第一章

その週の土曜日。


「サイレント・ヴォイス」の練習日。

私は一人で公民館に向かった。

数か月ぶりの外の空気は清々しく、日差しは暖かだった。

公民館へはバスで十数分。それほど離れてはいないけど、

今の私にとっては、恐怖と期待と不安と安堵と・・・様々な感情が混ざり合って、眩暈がしそうなほどの冒険だ。


公民館の前に着いた。私は、ふうっ。と大きく息を吐いて、中に入った。

音楽が聞こえてくる。吐き気に耐えながら、掲示板を確認すると、

「第一会議室 サイレント・ヴォイス」と書いてあった。

私は、第一会議室の扉を意を決して開けた。


部屋に入ると、右側にスピーカーや音響機材が置かれていて

左側に、数人の人が立っていた。

一人はドラムを叩いていて、ほかの人たちは、手をひらひらと動かしたり、体全体を大きく動かしたり、時には体を叩いたりして、音楽に合わせて動いていた。

目の前にパイプ椅子が並んでいて、「見学の方はこちらの椅子を使ってください。」と書いてある。その下には点字の紙が貼ってあった。

私は一番端の椅子に座って、練習を見学することにした。


ドラムを叩いている初老の男性は、力強さが音に表れている。経験者だろうか?

その隣には、広報誌に出ていた創設者の女性が立っていて、手話と全身の動きでダイナミックに歌を表現しているのが分かる。

その隣には、まだ10代だろうか?男の子が、口をパクパクさせて、より大きな体の動きで音に合わせて、まるで踊っているかのように見える。

一番端にいる女性。一見、控えめに見えるけど、その手話の動きは、素人の私が見ても綺麗で、指先まで神経が行き届いているのが分かる。まるで、新体操やフィギュアスケートの演技を見ているような気になるほどだった。

私は、その女性の手話にすっかり見惚れてしまった。


身振り手振りや手話で「歌う」姿に私はすっかり圧倒されてしまった。

すると、リーダーの女性が、私のことに気づいてこちらにやってきた。


「【手話】こんにちは。いらっしゃい。私は立花楓です。サイレント・ヴォイスのリーダーです。」


滑らかな手話で私に向かって挨拶をしているようだけど、私に手話は分からない。両手で×を作って、首を横に振って、分からないということを伝えようとした。

相手の女性に通じたのか、メモ帳とペンを取り出して字を書き始めた。

「【筆談】こんにちは。私は、立花楓です。サイレント・ヴォイスのリーダーです。」

私が読めるようにこちらに向けてくれた。この人がここのリーダーなのか。

立花さんに促されて、次のページに私も自己紹介を書いた。

「【筆談】私は、雨宮雫です。元劇団員です。耳は聞こえますが、声が出ません。」

立花さんにメモ帳を渡すと、彼女は、優しい顔になって私を抱きしめた。

急なことで驚いたけど、その瞬間に、彼女が悪い人ではないということが分かった気がした。

「【手話】ここでは、声が出なくても大丈夫。あなたの気持ちは伝わるから。」

立花さんが綺麗な手話で話しかけてきた。私には何を言っているのか分からなかったけど、彼女が私を優しく迎え入れてくれたことは分かった。


それから、しばらく練習を見学させてもらった。「歌う」という表現の無限の可能性を見せられたようで、私はすっかり、サイレント・ヴォイスのパフォーマンスの虜になっていた。


