記憶の運び屋
紡月 巳希
第一章
忘れられた鉛筆
雑居ビルの谷間に、まるで時が止まったかのようにひっそりと佇むその喫茶店は、路地の奥、見慣れない看板を掲げていた。
「メメント・モリ」。そのラテン語の響きは「死を想え」という意味を持つ。
私はその店の前で立ち止まり、古い木の扉を見上げた。こんな場所に、こんな店があったなんて知らなかった。
ここ数ヶ月、私の心は、まるでパズルが欠けたかのように、常にざわついていた。フリーランスのイラストレーターとして、繊細な筆致が私の持ち味だったはずなのに、最近は何も描けない。幼い頃の、断片的な記憶が、私を蝕むのだ。それは、暗闇、耳障りなノイズ、そして、誰かの悲鳴のようなものだった。
悪い夢でも見たのだろうか。
だが、そのリアルさは、ただの夢では片付けられないものだった。
友人が冗談めかして言った。
「アオイ、記憶がごちゃ混ぜになってるんじゃない?そういう時はさ、喫茶メメント・モリに行ってみたら?最近、ちょっと噂になってるんだよ。そこ、記憶を整理してくれるって。」
半信半疑でたどり着いたその場所は、薄暗く、店内の空気はどこか甘い香りがした。古いジャズが静かに流れ、カウンターの奥には、白いシャツを着た男性が一人、静かにカップを拭いている。年齢は30代後半くらいだろうか。色素の薄い髪と、感情を読み取れない灰色の瞳が印象的だった。彼が、この店の店主、カイトだと直感した。
「いらっしゃいませ。…アオイさん、ですね。」
私が席に着くより早く、カイトは顔を上げ、私の名前を呼んだ。その声は、深海の底から響いてくるかのように静かで、しかし、耳の奥にじんわりと残る。私は驚きを隠せない。予約などしていないし、ましてや名乗ってもいない。
「どうして…私の名前を?」
カイトは何も答えず、ただ静かに視線を私に合わせた。その瞳の奥に、私は何か、とてつもない深淵を垣間見たような気がした。彼はゆっくりとカウンターから出てくると、私の前に、何も描かれていない真っ白なカップと、小さな木箱を置いた。
「お困りのようですね。…記憶の、混乱ですか。」
その言葉に、私は思わず頷いていた。
「ええ…幼い頃の記憶の断片が、どうしても…夢なのか現実なのかも分からなくて。それが、絵を描くことにも影響しているんです。」
カイトは、私の言葉を遮ることなく、ただ静かに耳を傾けていた。そして、私の瞳をまっすぐ見つめて言った。
「当喫茶は、お客様が『忘れたい』と願う記憶を一時的にお預かりし、代わりに『必要とする』記憶をお届けする店です。」
私は信じられない思いだった。そんなことが、本当に可能なのだろうか?SF小説でしか聞いたことのない話だ。
「記憶を…預かる?どういうことですか?」
カイトは、目の前の木箱を指差した。
「これは、記憶を保管するための装置です。あなたの記憶の断片をここに一時的に移し、その間、あなたは心の平穏を取り戻すことができるでしょう。そして、代わりに、あなたが本当に必要としている記憶を、私が選んでお渡しします。」
必要としている記憶?私が求めているのは、絵を描くためのインスピレーション、心の安定、そして、この混乱の原因を知ることだ。
「ただ、一つだけ注意点があります。」カイトの声が、一段と低くなった。「私が預かる記憶の中には、時に、本来そこにあるべきではない『混じりもの』が含まれている場合があります。それは、他人の記憶の残滓、あるいは、何者かによって意図的に埋め込まれた『ノイズ』かもしれません。」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、幼い頃の記憶の断片がフラッシュバックした。暗闇、ノイズ、そして悲鳴――。それは、カイトが言う「混じりもの」のことなのだろうか。
「そして、その『混じりもの』の記憶の先には、時に、望まぬ真実が隠されていることがあります。…それでも、あなたは、あなたの記憶を預けますか?」
カイトの問いかけに、私は迷った。真実を知ることは、必ずしも幸福ではないかもしれない。だが、このまま記憶の混乱に苛まれる日々を続けることも、私には耐えられなかった。そして何よりも、この喫茶店に惹きつけられた、抗いがたい衝動があった。
私は、覚悟を決めたように、目の前の木箱に手を伸ばした。
「はい。お願いします。…この混乱から、解放されたいです。」
カイトは静かに頷くと、私の両手をそっと包み込んだ。その手のひらから、温かい、しかしどこか不思議なエネルギーが、私の体の中に流れ込んでくるのを感じた。私の意識が、遠のいていく。
「ようこそ、アオイさん。記憶の海へ。」
カイトの声が、意識の淵で響いた。私は、自分の記憶が、まるで光の粒子となって体から離れていくのを感じていた。それが、これから始まる冒険の序章に過ぎないことを、まだこの時の私は知る由もなかった。
記憶の運び屋 紡月 巳希 @miki_novel
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