アレと僕と観音様と大事なところ(2007)

Nemoto Ryusho

アレと観音様と大事なところ(2007)

『アレと観音様と大事なところ』


 堤防に立った僕らOMK団は、確固たる意志を持っていた。梅雨の前哨戦とも呼ぶべき大雨で、足羽川は茶褐色の暗い水をいっぱいにたたえ、上流から流されてきた雑多な塵をゆっくりと下流へ運んでいる。下校前にはやんだ雨だったが、真っ黒な雲はいまだに雨を降らそうとしていて、どんよりとした隙間から禍々しい情念のような夕暮れの太陽が覗かせていた。僕らの顔は、その禍々しい情念の注入されたようで、清く正しく歪んでいた。

 口火を切ったのは村井だった。面長ののっぺりとした顔に哀しそうな色が浮かぶと、次の瞬間には世にあるすべての欲望よりもさらに激しい渇望が露になった。

「マ×コ見てぇえええええー!」

 絶叫は僕らにコンマ一秒の静寂をもたらして、後には足羽川の流れる音だけをただ轟々と残していった。村井を呼び水に僕と大橋も続く。

「マ×コ見てぇ!」

「オマ×コ見てぇよぉおおお!」

「マ×コ見せてくださぁぁい!」

 僕らの口から飛び出てくる魂は、流れを塞き止めよと、次々と足羽川に吸いこまれていく。堤防に沿ったプラタナスの並木が川下からの微かな風に揺れていた。辺りに人はいない。

 僕らはOMK団定例の『川に願いを』を行っていた。

 OMK団とは『オマ×コ・見たい・かなり』の頭文字を取った一種の秘密結社で、その名の通り女性器が見たくてたまらない高校のクラスメートの集まりだ。集まりといっても僕と村井と大橋の三人しかいない。だが僕らの志はどこまでも高く、マフィアの結束力よりも強い。はずだ。僕も大橋も村井も裏切らない。たぶん。

 1994年。田舎の高校生が女性器を拝見させていただきつかいまつり申し上げる機会はほとんどなかった。保健体育の教科書では誤魔化された気分にしかならないし、H本ではアンダーヘアよりアンダーはモナリザのくるぶしよりも厳重に隠されている。だが僕らをとめることができなる人間などいるものか。開業医の息子である同級生の松下は、父親の医学書から秘密を暴かんとしたところ、逆に親にその現場を暴れてしまい、医学書は秘密とともに封印された。隣のクラスの山元は、謎への探求心が暴発したのか、母親の入浴を覗くという自爆を犯し、彼の家庭は危機に瀕している。

 かく言うOMK団の大橋は、エロ本の通信販売広告『ハッキリ! クッキリ! 無修正! 五本セットで一万五千円』を注文した結果、見事モザイク入りと騙された揚げ句、毎週のように大橋家にはエロ販売広告が届けられ、それを母親が受け取るという憂き目に遭っている。村井は学校でセックスをしたとの噂を耳にすると、ノートと鉛筆片手に男の元に赴いて、その証言を元に女性器の予想図を描いていた。村井予想図と表紙されたそのノートには五集類のまったく違う女性器が描かれている。

 僕はOMK団のためになんの貢献もしていなかった。僕には大橋ほどの行動力はないし、村井ほど妄想も巧みではない。あるのは隠された事実への渇望だけだ。もちろん、大橋の通信販売費に二千円を捻出していたし、五種類に予想される村井予想図にたいしても我ながらもっともな意見をしたと思う。だけど、二人がそれだけで納得するはずがない。僕の立場は危うくなっていた。

「あのさ、啓介」ひとしきり叫び続けたことで、ある種の到達点に達したのだろう。大橋は悟りを得た聖者の趣を漂わせ、頑強な顎を擦りならがいった。「お前の妹のマ×コを写真に撮ってきてくれ」

「はあ?」僕は唐突で非常識な大橋の依頼に飛び上がりそうになった。実際少し飛んでいた。「冗談だろ」

「頼む! 考えられる方法はこれしか残っていないんだ。妹がいるのは啓介だけだしポラロイドカメラなら俺ん家にある。……俺たちのために妹の写真をお願いします!」村井は土下座をしていた。湿ったアスファルトに額を擦りつける村井を蹴飛ばせば、新しい貫一お宮になるだろう。そんな気がした。

「無茶だよ。そんなことしたら十一組の山元よりも大変なことになるぜ。自分の母親の見ればいいじゃん」

「お前はOMKで何もしていない」夕陽の残滓を受けた大橋の眼は冷たく燃上がっていた。やべえ。こりゃマジだ。

「俺はビデオの通販でお袋にばれた。村井だってマ×コノートのせいで、クラスの女子から白い目で見られてんだ。リスクを負っていないのはお前だけなんだぞ」

「俺のお袋は……ありゃもう女じゃない」残念そうに村井が首を振った。

「村井の言う通りだ。どうせ見るなら若い女のほうがいい」

「若いたって麻希はまだ十三だぜ。……まだ毛だって生えてないかもしれない」

「マジで!!」二人は練習したかのように声を揃えた。そして鼻息荒くもっと教えてくれと言わんばかりに僕に躙り寄ってきた。「マジで?」

「あほか。言ってることをもう少しちゃんと考えろ。もう帰るぜ」

 僕は鞄を拾うと逃げるように足羽川を後にした。二人は拍子抜けした顔をして僕を見送っている。すでに太陽は沈んでいた。河原には福井県最後と言われる野良犬の雄がキャンキャンと泥流に向かって吠えている。

「OMKの規則を忘れんなよぉー!!」

 大橋の声には応えず僕は堤防を降りた。足羽川の流れはもう聞こえない。堤防の向こうからは犬の鳴き声だけが届いてきた。

 おばさんたちがリビングを占領していた。ああ、そうだ。今日は山吹のおばさんのお茶会だった。ということは、今日の夕食は遅くなる。

 お袋はよくおばさんたちとお茶会を開いていた。お茶会会場はそれぞれの家で一応持ち回りらしいのだが、一戸建てということもあって、僕の家で開かれることが多い。会のたびにお袋は山吹のおばさんから鍋やフライパンを買って、親父はなぜかそれが気に入らないらしい。僕はおばさんたちへの挨拶も程々に自室に帰った。

「どうしよう」

 声が自然に出ていた。僕はベッドでもんどりうつ。状況は切迫していた。僕はベッドから起き上がると、机から貯金通帳を取りだす。一万三千五百二十円。印字された数字を口に出して読んでも、数字は変わらない。大橋と村井をソープランド『豊臣』へ送り出すことはできない。


 OMK団鉄則「裏切り者は『豊臣』代を支払わねばならぬ」


 僕だって女性器は見たいのにかわりはない。見たくないはずがない。僕ら高校生男子にとって、それは地球に残された最後の未開の地なのだ。心躍らずに誰がいられよう。農耕民族として開拓せずにはいられまい。だけど妹は未開のままであれと思う。僕は古代エジプトのファラオではないのだ。妹のオールヌードを撮るなんて兄のすることじゃない。

 他に選択はないだろうか。家族も通帳も傷つけないやり方。ああ、僕がオギーみたいなクラスのモテモテスポーツ野郎だったらどれだけ楽だったろうか。僕が西尾みたいに仁愛女子高までナンパ遠征にいくほどだったらどれだけ話は早いだろうか。明日隣の机の山内さんに頼むのはどうだろう。山内さんは優しい人で、シャーペンの芯がなくなったときには、芯を五本くらいくれる。だから写真だって撮らせてくれるはずだ。

「女性器を写真で撮っていいですか?」

「いいですよ」

 なるはずがない。シャーペンの芯を借りるのとは訳が違う。

 すべての女性がシャーペンの芯五本よりもほいほいと裸になればいい。もしそうなら、僕は高山さんに芯二十本を渡す。どうせならかわいい子の方がいい。そういえばパー女にサセ子がいるらしいが、本当だろうか。村井が言っていた。本当に本当だろうか。

 ミニコンポからはNirvanaの『Smells Like Teen Spirit』が流れている。解決に繋がるものは一つもない。

 僕は彷徨うように階段を降りて、応接間に入った。こういうときほどダイ・ハードのジョン・マクレーン刑事の活躍を観るに限る。フィールド・オブ・ドリームスのレイ・キンセラじゃいけないし、氷の微笑のニック・カランはもっと駄目だ。

 六畳の応接間は、大型のテレビモニターを正面にソファーセットが置かれ、ボーズのスピーカーが天井にぶら下がった堂々たるもので、親父の趣味の殿堂と呼んでも差し支えない。棚には金曜ロードショーの録画、レンタルビデオ店の中古セルビデオ、新聞広告で買った海外ドラマシリーズセットが並んでいる。昔は、といっても四五年くらい前だが、日曜の夜にはよく家族揃ってビデオ鑑賞をしたものだ。今では、本来の応接間の機能を全うする以外には、家族とビデオを観るなんてアメリカ人みたいで照れ臭く、妹は妹で親父の映画趣向とは別に、もっと甘ったるくてトレンディなドラマが好きらしく、ほとんど親父が独り部屋に篭っている。

 右棚から順に、ロボコップ(録)、ロボコップ2(録)、ダンス・ウィズ・ウルブズ前編後編(中古)、少林寺への道(録)、燃えよ! ドラゴン(録)、燃えよ! デブゴン(録)、プロジェクトA(録)、香港ポリスストーリー(録)、酔拳(録)、霊幻道士(録)、マッド・マックス(録)、マッド・マックス2(録),レイダーズ〜失われたアーク〜(録)、インディ・ジョーンズ2(録),スターウォーズ、スターウォーズ(中古)、スターウォーズ〜帝国の逆襲〜(中古)、スターウォーズ〜ジェダイの復讐〜(中古)、男はつらいよシリーズ1〜3・5・11〜24・28〜32・37・41(録)、コマンドー(録)、グーニーズ(中古)、アンタッチャブル(中古)、ダイ・ハード(録)、ダイ・ハード2(録),となりのトトロ(録)、ロボコップ(中古)、ロボコップ2(録)、仁義なき戦い(中古)、コンバット!全巻(通販)、ブルース・ブラザーズ(中古)、48時間(録)、E・T(録)、フック(中古)、ランボー〜怒りのアフガン〜(録)、ミッド・ナイト・ラン(中古)、クレイマー・クレイマー(録)、チャンプ(録)、ハワード・ザ・ダック(中古)、トータル・リコール(録)、グッドラック・サイゴン全巻(通販)、七人の侍(中古)、影武者(中古)、ロッキー2〜5(録)、ポリスアカデミー1〜5(録)、メジャー・リーグ(録)、アダムス・ファミリー(中古)、フルメタルジャケット(中古)、トップ・ガン(録)、十三日の金曜日3(録)、星の王子さま ニューヨークへ行く(録)、ゴースト・バスターズ(録)、ゴースト・バスターズ2(録)、羊たちの沈黙(録)、戦場に架ける橋(中古)、天と地と(中古)、プリティ・ウーマン(録)、ベン・ハー(中古)が並んでいる。

 整然と並べられてはいるものの、同時に雑然さを感じさせる親父のコレクションは、親父の好みがわかる気もするが、まったくわからくもする。

 ふと気付いた。


 となりのトトロ?