練習が終わり、団員たちが私のところにやってきた。一人ずつ筆談で自己紹介をした。

初老の男性は、田中源蔵さん。元はオーケストラで打楽器を担当。病気で声を失ったが、耳は問題ないそうだ。

きれいな手話で歌っていた女性は、高橋結衣さん。生まれつきの聴覚障がい者で、手話が第一言語。ほかの団員に手話を教えているそうだ。

全身で歌を表現していた男の子は、佐々木樹くん。高校生。吃音症で、普段は筆談でコミュニケーションを取っている。

週一回土曜日に公民館で集まって、練習をしていて、目標はサイレント・ヴォイスの発表会を市民ホールで開催すること。


私は、来週も見学に来ることを約束して、家に帰った。




「雫、どうだった?」

母が興味津々な様子で聞いてくる。

私は、

「【筆談】すごかったよ。歌を手話とか全身で表現していて、ビックリした。それに、みんないい人たちだった。」

私の字を見て、母は涙ぐんでいた。

「雫、本当に良かった。」

「【筆談】また、来週、見学に行ってくる。」

「無理しないで、ゆっくり考えなさい。」

母の言葉に、私は大きくうなずいて、部屋に戻った。


その日は、興奮していたのか、なかなか寝付けなかった。




次の土曜日。

私は練習が始まる時間よりも前に公民館に着いていた。

団員の人たちが続々とやってくる。

私の顔を見ると、一瞬驚いた顔をするけど、すぐに笑顔を返してくれる。

最後に立花さんがやってきた。私の顔を見ると駆け寄ってきて、

「【手話】雨宮さん、来てくれてありがとう。」

私に分かるようにゆっくりと、言葉にならない声を出しながら話してくれた。


公民館に入ると、早速、練習が始まった。

演目は宮沢賢治の「よだかの星」と「星めぐりの歌」そして、一青窈の「ハナミズキ」。


「よだかの星」は、醜い姿のよだかという鳥が、他の鳥たちに馬鹿にされながらも、最後には夜空の星になって輝くという童話。これを手話と身振り手振りを交えてパフォーマンスする。

「星めぐりの歌」は、冬の星座を表現した詩で、曲に合わせて、歌詞を手話で表現する。

そして、「ハナミズキ」。大きな愛を「100年続きますように」という壮大なスケールで歌った誰もが知る曲。このパフォーマンスは、本当に圧巻だった。結衣さんの美しい手話に惹き込まれるようで、樹くんの魂のこもった全身を使った表現も素晴らしくて、ただただ感動した。


こんな表現を私もできるのだろうか?少し不安にもなった。




練習後、楓さんと結衣さんが、私のために手話を教えてくれることになった。

手話の50音表のようなものを楓さんが用意してくれて、まずは私の名前を練習することになった。


 あ ・・・ 手をグーにして親指だけを開く、

       手のひらは相手の方に向ける

 め ・・・ 手を開いて親指と人差し指で輪を作る、

       手のひらは相手の方に向ける

 み ・・・ 手を横向きにして真ん中の3本の指を開く、

       手のひらは自分の方に向ける

 や ・・・ 手をグーにして親指と小指を開く、

       手のひらは相手の方に向ける

 し ・・・ 手を横にして親指、人差し指、中指を開く、

       手のひらは自分の方に向ける

 ず ・・・ 手を下向きにして、親指、人差し指、中指を開く、

       手のひらは自分の方に向け、そのまま横に動かす

      (濁音の意味)     

 く ・・・ 手を開いて横に向ける、親指以外はくっつける

       手のひらは自分の方に向ける


表を見ながらだと難しいので、結衣さんに実際にやってみてもらって、それを真似して覚えることにした。

結衣さんは、何の苦も無くやって見せるけど、実際に自分でやってみると、すごく難しい。自分の名前ですら、満足に表現できないことに私は愕然とした。

「【手話】焦らなくても大丈夫。ゆっくり覚えましょう。」

楓さんは、そう言ってくれるけど、内心、私は不安でいっぱいだった。


それから、数十分。

楓さんと結衣さんが辛抱強く丁寧に教えてくれたおかげで、私は自分の名前の手話を何とか習得することができた。

これで、やっとスタートラインに立てた気がする。そんな気持ちだった。


楓さんと結衣さんに特訓してもらったことを忘れないように、家に帰ってからも自分の名前の手話の練習を続けた。それと並行して、動画サイトの手話動画を参考にしながら、基本的な手話の勉強も始めた。


部屋に閉じこもって、手話の練習をしている私を母は、何も言わずに見守ってくれた。私は、母の有難さを改めて実感していた。


次の土曜日。

今日も私は、ほかの団員よりも早く公民館に来て、待っていた。

「【手話】こんにちは。今日も宜しくお願いします。」

覚えたての手話を披露すると、みんな驚いて感激してくれた。

楓さんは、私を抱きしめて涙ぐんでいた。頑張った甲斐があったと思った。


3度目の見学。

源蔵さんの、お腹だけでなく胸に響く太鼓の音。

樹くんの、全身全霊を傾けたような圧倒的なパフォーマンス。

結衣さんの、綺麗で力強い手話。

そして、楓さんの手話だけでなく全身を使った表現。

私も、この中の一員になりたいと強く思った。

練習後、私は入団申込書を出した。

「【手話】雨宮さん、私たちはあなたを歓迎します。宜しくお願いします。」

楓さんは、そう言ってくれた。




こうして、私は、もう一度、歌うことを決心した。

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