侵略的外来種と「いらすとや」について

伽墨

ミームのエントロピー的な性質について

職場からの帰り道。

夕暮れの池は、どこか寂しげに光っていた。


水面を切るのはアメリカザリガニの赤いはさみ。ぎこちなく泳ぎ、泥を巻き上げるたびに、沈んでいた小魚が慌てて散っていく。「あれは、メダカか?」と水面を覗き込むが、やはりメダカではない。カダヤシであった。石の上ではミシシッピアカミミガメがじっと身をさらし、傾いた陽を浴びている。田んぼの畔には、スクミリンゴガイの卵が場違いに鮮やかなピンクの斑点となって並び、遠くからはウシガエルの鳴き声が、ボォーッ、ボォーッと湿った風に乗って届いてくる。


それは生命に満ちた風景であるはずなのに、どこか借り物のように感じられる。


思い出すのは、かつてここにあったであろう光景だ。

静かな水面に群れの影を落としたのは、カダヤシではなくメダカだった。石の上に並んでいたのは、甲羅の小さなイシガメ。夏にはトノサマガエルが跳ね、秋には赤とんぼが群れ、冬の藻の間にはヤゴがひそんでいた。色も形も不揃いで、調和がとれているようでとれていない、しかし確かにその土地が息づいていた。


いまや、その郷愁ある多様性に富んだ自然の姿はもう見えない。均質で、強く、目立つものだけが残り、夕暮れの池を占領している。


その光景を眺めながら、ふと頭をよぎる。

──そうだ、「いらすとや」だ。


かつてポスターやチラシには、描き手それぞれの手の跡が残っていた。線は震え、色ははみ出し、ときに稚拙だったが、そこには不揃いな生き生きとした風景があった。絵心に自信のある人にとってはそれが大事な仕事ですらあった。彼らは「チラシにイラストが欲しい?任せてください!私は絵が得意なんです」と張り切っていた。人々は意匠を凝らし、自分の手でイラストを描き上げていた。

しかし今は、どこを見ても同じ絵柄が並んでいる。親しみやすく、誰にでも通じるけれど、個々の息づかいは消えてしまった。


──外来種が在来の生き物を駆逐したように、いらすとやは表現の雑木林を押しのけ、均一な森をつくりあげた。

それは便利で、美しく、そしてどこか寂しい。


夕暮れの池を見渡しながら思う。

かつての自然も、かつての文化も、もう手の届かないところにある。

目の前にあるのは「どこかで見たことのある光景」ばかり――それでも、私はしばらく立ち尽くし、その既視感に身をゆだねていた。

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