蝦蟇と蓑虫

木園 碧雄

蝦蟇と蓑虫

 だけは、僧侶のだった。

 五尺を優に超えるおいを背負ったまま、僧形の大男は、振り向こうとした見張り番が彼の巨躯きょくをその視界内に収めるより早く――背後からその身体をすくい上げるかのように担ぎ上げ、胸の前で見張り番の両膝頭りょうひざがしらを胸部に叩き付けんばかりの勢いで海老えび折りにへし折った。

 並び立っていたもう一人の見張り番の背後にも、着流し姿の浪人が音も立てずに、いつの間にか忍び立っていた。

「やっ――」

 振り向きざまに短槍を突き出そうとした彼の首が胴体から離れ、次いで両肘、間を置かず腰から上が首の後を追うように乾いた地面に落下した。

「やりやがった」

 浪人から少し距離を置いて立っていた中間ちゅうげん風の小男は、分断された屍体を見て心底から嫌そうな顔をした。

 とはいえ、この男が殺生を嫌ったり見張り番の死に涙したりするような善人だ、というわけでもない。

「また加減を忘れてバラバラにしやがったな、狂斎きょうさい。少しは後始末するこっちに身にもなりやがれってんだ」

 鬼すら怯えそうなことを言いながら、中間は腰に差した脇差を抜き、屍体の腰部と両足とを素早く切り離すと、懐から取り出した六巾風呂敷を広げ、てきぱきと周囲の肉片を掻き集めてその風呂敷に乗せて四端したんを一つに結んだ。不思議なことに、切断面から大量に流れ出ていたはずの鮮血は、風呂敷から溢れ出しもしなければ染みとなって広がりもしなかった。

 狂斎と呼ばれた浪人は、それでも地面に僅かながら残っている血の染みを草履で踏まない様に気をつけながら、中間が腰に挟んでいた手拭いを抜き取り刀の血をぬぐう。剃らずに伸ばし放題の月代さかやきが生活の苦しさを物語っているようではあるが、しかしその身分や生活にはそぐわぬほど精悍な顔つきである。

 それが生来のものなのか、たった今見張り番を斬ったことによる充足感からもたらされたものなのか、そこまでは中間にもうかがい知ることは出来なかった。

「気の滅入るようなことを言うな、文助ぶんすけ抜覚ばっかくに気色悪い雑な殺し方を見せられたので、気分直しに三閃五裂さんせんごれつの妙技を使って見せたのだ」

 悪びれもせず言い捨てると、海老折りになったままの屍体を地面に降ろした抜覚坊ばっかくぼうは、二人の前でおごそかに合掌した。

「何が雑な殺し方なものか。これぞ明朝みんちょうの古代、斉の公子彭生ほうせいが王命により魯国の桓公を密かにしいした際に使用されし、由緒正しき剛力の技」

 どこで身につけたのかを誰にも語らぬ知識のうさん臭さは、日焼けした僧衣の下に隆々とした筋肉と厳つい顔とを窮屈そうに押し込めた抜覚坊が僧を名乗っているのと同じくらい怪しげなものである。

「ああそうかい」

 聞き流しながら、狂斎は愛刀を収めた鞘のこじりで文助の向こう脛を小突く。

「ほれ、さっさと行け」

「わかっとるわい」

 憎々しげに応えてから、文助は目の前にそびえ立つ土塀に貼りつき、ヤモリの如くするするとなだらかな斜面を這い上る。

 一見生身の人間には不可能なように見えるが、土塀どべいというものは日が経つにつれ陽光に晒され続けた表面に細かなひび割れが生じるもので、文助は手首足首に巻いた鈎付縄かぎつきなわの鈎をひびの隙間に差し込みながら移動しているのである。

 身を捩らせながら屋根瓦に太い指を掛け、一気に屋根の上へとその身を躍らせた文助の視界に、どれも枝葉が枯れ落ちつつある庭木に囲まれた小さな蔵が映った。

 そのまま土塀を乗り越えた文助は門の裏手に回り、抜覚坊の腕ほどはあろうかという巨大な閂を両腕で抱え込みながら外し、狂人じみた剣客と無駄に目立つ坊主を門内に招き入れた。

「いつもは誰がどうやって、外からこの閂を外しているんだろうな」

「外す方法はあるらしい。結局どうやるかまではわからなかったが」

「こいつらが知っていたんじゃないか? もう息は吹きかえさないだろうが」

「聞き出すだけ時間の無駄だったろうよ。だから俺がここにいるのだし」

 腰骨と胸骨が砕け膝頭が潰れ、二つ折りになったまま吐血し目を剝いている屍体と、門の外に置いたままの風呂敷を門の内側に隠し、目撃者がいないことを確かめてから文助は門戸を閉めた。事前に下調べを済ませていたとはいえ、これまでの行程で通行人が一人も現れなかったのは、僥倖ぎょうこうと呼んでもいい。

 周辺には寺院が乱立し、土塀に囲まれた蔵の存在がいささか浮いているようにも見える。もしこれが共用の火災用具をしまっておく為の蔵なら、わざわざ見張りを二人も置いたりはしない。

 観音開きの防火扉を開け、裏白戸と網戸を滑らせた文助は、視界の先に待ち構える漆黒の中に動く気配が存在しないことを感じ取ってから、狂斎と抜覚坊を手招きで呼び寄せた。

「見えるか?」

「どうにか。奥まではさすがに見えんが、まあ三間さんけん先までは何も無いだろうな」

「どうだか」

 皮肉るような狂斎の声は、あえて聞き流すことにした。

 難攻不落の上田城でも忍び込んでみせるとうそぶくのが文助の口癖のようなものだが、今回の任を命じられた理由の一つは、彼が星明りすら無い闇夜の中でも昼間と変わらないほど夜目が利くからでもあった。

 ただしその有効範囲は決して広いものではなく、それ故に慎重に動くことを自分のみならず同行の仲間にも常に伝えてはいるのだが、過去にその忠告を聞き入れずに独断専行して命を落とした者がいる。

 名は草見幽斎くさみゆうさい。狂斎の弟である。

 天稟てんびんもあったのだろうが、兄弟ともに忍びのくせして剣術を好み、剣豪さながらに人斬りの術だけは達人の域に達してはいたのだが、肝心の忍びの術に関しては、素人に毛が生えた程度である。

 その素人に毛が生えた程度の厄介者が、もう一人同行していた。

 自ら抜覚坊と名乗り、周囲もそう呼んではいるが、剃っているのか生まれつきなのかもはっきりしないこの坊主頭が念仏を唱えているところを、文助は一度も見たことが無い。

 本人は、鐘楼しょうろうを改装している寺の前を通りがかった折りにそれを手伝い、寺の坊主たちが十人がかりでも持ち上げられなかった梵鐘を一人で抱え上げて吊り下げた礼として、その寺の和尚から授かった名である――と豪語しているが、実際のところは大方和尚を半ば脅迫して授けさせたのだろう、と文助は考えている。

「いいから早く中に入れ」

「では拙僧から」

 勿体付けて一礼した抜覚が巨躯を精一杯に縮こませながら裏白戸をくぐり、次いで狂斎が差料さしりょうを構えながら続く。

 防火扉を閉めた文助の目が網戸の木枠を一瞥した途端、その手が見えない何かに触れたかのようにぴたりと止まった。

「待て、抜覚、狂斎」

「どうした?」

「網戸に閂が拵えてある。誰か中にいるのかもしれん」

「大方、蔵にしまってあるものを探すときに、誰も中に入ってこれないように拵えただけだろう。それより文助、早く灯を――」

 抜覚坊の野太い声が途絶えた。

「抜覚?」

 蔵の奥から、ぼうっと中空に生じたほのかな輝きが、土間に転がっている半球状の影を照らし出した。

 抜覚坊の頭部――禿頭とくとうの頭頂から鼻梁びりょうの辺りまで。

 次々と生じる輝きが、その手前で頭部の半ばを切断されたまま棒立ちになっている抜覚坊の身体を闇の中に浮かび上がらせる。

「抜覚!」

 前のめりに倒れ伏す巨躯の先に、敵の姿があった。

 ずんぐりと肥えた胴体に付いた太く短い手足。

 日に焼けて黒ずんだ顔一面に広がる痘痕あばたとシミ。

 てらてらと輝く月代の下に眉は無く、扁平な顔は眠たそうな金眸眼かなぼこまなこと、横一文字に広がる分厚い唇が占拠している。

 さながら鳥獣戯画に出てくる蛙が、そのまま人の姿になったかのような風体である。一見してすぐにわかる違いといえば、まげを結い服を着て人間らしくしていることと、腰に下げた瓢箪ひょうたんと、手にしている六尺あまりの中巻なかまきぐらいだろう。

