小説の母
アガタ
小説の母
まろみは小学校一年生だった。
父と母、それから三つ下の妹とアパートの二階で暮らしていた。
その日の夕方、食卓にはハンバーグがのぼった。妹と二人で最後のつけあわせポテトを取り合って、母に笑われた。食べ終わると、まろみと妹はテレビの前に座り、父はソファで新聞を広げた。母は皿を洗い終えると、台所の隅にある小さな机でノートパソコンを開いた。カタカタとキーボードを叩く小さな音が、テレビの音に混じって聞こえてくる。仕事をしているのだと、まろみは思った。母の仕事は、小説を書くことだった。「こみっしょん」というもので、それがどういう仕組みなのかはよく知らなかった。
観ていたアニメが終わり、画面が切り替わってニュースが始まった。スーツを着た男の人が、難しい顔で何かを話している。まろみには意味のわからない言葉の断片が、耳に引っかかった。
ショーセツ、シカクセイ、カケツ、アマチュア、キンシ、バッソク。
「ママ、これなに?」
振り返ると、母はパソコンから顔を上げていた。その目はテレビの画面に注がれ、眉間に深いしわが寄っていた。
アナウンサーの声が、抑揚なく言葉を続ける。
「セイフハアマチュアノサッカヲキンシシ、アラタニシッピツシカクセイドヲタチアゲマシタ。コレニヨリ、ショーセツヲカクコトハシカクセイニナリ、シュッパンシャヲトオサナイムシカクサッカニハ、キビシイバッソクガ」
母がリモコンを掴んでテレビの電源を切るのと、玄関のドアが激しく叩かれるのは、ほとんど同時だった。
ドン、ドン、ドン。
「森川さん!作家取締り摘発局の者です!森川さん!開けなさい!」
低い男の声がドアの向こうから響く。母は素早く立ち上がると、まろみと妹を一度に抱き上げた。そのまま奥の六畳間へ駆け込む。父がおたおたと後に続くのが見えた。
バリバリと音がして、玄関のドアが破られた。重い靴が床を踏みしめる音が複数、リビングに流れ込んでくる。
次に気がついた時、母の姿はどこにもなかった。
隣で妹が甲高い声で泣き叫び、父がその小さな体を固く抱きしめていた。部屋の中には泥のついた足跡が無数に残っていた。窓が大きく開け放たれ、外の冷たい夜気が流れ込んでいた。
○
世界中で小説を書くことが資格制になったのは、十四年前のことだった。
十四年が経ち、社会は静かに、しかし大きく変わっていた。書店から多様な物語が消えた。棚に並ぶのは、国家資格を持つ作家たちが書いた、承認済みの小説ばかりだ。それらは皆、穏やかで、教訓的で、そして政府が示す「理想の国民像」を称賛する内容だった。資格を持つ作家たちは、もはや創作者ではなく、政府の意向を汲んで物語を生産する文化官僚に近かった。彼らは秘密裏に伝えられる指針に忖度し、決して体制を揺るがすことのない、安全な言葉だけを紡いだ。
人々は次第に物語を読まなくなった。かつて乱立していた小さな出版社は淘汰され、娯楽の中心は、思考を必要としない映像コンテンツへと完全に移行した。
まろみは二十歳になり、市内の小さな印刷会社で働いていた。彼女の仕事は、そうした公認小説のゲラを校正することだった。どれも同じような筋書き、同じような結末。国のために尽くす主人公、自己犠牲の推奨、秩序の美しさ。インクの匂いが染みついた校正紙を眺めながら、この灰色の世界が当たり前のものとして体に馴染んでいくのを感じていた。
ある夜、仕事を終えてアパートに帰ると、ドアポストに分厚い封筒が無理やり押し込まれているのに気づいた。郵便受けの口を歪ませて、はみ出している。こんなものが届くあてはなかった。
それを取り出して、鍵を開けて家に入る。蛍光灯のスイッチを入れ、手を洗ってからテーブルの上に封筒を置いた。カッターで慎重に封を切る。
中から出てきたのは、原稿用紙の束だった。四百字詰めのマス目がびっしりとインクで埋まっている。その一番上、表紙には、見慣れた丸い文字でこう書かれていた。
【20才の誕生日おめでとう】
まろみは息を止めて、その表紙をじっと見つめた。指先が微かに震える。ゆっくりと一枚目をめくった。
そこには、読んだこともない物語が綴られていた。公認小説では決して描かれることのない、矛盾を抱え、間違いを犯し、理不尽に怒る、生身の人間の叫びがそこにはあった。忘れ去られていたはずの感情の奔流が、行間から溢れ出してくる。
母だ。
声には出さなかった。ただ、そう思った。これは母からの贈り物だ。
母は生きていた。
そして、飼いならされた言葉が溢れるこの世界の片隅で、たった一人、本当の物語を書き続けていた。
涙が溢れた。再会の喜び。それだけではない。
十四年という歳月の重さと、一枚一枚の原稿用紙に込められた母の覚悟が、船の碇のように胸に沈んだ。物語を書くことが罪になる世界で、これを書き上げ、娘の元へ届けるという行為が何を意味するのか。想像するだけで全身の血が冷える。
これは単なる誕生日プレゼントではない。
母からのバトンだ。こんな世界でも物語は死なないという、静かで、しかし何よりも雄弁な抵抗の証だった。
まろみは原稿用紙の束を、壊れ物を扱うように、しかし力強く胸に抱いた。
窓の外には、飼いならされた物語だけが許された街の灯りが広がっている。だが、この手の中には、誰にも消せない物語が息づいていた。
母が命を賭して紡いだ、新しい始まりの物語が。
まろみは顔を上げた。
その目には、もう涙はなかった。
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小説の母 アガタ @agtagt
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