サイレント・ヴォイス〜声を持たない合唱団〜

DAI

序章

声が出ない!


観客席はたくさんの聴衆で埋まっている。

私の目の前で、指揮者が指揮棒を優雅に振るっている。

そして、私の周りには指揮に従って感情豊かに歌う合唱部のメンバーがいる。


私は、全身に冷や汗をかきながら、必死に口をパクパクして声を出そうとするけど、どうしても声が出ない。

一体、どうなっているんだろう?声を絞り出そうとしても「あー」とか「うー」という音を出すのがやっとなのだ。

どんなに頑張っても、歌うことが出来ない。

周りの歌声がどんどん大きくなる。耳が痛い。私は両手で耳を塞いでしまった。


お願い、もう歌うのを止めて!

私は歌えない。どんなに頑張っても。

声が出せない。耳が痛い。涙が溢れ出てくる。


もうやめて!!




「あーっ!」

私は、意味を成さない叫び声をあげて、夢から覚めた。

全身に汗をびっしょりかいている。

まだ、胸が高鳴っているのが分かる。

なんて酷い夢だろう?

私は、両手で頬を叩いて、なんとか現実に意識を戻そうとした。


でも、今の私にとっては夢も現実も大差はない。


今日も私は、カーテンを閉め切った部屋で、一日をやり過ごすのだ。




トントン。トントン。トントン。


ノックの音がした。

私は急いで身なりを整えてベッドに座る。


ドアが開くと、母がそっと顔を出した。


「雫、叫び声がしたけど、大丈夫?」


私は、大丈夫だよ。と大きく頷いた。


「汗びっしょりじゃない。悪い夢でも見たの?」


私は、そうじゃないよ。と首を横に振る。


「風邪ひかないように、新しいのに着替えなさいね。」


私は、わかったよ。と大きく頷いた。

母は、安心して出て行った。


私は新しい服に着替えて、1階に降りていく。

洗面所で顔を洗って、歯磨きをして、キッチンにミネラルウォーターを取りに行くと、母に呼び止められた。


「雫、最近、よく夢でうなされてるみたいだけど、大丈夫?」

大丈夫だよ、心配しないで。と首を縦に振る。


「あの事故で話せなくなったのは辛いことだけど、ずっと部屋に引き籠ってるのは心配よ。たまには外に出ないと。」

私は黙って聞いている。そんなことは言われなくても分かっている。でも、私の世界は、あの事故で失われたのだ。


「手話とか、覚えてみたら?近所に手話サークルがあるみたいよ。」

また、母のお節介が始まった。私のことは、ほっておいて!