 目の前で突如として発せられた殺気に、文助は本能的に飛び退いた。

 その殺気が、眼前の敵ではなく狂斎の身体から発せられているものだと気づいたのは、彼から二間ほど距離を置いてからの事だった。

 既に狂斎の右手は、愛刀の柄を握っている。

 抜覚坊の敵討ち、などという殊勝な感情など持ち合わせてはいないだろう。

 ただ斬るのみ。

 草見狂斎がこの殺気を放って斬れなかったものを、文助は今まで一度も見たことがない。山中に渇して清水を求め、川をき止めていた大岩を気合と共に両断した男だ。

 対する蝦蟇がまのような武士の獲物である中巻は、三尺ばかりの柄に同じく三尺ばかりの大身の刀身が据え付けられたものだ。振り下ろせば威力は絶大だろうが、狭い屋内では振り回すのが困難だろうし、たとえ屋外であったとしても狂斎の剣の鋭さに敵うはずがない。

 狂斎の肩が、びくりと震えた。

「っえええぇぇっっいっ!」

 裂帛れっぱくの気合いと共に鞘から抜き放たれ、蝦蟇の脳天めがけて振り下ろされたはずの白刃が宙を舞い、その切っ先を下にして土間に突き刺さった。

 半ばまで切り落とされた愛刀を構えたまま呆然とする狂斎の身体が縦に裂け、その断面からおびただしい量の血が溢れ出す。

(いかん!)

 狂斎の敗北を目の当たりにした文助は素早く身を翻し、瓢箪の水を口に含む武士に背を向け防火扉めがけて駆けた。

 長巻は槍とは違い、斬ることのみを目的とした武器であり、突くことには不向きである。武士のずんぐりとした足では、野犬にも勝る文助の脚力に追いつき斬り伏せるのは、まず不可能だろう。

 蔵から出てしまえば、いくらでも逃れるすべはある。

 閉めたばかりの防火扉に指先が触れるあと一歩のところで、文助の胸を灼けつくような激痛が襲った。

 こうべを垂れると、届くはずがない長巻の切っ先が胸を貫き、防火扉に突き刺さっていた。




円十えんじゅう」 

 月明かりに照らされた武家屋敷。

 縁側に出た初老の侍が、虚空に向かってぼそりとつぶやくと、それに応えるかのように一匹の楠蚕くすさんがひらひらと宙を舞いながら彼の前を横切り、そのまま奥の間で滔々とうとうと灯り続けている行燈あんどんの薄紙に貼りついた。

 その光景に意識を奪われた侍の耳に

「こちらに」

という抑揚の無い声が入ってきた。

 視線を行燈から中庭に戻すと、呼ばれた当の本人――箕輪円十みのわえんじゅうが既に庭先で片膝をつき畏まっていた。

 灰汁あく色の装束に夜影が覆いかぶさり、ただでさえとした身体が余計に小さく見える。

「昨日今日と、百足むかでの文助の姿をどこかで見てはおらぬか」

 返事はない。

「草見狂斎と抜覚坊はどうじゃ」

「いずれも」

 灰汁色の影は、静かに首を振った。

「まだ戻らぬか。期日は今夜だというのに」

「さて、期日までに戻って来ないのであれば、恐らくはあやつら三人揃ってぶつ切りにされ、今頃は仲良く肥溜こえだめの底ですかな」

 覆面の奥からくぐもった声が聞こえた。

 どうやら円十は、文助ら三人が任務に失敗して殺されてしまったのだと想定し、それを嘲笑っているらしい。

「気にも掛けぬというのか。まだどこかで生きておるかもしれぬというのに」

楢山ならやま様」

 武家――楢山左門信孝ならやまさもんのぶたかとがめるかのように言うと、円十は含み笑いを止めた。

「一人倒れた時点で、こちらに何かしらの手段をもって連絡があるはず。我が弟弟子である百足の文助に限らず、草見狂斎や抜覚坊でも常にそうするのが習わしと知ってござる。誰一人として便りをよこさないのであれば、三人一度に殺されたと考えるのが妥当でございましょう。仮に捕らえられただけで生きていたしても、拷問を受けて口を割ろうが割るまいが、結局殺されることに変わりはないので同じこと」

「捕らえられたが逃げ出したかもしれぬぞ」

「任務も果たせずおめおめと戻ってくるようでは、この先使い道などございますまい」

 酷薄である。

「円十」

 楢山は顔を伏せたままの円十に向かって言葉を続けた。

「文字は読めるか?」

 円十は初めて顔を上げた。覆面に包まれた顔からはその表情を読み取ることはできないが、質問の意図を掴みかねているのは確かだろう。

 やや間を置いてから、円十は短く答えた。

「それなりには」

「書写は?」

「手本によります」

「文助ら三人には」

 楢山の視線は、円十から宙空に移った。

「ある場所に隠されている碑文を持ち出すよう命じていたのだ」

「ひぶん?」

「さよう。石碑に刻まれておる碑文だ」

「何かを持ち帰るという話だけは、出立前の三人から聞いたことがございますな」

 ちらりと楢山の顔を見上げた円十が、また地べたに顔を伏せる。

「楢山様が拙者にもお声を掛けてくださるはずだったところを、文助らが思いとどまらせたそうでございますな。それで改めて役割分担を考慮してみたところ、拙者の存在は不必要であろうとご決断なされたとか。いや、高齢の兄弟子を労わる文助の心遣い、実に有り難いものですな」

 言い方に棘が含まれている。

 円十にこの件を伝えた文助の態度がどのようなものであったのか、想像するに難くない。文助らが消息不明になったというのにさして気に掛けていないのは、円十からすれば当然の反応なのかもしれない。

「円十。お前には三人が果たせなかったであろう任務を引き継いでもらいたい」

「ほ」

 喜びとも驚きとも区別がつきかねる、円十の短い発声。

「拙者一人でございますか。文助たちは三人がかりで失敗したのでございますが」

「あの三人には、それぞれ役割を与えておった。本来ならば碑文そのものを盗み出す算段ではあったのだ。まずは文助が隠し場所に忍んで他の二人を招き入れ、狂斎が剣技で碑文そのものを斬り外し、抜覚坊の膂力りょりょくで持ち上げて運び出す予定だったのだ。現に、碑文が隠されている蔵からそう離れていない街道の片隅に、碑文を載せて運び出すのに適した大八車が放置されていた。恐らくは文助がどこからか調達したものであろう」

 たとえ見張りや護衛がいたとしても、狂斎の剣の腕なら問題は無かろう――と楢山は踏んでいたのだ。

「お言葉ですが、拙者には狂斎のような斬岩剣も無ければ抜覚の如き怪力も持ち合わせてはおりませなんだ。忍びの術であれば多少の心得はございますが、これとて弟弟子の方が年若く能力も優れておりますれば」

「だが、三人とも既にこの世におらんのであろう? ならば円十、貴様一人に任せるしかあるまい。何も碑文を丸ごと持って来いとまでは言っておらん。碑文の内容、それだけを写し取るか丸暗記して儂の元へ戻って来るのだ」

「そのような大任、この老骨ひとりではいささか困難ではございましょうが」

 自分でも何度か高齢とも老骨とも語っているが、楢山は円十の齢を知らない。

 外見から伺おうにも、灰汁色の忍び装束に包まれ目と鼻柱ぐらいしか見えない顔では、年齢などわかりようもない。

「なれど、それなりの時間をいただければ、ご期待に添えられるものかと」

「時間が掛かるのか」

「何分、三人で失敗した仕事を一人でこなさなければなりませぬ故」

「構わん。やってみせよ」

 楢山は、円十がどのような能力を持っているのか詳しくは知らなかった。

 忍びの術に長けている文助の兄弟子という情報が精々で、狂斎や抜覚坊のように喧伝されるに値する能力を持っているのかどうかも怪しい謎の男の実力を、ここで試してみたくなったという気持ちも、少しだけある。

「ただし、あまり時間を掛け過ぎるな……そうだな、今年中に始末をつけよ」

「それでは」

 円十が呟くと同時に、いつの間にやら行燈から離れていた楠蚕が再び楢山の前をひらひらと優雅に舞いながら一周し行燈へと戻ったが、そのまま吸い込まれるように火皿の上で滔々と燃え続けている灯へと近づき小さな火の塊と化した。

「あっ」

 幸いにも、楠蚕の身体は火皿の上に落下したので、周囲に火が燃え移ることは無かったが、思わぬ光景に取り乱した楢山が落ち着きを取り戻した時には、既に円十の姿は闇の彼方に消え去っていた。




