熱帯夜

鹿ノ杜

第1話

 ちぐさは待ち合わせの店に急いでいた。小走りで駆けたマチは、熱帯夜らしい、濃くて、甘い香りにあふれていた。むん、と香るような夜だった。

 店の扉を開く。店内を見渡し、安堵した。かづきが、ちぐさよりも先に来ることは決してないのだけれど、それでも安堵した。かづきを迎えるのは自分でありたかった。

 ちぐさはカウンターに寄り、端から席をひとつ開けて、腰を下ろした。この店に来るのは三度目だが、いつもこの席だ。

 店内をもう一度、見渡す。ビアバーよりは広く、ビアホールというにはこじんまりしている、そんな店。薄暗く、テーブル席にいるはずの何組かの客たちの顔がぼんやりとしている、だけど、薄暮れというよりは夜明け前を思わせる、そんな店。

 バーテンダーが目配せをしてくる。

 ちぐさは、

「よく冷えたビールを、ふたつ」

 そう伝えた。

 天井についた大きな羽根がゆっくりと回転して、周囲の空気をまぜていた。目頭が、ぴりぴり、とした。理由もなくからだが反応するわけはないので、ちぐさは考えた。

 においだ。さまざまなにおいが漂うこの空間に、かいだことのあるにおいを感じていた。かつて、かづきと行った海のにおい。どこまでも続く白砂の、やわらかな輝き。

 なつかしさだ。海からの帰りに見た、天をつく入道雲。やがて茜。かづきと過ごした日々の、まじりけのない真実だ。

 目の前にビアグラスが置かれた。バーテンダーが立ち去るのとほとんど同じタイミングで、

「あいかわらず、いい色だね。太陽の光みたいな黄金色」

 いつから隣にいたのだろう、かづきがビールを見つめていた。

 ちぐさは目を細め、ついでに椅子をちょっと寄せ、

「ああ、かづきだ」

 と、言った。

 言いたいことはたくさんあって、周りを見渡せばいくらだって出てくる言葉が、だけど、今は何にも出てこないのだった。

 ああ、かづきだ。心の中でもう一度、つぶやいた。かづきのにおいは、それを感じれば、かづきの姿かたちを思い浮かべずにはいられない、そんな確かさがあった。

 かづきはグラスを手に取り、乾杯しよう、と言った。続けて、ずいぶん気楽な感じで、思い出話を語った。二人で暮らした日々や、時おり旅した外国の話、「覚えてる?」異国の地で二人をおそったスコール、雨やどりをしながら飲んだ、ほとんどジュースのようなお酒の、ざらざらとした舌ざわり、「覚えてる?」とかづきはくり返した。

 かづきの陽気さにつられて、ちぐさも笑い、思い出を振り返った。穏やかな海の波が幾重にも重なるように、川のせせらぎに重なる鳥の声のように、折り重なって、紡がれる、それは祈りですら、あった。

 陽気さは、微アルコールの飲み物だ。少しずつ酔っている。

 思いきって、かづきの顔をのぞき込んだ。

 かづきの瞳は、熱帯夜のあやしさに濡れている。頬にはとくべつな熱が灯り、口元はやさしい……

 ちぐさは見とれて、

「大好きだよ」

 と言った。

「大好きだよ」

 と言って、

「大好きだよ」

 と言って、また海に行きたいね、と言おうとして、できないことは言わないことにして、ただ、好きだよ、とくり返した。

 未来は増えないから、過去を語るしかないんだな。そう思えば、悲しくなった。

 ちぐさは想像した。

——今夜、わたしはベッドの中で、一人で泣いてしまうんだろうな。

 グラスをすする。少し、ぬるくなっている。

——また次の夏に、その夏、一番の熱帯夜に、わたしたちは会えるのだとしても。

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熱帯夜 鹿ノ杜 @shikanomori

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