 親父はアニメが嫌いだ。親父によると「アニメにはドラマがない」。だから親父は金曜ロードショーでルパン三世や天空の城ラピュタが放送されようと、決して自分から録画しようとしなかった。アニメを観たければ、自分で録画の仕方を覚えて、俺のいない間に観るがいい、そんな人だ。その親父がとなりのトトロを録画しているとは考えられない。だがサインペンで書かれた、達筆でいて、神経質な字はまごうことなく親父の字だ。

 僕は訝しく思いながらテープをビデオデッキに差しこんだ。モニター、ステレオの電源、ビデオの再生の順にボタンを押す。水野晴郎は現れない。僕の眼には、分度器を十八回転させても足りないくらい水野晴郎からかけはなれた世界が飛び込んできた。

 ボーズのスピーカーは重厚な大嬌声が轟かせている。僕は胃から込み上げてくる吐き気を必死に堪えた。




「……西尾……笠松……村井……坪原……川崎……」

 耳を澄ますと教室からは出席をとる声が聞こえてきた。昨日のショックで朝方まで眠ることができず、おかげで寝坊してしまった。

 まだ間に合う。僕は後ろ側の引戸を慎重にひいて、四つんばいに教室に入った。先生は僕に気付かないで、出席簿に夢中のままだ。眼をしばしばさせている先生には老眼鏡が必要だ。

「急げ、啓介」村井がシャーペンで僕を突いた。村井の隣では高山さんが呆れたように笑っていた。

「……萩原……沢村」

「はい!」

「お」先生は出席簿から目を離すと、微笑んだ。「今日は元気がいいな、沢村。ちゃんと朝飯食べてきたな」

「その辺はバッチリっすよ」

「そうか」先生は満足そうに頷くと再び出席簿に目を移した。ぎりぎり間に合った。誕生日順という高志高校独特の出席順に感謝する。これが普通の学校のような五十音順の出席順ならば完全にアウトだ。

 しかしあの醜悪さは一体なんだったのだろうか。世の中の全部の悪意、戦争とか病気とか犯罪とか貧困とか、そういったものの根源があるとするなら、まさしくあそこがそうだ。湾岸戦争だってAIDSだってあそこから生まれたに違いあるまい。まさしく悪だった。

 そんな悪がこの教室に存在するなんて……しかも半分の人間がだ!

 伊藤さんにも春枝さんにも金津さんにも山内さんにも三国さんにもそして高山さんにもあの恐るべきパーツが付属している。なんにもなくていい。つるつるでいい。心の底からそう思う。おしりとおっぱいすらあればどうとでもなる。どうとでもしてくれよう。

 ふいに後ろから右肩を揺さぶられた僕は、「ゔぃっ」と音にならない声を漏らした。山内さんが不審そうに僕を見つめ、顎先で僕に後ろを向くよう促した。回り手紙だ。光彦は投げつけるように僕にそれを手渡した。


『わかってるよな』


 回り手紙には村井予想図でもっとも信憑性が高いとされたマ×コ・2のイラストが添えてあった。大橋をみやると、大橋は、ユニバーサル・ソルジャーのドルフ・ラングレンのような傲岸かつ一途かつ冷酷な表情をしていた。

 一時間目が終わると大橋と村井は僕の席まで一直線にやってきた。

「フィルムは四枚入っている。俺用と啓介用と村井用だ。余った一枚はあくまで予備だが、余裕があるなら胸も撮ってきてくれ」

 大橋の言葉に従って、村井はうやうやしくポラロイドカメラを僕に捧げた。

 教室では、オギーやツボヤンらスポーツ部員たちはバスケットボールを人さし指でくるくるまわし、西尾や光彦らナンパ野郎達はメンズ雑誌を広げ、ワラちゃんや川崎くんらオタクたちは『ときめきメモリアル2』の攻略について語りあい、女子たちはA級グループからB級の順にグループごとにトイレに向かっていく。いつもの風景だった。

「風呂んときでいいだろ」大橋がいった。「脱がせる手間がない」

「お前ら頭大丈夫か。知ってるか? 風呂は頭や身体を洗うために裸になるんだ。写真を撮るためじゃない。頭を洗う。身体を洗う。写真を撮る。馬鹿じゃねえの」

「だったらどこで写真撮るんだよ」

「芦原温泉に行けばストリップ『湯煙』があるだろ。そこだったら写真撮らせてくれるらしいぜ」

「『湯煙』は年齢制限が厳しい。兄貴が高校生のとき、ばれて停学になった」大橋は遠くを見ながら首を振った。

「俺は入浴中がベストだと思うよ」村井は厳かに口を開いた。

「俺の話聞いてたのかよ。人類史上風呂ってのは身体や頭を洗うととこであってカメラを持って……」

 僕の言葉を村井は遮った。

「今の季節だと、外と家と浴室との気温差があまりないから、浴室の窓からでも、脱衣場からでも、隙間風で気付かれることはまずないね。最高のタイミングはシャンプーをしているときだ。シャンプー中は眼を瞑っているからフラッシュをたいてもまず気付かれない。それにシャワーの音でシャッター音もカバーできる。でも、気をつけなければいけないのはリンスだ。あれは目を開けている。くれぐれもリンスには注意したほうがいい。まあ、リンスは泡立たないから現場で判断できるでしょう」

 大橋と僕は顔を見合わせた。

「だけど一つだけ決定的な弱点がある。これをクリアーしないと撮影に成功したとしても元の子もなくなる。それは湯気だ。湯気でレンズが曇ってたら、せっかく撮れた写真もただの紙くずだよ。だから前もってサランラップでレンズをカバーするか、曇り止めスプレーをしたほうがいいな。俺は曇り止めスプレーをお勧めする。プロが使うのは曇り止めスプレーだね」

「経験者かよ!」僕は驚きの声を上げた。大橋もさすがに呆気にとられたのか「俺はお前が怖くなったよ」と呟いた。

「昨日寝ずに考えたんだ。それくらい準備しなきゃ駄目でしょう。マニュアルも作ってきた」

「いらねえよ。そして二度と俺ん家来るな」

「俺ん家にも来るな。お袋が危ない。後女子トイレと女子更衣室にも近づくな」

「なんだよ大橋まで裏切るのか。だったら啓介と大橋で俺の分の『豊臣』代だしてよ」村井は口を尖らせながらマニュアルを再び懐に戻した。

「あんだけ綿密な話をされるとそりゃ気が引くだろ。……わかった。啓介に任せようぜ。シャンプーしている妹を撮るか、俺らの『豊臣』代を出すか。二つに一つだ。芦原温泉ってのもあるけど、それは俺もお勧めしない」

 村井はしばらく「……女子中学生……ソープで本番……女子中学生……ソープで本番」とラマ僧みたいにマントラを唱えた後、「俺も大橋と一緒だな」といって凹凸の少ない顔を晴れ晴れとさせた。

「啓介、どっちにするんだ?」

 大橋は僕の肩に右手を置いた。大橋のがっしりとした筋肉質の腕は僕の肩には重すぎる。だがその表情には大橋のありったけの優しさがこめられていた。

「OMKは解散だ」僕はいった。

「あぁあ!!」

 大橋は笑顔を凍りつかせると、僕の襟首のカラーを強く引き寄せた。カラーは外れ、第一ボタンと第二ボタンが飛び散った。大橋の逞しい顎からはぎりぎりと歯を食いしばる音が漏れる。村井は「へぇ」と気の抜けた音を喉から出して、すとんとタイルの床に腰を落とした。教室に緊張が走り、オギーはバスケットボールを取りこぼし、西尾はPOPEYEから眼を離した。みんなが僕らに注目した。

 大橋は怒りを押し堪えながら、周囲を気にするように僕の耳元に囁いた。

「テメェ、どういうつもりだよ」

 僕は大橋の右手に身体を任せたままにっこりと微笑んだ。

「すごくリアルなと《・》な《・》り《・》の《・》ト《・》ト《・》ロ《・》がある。もうОMKは必要ない」




 事実は必ずしも人間に同じ真実を与えるものではない。大橋は封建社会の殿様よりも女性を軽蔑するようになり、村井はアニミズムに生きた縄文人よりも女性を崇拝するようになった。大橋は女子が座った椅子に決して座ろうとせず、村井は椅子が冷たくなってさえも女子の温もりをありがたがっていた。僕はというとまだあの醜悪には耐えきれないではいたが、それを受け止めかつ若干ながらエロティシズムを感じはじめている。僕らは女性器をア《・》レ《・》と蔑む大橋派とと尊ぶ村井派とな《・》と《・》こ《・》ろ《・》と認める僕に別れた。

 質実ともにOMK団は解散したのだ。

 一方で僕ら元OMK団のメンバーは新たな使命を帯びていた。かつての僕らのように、真理を求め苦しむ隣人たちへ、真理を与える伝道師としての職務である。

 はじまりは村井予想図の後始末のときだった。村井が一人校舎裏でノートに手を合わせながら厳粛に火をつけたところ、たまたま同じクラスのツボヤンが通りかかった。村井の予想図にかける執念を知っていたツボヤンは、尋常ならざる情況に驚き、村井を押し倒し地面に組み伏せると、狼狽え唖然とする村井を羽交い締めにした。事実村井予想図は、村井が全存在をかけて白紙に刻んだもう一人の村井と、クラスの男子全員が認識していたし、現場に遭遇したツボヤンも村井がノートとともに焼身自殺を企てていると思ったそうだ。僕だって事情を知らねばそうしていただろう。バスケ部レギュラーにきつく押さえつけられた村井は身体の解放という必要から、ツボヤンにトトロを教えねばならなかった。ツボヤンが、彼は彼女である徳丸さんとの関係に行き詰まりを覚えていた、眼を輝かせたのはいうまでもない。このときから我が高志高校三年十二組男子にとって、となりのトトロは聖書となり、僕らは福音のバイブレーションを伝えることになった。