 暗闇をひらひらと舞いながら灯に近づく一匹の巨大な蛾。

 たちまちその身が炎に包まれ、鱗粉をまき散らしながら畳の上に墜落した。

「おっと」

 土間に直敷きしてある畳に胡坐あぐらをかいて碁盤を眺めていた小男が、手近にあった草履を手にして、未だ燃え続ける残骸を、その草履の裏で執拗なまでに何度も何度も叩いて消火した。

「焦げたか」

 声は、揉み消した蛾の残骸を尚もしつこく叩いていた小男とは別の場所から聞こえてきた。

 元は人肌よりも濃かったであろうが――今ではすっかり色褪せてしまった上着に、青鈍あおにび色の袴という武士らしい出で立ちだが、着込んでいる当の本人は蝦蟇そっくりという容貌の、堕栗花鉄馬ついりてつまである。

「少しだけ、な」

 鉄馬が蝦蟇そっくりと言われるように、碁盤に意識を戻した牛桜甚内うしざくらじんないもまた、容貌で鉄馬に揶揄からかわれている。

 甚内は鉄馬より二回りも小柄で、一日中蔵の中に籠っているにも関わらず陽に焼けて赤茶けた肌をした六十絡みの男である。

 碁盤を挟んで鉄馬と向かい合っているその姿は、さながら蝦蟇に食われる寸前の蟋蟀こおろぎのようにも見える。

 甚内がにらんでいる碁盤には、指の爪程度の小さな銅鏡が十数枚ほど垂直に立っており、甚内の細かな動きに合わせるかのように灯の輝きをきらきらと反射する。

 これが、牛桜甚内が蔵の守り人として領主に雇われている理由であった。

 甚内自身はこれを「三尸さんしの術」と呼んでいる。

 あらかじめ庭や蔵の内部に同じような鏡の破片を幾つも配置しておき、蔵の格子窓や壁の僅かなひびから入ってくる光の反射を利用し、蔵の中から一歩も外へ出ずとも周辺の様子を確認することが出来る術である。

 六十日に一度訪れる庚申の日に眠ってしまった人間の身体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を語ると言われている「三尸」のように、絶えず周辺の動向を探っている術なのでそう名付けた――と甚内は語っている。

 先日、鉄馬が三人の潜入者を相手に先手を取ることが出来たのも、この術があったからこそである。

 もちろん反射の変化からその内容を読み取ることが出来るのは牛桜甚内だけであり、彼も今までその術の「読み取り方」を誰かに教えたことは無いと言っている。

 教えたくないのではなく、のだそうだ。

「甚内、新しい見張り番はまだ見つからないのか」

田所たどころ様のお使いから話を聞いたのはお前だろう。儂は知らんよ」

 三尸の術による蔵の警戒は、四六時中甚内が行っており、所用を頼めるはずの見張り番がいないので甚内も席を外すわけにはいかず、新しい見張り番が見つかるまでの間、蔵の周辺を実際に見回ったり雇い主の従者を応対したりするのは鉄馬の仕事になっている。

「まあ仕方あるまい。前の見張り番が二人とも忽然と消えてしまった……と、世間に広まってしまったようじゃからな。しかも、実際は賊に殺されているのだ。これで新しい見張りに雇われようなんて考えるようなもの好きは、そうそうおらんよ」

「しかも、蔵の中身については秘密のままだからな」

 実のところ、蔵の秘密を知らないのは鉄馬も同じだった。

 鉄馬に課せられた使命は、蔵に潜入した部外者を一人残らず斬り殺すことであり、何故なにゆえ蔵に潜入する者がいるのかについては一切聞かされていない。

 こうやって蔵の中で待機している間、唯一の情報源である牛桜甚内から少しずつ聞き出した情報を断片的に繋ぎ合わせて得ようと努力してみたものの、肝心なところは未だに闇の中である。

 むしろ鉄馬の方が、己の過去や術の中身を甚内にさらけ出しているという有り様だ。

 鉄馬が元は風魔ふうま忍者であり、風魔が分裂した後に北上する一群に同行したものの、仲間割れと流行り病により壊滅した流忍るにんの生き残りであることは、蔵に入ってから三日目に

 鉄馬の術の全容も、先日侵入した賊の退治で、甚内に把握されたようなものである。

 そのくせ目の前の小男は、蔵の秘密については全くと言って良いほど沈黙を守り通していた。

 どんなに押そうが搦め手を使おうが、聞けば損するだけだとはぐらかされるだけで終わってしまう。

「おい」

 甚内の呼びかけで、鉄馬は顔を上げた。甚内がこういう物言いをする時は、いつも内容が決まっている。

「何人だ?」

 返答の内容は奇妙なものだった。

「人、かな?」

「なんだ、そりゃ」

「ぶら下がっているんだ。ここからでは動いているようには見えんが、念の為だ。直接その目で確かめてくれんか。西側の庭、松の巨木だ」

「よし」

 鉄馬は愛用の長巻をつかんで立ち上がり、防火扉を開けて蔵の外へ出た。

 西へ大股に十歩ほど歩いてから北を向くと、小さな蔵には不釣り合いな松の大木の枝に、がぶら下がっていた。

 身の丈が鉄馬の背丈と変わらないほど大きな、枯葉の集合体。

 巨大な蓑虫みのむしとしか表現できないもの。

 今まで生きていながら一度も見たことのない、噂話にも出てきそうにない物体を目にして、堕栗花鉄馬の蝦蟇の如き顔が醜悪に歪んだ。

 巨大な蓑虫の正体が妖怪の類かどうかはわからないが、鉄馬の遥か頭上で目立つその姿を無防備に晒しているその様は、彼の持つ長巻の切っ先がそこまで届かないだろうと挑発しているように見えたからだ。

 長巻は、柄が三尺に刃が三尺の、合わせて六尺。

 蓑虫は、その倍はあろうかという高さから、鉄馬を見下ろしている。

 俄然がぜん、この蓑虫を切り捨ててやろうといきり立った鉄馬は、長巻を軽く振るって鞘をばっと払い除け、腰の瓢箪をつかむなり口を付けて中身を口内に含むと、ぷっとその刀身に吹きつけた。

「りゃっ!」

 次いで気合一閃、樹上の蓑虫めがけて長巻を振りかざすと、本来ならただ虚しく宙を薙ぐだけのはずの刀身が飴細工のようにぐにゃりと柔軟に伸び、蓑虫を貫くや否や上下に両断した。

 あっけなく地上に墜落した蓑虫の断片に近づいた鉄馬は、元の長さに戻った長巻の切っ先で何度も串刺しにしてから縦に割き、中身を改めてみる。

 しかし、周辺の落ち葉を集めて作り上げられたらしい蓑虫の中身は見つからない。

 鉄馬はもう一度瓢箪の中身を長巻に吹きかけ、今度はぶら下がったままの上半分を切り落とした。

 これこそが堕栗花鉄馬の秘術である。瓢箪の中にある秘中の液体と鉄馬の唾液を口内で混合させてから長巻に吹きかけることで、その刀身は縄の如く柔軟になり、振り方に合わせて伸び縮みするが、切れ味は砥石で砥ぎ上がった時よりも遥かに――それこそ剃刀の如く――鋭くなるのである。

 鉄馬は己の寿命を縮めるほどの苦しい修行とこの秘術により、相手の刀を一撃でへし折るだけの技量を身に着けているのだ。

 今度は蓑虫の上半分を何度も串刺しにしてから中身を改めてみたものの、そこにいなければならないはずの蓑の製作者の姿は見つからない。

「なんだったんだ、は」

 仕方がないので、鉄馬はその場で火を起こして巨大蓑虫を丸焼きにしてから、蔵の中へと引き上げた。



 翌日。

「おい、また出たぞ」

 昨日と同じくらいの時刻だろうか。

 甚内がまた同じ蓑虫を発見したらしい。

「甚内、そこからお前の半弓はんきゅうで射ち落せないのか」

 牛桜甚内も、潜入者に対する用心として半弓を所持している。

「無理だな。蔵の格子窓からじゃ狙いが付けにくいところにぶら下がっているし、やはり地面に落として中身を確かめなければならないことに変わりはないだろう」

「わかった」

 鉄馬は蔵から出て、今度はぶら下がっていた枝ごと蓑虫を斬り落とし、中身が入っていないことを確かめてから火にくべて灰にした。



 翌日。

 今度は違う枝に蓑虫がぶら下がっていた。

 それ以降、鉄馬が幾ら落としても、次の日には同じ姿の蓑虫が庭木のいずれかにぶら下がっているという状態が、何日も続いた。

 同じ除去行為を繰り返しては蔵に戻る鉄馬だったが、ある日、戻ろうと踵を返した自分の袴に、凝視しなければ見えないほど細い一本の糸が付着していたことには気づかなかった。




