第8話:怒りは誰のため

「謝れよ」


「あ?」


椿を罵倒して楽しみ、下品に笑う輩は聞き覚えのない冷たい声色に静まり返った。

今まで苦言を呈すことはあれど、明確な反抗をしなかった青嵐が表立って反抗した、その衝撃は財前達にとってはかなりのものだ。


「霞草に謝れ、霞草は普通の女子高生だ」


至極真っ当な要求に狼狽えながらも財前は反発した。


「な、なんで俺らが謝らなきゃならねえんだ、寧ろお前らがイカれてるせいで迷惑掛けてんだからお前らが詫びろよ」


「霞草は普通だと言ってるだろ、日本語がわからないのか」


皮肉を効かせた痛烈な返しは、財前の短い導火線に火をつけるのに容易だった。


「ンだとてめえ!何だ今まで何も言わなかったクセに今更反抗しやがって!そのイカれ女ごとぶっ殺すぞ!」


その反発は青嵐に火をつけるのにも容易だった、青嵐は激昂した。

だがぶっ殺すぞ発言は彼の心に響くことはない、あくまで椿を立て続けに何度も罵倒されたことに対しての怒りだ。


「取り消せ財前!今すぐに!」


「何度でも言ってやるよ邪教徒!そいつはお前に毒された不憫なイカれ女だ!」


椿に対する罵倒を放てば青嵐は激昂する。

その顔が見たくてずっと虐めてきたんだと言わんばかりに味を占める悪童の財前。


「黙れ!」


ついに青嵐の怒りが限界を突破した。


記憶がなくても分かる。

生まれて初めて自らの怒りの感情で、母親が教えてくれなかった暴力という手段に出ようとした。


左足で強く踏み込んで右腕を振りかぶって、余裕そうな悍ましい笑みを浮かべる財前を殴ろうとする。

血管が浮き出るほどの力で手を握りしめていた。

本気で殴られることを察した財前はビビって受け止めようと手を掲げて、目をぎゅっと瞑った。



しかし、腕を振り下ろす寸前で青嵐は立ち止まった。



背後から制服の裾を引っ張られる僅かな感覚がある。


「………やめて………」


か細い声だった。


振り返ればそこには悲しそうに、今にも泣き出してしまいそうな椿が佇んでいた。

涙を流しそうなのは罵倒されたからではない、自分が暴力を振いそうになっているからだと、青嵐は直感的に感じた。


「もう、いいよ青嵐、行こう」


しんと凍えた声だった。


「でも!」


「いいから!」


反論を許すことはなかった。


「行こう」


「………わかった」


椿の切実な願いに、青嵐は逆らうことができなかった。

「おい逃げんのかクソ邪教徒が!」


「みっともねえぞ!」


「逃げたらどうなるか分かってんだろうな!」


享楽の玩具に逃げられることが面白くなく、必死なのが見え見えで煽り散らす。

しかし既に青嵐の視界には入っておらず、罵倒も耳に入ることはなかった。


手を握り直され、その綺麗な細い手に導かれるままに校舎の外を目指す。

力の入らない弱々しくなってしまった脚で必死に目の前の少女を追いかける。

美人な女子生徒に引っ張られて走る魔女信者という珍しい構図にすれ違う人々は何事かと振り返る。



「…なあ霞草」



弱々しい呼びかけに対するレスポンスはなかった。


傘を昇降口に置き去りにし、屋外に飛び出しても椿は青嵐を引っ張り続けた。


制服も鞄もびしゃびしゃになるのを意に介さない。


青嵐の目に映るのは雨に濡れてもなお艶やかに揺れる長い黒髪だけだった。


走って、走って、走って、この世の全てから逃げ出すように走り続けた。


踏切が閉まって進めなくなるまで2人は止まることはなかった。


はあはあと2人が息切れした荒い息遣いが降り注ぐ雨の音を掻き消していた。


「はあ、はあ…家、どこ?」


青嵐の方を向かずに椿は質問した。


「…このまま、行ったところだ」


椿がただひたすらに青嵐を引っ張り続けた方向は幸いにも彼の家の方向だった。

踏切が開いた後は2人は走り疲れたのもあって歩き続けた。


歩く間も顔を合わせることはなく、会話なんてあるはずもなかった。


雨に濡れ続けてすっかり冷たくなってしまった身体だったが、繋がれた手の温かさだけが青嵐の頼りとなっていた。


長いようで短い道のりをゆっくりと歩く。

幼い子供のように手を繋ぎあって、大人のような重々しい雰囲気を纏って。


「………ねえ青嵐」


長かった沈黙を切り裂いたのは相変わらず顔を見せない椿だった。

不意に立ち止まって重々しく話しかける。