 クラスメイトの男子ほとんどが校舎の迷い人だった。僕らは求めがあらば観賞会を催し、頼まれれば我らが聖書を預けた。体育会系からオタク系まで、普段あまり親しくしていないグループにも、僕たちは乞われれば応じた。中にはワラちゃんのように「二次元の女性には存在してないんですよ」と頑なに拒む奴や、オギーのように「バスケに支障が出る」と平穏を貫く奴もいたが、ナンパ軍団から要請があったのは意外であった。彼らは大事なところが見たいがために、軍団を結成をしていたらしい。彼らも女子と手を繋ぐのがやっとで、その実はOMK団と変わりはなかったのだ。

 男子グループはとなりのトトロを拒否する少数派をも巻き込んで、徐々に解体された。決して相いれなかった異文化圏の人間同士が、となりのトトロという真実を得たことで、それぞれに共鳴しはじめたのだ。絶対に直面しあった者は過去の差異など簡単に超越する。しかしそれは同時に、人類の歴史が示す通り、新たな分裂をももたらした。アレ派と観音様派と大事なところ派である。

 ブラックパンサーよろしく一層と急進的になった大橋は自尊心の強い男子の支持を主に集め、ますます原始宗教への帰依を深めた村井は協調性の重んじる男子に受け入れられた。どっちつかずの僕といえば虚無的なリアリストたちが与していた。休み時間のたびに、男子は各所属するグループに分かれ、グループごとの思想、解剖学的見地、新たな女性理解を深めていった。

 女子たちはクラスの異変に狼狽えた。なにしろ外見で区別できた男子たちの群れの構成が渾沌としているし、中には大橋や村井以上に価値観が極端化した奴もいる。例えば、優しいと彼氏のツボヤンをひたすら自慢をしていた徳丸さんをツボヤンは穢れを見るように冷たくあしらい、笠松は忘れ物をするたびに隣の森岡さんから借りた物を聖遺物のごとく恭しく扱った。何があったのか男子を問い尋ねるも、答える者は誰もおらず、彼女達はただとなりのトトロが関係しているらしいとしか知りえなかった。

「俺にも貸してくれないか?」

 突然の背後からの声に僕は口から心臓が飛び出しそうになった。放課後オギーが校舎にいるのは珍しいことであり、僕はおしっこをしていたからである。

「この便器は今俺が使ってるんだ。わからないのか。わからないならもう少し待て。後で教えてやるよ」

「とぼけんなよ啓介」オギーは僕の横の小便器に並び、ズボンを下ろした。「となりのトトロだよ」

「はあ? 自分で観たくないっていったんじゃないか。バスケに専念したいんだろ。なんだって急にこんなところで気が変わるんだよ。せめて場所を選べよ」

「バカ。俺はバスケ部の主将だぞ」オギーは澄ましたようにいった。「人に聞かれたら恥ずかしいだろ。お前と二人きりにチャンスを狙ってたんだよ」

 オギーのような大男にトイレに入るまでずっと尾行されていたかと思うと僕は空恐ろしくなった。オギーは百九十センチを越える身長に、伸びるがままにした天然パーマの持ち主なのである。ここがアメリカなら僕は殺されているか、新しい性に目覚めていただろう。

 オギーは続ける。

「観た奴のほとんどがなんか変わっただろ?」

「変わったってどういうこと?」

「ほら、ツボヤンなんかトトロ観てから、ものすごくいい動きするんだよ。今まで徳丸や女子がいると集中力が散漫になったのに、攻撃的っていうか、ハングリーっていうか、メンタル的に強くなった。俺ももっと強くなりたいんだ。バスケ部のためにも協力してくれ」

「バスケ部のため? なんで俺が?」

「お前だってバスケ部が勝ったら嬉しいだろ?」

「帰宅部は帰宅が好きだから帰宅部なんだ。バスケじゃない。帰宅部が喜ぶのは帰宅するときだけだよ」僕はわざと意地悪くいう。「オギーはもてるんだし、トトロ観なくても自分でなんとかできるだろ」

「バカ。俺はバスケ部の主将だぞ。大会が近いんだよ。俺が一皮むけないかぎり決勝までいけそうにないんだ」とオギーは言いかけたまま真っ赤になって黙り込むと、しばらくの間右手をそえた下腹部をきつく睨んでいた。そして弱々しく溜め息をつき、ぼそぼそと呟いた「……女のあそこが観たいんだ」

 僕はおかしくて笑ってしまった。なるほど。真理を断固拒否する側にもそれなりに哲学があり切羽詰まっていたのだ。もちろんオギーの拘るバスケ部の主将というのは理解できないし、トトロを観たからといってツボヤンのようになる保証はできないが。

「仕方ないな。貸してやるよ」

「本当か!! 啓介、俺に裏ビデオを……」

 僕はそっと人さし指を口に当てる。

「廊下まで聞こえるだろオギー。貸してやるけど女子には絶対言うなよ」

「サンキュ啓介! ……でも手は洗ったほうがいいぞ」

 喜びのまりスキップするオギーを「浮かれすぎだ」と戒めながら教室に戻ると、ひどく騒然としている。いつもなら人もまばらで閑散としている時刻だ。見回すと大橋と村井が言い争っていた。二人を中心にして男たちは取り囲み、それを女子達は遠巻きに眺めていた。

「テメェふざけたこといってんじゃねぇぞ! 頭おかしいんじゃねえのか!」

「おかしいのは大橋のほうだろ! 一本三千円でダビングさせて儲けようなんてそれが友達のすることかよ! トトロを売るなんて信じられない」

「どこが悪いってんだよ! トトロを観たい奴がいる。ダビングする。売る。当たり前のことだろ!」

「トトロを観た。ビビった。女を遠ざけた」村井は鼻で笑い「これって当たり前?」

「……トトロを観て喜んでいる変態には言われたくねえよ」と吐き捨てた大橋のもとより黒い顔は赤黒くなっていた。両目をぎらぎらと光らせ、額には青筋が浮かんでいた。両手をきつく握り、村井への怒りを抑えようとしているのか、わなわなと震えていた。

「待てよ」僕は慌てて間に入る。「何があったんだよ」

「啓介いたのかよ」大橋は驚きを一瞬見せると、すぐに取り繕ったような笑顔を見せた。その両腕は落ち着きなく前後した。「別に大したことじゃねえんだ」

 周囲を見渡すと男たちは一様に僕から眼を逸らした。

「トトロは借りれそう?」オギーが僕の耳元に口を寄せていった。荻原鬼のオギーが転じた渾名、オギのオニーと後輩達が恐れるバスケ部主将には似つかわしくない、不安に満ちた弱々しさだった。

 僕はオギーを払いのけ、二人にもう一度いった。「何があったんだよ?」

「トトロがなくなったんだ」村井は、自分の過ちを詫びるかのようにいった。

「でもなくなったのはオリジナルだけで、ダビングしたのはあるんだ」大橋は言い訳がましくビデオテープを鞄から出した。ビデオにはとなりのトトロダッシュとラベルされていた。「心配はするな」

「親父のテープがなくなった?」

 頭の中が真っ白になり身体から力が抜けていくのを感じた。頭の中ではティッシュ箱を抱えて応接間を右往左往している親父の姿が浮かんでいた。気が付いたらオギーに支えられていた。

「ダビング関係ないじゃないか」

 僕は椅子に座ると丹念に目頭を揉んだ。大橋と村井は互いの顔を窺いあうばかりで、一向に僕の言葉に答える気配がない。黙りこくる二人を前に教壇からは女子のひそひそ話が聞こえてくる。「となりのトトロなんてTSUTAYAで借りれるのに」「男だから恥ずかしいんじゃない?」「知らないの? 村井くん、TSUTAYA出入り禁止なんだよ」「なんでも学生服でアダルトビデオを借りたのがバレたんだって」

 白けた時間が過ぎていく。僕が咳払いをすると、ようやく意を決したのか、大橋が重い口を開いた。

「トトロを観たがる奴は山ほどいるし、現にトトロの噂だって他のクラスまで広がってるんだよ。単に貸して見せてやるより、金取ったほうが得だろ。だから俺が……」

「金をとる必要はないじゃないか。欲しい奴に自由にダビングさせればいいし、第一そんな権利大橋にはないだろ」大橋を牽制するように村井がいった。

「俺だって啓介にも千円渡すつもりだったんだよ!」

 僕は溜め息をついた。大橋にとってトトロは道具にしかすぎず固執する理由はない。だが村井にとってのトトロは思想であって、共有する物なのだ。ついダビングによってアレ派と観音様派との意識の相違が噴出したのである。しかし問題はそこにはない。二派のアイデンティティよりもトトロがどこにいったかだ。トトロは親父の物なのだ。

「だからトトロはどこにあるんだよ」僕はあまりの焦れったさに頭を抱え、唸るようにいった。

「それは川崎が放送室で……」大橋は説明しようと試みるが言いあぐねて、川崎くんを突き出すように僕の前に押しやった。「お前が直接言えよ」

「ご、ご、ごめんよ沢村くん。僕が悪いんだ」

 衆目する場所に引っぱり出された、いかにも放送部員らしい短身短躯で小肥りの川崎くんは、いきなり広場に遭遇した小動物のように、手をもじもじとさせ、おどおどと眼を泳がせていた。

「とりあえず何があったのか教えてくれないか」

「ご、ごめん。本当にごめんよ」

 それから川崎くんは痺れを切らした大橋に怒鳴られるまで、「ごめんなさい」を繰り返した。そしてうっすらと涙を浮かべると、大橋に一言「ごめん」と謝った。

 僕と村井が大橋を諌め窘め続けたことで、ようやく安心したのか、川崎くんもやっと本題に入った。

「……僕が大橋くんに提案したんだ。僕はトトロに出てくる女の人のアレは好きじゃないけど、観たいって人がいっぱいいたから、沢村くんのマスターテープ一本よりもダビングしていった方が早いし、売ったほうが儲かるし、大橋くんも賛成してくれたから、今日の昼休みが終わるぎりぎりに放送室にダビングしにいったんだ。テープは一時間二十分だし、放課後戻ればダイビングも終わってるからちょうどいいし」

「放送室で川崎くんはよくダビングするの?」僕は訊いた。

「うん。放送室には編集機器があるから。OVAとか買うと高いし、でも手元に置いときたいからレンタルビデオを借りてきてダビングはするよ」川崎くんは誇らしげに胸を張ったが、すぐに声は暗くなった。

