったよ。コデインよりもよっぽどそっちが最低だからな」

 朝子の鼻がぴくぴくと痙攣する。口元が激しく歪んだ。オレはひるんだ。失禁しそうになった。だが、朝子のペースにする訳にはいかない。オレは話を続ける。

「無意味な責任のなすり合いは性に合わないから言いたくなかったが、言わせてもらう。オレは一度もマコトを誘ったことはない。一度もだ。オレが誘ったことがあるのは、晩飯と退部のときだけだ。後はあいつが勝手に判断しやったことだ」

「あんた馬鹿じゃないの?」

 鬱陶しそうに目頭を揉みながら朝子は吐き捨てた。オレは愕然とした。無駄だった。シンナーに走るほどの死体願望はまだ理解できる。だがこの女と一緒にいたマコトの気が知れない。朝子と意志疎通は不可能だ。マコトほど繊細で気の小さな男が朝子と対決するにはどれほどのドーピングが必要としたのだろう。

 朝子はオレを遮断していた。オレの発するあらゆる言葉は彼女の耳に入らない。渦巻くオレの言霊は彼女の周りに旋回するだけで目的は達成されず、ゆらゆらと拡散していた。

 マコトは純粋なジャンキーだった。完全無欠にこの世から隠遁したかった。マコトの現実はナンセンスで自己憐愍すら許さなかった。だからマコトは薬に走ったのだ。ティモシー・リアリーみたいな自我の解放なんてマコトにはありえない。ただ死体になって終わりたかっただけだ。

 しかしその男が目の前の女に惚れていたという事実には釈然としなかった。マコトの究極目標が死体なら、朝子のそれは征服で、うまく噛み合わさっているのは下半身だけだ。もしやマコトは観音でも見ていたのか。マコトは不思議な男だ、仁美以上に気まぐれだ。猫みたいに懐き、いつの間にか姿を消している。そして飼い主をあたふたさせる。そう思うと素晴らしく愛おしい。

「これから私達どうなるのかなあ?」

 隣のテーブルではカップルが仲むつまじく手を握り合っていた。大学生らしい。ということは見た目的にはオレと朝子と大差のない。

 朝子は自分の主張以外に耳を貸さない。オレが断罪のニュアンスを含ませても受け入れないだろう。彼女の頑とした純粋培養的意志はオレのすべてを拒否している。

「人生なんてご飯を食べるようなものだよ。高級フランス料理を食べてる奴もいれば、マックで食べてる奴もいる。安い定食屋なんかでかもしれないし、おしゃれにイタリアンかもしれない。でも、結局は目的はみんな一緒なんだよ。腹が減ったからさ。ただ食べるためにどうするかが違うだけだよ。どれを食べようと満足して腹いっぱいになればいいんじゃないかな」

 男は笑った。女も嬉しそうに頷いている。横顔は輝きに満ちていた。共鳴しあっているのだろう。握り合う手は一層と強くなる。

 オレも朝子に手を差し出したが、朝子は軽く鼻で笑い無視した。

「中には高いだけのまずい店もある。もちろんうまくて安いのもね。まずかったら違うのを注文し直してもいいし、失礼かもしれないけど店を変えるのもいいかもしれない。満足するまで食べればいいんだよ。無理して食べる必要もないさ。ただ、腹減ったまま店出て帰るのだけはつまんないよね」

 男はしたり顔だった。学校で見たことのあるやつなのかもしれない。「諸君、世界は希望に満ちている。全ての望みはきっと叶うはずさ。その望みを捨てないかぎり・・・・・・」と、講釈する隙を狙っていた顔だ。そして男の言う世界にはオレやマコトは存在しない。

「アナタはもう自分の料理で満足した?」

「いいや。まだだよ。おれは一応フランス料理だからね。オードブルしか食べてないからまだ何とも言えないよ」

「へえ、メインディッシュまで食べる気なの?」

「せっかく頼んだんだもん。デザートまで食べるよ」

「私も最後まで食べてみようかな?」

 ははははははははははははははははははははははははは。ならばオレはどうすればいい? 料理どころか、毒しかない。オレはどこで間違えた? 店か? 注文か? オレごときは食っちゃいけないのか? それともオレは毒すら食わなきゃいかんのか? 死ぬとわかっていても毒は食わなきゃいけないのか? 毒を注文したら食わなきゃいけないのか? 

 オレは千円札をテーブルに出すと朝子に言った。

「マコトに会ったら伝えてくれ。もうお別れだってな。さよならだ。世話になったがもう来るなって。頼んだぜ。後、朝子、お前とももう会わない。さよならだ」

 朝子は何も言わなかった。俯いていたが両目はしっかりとオレを睨んでいた。オレは「何がさよならだ。お別れだ」と思いながら席を立つと隣のテーブルの握られた二人の手に手を置いて人生の注文をした。

「塩酸エフェドリン&コデイン。あんたら持ってない?」

 最高の笑顔にも関わらずカップルは固まっていた。オレをいない存在としていた。オレ、テーブルをひっくり返そうと、だけどテーブルは固定されていて、悔しくて拳を振り上げたら男は「ひゃ」と言いながら女の手を離した。結局「糞ったれが」とだけ言い残してのお別れ。何がお別れだ。