 今日もまた、蓑虫がぶら下がっていた。

 いつ、誰が、どのような目的で、どうやって吊り下げているのか、まったくわからない。

 牛桜甚内も三日目あたりから庭の周辺を念入りに監視しているのだが、いつも気が付けばいずれかの庭木にぶら下がっているのだそうだ。

 雨の日ならば、鏡の反射を利用する三尸の術も鈍ってしまうのでその隙を突かれるかもしれないというのだが、実際は蓑虫が出没してからというもの、風が強いことを除けば問題なしの晴天続きである。

 ほぼ毎日のように繰り返される単純作業に、生真面目な性質の鉄馬も流石にうんざりしていた。

 瓢箪に貯えてある秘薬も、無限に湧くわけではない。

 材料を集めるにも調合するにも、手間が掛かる。

 とはいえ、蓑虫の正体が判明しない限りは放っておくわけにもいかないのもまた事実ではある。

 今日は、ほぼ落葉し尽くしたとちの枝にぶら下がっていた。

 もはや地面どころか樹上にさえ、人間大の蓑を作り上げるだけの枯葉は見当たらないというのに、一体どこから集めているのだろうか。

 益体やくたいも無いことを考えながら、吹きつける向かい風の下、鉄馬は長巻の鞘を払った。初めて相対した時の緊張感は、もはや欠片も存在しない。

 これまでと同じ手順で長巻の刀身をぐんと伸ばし、風も強いというのにぶら下がったまま微動だにしない蓑虫を上下に切断する。

 異変は直後に起こった。

「なにっ!」

 糸だ。大量の白糸だ。

 枝下に残された蓑の切断面から、一本一本は人の視力で見えるか否かというほどの細く白い糸が大量に噴き出し、風の流れに合わせるかのように白銀の津波と化して鉄馬に襲い掛かってきた。

「けあっ!」

 風魔の一員として数々の修羅場を潜り抜けた者の持つ業か、いかに気が緩んでいようとすぐさま身構えた鉄馬の長巻が、降りそそぐ白糸の波を一閃した。

 細かな糸屑が宙を舞うその光景に気を取られた鉄馬の右肘を、下から何者かが押さえつける。

「しまった!」

 その正体は、地面に落下した方の蓑から噴き出した白糸の束であった。

 頭上から襲い掛かってきたと全く同じが、今度は下から湧き上がるように上昇しながら鉄馬の四肢と首に絡みついてきたのだ。

 いかなる原理かまではわからないが、絡みついた糸の一本一本が意思を持っているかのように巻き付き、徐々に締め付けてくる。それぞれ一本ずつの力は弱いものの、束になると解くのも引き千切るのも難しくなるだろうし、何より首に巻き付いているものは早急に外さなければ絞め殺されてしまう。

 鉄馬が腰の瓢箪に手を伸ばし、長巻から離れた右手でもどかしくも栓を抜いて中身を口に含んだその時、蔵の中から断末魔の悲鳴が上がった。

 聞き覚えのある声に動揺しながらも、鉄馬が自分の腕に絡みついている大量の糸の束めがけて秘液を吹きかけると、まるで油か石鹸水を浴びたかのように糸の束はするりと腕から抜け落ちた。

 さらに、秘液を吹きつけて擦り合わせた両手で首に巻き付いた糸を全て取り除き、拾い上げた長巻で地を払うように白糸の波を一閃すると、落ちた蓑から大量に噴き出していた白糸は、さながら一束の髪に剃刀を入れたかのようにあっけなく両断され、風にあおられながら舞い落ちる糸屑と絡み合い中空をただよう。

 細くはかなげなようで恐ろしい。

 悪夢の如き縛めから逃れた鉄馬は、地面に落ちた蓑を串刺しにしようとして踏みとどまった。

 蓑の中身を調べたところで無駄だろうし、それより今は蔵の方が気になる。

 右手で長巻の柄を握り、左手でまだ身体に貼りついている糸屑を、鉄馬は転がるように蔵の中へと駆け込んだ。

「甚内」

 防火扉をくぐるなり名を呼んでみたものの、返事はない。

 長巻を構え、周囲を警戒する鉄馬。

 油のぜる音に混じって、弱々しい呻き声が聞こえる。

 灯の輝きが届かない暗がりに転がる影一つ。

 近寄ろうとした刹那、生じた殺気に反応して振り上げた長巻。

 その刀身に響く鈍い衝撃と金属音。

 弾かれ土間に突き刺さる十字手裏剣。

 頭上を見上げれば、格子を切り落として蔵から抜け出そうとする、灰汁色の忍び装束。

 秘薬を吹きつけた長巻ならば裕に届く距離だが、刀身が乾いている今の状態では、どんなに振り回したところで六尺以上の長さに伸びることはない。

「くっ!」

 長巻を投げつけようかとも考えたが、大きく振りかぶったところに生じる隙を突かれて手裏剣を投げつけられたら、かわすのは至難の業だろう。

 対処たいしょきゅうする鉄馬を嘲笑あざわらうかのように、潜入者は悠々と窓から蔵の外へと抜け出してしまった。

 取り残された鉄馬の意識が、倒れた相棒へと戻る。

「甚内!」

 うつ伏せで血の海に沈んでいる牛桜甚内を抱え起こしたものの、その喉笛には鉄馬に投げつけられたものと同じ十字手裏剣が深々と突き刺さっており、既にのは明白だった。

 喉笛以外はどこも傷を負ってはおらず、この一撃が致命傷であることは間違いないだろう。

 左手には半弓が握られており、恐らくは甚内も潜入者に気づいて迎撃したものの、返り討ちにあったのだろう。

 碁盤の畳ごとひっくり返され、盤上の銅鏡も周囲に散らばっている。

 畳が敷かれていた場所、剥き出しの地面の中心に、何やら長々と文字が刻まれた石碑が顔を覗かせていた。よく見れば、その表面がと黒光りしている。

 鉄馬は虎の如き咆哮ほうこうを上げ、頭上高く振り上げた長巻の刀身を大地に深々と叩き込んだ。





「買いかぶっておったかのう」

 月光が明々と照らす蔵の門前には、うずくまったままぬかづく鉄馬と、彼の前で後ろ手を組みながら蔵を眺める侍らしき頭巾ずきん姿があった。

「お主が曲者を一度に三人も仕留めたとの報告を受けた時には、これで甚内一人に掛かっておった負担も軽くなり、彼奴きゃつも少しは楽になるだろう、と思っておったのだが」

 芥子色の覆面頭巾に役人風のいで立ちではあるが、その風格がにじみ出るたたずまいと、門外に控えている供の者らしき侍たちのうやうやしい態度から、かなり位の高い人物であろうことを伺い知ることが出来る。

 覆面頭巾の奥に見える視線が、蔵からこもに巻かれた甚内の屍体に移った。

「牛桜甚内が、のう」

 鉄馬は、覆面姿の侍の姿の正体を知らない。ただ門のかたわらかしづいている供の者の一人が、自分を雇った際に「殿からのご用命」と言い、さらに「大殿にはご内密の任務である」とも語っていた。

 おそらく、今自分の前に立っている芥子色の覆面頭巾の中身こそが「殿」なのだろう。

 さすがに目上の人間の前では愛用の長巻も取り上げられ、鉄馬は宵月よいづきの下に這い出てきた蝦蟇さながらに、地面に這いつくばっている。

「これが、甚内の喉笛に突き刺さっていたのだそうだな」

 覆面頭巾の右手には、甚内の命を奪った十字手裏剣が握られていた。

 鉄馬が引き抜いた時には甚内の血にまみれていたが、さすがに今はぬぐい取られている。

「甚内の左手は半弓を握っておったのだそうだな。堕栗花鉄馬とやら、貴様は蔵の外にいて、甚内の断末魔を聞いたと申したな。しかし、これだけの長さのものが喉に突き刺さったのでは、声を上げるのは至難の業なのではないか? その方、いかに考える?」

 その意を察した鉄馬は即答する。

「甚内は賊の侵入に気づくと即座に弓を構えて矢をつがえ、狙いを定めてから引き絞った矢を放ったのでしょう。されど紙一重で躱され、次の矢を取る間も与えられないうちに賊が手裏剣を飛ばし、突き刺さる寸前に甚内が悲鳴を上げたものと思われます」