「……授業が終わってすぐに放送室に行こうと思ったんだけど学級当番のこと忘れてて、黒板消して当番日誌を書いてから、ちょっと遅れて放送室に行ったんだ。でも出るときに鍵はかけたはずなのに鍵が開いてて……嫌な予感したから、急いで放送室に入ったら誰もいなくて……ビデオデッキを確認したらやっぱりマスターテープがなくなってて……放送室中を探したんだけど見付からなくて……ごめん」

「誰かが持ってったんだ!」大橋はいった。

「それはないだろ」僕は組んでいた足を組み替えていった。「大橋は放送室に入ったことあるか? ないだろ」

「ねえよ。あんな陰気な女ばかりの部屋なんて気持ち悪いとこ入るかよ」大橋は鼻を鳴らした。川崎くんは少し嫌な顔をした。

「俺もない。普通放送部でもないかぎり放送室なんて入らない。男子トイレに女子が入らないのと一緒だ」

「女子トイレなら入りたいけど」村井は余計なことをいった。

 僕は村井を無視して尋ねた。「放送室の鍵って誰が持ってるの? 川崎くんだけ?」

「放送部員は全員持ってるよ。後は顧問の先生かな」

「放送部部員だったら全員入れるんだ」

「あ、でも、編集機器を使えるのは僕ともう一人の男だけなんだ。女の子たちは基本的にアナウンス専門だから編集機器は手も触れないよ。壊したら大変だって変に怖がるんだ」

「もう一人の男って誰?」

「二年生の岩倉って子なんだけど、彼は関係ないと思うよ」

「なんで? だって男しか使えないんだろ」

「今日休みなんだって。さっき彼のクラスまで聞きにいったんだ。だから彼は盗んでないと思うよ」

「じゃ顧問ってことか」

「……そ、そうだ。あの女の子かもしれないな」そういうと川崎くんは右手を弛んだ顎にあてた。「あの女の子なら編集機をいじれる」

「あの女の子って?」僕は身を乗り出した。

「四組の宇都宮さんだよ。僕よく部員の女の子に頼まれて、ドラマとか映画をダビングしてあげるんだ。だけど前に宇都宮さんに全部で七百二十分もあるドラマのダビングをお願いされたとき、僕面倒くさくなっちゃって、宇都宮さんにダビングのやり方を教えてあげたんだ。ダビングなんて実際は簡単だしね。……うん。そう言えば、今日の昼休みにも宇都宮さんは放送室にいた。たぶんドラマをダビングしようとしてトトロを見つけたのかもしれない」

「それってやべえ!」大橋は声を上げた。「女の子の手に渡るのはやばいね」と村井の顔から血の気が引いていく。回りの男たちもどよめいた。もしそうなら緊急事態だ。僕らはクラスの半分を敵に回すことになる。

「思い出した。宇都宮さん、別のドラマをダビングするんだって先週くらいにいってた」

「宇都宮んとこで取り返そうぜ!」大橋は急ぎ教室を出ようとする。

「ちょっと待て。ダビングのことを知ってたのって大橋と川崎くんの二人しかいないんだよね?」

「そうだよ! 何悠長なこといってんだよ!」大橋は狂ったように地団駄を踏んだ。「考えてても始まらねえだろ!」

「違うんだよ。少し気になることがあるんだ」

 大橋は苛立ちを大っぴらに披露するかのように、どすんと椅子に腰を下ろし、悪態をついた。「お前まで村井みたいにうだうだと妄想してんのかよ」

 確かに僕は大橋みたいに単純じゃない。だからいって、僕は村井のように妄想で推測を固めることはできない。だけど僕にはひっかかるモノがあった。それは漠然としてつかみ所のない、不思議であった。ただ疑問だけが連なり、妙なしこりとなって僕の胸の辺りで蠢いていた。

「なくなったのはマスターテープだけ?」

「うん」

「ダビングするときってモニターはつけるの? いや、宇都宮さんだっけ? その子に教えたときモニターはつけるように言った?」

「僕はつけずにしているけど……つけるように教えたと思うよ。モニター見ながらの方が安心するし」

「そっか。モニターはつけたんだ」

「放送室には空のビデオテープとか使っていいビデオテープってあるの?」

「うん。いっぱいあるよ。学校イベントの記録やドキュメンタリーコンクール用に必要なんだ」

「啓介、何が言いたいの? それよりも大橋の言う通り宇都宮さんからトトロを取り戻したほうがいいと思うよ」村井は僕に囁くように言った。いやその必要はない。僕の疑問は彼女に向かっていない。

「おかしんだよ。宇都宮って子は本当にトトロを観たのかなあ。もしモニターで観たとしてどうしてマスターテープを持っていったんだろ」

「そりゃ彼奴等だって俺たちみたいに興味があって」大橋がいった。

「宇都宮さんは川崎くんのビデオだって当然わかってたんだろ。昼休みに会ったわけだしさ。普通物を盗むときってバレないように気をつけるよな。でもこれじゃ宇都宮さんが盗んだってあからさまじゃん。だったらわざわざトトロのマスターテープを持っていかずに、ダビングされた方をもってって、後は空テープを残してダビング失敗って誤魔化すなり、ダビングしとくなりすればいいんじゃないのかな。なんかおかしいんだよね」

「そ、それはダビングすると画質が悪くなるから、それに急いでたんじゃないかな」川崎くんがしどろもどろにいった。

「そうだね啓介。もし宇都宮さんがトトロ観て拒否反応を示していたなら、最初から観なかったことにすると思うし、いくら欲しくても杜撰すぎるよね」村井は頷いた。

「たぶん、後で返してくれるんじゃないかな」川崎くんはいった。

「そうかな。俺は宇都宮さんが持ち去ったとは思えないんだ。とすると考えられるのは顧問の先生か。だったらやばいな。呼びだし喰らうかもしれない。場合によっちゃ親呼び出しになるかもな。だけどさ、川崎くん」と僕はゆっくりと腰を上げ、川崎くんの前に立った。「なぜ同じ部の女子がトトロを持ってる可能性を自分から示しておいて平然としてられるの?」

 川崎くんはさっと色を失った。そして一生懸命頭の中で何かをまとめようとし、しかしそれはしっかりとした形を成さないのか、もごもごと口を動かしていた。

「その放送部のもう一人の男って本当に休みなのかな。それともう一つ、宇都宮さんはとっくに帰っちゃってるんじゃないかな。大橋、確認してきてくれないか」川崎くんは僕を待たなかった。相好を崩した川崎くんは再び目に涙を浮かべ、今度はそれを眸に留めることができなかった。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 大橋も村井もみんな眼を丸くしていた。

「どうして川崎が持ってるってわかったんだよ」全員を代表して大橋がいった。

「さっきもいったけど腑に落ちなかったんだ。放送部員しかわからない機材に入っているトトロを奪う奴なんているはずがない。しかもトトロが機材にあることも知らずにね。だとすると、放送部員の仕業でしかない。その上機材を扱える男は休みとなるとトトロを持ちうる人は宇都宮さんか顧問の先生しかいなくなる。なのにどうして川崎くんは平然としているのかっ不思議だったんだよ。同じ部活の女子にトトロが発見されれば、川崎くんの立場も危うくなる。普通なら気が動転しててもいいのに、そこに関しては一つも動揺してなかったからね。それと画質に拘っただろ。そこで確信したんだよ。トトロを一度しっかり観ている人間じゃなきゃ画質は気にしない……あ、ありがとう」僕は川崎くんからトトロ受け取ると机に置いた。

 川崎くんは絶望に打ち拉がれ、誰とも目を合わせず、ずっと俯いている。

「怒っちゃいないよ。独占したいって気持ちはわかる。俺は戻ってくれればそれでいいんだ。これは親父のモノだからさ、画質が悪くてもダビングので我慢してくれよ。大橋も許してやんなよ。トトロダッシュだったら好きにダビングしていいからさ」

「ホントか!?」大橋は嬉しそうに眼を輝かせた。

「その代わり絶対売上金で俺を『豊臣』に連れていけ」

「げ」

「冗談だよ」僕とみんなは腹を抱えて笑い転げた。大橋の引きつった顔があまりにおもしろく、まるで河童に尻子玉を抜かれた村人みたいだったからだ。

「後、川崎くんさ、女子のことをの《・》っていってただろ。君は」

 アレ派じゃなくて観音様派に変わったんだろ、と続けようとしたとき、大きな黒い影が目の前をすごい速さで横切った。オギーだった。オギーは右手にトトロを持って、ランナップシュートを決めるためにディフェンスをかわすように、軽快に机の間を走りぬけ、引戸のところで振り返った。

「画質はいいに越したことないだろ。トトロは借りたからな!」

 ぽかんと大きく開いた口を閉じることを忘れ、僕は漫然と考えた。オギーが所属するのはアレか観音様か大事なところか。いかんにしろ川崎くんのようなトラブルだけは勘弁してほしい。トトロの真理は軽んずべきタブーでもないし崇め奉るべき秘仏でもない。ただそれぞれの要素が複雑に絡みあうことで、エロティックさを喚起させるのだ。すなわち大事なところはエロい。かく結論づいたとき、僕は激しく欲情していた。大橋や村井たちはいつのまにか帰っていた。

 さてと家に帰ってゆっくり……と鞄を手に取って席を立つところだった。

「オギーくんもとなりのトトロを沢村くんから借りたの?」

 高山さんが話しかけてきた。高山さんのショートカットの髪はやけにきらきらと輝き、少し厚めの唇は微かに濡れていた。

 小首をかしげた高山さんは、世の中のあらゆるから成り立っているに違いない素敵な匂いで溢れていた。楊貴妃だろうがクレオパトラだろうが、彼女に較べればただのいい香りだ。さもなければ玄宗とカエサルの間違っている。僕は高山さんの長くカールした睫毛を見ながら、僕は大事なところだろうがアレだろうが観音様だろうが、すべて受け入れる覚悟をした。高山さんは素敵でできている。




 足羽川は音一つ立てずに流れている。清流と呼ぶことはできなくとも、汚穢などとは無縁とばかりに、青い水面には小さな渦が生まれては消えていた。土曜日午後の太陽は中天よりはるか上にあった。

「セックスしてぇえ!!」

 僕の叫びは渦の一つも作れずに足羽川に流されていく。渦の一つでもできれば、ニューヨークで大嵐を引き起こせるかもしれない。

 傍らでは大橋と村井が例の回り手紙を読んでいる。

 元OMK団のメンバーで足羽川に来るのは久しぶりだ。大橋も村井もそれぞれの派閥の長でもあるわけで、ОMK団の目的がすでに達成された今、僕ら三人で足羽川に来る必然などなかった。

