第16話

東のスパイ組織の秘密拠点――港外れの、錆び付いた倉庫。

外壁は潮風で剥がれ、夜露が染み込んだ鉄の匂いが鼻をつく。中は暗く、ランプの淡い明かりが揺れ、壁の影が歪んで蠢いている。そこに、組織の生き残りたちが肩を寄せ合うように集まっていた。

テーブルの上には、擦り切れたラウデン市の地図。

中央に陣取るのは、長身で痩せた男――リーダーのイヴァン。

頬はこけ、片方の目は昔の傷で細く閉じかけている。その片目で地図を睨みつけながら、低く、絞り出すように言った。

「……我々は、奴を甘く見た」

握った拳が、テーブルに置かれたカップを震わせる。

「たった一人の男が、これほどまで我々を壊すとは……思ってもいなかった」

「すでに何人、あいつの手に掛かった?」

ソフィア――冷たい金髪の女が答える。彼女は情報収集の達人であり、相手の心臓を見抜く眼を持っている。

「仲間は……もう数えるのも虚しい。残ったのは、ここにいる私たちだけ。しかもエマを軸に、あいつの動きは加速している。このままでは、中央から見せしめの粛清が下るのは時間の問題よ」

彼女の声には、怯えよりも悔しさがにじんでいた。

「エマの父親を餌に誘い出し、仕留める――あの計画は完璧だった」

アレクセイが唇を歪める。彼は組織の戦略家であり、あらゆる罠を編み出す頭脳だ。

「だが……奴は予想を超えて強かった」

「いや……強さだけじゃない」

イヴァンの声が低く落ちる。

「奴は、我々の動きを読む。影に潜む我々の匂いを嗅ぎつけ、先回りして潰してくる。……このままでは、我々は灰になる」

重苦しい沈黙が、倉庫の壁を這った。

その沈黙を破ったのは、アレクセイの冷たい笑い声だった。

「ならば、奴の影を引きずり出すしかない。――確実に、逃げられないように」

ソフィアが眉をひそめる。

「またエマを使う気? あの娘は……」

「いや」イヴァンが首を振った。「今の奴はエマの護りを固めている。あの娘には指一本触れられん」

アレクセイの目が光る。

「だが……奴には、もうひとつの弱点がある」

指先で地図を叩きながら、にやりと笑った。

「この街――ラウデンだ」

ソフィアは目を細めた。「……この街を人質にするってこと?」

「そうだ」アレクセイの声はねっとりとした響きを帯びていた。

「奴はこの街に想いを持っている。過去の女、古い仲間……そして、あいつの血に染み込んだ記憶がここにある。街を痛めつければ、奴は必ず現れる」

「具体的には?」イヴァンの片目が光る。

アレクセイは舌なめずりをして、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「水源を毒する。電力を落とし、真っ暗な闇に沈める。通信網を破壊し、外界と断つ……街を機能不全に追い込み、住民を飢えと恐怖で包み込む」

ソフィアが思わず息を呑む。

「……そんなことをすれば、当局が黙っていない」

「構わん」アレクセイの瞳は爬虫類のように冷たかった。

「奴を引きずり出すためなら、この街ひとつ潰しても惜しくはない」

イヴァンは長く考え、そして深く頷いた。

「――決行だ。犠牲は厭わん。我々は生き残らなければならない。敗者には死しかない」

ランプの灯が、彼らの顔を赤く照らし出す。

復讐の炎が、湿った倉庫の中でじわじわと燃え広がっていった。

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