「紙一重というのは?」

「大きく左右に飛べば、甚内はそちらに頭を向けていたはずでござろうが、しかし手裏剣は正面から喉笛をとらえておりました。少しでも首を動かそうものなら狙えるはずの無い角度でござる。恐らくは必中の矢を躱すと同時に飛んだ手裏剣が、動揺する甚内に命中したのでございましょう。そうでなければ甚内とて、そう易々と急所に一撃を受けたりなどしなかったのではなかろうかと」

「ふむ」

 甚内を弁護するつもりは無い。蔵の土壁に突き刺さった矢が、その状況を証明しているのだ。

「いずれにせよ牛桜甚内を失ったことは大きいが、今はそれより賊の逃亡を許してしまった方が問題であろうな」

「あ、いや、それがしは蔵から賊が逃げ出すところを見ておりますが、彼奴は特に何か抱えていたということはありませなんだ。彼奴めは蔵に侵入しただけで、甚内と某によりそれ以上の行動を阻まれ、ついぞ目的は遂げられなかったものであろうと存じ上げますが」

「持ち出されていたのだ。堕栗花とやら、ついてまいれ」

 そう言って蔵の中へと歩き出した覆面頭巾。

 鉄馬は立ち上がって彼の後を追った。

 覆面頭巾と鉄馬が蔵の中に入ると、片づけられていたのは甚内の屍体だけである。

 碁盤も畳もひっくり返ったまま、銅鏡の欠片も地面に散らばったままだ。

 畳の下に埋まっていた石碑の前で立ち止まった覆面頭巾は、文字が刻まれた表面を指さし、再び地面にひれ伏した鉄馬の方に顔を向ける。

「これについて、甚内から何か聞いておるか」

「いえ」

 鉄馬は正直にかぶりを振った。

「二言は無いな」

「いくら尋ねたところで教えてはもらえませぬ」

「甚内め、はばかったな」

 覆面の奥から、笑い声らしきくぐもった音が流れ出た。

「その方、当家が扶持米ふちまいを与える他家と違い、主に知行と領地を与えているのは知っておろうな? 否とは言わせぬ。当家が武芸を奨励しているところに目を付け、あわよくば立身出世をもくろんで武芸者を騙り潜り込んできた風魔忍者のなれの果てであることも見抜いておるぞ」

「えっ」

 これには鉄馬もさすがに驚いて顔を上げた。

 一体どうやって知り、どこまで見抜いているのか。

「まあ、見抜いたのは儂ではなく甚内だったのだがな。その方は知らぬだろうが、甚内の三尸の術は居ながらにして外の様子を探るだけの術ではない。光の反射を利用した暗号を送って、己が得た情報を内密かつ正確に送ることもできるのだ。いや、できたというべきなのだろうな」

「はっ」

 我に返った鉄馬はまた頭を下げた。下げてから、ずっと蔵の中にいたのでは秘密の漏れようがないだろうと高をくくり、口が軽くなっていた自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。

「それはともかく、当家が知行を与えているのは、主君である大殿より我ら家臣が動かせる兵の方が多く、その兵たちを食わせていくのに適しておるからだ。しかし家臣の持つ兵数が増えるということは、主君に対して良からぬ考えを持つ者や自立を企てる者が現れかねない……ということを、暗に示してもいる」

 鉄馬としては、そういう人間が出て欲しいとさえ考えている。

 内乱になれば、武芸の腕を実践で披露して出世の糸口がつかめるかもしれないからだ。

「我が一門は先代の遺命により分家したのだが、その際にこの石碑の秘密も託されたのだ。聞け。これは徳川……将軍家が開闢かいびゃくして間もない頃、万一の場合に備え、有事の際には将軍家にそむいてでも当家、いや先代に味方することを誓った当時の豪族、即ち現在の家臣たちによる連判状なのだ」

「これが、連判状」

 呆気に取られながら、鉄馬は石の連判状を凝視した。

 確かにこれなら失くしたりはしないだろうし盗まれることもないだろうが、あまりにも発想が突飛に過ぎる。

「驚くのも無理はない。だが、これはこれで理に適っている点もあるのだ。盟主はこの場から持ち出される恐れを抱く必要はないし、他の署名者にしても壊すには大勢の石工を集めて何日も作業させねばならぬから、約束を反故にされる心配をしなくてもすむ。こんな場所に石工が集められようものなら、それだけでも噂になって彼等の耳に入るであろう。先代の類稀なる天賦てんぷの才による賜物なのだ」

 そうだろうかとは思いながらも口には出さず、鉄馬は顔を上げた。

「しかし、それならばやはり賊の果たすべき目的は不首尾に終わったのではございますまいか。現にこうして、連判状はここに残っておりますゆえ」

「堕栗花、その方はこの表面に炭が塗られておるのに気づかぬのか」

「炭?」

 確かに、石碑の表面が黒ずんで見える。

 もっとも、炭が塗られている前の状態を鉄馬は見ていないので、その違いがわからないのだが。

「さよう。石の連判状の表面に炭が塗られておるのだ。そこに紙を押し付ければ、どうなる。反転した文字を読み解くなど容易たやすい作業であろう」

「あっ」

 確かにそうだ。覆面頭巾が語った方法を使えば、わざわざ石碑を掘り起こして動かす必要など、どこにもない。

 写した紙は文字が重なり合わないように折り畳めば懐にしまい込むのも不可能ではない。

「堕栗花鉄馬よ。直ちにこの蔵の秘密を持ち出した賊の後を追い、連判状の写しを奪い返すのだ。無論、秘密を知った賊の口を封じるのも忘れてはならぬ」

それがしが、でございますか?」

「蔵の見張りは他の者にやらせる。目的を達した直後だ、入れ替えるように賊を送ってくるようなことはしないだろう。その方は写しを持って逃げた賊を追え」

「お言葉ではございますが、賊の行き先すらわからないのでは足取りを追うことなど雲をつかむような話では」

「連判状を欲しがっている者など、当家の取り潰しを企んでいる将軍家以外には有り得ぬ。賊がどこへ向かうかも予想できるというもの。助太刀として、儂の配下を二人付けてやろう」

「しかし」

「嫌なら失態の責任を取り、今すぐこの場で腹を斬れ」

 逃げ道は無い。

 鉄馬は覚悟を決めた。

うけたまわりました。見事賊を討ち果たし、連判状の写しを奪い返してまいります」

「うむ、任せたぞ」

 頷いて蔵から出ようとした覆面頭巾だが、防火扉の前で立ち止まり、鉄馬の方を向いた。

「道中で逃げ出そうなどと考えるなよ。同行する者は助っ人であると同時に、貴様の監視役でもある。もはや当家の秘密を知った以上、どこへ行こうとその方を野放しにしておくわけにはいかぬ。少しでも不審な動きを見せたならば容赦なく斬り捨てよと伝えておくので心せよ」

 鉄馬は、ようやく気付いた。

 甚内が連判状の秘密を自分に打ち明けなかったのは、秘密を知ってしまえば自分のように蔵の番人のままで一生を終えることになると見越しての、彼なりの心遣いであったのだ。




 まんまとしてやった。

 手拭いでほおっかむりをし、炭俵を抱えた蓑輪円十は、目立たないよう街道を一人で南へとしすしず歩きながら、しかし心の中では快哉かいさいを叫ばんばかりの喜びと優越感に浸っていた。

 草見狂斎、抜覚坊、そして文助の三人がかりでも成しえなかった任務を、たった一人でやり遂げたのである。

 楢山の前では、さして気にも留めないような素振りを見せてはいたものの、やはり戦力外通告を受けてから三人が消息を絶ったという話を耳にするまでは、内心には忸怩しくじたる思いがあった。

 特に弟弟子でありながら自分を遠ざけようとした文助に対しては、ざまあみろと言ってやりたいほどだったのだ。若いうちだけの特権である運動能力に秀でているからと術の研鑽けんさんを怠り、兄弟子を愚弄ぐろうするような態度をとった愚か者には当然の末路である。

 楢山から任務の引継ぎを受けて城下を離れた円十がまず始めたのは、物売りに扮して蔵の周辺の寺院に出入りし、情報を集めることだった。

 時には庭掃除を手伝いながら、数日前に蔵の見張り番が二人とも死んでいたという噂話を聞き出し、それでも文助ら三人が失敗したということは蔵の中に何かあると推測した円十は、巨大な蓑虫という囮を使って蔵の中に人が潜んでいるかどうかをまず確かめることにした。