「なんだ?」


何を言われるかを、青嵐は言わずとも何となく察していた。


「君が私のために怒ってくれたのは嬉しかった、君の優しさがよく伝わってきた」


「………そうか」


「君が人のために怒れる優しい人だってのは知ってるよ、でもね、人を傷つけようとするのは違うよ」


椿の言うことは至極真っ当で、人として当たり前のことだった。


ようやく振り向いた椿、その顔は泣きそうでありながら真剣で、有無を言わせない凄みがある。

彼女が流しかけている涙の原因は全て自分にある、大きすぎる罪悪感に青嵐は押しつぶされそうになった。


雨の中傘も差さずに青嵐を引っ張り続けたのは、頭を冷やせと、そういう意味合いが込められていたのかもしれない。


「そんなことしたら、お母さんが泣くよ?」


不意に、微かな母親の面影が椿にぴたりと、元ある場所に戻ったかのように重なる。


そのフレーズはどんな言葉よりも青嵐の胸を刺した。


青嵐には幼い頃の記憶がない、だが人に暴力を振るってはいけないことにそれは関係ない、当たり前だ。

怒りに身を任せた青嵐の姿をもし母親が見たのなら、椿の言うとおりきっと泣くだろう。

自分は母親を裏切ろうとしていた事を薄々感じてはいたが、今確かにはっきりと青嵐は認識した。


もし椿が止めてくれなかったら、それを考えると恐ろしくて仕方ない。

危うく悪魔や悪童達と同じところまで堕ちるところだった。


「悲しかったんだよ?私のせいで君が手を汚そうとしたのが」


「霞草のせいじゃ」


「私のために動いたのに?」


貴方のせいじゃないとは、言わせてもらえなかった。


青嵐を怒らせたのは間違いなく財前達だ。

しかしその根幹にあったのは椿という彼の身勝手な使命感だった。


椿が泣きそうな理由は青嵐だけではない、椿自身の不甲斐なさにもある。

椿にも罪悪感が芽生えている、自分が言い返さなかったせいで青嵐が手を汚しかけたことに対する罪悪感が。

椿の感情は、青嵐が守ってくれようとした嬉しさと自分のせいで人を傷つけようとした罪悪感がごちゃごちゃ複雑に混ざり合って、整理する時間が必要だった。


「それに私は言ったよ、虐めてくる人なんてどうでもいいって」


そうだった、青嵐の目の前の少女は彼が思っているよりもよっぽど強い心を兼ね備えている事を既に知っていた。

彼女を信じることのできなかった自分が不甲斐なくて仕方なかった。


「約束して、もうお母さんを裏切らないって」


椿は握った手にぎゅっと力を込めた。

もう、2度と彼女にこんな顔をさせてはいけない、青嵐は胸に誓った。

それに応えるように、青嵐はぎゅっと、傷つかないように優しく握り返した。


「ああ、約束する」


「ちゃんと守れる?」


「もちろん」


それに、と前置きをしてから。


「母さんなら“女の子との約束を破るな”って俺に教えるだろうからな、多分」


例え母親の教えじゃなかったとしても、それは一生をかけて守らなくてはいけないような約束だった。

青嵐の言葉を聞いて、椿はふふっと頬を緩ませた。


「それも“多分”じゃなくていいでしょ」


釣られて青嵐も頬を緩ませた。


「そうだな」


雨が少しだけ温かいように感じた。


「それはともかく、早くうちに行かないか?」


「そうだね、もう下着までびしゃびしゃで風邪ひいちゃいそう」


「じゃあ何で傘置いてきたんだよ」


「仕方ないじゃん!焦ってたから!」


ぷりぷりと怒るその姿は可愛らしく、青嵐は声をあげて笑った。

自分は意外と性格が悪いのかもしれない、青嵐は少しだけ自身への認識を改めることにした。


「ほら、後少しだから走るぞ!」


「ちょっと!急に引っ張らないでよ!」


先程まで拒否するような事をした相手に対してそれはどうなのだろうか。

慌てる声を無視して青嵐は綺麗な手をしっかりと握って走り出した。

雨が降り続けているのにも関わらず、心は晴れやかだった。


今の青嵐にはやりたいことが一つできている。


記憶喪失になってから初めてできた優しく強かな友人を、無邪気な少年のように母親に紹介する事だ。


もしかすると、魔女は雨を通じて見ているのかもしれないが。


ああ、降り注ぐ雨が心地よい。






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