私が不機嫌な顔になったのが、分かったのだろう。母の顔が曇った。

ミネラルウォーターを取って、バタン!と冷蔵庫の扉を閉めると、私はそのまま廊下に出た。

「ちょっと!雫!」

母の声には応えずに、黙って2階の私の部屋に戻った。




半年以上前、私は交通事故にあった。

横断歩道を渡っている途中に信号を無視したトラックに轢かれて、そのまま救急車で病院に搬送された。

怪我は大したことはなかったけど、声帯を損傷して、声が出せなくなった。

「あー」とか「うー」とか、そういう音は出せるけど、意味のある言葉を失ってしまった。

当時、ミュージカル女優を目指して劇団に所属していた私にとって、声が出ない、歌が歌えないということは、死刑宣告に近いほどの残酷な仕打ちだった。

それ以来、私は部屋に引き籠るようになった。




自分の部屋に戻ると、スマホで適当な本を探して読む。

事故の前は、本なんてほとんど読まなかったのに、今では活字中毒と言ってもいいくらい、本を読んでいた。


たまに息抜きで、ニュースサイトなんかも見るけど、自分の境遇と比べて、恵まれた人たちの話題を見ると気が滅入る。


今日も、スマホで本を読んでいたら、うたた寝をしてしまった。

突然、スマホから音楽が流れてくる。

何かの拍子に、誤作動してしまったのか、私は慌ててスマホを操作して音楽を止めようとした。

スマホからは、有名なミュージカル女優の歌声が聴こえてきた。


「うっ!」

胃から酸っぱいものが駆け上がってくるのを感じた瞬間、私はゴミ箱に嘔吐してしまった。

「うっ、げほっ!げほっ!」

なんとか、スマホの音を消して、気持ちを落ち着かせた。


あんなに大好きだったミュージカルが、今では私を苦しめる。

あの事故以来、歌や音楽を聴くと、反射的に嘔吐してしまうようになっていた。

こんなに苦しいのなら、いっそのこと、あの交通事故で死んでいれば良かったとさえ考える。

私は、生きる希望を失っていた。



ある日。


トントン。トントン。トントン。


ドアをノックする音がした。母だ。


「あーい。」

私が返事すると、母がドアの向こうで話し出した。

「雫、興味があったらで良いんだけど、今月の市の広報誌に面白そうな記事を見つけたから、読んでみて。きっと、雫のためになると思うの。無理しなくても良いからね。」

ドアと床の隙間から、広報誌を差し入れると、母はそのまま行ってしまったようだ。


私は、広報誌を手に取って、付箋がついているページを開いた。

そこには『声を持たない合唱団』という見出しの記事が出ていた。


ーー市内の公民館の一室で週一回活動している「サイレント・ヴォイス」は、声を持たない合唱団と呼ばれる。様々な理由で、声が出せない人や耳が聞こえない人が集まり、「歌」を歌っている。手話や身振り、楽器など、その表現方法は多彩だ。「歌が好きな方であれば、どんな人でも歓迎します。是非、参加してください。」とサイレント・ヴォイスの創設者、立花楓(たちばな かえで)さんは呼びかける。問い合わせは、市役所庶務課までーー


声がなくても歌を表現する、そのことに私は驚いた。でも、それが、本当に相手に伝わるのだろうか?私は半信半疑だった。

その記事が気になったけれど、私は何かするわけでもなく、広報誌を本棚にしまった。


母は、私のことを思っていろいろ考えて、この記事を差し出したに違いない。母には本当に心配をかけてしまっている。でも、今の私には外の世界に出ることは恐怖でしかない。話すことのできない私には居場所などあるはずがない。それでも、頭の片隅に引っかかるものがあった。「声を持たない合唱団=サイレント・ヴォイス」。本当に声が出なくても歌が歌えるんだろうか?




私は夢を見ていた。

ミュージカル女優として主役の舞台に立っている。観客席から私に向かって視線が注がれる。その視線を私は一身に受け止めて、歌を歌う。

が、突然、声が出なくなった。私の声が!なんで歌えないの!?

次の瞬間。私はベッドの上にいた。

医師と看護師が私の顔を覗き込む。

「何か話してみてください。」

医師が言う。

私は、必死に話そうとするけど、呻き声にしかならない。

「残念ですが、あなたの声帯は回復の見込みがありません。」

医師が私に「死刑宣告」をした。

そんな・・・!嘘だと言って!もう話せないなんて、歌えないなんて!!

劇団の仲間たちが、哀れんだ目で私の前から去っていく。

私は一人だ。この世界に私の居場所はないんだ。

私は暗闇の中にいた。もう、私を一人にして!


ふと顔を上げると、一筋の光が見えた。

光は大きくなり、その中から手を差し伸べる人がいる。

片方の手で、必死に手をひらひらと動かして何かを訴えている。

手話だろうか?私にはわからないけど、あの人は私に手を差し伸べ、私を助けようとしている。

私は、彼女の手を取った・・・。






そこで、目が覚めた。

本棚にしまった広報誌を探して手に取る。

「サイレント・ヴォイス」。これが、私を救う光になるのだろうか?

いまだに半信半疑ではあるけど、私は、一度だけ顔を出してみようと思った。


その日、私は母に「サイレント・ヴォイス」の見学に行こうと思うと伝えた。

母は、涙を流して賛成してくれた。母には心配をかけっ放しだったから、私が自分の足で外の世界に出ていかなくては。これが、私の第一歩だ。

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