「これがどうしたの」村井は冷ややかにいった。

「まさかトトロを貸す気じゃないよな」大橋も興味がないのか、石を拾って足羽川に投げる。「女だぜ」

 大橋の投げた石は一瞬の渦を作るとすぐに新たな流れにかきけされた。

「まあ聞いてくれよ。今日の三時間目の古文のときだ。すごく退屈だったんだよ」

「あれはやばかった。俺も練り消しを作ってたら史上最大のでかさになった」大橋がいった。

「桐壷だか藤壷だか誰とくっつこうが、俺には関係ないしちっともあはれじゃない。だから机に突っ伏して寝ようか、それともウォークマンでoasisでも聞こうか迷ってたんだ。そのときだ。突然山内さんからこの回り手紙が来て……」

「『啓介くんへ となりのトトロをかしてくれる? 高山りえ』これが来た」村井は回り手紙を読み上げた。

「ザッツライト! しかも可愛らしいペンギンのイラスト付きだ。あっと、汚す前に返してくれ。サンキュ。でだ。俺はここでビビッと来たんだ。これは間違いないことなんだが、高山さんは俺に惚れている」

「えぇ?」村井の口からは間の抜けた声が漏れた。「なんで?」

「元々高山さんの行動を疑問に思ってたんだよ。おかしいんだよね」

「さっぱり意味がわからねえ。ただ普通のトトロがみたかったんだろ」大橋はいった。

「いいか」僕は人さし指を立てて二人の注意を集める。「高山さんは休み時間のたびに俺の机の傍に来る」

「バカか。高山は山内と仲がいいんだよ」

「バカじゃねえよ。それと高山さんを呼び捨てするな。……じゃあなぜ高山さんは山内さんを自分の席に呼ばないんだ。昼飯だって俺の机の傍で食べる」

「う、うん」村井は曖昧に頷いた。

「この前の席替えのときだってそうだ。俺に少しでも近づこうとして、席を変わってもらってた」

「バカか。高山は目が悪いから前に移ったんだ」

「バカじゃねえよ。それと高山さんを呼び捨てするな。しかも朝登校するときよく下駄箱で一緒になるんだ。で、『おはよう』って挨拶するんだよ」

「お前やっぱり村井と同類なんじゃないか。たまたま高山の、……高山さんのバスの時間帯がお前の電車と重なってんだ。だいたい高山は、高山……さんは誰にでも挨拶する。村井にだってする。妄想のしすぎだ」

「妄想じゃない。村井と一緒にするな」

「俺のだって妄想じゃない。精神っていうかイデオロギーだ。……だけどホントに大丈夫? そもそも高山りえさんとはあまり話したことないでしょ」村井は心配そうにいった。

「ちっとも大丈夫だよ。話したことないけど俺には確信がある。お前らは偶然とか思い過ごしだって思ってるようだけど、三つも偶然と思い過ごしが重なることなんてない。偶然とは考えられないんだ。しかもだ。決定的証拠がある。この回り手紙には『啓介くん』って書いてある。沢村くんじゃないんだぞ。これは心理学的に考えて俺に親しみを覚えている証拠だし、このペンギンの絵だってそうだ。それでもお前らは思い過ごしだって言うのか」

「……そう言われてみれば啓介のいうことにも一利あるな」大橋は渋々と頷いて「高山はエロい」

「エロくねえよ。だけど俺の言う通りだろ?」

「川崎くんのときも啓介が正しかったしね」村井も同意した。

「だったらさっさと姦っちまえばいいじゃん。ヒィヒィ言わせたらお前の勝ちだよ」

「大橋、こういうのに勝ち負けはないだろ」僕はいった。

「駄目だよ。そんなことしたら罰があたるよ」

「罰? いいか村井。アレはな、俺たちにブチこまれるためにあるんだよ!」

「これだから子供は困るよ。強がっちゃってさ」村井は大仰に肩をすくめた。

「んだとぉ!」大橋は声を荒げた。

「お前らもっと現実的にいこうぜ」僕は二人を諭すようにいった。「まずはトトロの貸し借りからはじまって、次はCD、その次は映画を観にいく、手を繋ぐ、でようやくキスだ。大事なところはずっと先だ」

「だったら最初から『川に願いを』で『セックスしてぇ』なんて言うなよ」大橋が口を尖らせる。

「願う分には問題ないだろ」

 村井は呆れたように溜め息をついた。「そこまでわかってるなら、どうして俺らを呼んだの?」

「お前らに相談があるからだ。俺は個人的な理由から高山さんにトトロを貸さなければならない。でも彼女にトトロを貸すわけにはいかない。彼女がトトロの正体を知られたら大変なことになるからだ。好きな女に裏ビデオを観せるなんて、俺はタクシー・ドライバーのトラヴィスか。……つまりだ。高山さんを誤解させたまま、本物のトトロを貸せばいいんだよ。これで万事うまく収まる。そこでだ。お前ら俺に二千円ほど貸してくれないか? 意外と映画のビデオって高いんだよ」

「な!」二人はみるみる顔を歪ませると口々に罵った。しかし「トトロは誰のおかげで観れたのかな」という僕の言葉にしぶしぶながら財布の紐をといた。

「高山さんとセックスしてぇ!!」僕はもう一度だけ、そして本心にプラスもう一つの本心を加えて叫ぶと、大橋らを連れだって足羽川を後にした。福井県最後の野良犬は見当たらなかった。

 日曜日の夜リビングのソファーに座りながら高山さんのことを考えていた。というよりむしろ高山さんが頭にこびりついて、何を考えていても彼女の顔が現れて、彼女の素敵な匂いを思い出させる。頭蓋骨の内側に彼女の影が印刷されたみたいで腹立ちさえ覚える。

 妹の麻希はごっつええ感じを観てけたけた笑っていた。お袋はキッチンで山吹のおばさんから買ったステンレス鍋を丁寧に磨いている。親父は応接間で最近手に入れたJ・F・Kを観ているらしい。

 明日はどのタイミングで宮崎駿版となりのトトロを渡すべきか。僕から声をかけるべきか、高山さんを待つべきか。いずれの場合もキスまでの幸せな経過だけが頭を過って、思わず口元が緩む。彼女に何のCDを貸そうか。ニルヴァーナ。ボンジョビ。エアロスミス。オアシス。それともガンズアンドローゼスか。そうだ。麻希に訊けばいい。

「麻希はどんな音楽聞いてるんだ?」

 CMを見計らって僕は尋ねた。

「私? えーとね、ミスチルとか安室とかTRFとか」

「なんで!?」

 麻希は僕の反応に頬を膨らませた。心外だったらしい。

「なんか文句ある?」

「ロックを聞けよロック。ロックって言ったら洋楽だろ。ニルヴァーナ聞けよ。グランジだぜ?」

「英語わかんないもん」麻希は拗ねたように、テレビに視線を戻した。テレビではCMも終わってゴレンジャイがはじまった。麻希は「ゴレンジャイだ!」と嬉しそうに手を叩いた。

「英語なんかわからなくてもカート・コバーンはかっこいいんだよ」

「お兄ちゃん、黙って」

 テレビではYОUの家に髑髏を被った浜ちゃんが訪れている。ゴレンジャイ登場までもうしばらくだ。すると親父がリビングに現れ、決まり悪そうに喉を鳴らした。

「啓介……お前となりのトトロ知らないか」

 僕はぎゃっと悲鳴をあげて飛び上がりそうになった。親父は僕と眼をあわせようとせず、しきりに頭をかいている。僕は懸命の努力で平静に平静を装い、平静に口を開き、平静に声を出す。

「……知らない」

 心臓が四百メートル走を走ったときよりも激しく鼓動していた。背中からは幾筋もの冷たい汗がたらりたらりと流れていた。僕はもう一度、記憶を辿っているかのように、天井を見上げながらいった。「やっぱり知らないなあ」

「そうか」親父はそう言うと僕の隣に腰を下ろた。そして煙草に火をつけて落ち着きなく脚を揺すった。僕は話が変われと必死に祈った。

「へー、家にとなりのトトロあったんだ。今度観よっかな」

 麻希は無邪気にいった。親父は動揺したらしく「う、うん。アニメのな」と見当違いな返事をする。

「お父さんがアニメを観るなんて珍しいわね」

 親父は吸いかけの煙草を消した。麻希は何も知らないことを武器にしつこくこの話題を食い下がった。大橋がいれば「バカ女が!」などと蹴り殺しているだろう。麻希は親父のトトロのおかげで無邪気でいられるのであり、その点ではアニメ嫌いでリアル嗜好の親父に感謝すべきであり、そして親父からトトロを奪った僕に感謝すべきだ。だからさっさと話題を変えるべきである。

「あらあら珍しいわね。お父さんがこんなところにいるなんて」お袋がエプロンを外しながらやってきた。

「母さんはとなりのトトロをみてないか」

「みてませんよ」

 どうにもいたたまれなくなる。会話が進むたびに、親父の無言のプレッシャーひしひしと感じる。親父は気付いていないのかもしれない。気付いているのかもしれない。親父の密かな楽しみを奪った息子など自室に篭って√2の語呂合わせでも唱えてればいい。と、思ったが機会はすでに機会は逸した。

「えー麻希観たいのにー」

「お父さんを困らせないの」

「だって観たくなっちゃったんだもん」

「麻希ゴレンジャイ観なよ」

「今日は諦めなさい」親父がもう一本煙草に火をつけると大きく紫煙を吐いた。「今度啓介に借りてきてもらえばいい」

 僕はあはははと笑う。

「サツキとメイのお母さんって死んじゃうんだっけ?」

「ゴレンジャイ終わるよ」

「トトロは忘れなさい」

「あー気になる! ホントにお母さん知らないの?」

「知らないわよ。それよりも聞いてよ。山吹の奥さんから鍋がすごいのよ。少しも焦げ付かないしお手入れも簡単で……」

 僕はほっと胸をなでおろした。これで親父は応接間に引き返すし、麻希もごっつええ感じに集中する。山吹のおばさんの受け売りをそこそこにして、僕は自分の部屋に戻った。電話の子機を持って。

