第4話:霞草椿

「はあ………」


朝一発目のため息の理由は、机に油性のペンで書かれた「邪教徒」という乱雑な文字だ。


だが今日の青嵐はそんなことに構っている暇はなかった。

盗まれたら悪戯では済まされない貴重品をブレザーの内ポケットにしまい、君の悪い笑い声がそこら中から聞こえる教室から早々に抜け出した。


今日の青嵐は日直当番だ。

日直となればやる仕事が多い、ホワイトボードの掃除やら配布物の配布やら学級日誌の記入やら、とにかく多い。


朝のホームルームの前にプリントを配っておかなければならない。

そのためにわざわざ別棟に位置する職員室にプリントを取りに行かなければならないのだ。

4階に位置する教室から別棟の1階にある職員室は遠い、面倒くさいがやるしかないのだ。


「ふーん…エタノールで消せるのか…理科準備室にあるかな…」


『机 油性ペン 汚れ 落とし方』とスマホで検索しながら歩いた。

すれ違う7割程度の生徒は怪訝そうな顔で青嵐のことを見るが、青嵐の立場を知らない残りの3割は彼のことを意に介さず自分のクラスへと向かっていく。


「割と知られてないもんだな」


既に青嵐はクラスのみならず学年で孤立しているものだと思ったが、知らない人が想像より多いようで青嵐は意外に思った。


「ん?なんだあれ」


階段を降りて教室棟と職員棟を繋ぐ渡廊下に差し掛かった時にそこに非日常があるのに気づいた。

プリントが廊下中に散乱している、その中心にいるのは焦って一枚ずつプリントを拾って集める黒い髪の少女だった。


それを見て迷惑そうな表情を浮かべて廊下の端を通る生徒達、彼らを見て青嵐は再びため息を吐き出した。


この高校は所謂お坊ちゃんお嬢様が通う高校、人を手伝うという行為を知らない生徒ばかりが通っている。

心のない行為を当たり前と考える悪魔の巣窟、クラス内でもクラス外でもそれは変わりなかったようだ。


次の瞬間には既に青嵐は動き出していた、垂れた髪で顔がよく見えない少女に歩み寄り、一枚拾って差し出した。


「大丈夫か?手伝うぞ」


その声にハッと反応した少女、黒い前髪の隙間から垣間見えた目は少し涙ぐんでいて、青嵐が話しかけるのが遅れたらもしかすると泣き出していたかもしれない。


少女と青嵐の目線が絡まった時、少女の瞳孔がグッと見開いた。


「え、なんで………」


「だってお前、困ってるだろ」


青嵐は助けられるのが余程意外だったのだろうと考えた。


「困ってる人を助けるなんて、教えてもらわなくてもやることだろ」


青嵐は感覚的に他者を助けるように、人に迷惑をかけないように行動している。

それは魔女が青嵐にそうするように教えたということだと彼自身は考えている。

自身の脳細胞一つ一つが無意識のうちにそう考えてしまっているのが何よりの証拠だ。


「そう……なんだ」


少女は納得したような、納得してないような、微妙な表情を浮かべた。


「魔女ならそう教えるさ、多分」


どうせ彼女も自分のことを知っているのだろうと、もう一度自虐を込めて返答した。


「多分って、お母さんの教えなんでしょ?もっと自信持ちなよ」


泣きそうだった瞳は何処へやら、少女の可愛らしい顔は笑顔になっていた。

皮肉した甲斐があったなと青嵐は思った。

しかし青嵐は彼女に大きな違和感を感じ、手をぴたりと止めた。


「お前、俺のこと馬鹿にしないのか?」


青嵐が覚えている限り、同じようなことを言って彼のことを下に見る目をしない人間はいなかった。

その人達は青嵐のことを馬鹿にするか関わらないようにするかの2択しかなかった。

だが目の前の少女はどうだろうか、自分を見る真っ直ぐな目に今まで出会って来た人達のような下劣な曇りは1ミリもなかった。


「うーん…君は信じてるんでしょ?ならいるんじゃない?」


「なんで疑問系なんだ、説得力がガタ落ちしたぞ」


「確かにそうかも!」


掴みどころのないやつだと、青嵐は少女にそう感じた。

あははと笑いのツボに入ってしまったのか声を上げる少女に、青嵐は今日三度目のため息をついた。


そのため息は“呆れ”から来たものではあるものの、今までとは明らかに違うものだった。


自分が軽く笑っていることに青嵐は気づかなかった。


「ほら、早く拾わないとホームルームに間に合わなくなるぞ」


「そうじゃん!?急がないと!」


思い出したように慌てて手を動かし始める少女を見て、忙しないやつだなと感じる青嵐だった。

拾う最中にもチラチラと顔色を伺ったが、彼女は終始ニコニコと笑っていた。


「助かったよ、ありがとうね」


「これぐらいなんて事ないさ、ほらプリント貸せ」


頭の上に大きなハテナを浮かべつつもプリントを差し出す彼女からプリントを奪い取った。


「うちのクラスの分のプリント取ってくるけど、いいか?」


「それは別にいいけど、それどうするの?」


勿論青嵐と少女は違うクラスだ、青嵐が少女のクラスの分のプリントを運んだところでメリットというメリットはない。


「お前のクラスに持っていくに決まってるだろ」


当たり前ですよと言わんばかりの澄まし顔で答えた。


「そんな申し訳ないよ!拾うの手伝ってもらっただけでも申し訳ないのに!」


少女は慌てて紙束を運ぶのを拒否する、しっかりとした性格の少女にとって青嵐の世話になりっぱなしなのは申し訳ないのだ。


「女子に荷物を持たせるなって母さんなら言うだろうしな、多分」


感覚的にそうしてしまった青嵐にはそう話す他になかった。


「また多分?お母さん泣くよ?」


「多分としか言いようがないからな、仕方ないだろ」


ふーんと、少女は不満げな表情を浮かべた。

並んで歩き、職員室の前にある棚から必要な量のプリントを取り出して先程までプリントがばら撒かれていた渡廊下を通り、遠い教室へと歩を進める。


誰かと並んで歩くことなんて覚えている中であっただろうか、青嵐は隣を歩く少女に新鮮さを覚えた。


記憶のない頃なら母親と歩いただろうが。



母さんと歩く時はこんな感じだったのかな…



人知れず想像した。


「………ねえ」


「どうした?」


少女が青嵐に話しかけた。


「お母さんのこと、好きなの?」


「勿論、愛してるさ」


それ以外の返答を青嵐は持ち合わせていなかった。

たったそれだけを聞いて、少女は満足そうな笑みを浮かべた。


「そっか!そう言われるとお母さん嬉しいよ!」


その微笑みが、青嵐にとって好ましく感じた。


無言が続いているが、2人にとって何処か心地よかった。

だがその心地良かった時間もすぐに終わりを迎えてしまった。


「じゃ、私のクラスここだから、運んでもらっちゃってごめんね!」


「これぐらいどうってことないさ」


プリントの束を渡して、少女は教室に入ろうとしたが、何か思い出したように立ち止まり青嵐の方に振り向いた。


「どうかしたか?」


霞草椿かぐさつばき!私の名前ね!」


少女は、椿は自分が名乗ってなかったことに気づいたのだ。


「五月雨青嵐だ、もうやらかすなよ霞草、このドジっ子」


「ドジっ子で悪かったね青嵐!」


軽口を叩き合って今度こそ椿は教室へ入って行った。

自身の教室で財前にバカにされるまで己が笑顔なことに、青嵐は気づくことはなかった。





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