 ない。どこにもない。

 ベランダの卑猥なサンタクロースが見当たらなかった。部屋は荒らされ無残な有り様だった。キッチンの咳止めシロップは散乱し、倒れたテーブルの灰皿缶は茶色の液体をカーペットに滲ませて、丁寧にもベッドの下のエロ本は引きずり出され衣服は目茶苦茶だった。ガンジャ箱は持ち去られていた。

 腋にたらりと冷たい汗が流れる。もう一度箱を探した。

 見付からない。

 おかしいと思っていた。大見えを切ったときから連絡は途絶えていた。連中が一方的な主導権をオレに与えるはずがない。奪われた主導権を元に戻すため、荷物とともに強行に出たのだ。

 オレは振り出しに戻った。問題はない。荷物は持ち主の元に帰ったのだ。当たり前のことだ。

 待てよ。

 問題はあるのだ。

 マコトは中身に手を出した。連中はきっと中身の量を把握しているはずだ。それが足りない。足りないのはなぜ? 怪しいのは誰? くすねたのは誰? オレだ。オレしかいない。しかも連中はオレに警察に通報される可能性すら考えるはずだ。

 やばい。連中は気付いている。

 ピンポーン。インターフォンが鳴った。無視する。ドア越しに舌足らずな声が響く。

「仁美の友達だけど」

 唾を飲み込む。やっぱりオレがアパートにいることはバレていた。見張っていたのだ。誤魔化さなければ。騙さなければ。頭を急回転させる。インターフォンに出た。

「あの、何ですか?」

「仁美の友達だけど」

「だから何でしょう?」

「仁美の友達だけど」

「荷物、盗まれました。泥棒に入られたみたいなんです。ちょうど、今、警察に電話したところです。もうしばらくすると警察が来るから悪いけど帰って下さい」

「仁美の友達・・・・・・」。

 受話器を叩き切った。ダメだ。玄関ドアノブが軋んだ。ドアが歪んだ。インターフォンはもう鳴らない。カチャカチャと鍵穴が音を立てた。

 チェーンキーはしてある。逃げる。持ち物は? 財布? どこだ。携帯? どこだ。警察に電話。なぜ?

 カタンとドアキーが落ちた。

 隙間から黒いアフロヘアーが覗き真っ黒な顔に白目がオレを見た。無表情だ。

「蚊人間かよ!」

 思わず声が漏れた。

 黒く太い腕がチェーンを握った。

 ベランダに急いだ。アパートの裏は駐車場だ。

 咳止めシロップを飲んでおけばよかった。持っていけないか、せめて一本だけでも。だめだ。時間がない。

 バチンとチェーンキーが切断された。

 空に続く地面への闇は底があるはずだが、あえて認識しなかったのか、見えない。吸い込まれていきそうだ。どんどんと吸い込まれていく。

 覚悟を決めた瞬間、携帯が叫んだ。いつもの旋律が聞き取れない。着ウタが悲鳴になった。闇にビビったのか携帯は号泣した。幼い頃押し入れに閉じ込められたときのことを思い出した。

 オレは泣く子を黙らせ闇に飛んだ。

 足の裏に小石がめり込んだ。裸足にアスファルトはきつすぎる。じいんとした衝撃に目をしかめるとオレは走った。

 気付かれたか?

 再び携帯が泣く。裕子から。

「今から・・・・・・」

 切る。連中が階段を下りてきた。

 片手で番号弄る。誰だ。誰にかければいい。誰を求めればいい。思い浮かぶ顔はすべて頼りにならない。呼び出し音と脳信号がクルクルする。

 吐く息が全て白い。裸足の足に冷気がなめた。ついでにオレの血もなめてくれたら消毒になるのに、思った。

 まったくこの空気がエーテルだったら一発でラリっちまう。ラリっちまってぶっ飛んじまう。

 ー果報は寝て待てっておかしくない?

 マコトの戯れ事が頭を過った。

 ーこんなの本当なら、最高に幸福なのは寝たきり老人とホームレスだよね。現実は厳しいよね、啓介。やっぱり泣きっ面に蜂の方が正しいでしょ。次から次へと不幸は降り積もるってのがしっくり来ると思わない?

 そうだ。人生は不幸の雪達磨と不幸のバームクーヘンだ。

 連中が無言で追いかけてくる。

 裕子がいた。彷徨うように歩いていた。

 裕子とガキのために暮らす? それもいいと思った。裕子を全力で愛す? 結構だ。裕子のためにオレを捧げよう。今だから言う。愛している。素面じゃ情けなくて愛なんて囁けない。だから言う。愛してるぜ裕子。

 裕子の手元が一瞬青く輝く。刃物だ。

「そりゃナイフ」

 裕子とすれ違う。相変わらず逃げ道は見つからない。闇に溶けたのか、出口もない。全てが聞こえない。

 オレは闇を走った。

 闇に溶けいく。現実が体に降ってくる。

 どこへ走るか、どこへ行こうか、どこに向かうか。ただ、ひたすら走った。迫り来る闇、背中に背負って。胸一杯にエーテル吸いこんで。




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24時間放棄(2007) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing

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