しあわせ結びの学園

水守 葉

第1話 リボンの結び目

手紙の封を留めていた桃色のリボンは、ほどいたあともほのかに温かかった。

「合格おめでとう、ほのか」

そう書かれた入学許可状を読み返すたび、胸のなかで小さな鈴が鳴る。人を幸せにする魔法——幸福術(しあわせじゅつ)を学ぶ学校、スリール。

 駅から伸びる坂道の上、白い校舎の窓辺には色とりどりのリボンが揺れている。風が通るたび、どこかで笑い声が生まれては、次の誰かの背中をそっと押す。そんな気配がする場所だった。


 朝比奈ほのか、十五歳。特別な才能があるわけじゃない。ただ、誰かが「大丈夫だよ」と言ってほしい瞬間を、少しだけ早く見つけてしまう目を持っている。

「緊張してる?」

 同じ寮部屋になった小柄な女の子、日向まひるが覗き込む。

「う、うん。でも楽しみ」

「なら、だいじょぶ。スリールの魔法は“派手じゃないけど深く届く”んだって。先生が言ってた」



 入学式のあと、担任の百々瀬(ももせ)先生が黒板にチョークを走らせた。

《初日小テスト:校内でひとりの人の“ちいさな困りごと”を見つけ、初級幸福術で手助けしなさい。》

「幸福術は願いを叶える術じゃありません。選ぶのは相手自身。私たちができるのは、迷った指先に、やさしく結び目をつくること」

 先生はそう言って、机の上のリボンをひとつ結ぶ。結び目がふっと光って、空気があたたかくほどけた。


 ——ちいさな困りごと。

 校内を歩きながら、ほのかは耳の奥で鳴る微かな音に集中した。幸福術を使うとき、世界は色より先に“音”で教えてくれる。くしゃり、と紙が折れる音。くらり、と息がゆれる音。

 図書室では眼鏡の上級生が寝そうになっていて、廊下では花壇の看板が傾いている。どれも気になったけれど、ほのかの足は自然と音楽室へ向かっていた。


 扉の向こうで、ピアノが一音だけ、ほどけた。

 中にいたのは、黒髪で背の高い男の子。鍵盤の上で指が止まり、眉間に小さな影が宿っている。譜面の角がめくれて、弱音の記号が隠れてしまっていた。

(困ってる? でも、勝手に近づいたら失礼かな……)

 迷いを抱えたときの合図のように、ポケットの桃色リボンが指に触れる。母がくれた「おまもり」。

 ほのかは深呼吸して一歩近づいた。「あの、譜面、少し直してもいい?」

 男の子がちらりとこちらを見る。黒曜石みたいに冷たい目に、一瞬だけ驚きの光。

「……勝手に触らなければ、どうぞ」


 ほのかは譜面の角をそっと折り返し、リボンを細く割いて小さな結び目をつくった。

「結び目ひとつ、ほどけないで。音に寄り添う淡いしるし——《結び星(むすびぼし)》」

 初級の幸福術。直すのは紙切れじゃない。迷いが風で揺れてしまわないよう、目印をつけるだけの小さな魔法だ。

 リボンがほのかの指先で一瞬だけぬくもりを帯びると、譜面の弱音記号がやわらかく目に入る位置で止まった。

 男の子は何も言わずに再び弾き始める。今度はさっきほど急がない。音が教室の隅々まで行き渡って、窓の外の風鈴まで静かに鳴らした。


 曲が終わると、彼は短く息を吐いた。

「——ありがとう」

「よかった……。えっと、私は朝比奈ほのか。今日から一年」

「白瀬(しらせ)冬真。二年。……君、幸福術の言葉が少し変わってる」

「へ? 変?」

「“音に寄り添う”なんて、初級の教本にはない。君の言い方は、自分の目で見つけた言葉に近い」

 ほのかは耳まで赤くなった。独り言みたいに唱えてしまう癖を、見抜かれてしまった気がした。

「勝手に助けたみたいで、ごめんね。でも、練習を止めた“ちいさな困りごと”が見えたから」

 冬真は目を細める。「……スリールの初日課題か」

 そのまま立ち去ると思ったのに、彼は譜面台の横に何かを置いてから、扉の方へ歩いた。

「困ってるのは、君のほうかもね。校内、迷路みたいだから。初等棟の掲示板、あと五分で発表だよ」

「えっ、発表?」

「初日小テストの合否と注記。——急がないと、君のリボン、焦げちゃうよ」

 冬真はふっと笑った。わずか数ミリの笑みだったけれど、その一瞬を、ほのかは見逃さなかった。


 掲示板前は人だかりだった。紙の前で伸び上がっても届かない。そこで、さっきの譜面台に置かれていたものを思い出す。小さな木製の踏み台。

(……優しい)

 踏み台に乗って、ほのかは自分の名前を探した。

《朝比奈ほのか 合格/注記:共鳴反応1件》

 そのすぐ下に細い字で、こう添えられていた。

《共鳴相手:白瀬冬真(調律科二年) 次週よりペア実習対象》

「え、えええっ!?」

 まひるが横から顔をのぞかせる。「ほのか、どうしたの?」

「わ、私、初日に“共鳴反応”が出ちゃったみたいで……それも相手が——」

 言い終える前に、背後から低い声がした。

「朝比奈さん」

 振り返ると、冬真が人だかりの切れ目に立っていた。淡い光を映す瞳が、真っ直ぐこちらを見ている。

「さっきの《結び星》、効いてた。——だから、きっと君とも、うまく結べると思う。来週から、よろしく」

 差し出されたのは、銀色の細い糸で縫われた、学院の公式ペアリボン。二人の名を繋ぐための、訓練用の絆。

 ほのかはごくりと唾を飲み込んだ。

 人を幸せにする魔法は、いつだって静かに始まる。結び目は小さく、けれど確かに温かい。

 その小さな結び目が、やがて自分の世界まで変えてしまうことを——このときのほのかは、まだ知らない。


 桃色のリボンが、ふたりのあいだでそっと揺れた。

 初日の空は、高く、まぶしく、そして少しだけ、未来の匂いがした。


次話予告:

ペア実習初日。ほのかと冬真が任されたのは、寮母さんの「なくした声」を探すこと。声はどこへ消えるのか——そして、ふたりのリボンに刻まれる“共鳴”の正体とは?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

しあわせ結びの学園 水守 葉 @o3oRY

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画