 事が大きくなる前に片づけなければならない。

「もしもし荻原ですけど、どちらさまでしょうか」

 受話器から取り澄ました甲高い声が聞こえてきた。

「あのオギーは、いや荻原くんはいますか? 同じクラスの沢村啓介です」

「あらあらこんばんは。いつも隆治がお世話になってます」

「いやいやこちらこそです」

「隆治は家じゃバスケットボールのことしか話さなくって困ってますの。『マジック・ジョンソンがすごい』とか『ジョーダンがすごい』とか『桜木花道がいれば』とか。本当にバスケットボールのことばっかりで……あの隆治は学校ではどんな様子なんでしょう?」

「そうですね。いつもバスケしてますね」

「あらそうやっぱり」

「ところで荻原くんはいますでしょうか?」

「あらあらごめんなさい。隆治、今日バスケットボール部の遠征で遅くなるんですの。T県まで行くんですって。今年は受験なのにねえ。まあ、キャプテンですし指定校推薦をとるにも有利でしょうけど。どうするつもりなのかしら」

「……バスケするんじゃないでしょうか。ところでオギーは?」

「おほほほほ。それじゃ帰ってきたら沢村さんに電話するようにいいますわ」

「……よろしくお願いします」

「それじゃ沢村さんも頑張ってね」

 電話を切ると僕は呻いた。ずっと。ずぅっっと。腹の底を全部絞り出しきっても足らなかった。一階からは麻希の笑い声が聞こえる、ベッドが微かに震えているのは、応接間のスーパーウーファーのせいだろう。お袋はまたステンレス鍋を磨いているに違いない。

 窓を開けて外を眺めた。遠くから救急車のサイレンが鳴っている。今夜の風は気持ちがいい。

 僕は心の中で高山さんに助けを求めていた。不思議だった。彼女が助けてくれる気がする。彼女は今なにをしているだろう。僕のことを考え、僕と話すことを考え、僕と一緒に歩くことを考えていたらうれしい。一瞬大橋の「高山はエロい」という言葉が頭をよぎり、慌てて打ち消す。少し幸せな気分だ。

 電話は深夜二時をすぎても鳴らず、夜はいつも以上に長かった。高山さんはきっと起きているはずだ。彼女だけが夜を短くしてくれる気がした。




 月曜日の朝親父と顔をあわせる前に家を出た。誰よりも早く学校に行って、オギーを待ち受け、件のトトロを回収するのだ。そして一方で高山さんと愛の物々交換をはじめなければならない。

 いつもより一時間早い学校は、生徒玄関が開いていたが、人影はまったくない。普段は玄関に入る前から響いた、すのこをとんとんと踏んでいく音は少しも聞こえない。僕は、どこでオギーを待つべきか、と考えながら玄関をくぐり、三年十二組の下駄箱へ向かうと、はたしてその人がいた。

「おはよう」といった高山さんは戸惑ってみえた。僕の耳たぶは急激に熱くなっていった。足先から頭のてっぺんまで全身が心臓の鼓動で波打っているようだった。薄暗い下駄箱の前でも彼女の髪はさらさらと揺れていて、昨夜夢見た彼女よりも一回り小さく感じられる。

「お、おあよう」僕の上ずった声に、高山さんはすこし困ったような笑顔をした。大橋はヒィヒィ言わせたら勝ちだなんてよくも言えたものだ。彼女は吹けば飛んでしまいそうなほど、それこそ西風ゼフュルスの息を屁とも思わないヴィーナスとは違う、それくらい華奢に思えた。

 今しかない。もうしばらくしたら生徒達が登校してきて、二人きりになる機会なんて、高山さんがトイレに入ったときしかなくなる。女子トイレでビデオの貸し借りをするなんて聞いたことない。

「啓介くん?」

 僕ははっと我に返った。取り繕うように鞄の中から宮崎駿版となりのトトロとNirvanaのNEVERMINDを取り出し、高山さんに突きつけた。

「これトトロ。それとこれすごいかっこいいから聞いてみて」

 なんだか自分が恥ずかしくてしかたなかった。高山さんが日本刀で僕の首を一閃してくれたらどれだけすっきりするだろう。

 高山さんは僕の考えが届いたのか、驚いたようで、大きな眼をぱちくりと瞬いた。そして「あ、ありがと」と手を伸ばし、ビデオとCDを持つ僕の手と触れあった。彼女の手は冷たくしなやかだった。手汗を拭わなかったことを後悔した。僕は手にしたビデオらの重力を感じなくなるまで待つと、外履きのまま教室へ突っ走った。それから自分の机に突っ伏すと、これは運命でしかない。僕がトロイアのパリスならばアフロディーテの神託はかくならんとヘレネな高山さんをすでにさらっているだろう。そうなるべきものはそうなるべくしてあるのだ。そんな思いがふつふつと幸せとともに湧きおこった。これが運命なのだ。運命じゃないなら宿命だ。

 裏付けされた定めを辿りながら、幸せまでの過程を幸せと一緒に楽しんでいるところ、野太い声の邪魔が入った。顔を机から放すと体操服姿で首元にタオルを巻いたオギーが立っていた。大事なことを忘れていた。今日こなすべきことはもう一つあるのだ。

「啓介、なんだよありゃ」とオギーは疲れ切った顔をして椅子に座った。人生の苦渋を塗りたくられた彼の草臥れた様子は、バスケ部の朝練のせいだけではないらしい。オギーは山内さんの机に腰かけた。「怖ぇよアレ。なんであんなもんがついてんだよ。信じられるか、啓介。お前も自分の父親と母親がセックスして、自分の母親のアレから飛びだしてきたんだぜ」

「そういうことは人前で口にするな」

 オギーの気持ちはわからないでもない。だがオギーを慰めたり、あるいは鼓舞したりするのは大橋の役目だ。僕じゃない。僕にはまず解決するべき問題がある。

「トトロを返してくれないか」

「昨日はごめんな。遠征がぼろぼろでさ、電話する気力もなかったんだよ。トトロみたらげっそりしちゃって」

「で、トトロ持ってんだろ?」

「頼りのツボヤンも遠征サボるしさ。さっき朝練のとき訊いたら『徳丸とデートしてた』だって、もう最悪だよ」

「だからトトロは?」

「うん?」

「うん? じゃねーよ。遠征もツボヤンもバブル崩壊だって俺には関係ない。教えて欲しいのは一つだけだ。トトロはどこなんだよ?」僕はオギーの鼻と僕の鼻がくっつくくらい顔を近づけ、吐き捨てるようにいった。

「ああ貸したよ」オギーは平然といった。

「貸しただって?」自分の耳を疑った。親父の大事な大事なトトロを、見ず知らずの人間に貸すなんてそんな奴はどこにいる。ここにいる!! 「あれは親父のビデオなんだよ。誰が持ってるんだよ」

「あははは」

「あははは。って笑ってる場合か。トトロは誰に貸したんだ?」

「三組の屋代。補欠やってる。足は速いんだけどな。テクニックがな」

「三組だな」僕が席を立った拍子に椅子は倒れ、オギーは顔をしかめ両手で耳を塞いだ。タイルに硬い音を響いた。

「おはよう」教壇側の入り口からは高山さんが現れた。

「おはよう」僕は努めて自然な笑顔で挨拶する。オギーは目を白黒させた。どうやら聞き逃したらしい。高山さんはすこし首を傾げ、自分の席に着くと自習をはじめた。僕は声のトーンを落とし、会話を続行する。

「三組の屋代が持ってるんだな?」

「屋代は持ってないよ。大丈夫か?」

「お前が言ったんだろ! 勝手な心配するな」

「昨日の遠征のバスの中で、屋代が二年の長谷川に貸してた」

「二年の長谷川!? 先に言えよ!!」

「次期キャプテンなんだ」

「二年にはまだ早すぎるだろ!」

 僕は教室を飛びだした。背中に高山さんの視線を感じた。痛いほど。

「もってないすよ。あんなの」

 目が回るような朝だ。高山さんに本物のトトロを渡し、オギーにはトトロの行方を問い質し、トトロを求めて二年で坊主頭のにきび面を尋ねたら行き損だ。トトロ、トトロ、トトロ! 世界はトトロを中心に回っている。なのに少しもと《・》な《・》り《・》に《・》ありゃしない。

「どこにいったんだよ! ビデオテープに足ははえちゃいねえぜ。それとも大人になると見えなくなるってのかよ」

「荻原先輩に返しましたけど」

 天井の蛍光灯がふわりと宙を舞った。僕は眼を瞑り、深呼吸をする。「オギーは持ってる癖に持ってないって嘘をついているってことか?」

「そんなこと!」長谷川くんは眼を丸くしてかぶりを振った。「荻原先輩がそんなことするはずないっす。でも確かに返しましたよ」

「それじゃあトトロは! ……いや待ってくれ」

 気が付いたら僕はせかせかと長谷川くんの回りを歩き回っていた。彼は不安そうな眼で僕を見つめていた。僕は静かに足を止めると訊いた。「君は女性器のことをなんて呼ぶ?」

「へ? なんすか? 外履きのことっすか? 外履きならかえた方がいっすよ」長谷川くんが驚くのも無理もない。彼もパリで東京タワーの場所でも尋ねるようなものだ。訊いた僕が一番わかっている。外履きのこともだ。

 僕はもう一度ゆっくりと、そして重々しくいった。

「確認したいんだ。君は女性器のことをなんて呼ぶんだい?」

「……女性器ってアレのことっすか?」

「OK。アレね」

 この二年坊主はアレと言った。トトロのこともあんなのと呼んでいた。ならば川崎くんのようなことはあるまい。少なくとも昨日今日の間では。オギーの野郎バスケ部の分際で帰宅部の僕にフェイントをしてみせたらしい。

「サンキュー。オ《・》ギ《・》ー《・》に訊いてみるよ」

「……でもおかしいな。もしかしたら気付いていないのかな。下駄箱に入れたのに」

「下駄箱だって!」

「忘れないように朝練前に入れといたんすよ。確実でしょ」

「先に言えよ!」

 僕は脱兎のごとく学生玄関へと走った。この調子では、いつトトロが僕の手に戻るのか、最終的には親父の手なんだけど、はなはだ見当がつかない。エルミタージュ美術館で見かけたよ。そういわれたって少しもおかしくない。トトロは求める人に応じてもはや勝手に羊飼いと化したのかもしれない。人をかき分け、玄関へと向かう。村井ともすれ違い、何か言っていたが、当然無視だ。

 灰色に塗られたスチール製の下駄箱はところどころ凹んでいて、学生玄関独特の薄暗い照明を曖昧に反射していた。年月と使い主のがさつさのためか、戸が閉まりきれず、だらしなく外履きスニーカーの紐が零れている下足入れがあった。名前のプレートには大橋とある。やっぱりだ。