 囮におびき出されたのは、蝦蟇蛙を彷彿とさせる風体の男だった。

 ただの武芸者ではないということは、手にする長巻の刀身を伸ばし、並の刀では断ち切れないよう細工を施したはずの天蚕てぐすを容易く両断したことからもわかる。

 恐らくは自分たちと同じように雇われた忍びの者なのだろう。

 蔵の中に仕掛けられているかもしれない罠に引っ掛からないよう、その男に細くつむいだ天蚕の糸を貼り付け、経路を確保した。

 毎日のように吊り下げた人間大の蓑虫を、何度も叩き落としては切り裂く蝦蟇男の警戒心が薄らいだところで、潜入を決行した。

 蓑虫の術の応用版とでもいうべき術で、秘液に浸して強度を増した天蚕の糸を大量に詰め込んでから、今までと同じように庭木の枝に吊り下げて放置した。

 案の定――仕留めこそできなかったものの――身動きが取れなくなった蝦蟇男を尻目に正面から蔵に忍び込んだところ、番人らしき男がもう一人いた。

 蟋蟀のような番人が半弓を取り矢を番える間に仕留めるべきだったのだろうが、畳一条の上に碁盤という、蔵の中とは思えない異様な光景に気を取られ、反応が遅れた。

 それでも自分めがけて暗中をはしる矢を躱し、十字手裏剣を投げつけ男の喉笛を貫くのに、なんら支障は無かった。

 次の矢を手にする余裕も与えられず、うつ伏せに倒れた男と碁盤、そして畳と次々と動かし、その下に隠された碑文ひぶんに炭を塗り、あらかじめ用意しておいた和紙に写し取ったところで、天蚕の術から逃れた蝦蟇男が現れた。

 まともに動揺していた蝦蟇男から逃れるのは、そう難しいことではなかった。

 碑文の写しは懐にあるし、文面も頭に叩き込んでいる。

 後はこのまま楢山の屋敷へ向かうだけだが、その前に手を打っておくべき問題がある。

 追手は、確実に放たれている。

 それも恐らくは、あの蝦蟇男だろう。自分の姿を見て生き残っているのは奴一人だけであり、唯一の目撃者として自分を追ってくるに違いない。

 蓑輪円十は、毎日こせこせと律儀に蓑虫を切り落としに来ていた蝦蟇男に、僅かばかりではあるが憐憫の情を抱かずにはいられなかった。

 もしあの男が、何かの手違いで自分から連番状の写しを奪い返すのに成功したとしても、待っているのは蔵の中で飼い殺されるだけの日々である。大名は決してあの男を野放しにはしないだろうし、秘密の漏洩ろうえいを防ぐ為にも、蔵の番人という職を与えながら、外界との接触を可能な限り断ち切る算段だろう。

 どう足掻いたところで、明るい未来も希望も存在しないのだ。

 憐れと言えば憐れ、惨めと言えば余りにも惨めな末路である。

 円十が拠点として使っていた炭焼き小屋も処分しなければならないし、いっそのこと、ここで命脈を断たせてやった方が、むしろ幸せというものだろう。




 堕落栗鉄馬の監視を兼ねた同行者の一人――堤平九郎つつみへいくろうが、城下町から南へと抜ける近道を知っていたのが幸いした。

 先刻一服した峠茶屋とうげぢゃやの主人が言うには、街道を南下する背の低い物売り風の男というのは、一刻ほど前にその店の前を素通りした炭焼きの老人だけだという。

 その炭焼きに追いつく為に歩を速める鉄馬の後を、十間ほど距離を置いて同じ速さで追うように並び歩く二人組の編笠姿があった。

 堤平九郎と、相方の薗辺吉右衛門そのべきちうえもんである。

 鉄馬の助太刀をすると同時に、鉄馬自身の逃亡を阻止する為に同行している彼らは、鉄馬が少しでも妙な素振りを見せようものなら直ちに背後から斬りかかることが出来るようにと、常に鉄馬を追い立てるような位置関係になっている。

 鉄馬が二人と肩を並べて歩くわけにはいかない理由が、もう一つある。

 鉄馬の愛用する長柄の長巻は長さが六尺余、刀身だけでも三尺を超える。

 将軍家の御触れにより、侍であっても三尺以上の大太刀おおだちを個人で所有することは禁じられていた。この為、ほとんどの野太刀のだちや長巻は、刀身を短くして太刀に造り代えるか、あるいは寺社に宝物として奉納されるか――という形で没収を免れるしかなかった。

 刀剣に関する規制が比較的緩やかな大名の領内とはいえ、さすがに街道で見せびらかすように長巻を持ち歩くわけにもいかない。

 そうかといって今までのように街道外れの獣道を歩くのは、自分は苦にならなくとも同行の平九郎や吉右衛門が嫌がるし、下手をすれば「逃走の恐れあり」として始末されかねない。

 あれこれ三人で思案した結果、鉄馬は変装し、長巻を売り物に紛れて持ち運ぶことになった。

 両端に商売道具を吊り下げた天秤棒に擬するというのは最初に出た案だが、「棒」と呼ぶには刀身と鞘が幅広く、何より長巻が曲がり歪んでしまうのではないかという不安から鉄馬は拒否した。

 出発までの限られた時間の中で考え付いたのが、長巻全体を風呂敷で包み、特注のほうきとして他の箒に混ぜて歩く箒売りに化けることで算段が付いた。

 もし誰かに呼び止められたとしても、城の掃除用として特別にご用立てを受けた品である、と言い張ることぐらいはできるようになった。

 当然ながら堕落栗鉄馬の姿も箒売りのそれだが、この格好では侍と並び歩くわけにはいかないし、馬に乗るわけにもいかない。

 左右を鬱蒼うっそうとした樹林に挟まれ、昼光もまだ葉を残す木々に遮られ、漏れ差し込んでいるのは僅かばかりという一本道を足早に歩く鉄馬の胸中は、穏やかならざるものがあった。

 侍として出世を望んでいたはずの自分が、変装とはいえみすぼらしい物売りに身をやつし、同格であるはずの侍たちに背中を見せているのだ。しかも彼らは、状況によっては自分の処刑人と化すやもしれぬ。

 無論鉄馬の腕ならば、二人を同時に相手にしたところで、まとめて斬り捨てるのは容易い。

 しかしその後に、逃げた盗賊を討ち果たして口を封じたとしても、堤九郎と吉右衛門が同行していなければ、領内には戻れない。首尾よく賊を討ち果たし、領内に戻って報告したとしても、その際に二人がどうなったのかを訊かれるのは間違いない。

 いや、たとえ訊かれなかったとしても必然的に殺害を疑われ、鉄馬の心証は悪くなり、自分が望むような出世の道は完全に途絶えてしまうだろう。

 不可抗力ならば諦めもつくだろうが、できる限り平九郎と吉右衛門を死なせずに凱旋するのが最上の結果だ。

 賊を討ち果たすのも、できるならば鉄馬一人で果たしたい。

 面子の問題もあるが、平九郎と吉右衛門は――助太刀どころか単なる役立たずで終わるだろう。

 ともあれ今は急いで賊を追うしかない。今日中に捕まえることが出来ればそれにこしたことはないが、そうでなくとも日は傾きつつある。

 自分はともかく、平九郎と吉右衛門が暗夜の道中に慣れているとはとても思えない。つまり、日が沈む前に旅籠に辿り着かなければ、役立たずが足手まといになりかねないのだ。

 もう少し急ごう、と鉄馬が背後を歩く二人に声を掛けようとしたまさにその刹那、背後で呻き声が上がった。

「堤!」

 吉右衛門の声で状況を察しつつ振り返ると、狼狽する彼の前で平九郎が横倒しに倒れていた。

 くわっ、と両の眼を見開いたまま事切れている平九郎の右こめかみに、編笠を貫きながら深々と突き刺さっている十字手裏剣が、果たして動揺する同僚の目にしっかりと映っているのかどうか。

 横並びに南へと歩いていた二人のうち、平九郎は東側にいた。

 そして牛桜甚内の命を奪ったものと同じ十字手裏剣が突き刺さっているのは、右のこめかみ。

「西だ! 薗辺殿、敵は西に隠れております!」

「あっ!」

 注意を促しながら街道外れの西側にある森に視線を移した鉄馬、そして鉄馬の警告に顔を上げてそちらを見る吉右衛門は、ほぼ同時に同じものを、それぞれの視界に捉えた。

 樹上で腰を屈める、灰汁色の忍び装束。

「小僧。改めて名乗らせてもらうぞ。俺の名前は蓑輪円十」

「堕落栗鉄馬だ。閻魔の前で、俺に殺されたと陳情してこい」

 名乗り返しつつ、鉄馬は長巻を包む風呂敷をほどく。

「おのれ!」

 自分の存在が蔑ろにされていることに憤った吉右衛門が、樹上の円十めがけて小柄を投げつけたものの、小柄はそれまで彼がいた空間を虚しく通り過ぎただけだった。

 既に地上に降り立った円十は、身を翻して鉄馬と吉右衛門に背を向け、森の中へと駆け出す。

「待て!」

 既に物言わぬ冷たい骸と化した同僚のことなど頭の中から消え失せてしまったかのように、逃げる円十を追う吉右衛門。

 彼に続こうとした鉄馬の脳裏に、一つの疑問が浮かんだ。

 何故なにゆえ、蓑輪円十は自分たちの前に姿を見せたのか?