「荻原、荻原、荻原……」僕はオギーの名前を唱えながら、プレートを探す。あった。人もちょうどいない。僕は扉を開いた。

 つんとした刺激臭が鼻を襲う。上下二段に仕切られた下駄箱の中には体育用シューズと外履きのスニーカーと小さな紙袋があった。紙袋の『Cool birds in cool land!』という文字の下では、サングラスをかけたイワトビペンギンが、バスケットボールを手にダンクシュートを決めようとしていた。PPラミネートで加工された紙袋はいやにつるつるしていた。袋の中にスポーツタオルとかわいらしい封筒が入っていた。封筒には『高山りえ』と名前が書かれている。

 スポーツタオルからはうっすらと高山さんの匂いがした。僕は一瞬にして悟った。僕は紙袋を元に戻すと静かに扉を閉めた。HR開始のチャイムが鳴ったことに気付かなかった。終わったのだ。

 午前中の授業はずっと上の空だった。二項定理も返り点も塩化銅もハイドンも、僕の人生には無関係だし、その上高山さんまで僕に無関係なのだ。彼女の視線は全部オギーに捧げられていたのだ。トトロもオギーとのきっかけが欲しかっただけで、今朝も人知れずラブレターを下駄箱にひそませようとしていただけなのだ。僕は虚ろのまま年をとって、二項定理や返り点や塩化銅やハイドンから思いきり離れて暮らそう。理解できないものと一緒なんて嫌だ。頭の中に詰め込むべきは、理解したこと、理解したいことだ。高山さんは二項定理と同じだ。消えてしまえ。無くなってしまえ。死んでしまえ。世界を高山さんで埋めつくせ。そうだ。ペンギン紙袋がオギーの手に入る前に捨ててしまえばいい。オギーはまだ知らない。高山さんと人生をはじめるのは僕だ。ニルヴァーナも貸したし、本物のトトロだって貸した。これからなのだ。でも……彼女の頭の中でいっぱいなのはオギーだ。彼女が理解したいのはオギーで僕じゃない。高山さんはオギーと一緒になるべきなのだ。彼女はオギーを選んだのだ。

 そんなの関係あるか! 机に俯せていた僕は跳ね起きた。あんな紙袋投げ捨ててしまえばいい。

「高山とはうまくいったのかよ」

 振り返ると大橋がいやらしそうににやにや笑っていた。

「うるせえよ。急いでるんだよ」

「なんだよ。ご挨拶だな」大橋は手のひらをひらひらさせて、おどけてみせた。「いくら駄目だったからって俺に八つ当たりすんなよ」

「まだ駄目って決まったわけじゃない」

「まあ、頑張んなよ。応援するぜ。お前もツボヤンみたいに……知ってるか。ツボヤン、昨日徳丸とやったらしいぜ」

「なんで! ツボヤンはお前の仲間だだろ。女子嫌悪の固まりが女とやるはずない。徳丸を殺したってんならわかる」

「ツボヤン曰く『やった。すごかった。気持ちよかった』」

「びっくりだな」

「でさ、俺気付いたんだよ。昨日ツボヤンが徳丸とやってる間、俺何してたと思う。ずっとセガサターンしてたんだぜ。すげえ負けた気がするじゃん。俺、ヴァーチャファイターの七段取ってる間にツボヤンは徳丸の下着脱がしてたんだ」

「マジかよ」そういう僕はそのとき高山さんのことを考えていた。

「青のスポーツブラだったんだってさ」

「さすが女子バレー部だな」

「女子バレー部はスポーツブラしか選ばないからな」

「女子バレー部でスポーツブラじゃないのは、顧問の敦賀先生だけだ。黒のスケスケらしい」

「村井から聞いたんだろ、啓介」

「もちろん」

「やっぱりな。だから俺も負けてられない。俺決めたんだ」

「八段を狙うのか。八段は難しいぞ」

「ヴァーチャファイターじゃねえよ」大橋は辺りをきょろきょろと見合わせると声を落としていった。「俺どうやら山内が好きらしい。山内と付き合いたいんだ。山内と手を繋ぎたい」

「な、なんで?」

「知らねえよ。さっきの音楽の授業が終わって音楽室から出るときに気付いたんだ。山内が大地賛唱を鼻歌で歌っててさ、なんつうか、ゾクってきたんだよ」

「あそう」

「だから啓介、山内のこと教えてくれ。お前隣だろ。山内のことならなんでもいい。好きな食べ物とか好きな音楽とか好きな動物とか」

「訊いてみるよ」

「頼んだぞ! それとなく訊くんだぜ。そうそう、それとトトロ貸してくれ。勉強したいんだ」

「勉強ってなんだよ? ダビング持ってるだろ」

「画像がいいほうが勉強になる。山内に関係することは全部知りたいんだ」

「いいけどさ……」と言いかけた途端、僕ははっと息を飲んだ。トトロはどこにある? トトロはどこにいった!

「待てよ啓介! 外履きはまずいだろ!」背中に大橋の声を受けながら、僕は全力で生徒玄関へと向う。階段で一段踏み外し、ツボヤンと徳丸さんの繋いだ手を引き裂いて、「青のスポーツブラ」と平謝る。古文の先生の持った小テストを廊下に巻き散らし、顔を見られていないのこれ幸いと廊下をひた走ると、購買のあんパンを踏みつぶし滑って転ぶ、あんパン代を弁償し、ようやく生徒玄関に到着する。オギーの下駄箱を開いてジ・エンド。回収すべきトトロはないし、抹消すべきペンギン紙袋もない。下駄箱には異臭を放つオギーのスニーカーと体育シューズしかない。ペンギン紙袋はすでにオギーの手にあり、トトロは高山さんが持っている。

 僕より先にオギーの下駄箱を開けた人間は彼女だけだ。オギーの下足箱を開けた人間を順に表せば次の通り。オギー(登校)↓長谷川くん(トトロ)↓高山さん(トトロと紙袋交換)↓僕(失望)↓オギー(紙袋回収)↓僕(絶望)。要するに終わり。彼女は宮崎駿版と現実版のトトロの所有者で、僕には到底返してくれなんて言えない。言えるはずがない。

 でも僕は言った。

「高山さん、トトロを返してくんない」

「いいわよ」高山さんは顔色一つ変えることなく鞄から宮崎駿版を取り出した。僕は高山さんの冷たい手を思い出した。

 サツキとメイとトトロの可愛らしいパッケージは容赦なく僕の胸を締めつけた。僕の過ちを責め立てられるようでいて、しかもそれを彼女に見透かされているような気がした。

「そっちじゃなくて……」思いあぐねた僕は言葉につまった。

「CDのこと? いいわよ」

「…………違うんです。それでもなくてもう一本トトロを持ってると思うんですが」

 高山さんはきつく眉を顰めた。

「どういうこと? 沢村くんからはもう何も借りてないけど」

「はははははは」

 持てあますほどの羞恥と無念で、僕の口からは力のない笑い声しか出てこない。高山さんはトトロを知らないという。それってどういうことだ。「じゃトトロはどこにいったんでしょう?」

 高山さんはそれ以上何も答えなかった。ただ睫毛の長い眸からは不審の色が覗いていた。

 僕と彼女の間に沈黙が訪れたそのとき、オギーが後ろの引戸から顔を覗かせた。

「ちょっといいかな、高山」

 オギーは真面目でいてどこか照れ臭そうだった。

「うん」

 高山さんは顔をほころばせると僕をおいてオギーの元へと去った。高山さんの髪の匂いだけが僕に残り、それはひどく残酷な香りだった。




 河原から立ちこめる草いきれが堤防の天端まで届き、それ以上の湿気が風に含まれている。カラーがペタペタと首にひっつくことも考えると、もうすぐ梅雨だ。夕暮れにはまだ早い。僕らは足羽川の堤防をとぼとぼと歩いていた。正確に言えば、とぼとぼ歩いているのは僕だけで、大橋と村井は陽気に歩いている。二人は希望に満ちている。

 大橋は山内さんのことを毎日飽きもせず尋ねてきた。僕はできるかぎりの山内さんを大橋に教え、訊かれたかぎりの山内さんを教えた。僕は山内さんのことを大橋よりも知っていた。山内さんが枝毛を抜くとき「ふん」と鼻を鳴らすのも知っているし、生理が僕のお袋よりも苦しいことも知っているし、山内さんに福大生の彼氏がいることも知っていた。でもこれは教えちゃいけないことだ。

 村井は新たにノートを綴りはじめた。村井自身は豊臣ノートと呼んでいる。その名の通りノートには『豊臣』に行くための綿密なスケジュールと予算がしたためられている。守銭奴と化した村井は昼飯をカロリーメイトだけですまし、毎日宮崎駿版トトロ購入に僕が借りたお金を請求してはこつこつと貯金をし悦に入っている。再来週には『豊臣』の入浴料一万五千円に達するそうだ。だが村井は入浴料の他にサービス料があることを知らない。だけどこれも教えちゃいけないことだ。

 僕には最悪だけが残った。トトロは消えたままだ。念のため秘密裏に大橋と村井に高山さんの鞄と机とロッカーを確認させたが、トトロの行方は依然として不明だ。翌日僕の下駄箱にはニルヴァーナのCDと宮崎版トトロと『ありがと』とだけ書かれた小手紙があって、オギーと高山さんはその次の日から付き合うことになった。高山さんは山内さんの傍に来ることもなくなって、かわりに山内さんが彼女の席へ行くようになった。その上家に帰れば僕の部屋が丹念に荒らされているし、おそらく親父の仕業だろう、本当に最悪だ。

 すでにアレ派も観音様派も大事なところ派もなくなっていた。強いて言えば大事なところ派に鞍替えしたのである。

 明確なきっかけはトトロダッシュダッシュダッシュだった。川崎くんのミスで本当に四組の宇都宮さんに流失し、乾いた地面が水を吸いこむように、女子の間にみるみる広がった。男だけで共有していた暗黙の了解が公然の事実となってしまったのだ。しかし女子は強かった。川崎くんを変態扱いすることなく、事実をあっさりと受け止め、逆により強い好奇心で男子を刺激した。ちょうど男子は男子で、心の奥底の下腹部から突き動かされるエネルギーと愛と思わしきシンパシーから、徐々に現実を受け入れはじめていたころだった。派閥は容易に崩れた。最初からこうなる結果だったのだ。

「まだ見付からないのか」大橋はいった。

「山内、愛してる」を十五回も叫んだ後だ。声が少し掠れている。村井はまだ「後五千二百円!」と叫んでいる。

「まだだよ」

「やっぱり俺らのいうこときいたほうがいいんじゃないか。せっかく村井が作ったんだぜ」大橋は内ポケットからの《・》ト《・》ト《・》ロ《・》とサインペンで書かれたビデオのラベルシールを取り出した。

「字が違う。太さが違う。配置が違う。ばれるだろ。第一『隣』は漢字じゃなくてひらがなだ」

「気にしたら負けだろ」

「気にしても負けだ」

「あっそ」大橋は不貞腐れて、足羽川に向けてシールを投げた。シールはだらしなくシャジクソウの上に落ちた。これからこのシャジクソウの名前は隣のトトロだ。

「あっ。四つ葉のトトロ発見」四つ葉のクローバーを摘むと、切なさでいっぱいになった。幸運など僕に訪れるのだろうか。遠く対岸の福伊良橋のたもとでは野良犬と思える二匹が交尾をしていた。彼のパートナーらしい。「やったじゃん」

「お前何言ってんの?」大橋は怪訝そうな顔をした。

「川崎くんのときみたいにわからないの? あのときとは違うの?」村井の息は上がっていた。

「あのときは違和感があったんだよ。なんというか不思議だったんだ」

「今だって不思議だろ。オギーは持ってない。オギーの後輩も持ってない。高山は持ってない。じゃ誰が持ってる」

「啓介は高山りえさんで頭が一杯すぎて、わかんなくなっちゃったんじゃない」

「さあね」

「いや、俺は高山が持ってるって睨んでるね。なんとか隠し持ってさ。もう一遍訊いてみろよ」

「振られた女に『裏ビデオ返してください』なんて言えるか。というより俺は避けられてんだよ」

「俺と同じだね」村井はにやりと笑みを浮かべた。僕は顔を曇らせる。

「でも振られてねえだろ。告白してないんだし」大橋がいった。

「そうだ。荻原に頼めばいいんじゃない。高山りえさんと付きあってるんだし角が立たない」

「やだよ。オギーとはしばらく口をききたくない」

「お前女かよ」

「女じゃねえよ」

「啓介がいいんなら別にいいけどさ、もし高山りえさんが持ってるとしたら今ごろ荻原と二人でトトロ観てんじゃないの」

「はあ?」

「一番いい教科書でしょ。ビデオの通りやれば荻原でも間違えないし、高山りえさんも安心だろ」

「高山さんはそんなことしない!」

 胸が張り裂けそうだった。高山さんとオギーがソファーに並んで座っている姿がはっきりと想像できた。オギーは彼女の肩に手を回す。彼女もうっとりとオギーにしなだれる。それから…………。

「やっ、やめてくれよ。啓介」

 僕は村井の首筋を思いきり締め上げていた。オギーと高山さんが仲睦まじくトトロを観ている姿なんて僕には堪えられない。駿版ならまだいい。でもリアル版は絶対に許せない。十三日の金曜日やエルム街の悪夢よりも駄目だ。

「ま、ま、ま、ま、落ち着けよ」大橋が両手を前にひろげ、愛人と奥さんの修羅場に居合わせた亭主のように、あたふたと僕を宥めた。「村井も悪気があったんじゃないんだ。お前のためを思ってんだ」

「け、啓介、ごめん。でも高山さんのことはもう忘れたほうがいいよ」村井は呻いた。

「あっ」

 僕は村井を放した。村井はげほげほとむせていた。大橋が「大丈夫か」と村井の背を擦っている。

「なんだって村井? もう一回言ってくれ」

「えっ? だから高山さんのことは忘れなって言ったんだよ」

「そうだよ。啓介。気にしたら負けだ」

「そうか。そうだったんだ。……悪かった村井。でもサンキュー。大橋、後よろしく」

「よろしくって……おい」

 僕は急いで駆け出した。そうだ。高山さんは忘れなければならないのだ。高山さんがすべてを混乱させていたのだ。

 やっぱり高山さんはトトロを盗っていない。そもそも僕と会う前に彼女がオギーの下駄箱を開けていたら、僕が宮崎駿版を渡したときに「あ、これ借りるからもう大丈夫よ」などと何か言うはずだし、僕に会った後なら尚更トトロを盗る必要はない。しかし彼女はペンギン紙袋のためにオギーの下駄箱を覗いている。でも彼女も僕もオギーもトトロをみていないのだ。つまり最初からオギーの下駄箱にはトトロはなかった。そしてオギーの後輩が嘘をついてないとすると、一つの疑問に帰結する。

 オギーの後輩はトトロを誰に 間違えて返したのだろうか?

 一人しかいない。

 ワラちゃんだ。

 萩原。

 オギーの名前は荻原で、僕や大橋などのわりと親しい連中はオギーとあだ名で呼ぶが、一部の同級生やバスケ部の後輩たちからは荻原と名字で呼ばれている。暗い生徒玄関で生年月日順の出席番号順に並べられた下駄箱。荻原と萩原。間違えるのも無理はない。僕は高山さんにとらわれすぎていた。単なるオギーの後輩のミスだったのだ。そして僕もトトロの影に躍らされていた。

「ワラちゃんも人が悪いぜ」そう呟きながら僕は玄関で靴を脱ぎ捨てた。きっとワラちゃんは観音様派に違いない。よしんばリアリストに戻ったとしても気の弱い男だ。返すに返せなくなったのだろう。だがトトロが戻ってくるならそれでいい。まだ間に合う。ワラちゃんに電話をかけ、明日にでも取り戻し、応接間のビデオ棚の隅にこっそりと置けば無事に終わる。

「こんにちは、啓介くん」

 上がり框に上がったところで山吹のおばさんがダイニングから出てきた。どうやらおばさんも帰るところらしい。今日はフライパンやミキサーが入ったバッグを持っていない。

「こんちは」

「いつも学校でお世話してくれてありがとうね」そう頭を下げるとおばさんは玄関を後にした。

 お世話?

「ただいま」僕は首を傾げながらダイニングに入ると、キッチンではお袋が夕食をつくっていた。軽快な包丁の音がダイニングまで届いてくる。匂いからすると今晩は僕の嫌いなカレーだ。

「今日カレーなの? 勘弁してよ」

 聞こえてないのか、お袋からは言葉一つ返ってこない。

「あのさ、山吹のおばさんが学校で俺に世話になってるっていってたんだけどどういう意味なの?」

「何言ってるの。息子さんが啓介の同級生じゃないの」お袋は振り返りもせずに答えた。包丁の音は相変わらず響いている。

「でも山吹なんていないよ。勘違いなんじゃないの」

「山吹っていうのは旦那さんの経営してる喫茶店の名前でしょ。萩原が本当の名前よ」

「ええ!! ワラちゃんって山吹のおばさんの子供なの!!」僕は驚きを隠すことができなかった。クラスメイトになってもう三ヶ月にもなるのに、ワラちゃんは一言もそんなことを言ってくれなかった。ワラちゃんはクラスでも存在感がなく、話したことはあまりないが。

「山吹さんのお子さんにあんまり迷惑をかけちゃ駄目よ」

「えっ?」

 お袋の口調にはやけに険があった。

「今日はわざわざ息子さんが啓介からビデオを返しに来てくれたのよ」

「ああっ、ごめん」もう少し待てば決定的な一言を聞けるだろう。だがそれは聞いちゃいけない部類のものだ。聞いたら最後、よくないことになることはわかっている。早く自分の部屋に逃げよう。心ではそう思っていた。だけど身体がどうしても動かなかった。

 お袋は手を止めて、顔だけを後ろに振り向かせた。あなた本当に私が産んだ子供なの、とでも言っているような、よそよそしい眼だった。

「もうお父さんのビデオを勝手に観ないでちょうだい。わかった、啓介?」

 最悪の事態にもうひとつ、最悪が加わった。こういうのはなんて言えばいいのだろう。そうだ。極悪だ。




 わかってはいるけどやめられない。ワラちゃんのせいで、親父とはぎくしゃくするし、お袋はまるで獣のように僕を見る。何か言ってくれるならありがたいのに、二人とも当たり前のように日常を装うから余計にいたたまれない。妹は妹で何か気付いているようだ。ワラちゃんを糾弾しようかと思ったが、もうやめた。ワラちゃんはトトロ鑑賞中のクライマックスをおばさんに目撃された上、こっぴどく罵られたらしい。いやらしい。汚らわしい。はしたない。この三つがおばさんのキーワードらしいが、僕を含めたクラスの男子に彼女の言うことを理解できる人間はいないだろう。おばさんだって、僕の親父やお袋だって、本当は理解していないかもしれない。理解できる人間が子供を造るはずがない。僕を止められる人間などいない。

 僕はこっそりと応接間に忍びこんだ。妹は無論のこと、親父もお袋も寝ている時間だ。僕はビデオテープが並んだ棚の前に立った。トトロはもうない。

 隠し場所は変わってしまったのか。それともお袋に捨てられてしまったのか。親父の寝室に隠されたとすると捜し出すには骨が折れるだろう。捨てられたとすると、いつか化けて出てくるかもしれない。大人には見えない妖精となって。

 僕は念のためもう一度ビデオ棚を丁寧に眺めた。

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 僕は自然と口元が歪むのを感じた。なるほど。アニメタイトルの持つ危険に懲りたのだろう。一本のビデオテープを手に取る。


『フーテンの寅さん 49』


 盆と正月に上映される渥美清の恒例シリーズはまだ49まで上映されていない。極秘で撮影されていたとすると、僕の親父はトルーマン・カポーティ並のセレブリティだ。

 僕は息を潜めてモニターの電源を入れる。高山さんのことはもう忘れた。すぐに夏になって秋になって冬になって受験になる。あっという間の同級生だ。オギーとはせいぜいよろしくやればいい。どうせすぐに別れる。

 僕はこれから何人の女性と出会い、何人の女性に恋に落ち、何人の女性の裸と対面するのだろう。卒業までに一人目と出会いたいところだけど、今はいい。再生ボタンをただ押すだけで、すべてを隠さず拝見させてくれる女性と出会える。少なくとも今夜は彼女で十分だ。普通の女性なら最後までもったいぶるはずなのに、最初から彼女は醜悪でかつ神聖な大事なところを開けっ広げにみせてくれた。こんな素晴らしいひとはいない。

 そのとき人の気配がした。

 振り返ると親父が立っていた。右手にティッシュペーパーを持って。

「こんな時間に何してるんだ」

 僕は答えた。

「寅さんが恋に落ちる聖女マドンナが観たいんだ」






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アレと僕と観音様と大事なところ(2007) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing

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