 このまま街道を逃げに逃げて城下に辿り着いてしまえば、こちらはもはやどうにもならないことに気づいていないのか、それとも

 いずれにせよ、今は吉右衛門に続いて円十の後を追うしかない。

 ここで円十を見失い、奇跡的に訪れた奪回の好機を失ってしまうのが一番不味い。

 意を決した鉄馬は、できる限りの注意を払いつつ、街道沿いの森の中に突入した。




 生い茂る木々が視界を遮る鬱蒼とした森の中を、蓑輪円十を追う吉右衛門の足音と荒い息づかいを頼りに駆け続けてから、はや一刻が過ぎようとしていた。

 地面の起伏はさほど苦にはならず、飛脚のように長巻を肩に乗せたままでも走ることそのものへの障害にはならないが、放浪生活を続けていた昔のように、木に登り枝から枝へと飛び移るのは控えた。

 もしその姿を吉右衛門に見られようものなら、今後の生活と人間関係に支障をきたしかねない。

 吉右衛門を追う足取りは徐々に速めてはいるのだが、彼の背中が見えた時に限って待ち伏せに適した隘路あいろに出たり枝道にぶつかったりして、その都度つど鉄馬は足を止め不意討ちを警戒せざるを得なかった。

 その結果、吉右衛門を見失いこそしなかったものの、追いつくこともできずに駆け続けるしかなかったのである

 追跡行は、開けた平原に出ることで終焉の予兆を見せた。

 鉄馬の耳に、吉右衛門の足音と息づかいとは明らかに異なる乾いた音――建物の戸を勢いよく閉める音が聞こえた。

 駆け続けた鉄馬の視界に間を置かず入ってきたのは、仁王立ちしている吉右衛門の背中と、その前にぽつねんと建つ炭焼き小屋。

 円十は、小屋の中に逃げ込んだのだろうか。

「しめた!」

 先行する吉右衛門が、こちらを振り向きもせず小屋の引き戸に手を掛けた。

 止せ――と声を掛ける隙も与えられず、吉右衛門の悲鳴が上がった。

 その背中から生えたかのように彼の身体を刺し貫いたのは、恐らく事前に罠として仕掛けられていた竹槍の、硬く鋭い穂先。

 当然だ。何も考えずに仁王立ちで勢いよく扉を開けようものなら、がら空きの胴体を相手にさらけ出し、反撃を受けるのは自明の理である。

 山鳩やまばと色の旅装束を着込んだままの吉右衛門の背中が、見る間に濃色こきいろに染まる。

 炭焼き小屋の前に辿り着いた鉄馬は、まず身を屈めながら静かに小屋の周りを一周し、逃げ出せそうな窓や出口が他にないことを確かめてから、既に命なき骸と化している薗辺吉右衛門の屍体を足の裏で屋内へと押し込み、それから長巻の鞘を払って小屋の中へと躍り込んだ。

 背後の扉から差し込む僅かな日光により辛うじて判別できる炭焼き小屋の内部は、異様な匂いに満ちた場所だった。

 正面と左右の壁には炭置き用らしき棚がこしらえてあり、その棚すべてに乗っているのは炭ではなく、蔵の庭木にぶら下がっていたものと同じ人間大の蓑。

 鉄馬に不覚を取らせ、現状に追い込んだ原因でもあるが、棚だけでは足りなかったのか小屋の隅にも幾重にも重なって立て掛けられ、地面にさえも幾つか転がっている。

 蓑。

 蓑。

 蓑。

 生き物ではないはずの、しかし本当に中身が存在しないのかどうかも怪しい不気味な塊物かいぶつに、鉄馬はすっかり取り囲まれていた。

 鉄馬は腰の瓢箪を掴んで中身を口に含み、鈍く輝く抜き身の長巻の刀身に吹きつけた。これで三尺の刀身に三尺の柄を付けた斬馬の豪刀は、伸縮自在かつ変幻自在の妖刀に変化したのである。

 鉄馬が炭焼き小屋の中央、ひと跳びで外には逃げ出せない距離まで慎重に踏み込んだところで、第一波が襲い掛かってきた。

 右側の棚が、がたんという音とともに傾き、その上に乗っていた十数体の蓑虫が一斉に滑り落ちて、雪崩の如く鉄馬を圧し潰そうとする。

「はっ!」

 気合と共にしなやかに伸びた長巻の刀身が、そのほとんどを一薙ぎで両断した。

 すぐさま長巻を天地に構え、飛び掛かる無数の白糸を警戒する。

 幸いにも両断された蓑から大量の糸が湧き出ることはなかったが、それがかえって鉄馬に襲撃の第二波の存在を予感させた。

「りゃっ!」

 予感が当たり左側の棚が傾いて襲い掛かってきた大量の蓑を、しかし鉄馬は一閃で全て両断する。

 横薙ぎに振った長巻を構え直しながら、鉄馬は蓑輪円十の次の攻撃を警戒した。

 恐らくは蓑の急襲に気を取られた隙を突いて、牛桜甚内や堤平九郎の命を奪った十字手裏剣を飛ばしてくる算段なのだろう。

 どこに隠れているのかさえ突き止めてしまえば――かつての仲間である風魔忍者の中でも動体視力と反射神経に優れていた自分ならば――躱すのも長巻で叩き落すのも難しいことではない。

 左右の隅に立て掛けられていた蓑が、雪崩打つように倒れてきた。

「きえぇぇい!」

 気合と共に長巻を頭上で振り回し、襲い掛かる蓑の全てを一撃で残らず壁に叩き付けた鉄馬の、蝦蟇に似た分厚い唇が引き攣った。

 壁に叩き付けられ飛び散る蓑のひとつ。

 その中から姿を現したのは、蓑輪円十ではなく脇差の鞘。

 刀身は――いやそれを持っているであろう蓑輪円十はどこに消えた?

 その疑問により集中が途切れた鉄馬の右脇腹に、名状しがたい衝撃が奔った。

「ぐおっ!」

 何が起こったのかわからず振り向いたその先には、右側の棚から落ちたところを斬り損ねた蓑が独りでに起き上がり、激痛の発生源である右脇腹に脇差の切っ先を突き立てていた。

「残念だったな」

 脇差を握ったままの蓑虫がぶるりと体を震わせると、灰汁色の忍装束に貼り付いていた枯葉や小枝がばらけるように舞い落ち、その下から蓑輪円十の姿が現れ出でた。

「大方、俺が十字手裏剣を投げてくると思ったんだろう。腕が立つだけで考えが足りなかったようだな」

「うぅ……」

 鉄馬は震える右手で蓑輪円十の覆面を掴んで強引に剝ぎ取りつつ、左手で掴んだ瓢箪の中身を口に含み、憎き相手の顔めがけて強く吹きつけた。

「うえっ!」

では死なん」

 まともに浴び悲鳴を上げた円十が顔を背ける。

 死相に何故か満足げな微笑びしょうたたえ、死の淵に立つ堕落栗鉄馬が、喉の奥から蝦蟇そっくりの声を絞り出した。

「風魔忍法、二重暈ふたえがさ。貴様も道連れに死ね」





 帰りの道中には、何ら問題など無い――はずだった。

 楢山の屋敷に辿り着くまでの道筋で障害になりそうなものは予め排除しておいたし、堕落栗鉄馬と助太刀のつもりであろう侍二人は、先ほど始末した。

 炭焼き小屋の前で仕留めた方の着物は、装束が血に染まっているので使えない。

 仕方なく十字手裏剣で仕留めた方の侍の衣服を剥ぎ取り、今の蓑輪円十は旅装束の侍姿である。

 堕落栗鉄馬は予想以上の難敵だった。

 堤と呼ばれていた侍に十字手裏剣を投げつけたところから、脇差であの男の息の根を止めるところまで、全て計算づくの策ではあったものの、どれか一つでも狂いが生じていたならば、鮮血を撒き散らして倒れていたのは円十の方だったかもしれない。

 最も危うかったのは、蓑に擬して棚に転がっていた時だ。辛うじて斬撃が肩を掠めた程度で済んだものの、あと少し仕掛け糸の配置がずれていたら、間違いなく胸と胴が両断されていただろう。

 追手が馬を使っていなかったのも読み違いだった。計画の上では、奪い取った馬で楢山の屋敷に到着する時間を大幅に削減できると期待していたのだが、まあそれをいうなら最初から逃走用の馬を用意していなかったこちらにも非があるというものだ。

 徒歩ではそれなりに日数が掛かるだろうが、到着が数日遅れたところで報告の中身が変わるわけでもないし、特に焦る必要も無い。

 それにしても、この季節に泡雪あわゆきは少し早い気がする――と蓑輪円十は不思議がった。




 翌日、蓑輪円十は幽現の狭間に立ち尽くしていた。

 現実には、旅籠を出てからひたすらに歩き続けているだけなのだが、その周囲には幻とも現実とも区別の付きかねる様々な怪異があらわれては、飛沫ひまつの如く儚く霧消むしょうしていた。

 おかしいと感じたのは、旅籠に到着した直後、飯盛り女に泡雪の話を振ったところで妙な顔をされた時だ。

「やんだぁ。お客さん、雪なんか降ってねぇでねぇの。からかうんでねすぺ」

 顔以外は引き締まった大柄な飯盛り女は、そう答えて豪快に笑い飛ばした。

 就寝中に見た夢も、異様なものだった。

 四肢を天蚕の糸で縛り上げられ大の字に伏している円十に、どこからともなく現れた裸形の美女が、雪のように白く豊満な肢体を艶めかしく蠢かせながらのしかかってきた。逃れようとする円十に紅い唇を重ね舌を吸い上げるのだが、女の舌はひるのように円十の舌に貼り付き、悲鳴を上げるより先に彼の舌を引き千切った。

 絶叫を上げ上体を起こすと、そこには何の変哲もない旅籠の一室、久方ぶりの寝具にくるまっていた自分がいた。

 出立しゅったつの際、旅籠はたごの前ですれ違った虚無僧こむそうに仰天した円十は、危うく抜刀しかけた。

 どう考えてもそうは見えるはずのない深編笠が、堕落栗鉄馬の蝦蟇顔に幻視したからだ。それは気を落ち着けることで、すぐに元の深編笠に戻った。

 街道を侍姿で歩きながら、円十は堕落栗鉄馬が末期まつごにつぶやいた「風魔忍法二重暈」について思案していた。

 かさとは、月や太陽の周りに時折現れる薄い光の輪のことだ。虹に似た不思議な光を放つので、神仏の起こす奇跡ではないかと信じている者もいるらしいが、円十らにとってはただの幻である。

 その幻の名を冠した忍法ということは、相手に幻を見せる術なのか。

 腹を抉られた鉄馬が最後に自分に浴びせかけた、あの液体によるものなのか。

 何か恐ろしい予感のようなものが、考察しながらも早足に歩いていた円十の全身を駆け巡り、彼は本能に従って足を止めた。

 途端に左右が鬱蒼とした森に挟まれた街道が断ち消え、彼の前には深く切り立った山道が現れた。

 円十は愕然とした。

 彼が立っている僅か数歩先には、地獄への誘い口とでもいうべき断崖絶壁が待ち受けていたのだ。

 背後から聞こえる男のものとも女のものともわからぬ哄笑こうしょうが、円十の動揺を見透かしたかのように鳴り響き、少しずつ彼の両耳と判断力を狂わせ始めた。




 油売り、という商売がある。

 いわゆる「蝦蟇の油売り」のような大道芸人のことではなく、その多くは天秤棒の両端に菜種なたね油や獣油じゅうゆを入れたかめを吊り下げて売り歩く商売である。

 昼間に路上で売りさばくこともあるが、他の露店に較べると地味で目立たず、美濃みの斎藤道三さいとうどうさんのように何かしらの大道芸でも持っていなければ人目に付かず客も寄り付かず、一日を虚しい稼ぎで満足しなければならない。

 それよりは午後から夕方にかけて家々を訪ね歩き、一夜を過ごすのに必要な量の油をうっかり買い忘れていたり、急な来客などで余分な量の油が入用になったりする女房方に、声掛けついでに買い取ってもらった方が売り上げにもなるし、心証の良さから贔屓ひいきにもしてもらえる。

 そんなわけで、油売りの大部分は日が傾いた時刻から緩々と商いの準備を始める。

 実働きもせずにぶらぶらと遊んでいるように見えたり、客が用意した油壷に油を流し込みながら世間話に興じたりする様が「油を売る」と呼ばれているのは、働き時稼ぎ時が他の商いとは異なる彼らの生活に見立てているから――とも言われている。

 半吉はんきちも、そんな油売りの一人であり、昨夜は最後の客に延々と仕事の愚痴を聞かされたこともあって、いつもより長く惰眠だみんを貪るつもりであった。

 その半吉を日も高いうちから叩き起こしたのは、往来から雷鳴の如く鳴り響く町人たちの喧噪だった。

「なんなんだ、一体」

 半鐘が鳴っていないから火事ではない、と考えるのは早急である。実際に火事が発見されてから、報告を受けた番所の番太が半鐘を鳴らして周囲に火事を知らせるまでには若干の空きがある場合もあり、その僅かな時間に家屋が火の手に包まれることも無くはない。

 もし本当に家事であるならば逃げ出すのはもちろんのこと――世知辛せちがらいようだが――得意先や販売経路が火事に巻き込まれているか否かも確認しておく必要がある。

 食事も取らずに着替えるなり表へと飛び出した半吉は、ちょうど良い情報源を発見した。

「よう留公とめこう

 重荷の持ち運びや上り坂での後押しを有料で手伝う力屋のくせに、力自慢より早耳自慢で知られている留八とめはちである。

 もっとも留八自身に言わせると、仕事の最中に世間話や客の愚痴に上手く付き合えるかどうかも、贔屓にしてもらう為の技術なのだそうだが。

半公はんこうかい。どうした。今日はやけに早起きじゃねぇか」

「起こされたんだよ。こうも外が騒がしいんじゃ、おちおち寝てもいられねぇ。で、何があったんだ。火事か」

 留八は、いかめしい顔に苛立いらだちの色を見せながらも答えた。

「火事じゃねぇ。いや、俺にも良くわからねぇんだが、なんでもお城の方で変なのが騒いでいるらしい」

「変なの?」

「おうよ。俺ぁちょっくら確かめてみるつもりなんだが」

「おう、俺も行くよ。こうも騒がしくちゃ寝ていられねぇからな」

 半吉と留八が揃って城門を訪れた時には、既に堀の前には黒山の人だかりが出来ており、なんとか中に入ろうとする町民たちと押し返す門番や侍たちの間を強引にかき分け、火消しや鳶職とびしょくが次々と城門をくぐっていた。

「今入っていったのは火消しのたつだな。入っていくのは、どいつも高いところが得意な奴ばっかりじゃないか」

「だけど火の手が上がっているようでもないみたいだし、城が火事ってわけでもなさそうだな。石川五右ヱ衛門いしかわごうえもんが鬼瓦でも盗みに来たのか」

「馬鹿、ありゃあとっくの昔にお仕置きくらったじゃねぇか」

 野次馬どもが口々に喚き合っているところへ、ひときわ大きな歓声が上がり、人だかりの中から何本か城の天守閣を指し示す指が上がった。

「なんだい、ありゃあ」

 半吉も同じ感想を持ったが、先に口に出したのは留八だった。

 天守閣の屋根に、のそりと姿を見せた朽葉くちば色の塊。

 それを追うように火消しやら鳶職やらが続々と屋根に飛び移り、瓦の上を伝い歩く。

 朽葉色の塊は、どうやら人間とそう変わらない背丈らしい。

 多勢に無勢、軒瓦のきがわらの隅にまで追い詰められた塊が、無造作に空中へと跳び上がった。

「あっ!」

 人だかりから上がった声の半分は、朽葉色の塊が跳び上がったことに対するものであり、残りの半分はその塊が空中でぴたりと停止したことに対するものだろう。

「おい、ありゃあ蓑虫に似てないか?」

 誰かの声で、その姿が何かに似ていると不可思議に思っていた半吉もに落ちた。大きさ以外は、まさに彼が言った通り蓑虫である。

 手の届かないところで静止した蓑虫への対処に困っているらしい火消しや鳶職たちの背後から、長槍を構えた侍が乗り出してきた。天守閣から屋根の上に竹梯子を掛け、ようやく登れるようになったらしい。

 上下を逆さまにして、鋭そうな槍の穂先が蓑虫に向けられた途端、人だかりの中から三度目の悲鳴が上がった。

 蓑虫の身体から火の手が上がり、あっという間に全身を燃え盛る炎に包まれた蓑虫は、城の庭先に据えられてある巨大な庭石めがけてその身をおどらせた。


                                   (了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝦蟇と蓑虫 木園 碧雄 @h-kisono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