最終電車

キートン

終電は、眠らない

 深夜0時を回った頃、僕はぐったりと疲れて、最終電車の網棚に頬を預けていた。一日中動き回った営業の疲れが、全身の骨を溶かすように重くのしかかる。


 車内は意外と混んでいて、立っている客も数人いたが、みな無言でスマホの画面を見つめたり、虚ろな目で窗外の暗闇を眺めたりしている。ガタン、ゴトンという単調なレールの音と、モーターの低い唸りが、完璧な子守歌となった。


 気がつくと、僕は完全に居眠りに落ちていた。


 意識がぼんやりと戻ったのは、異様な“静寂”によってだった。ガタンゴトンという音が、いつの間にか消えている。耳を劈くような無音が車内を満たしていた。


「……っ?」


 瞼をこすり、顔を上げる。車内は相変わらず明るいが、空気が淀んでいる。さっきまで立っていた人たちは、いつの間にか座席に座り、皆、ぐったりと頭を垂れて深く眠り込んでいる。いや――よく見ると、全員の姿勢が不自然に統一されている。だらりと首を落とし、両手は膝の上。まるで人形のようだ。


 窓の外は、何も見えない。真っ暗というより、乳白色の、濃い霧のようなものに包まれている。電車は確かに動いている感覚がある。微かに振動し、速度は落ちていない。だが、線路脇の風景も、駅の明かりも、一切見当たらない。


「おい、大丈夫かよ?」


 無意識に隣に座っているスーツ姿の男に声をかける。だが、反応はない。揺すってみても、まるで深い麻酔にでもかかったように微動だにしない。その顔は影に覆われてよく見えなかった。


 焦りが胸を締めつける。僕はよろめきながら車両の連結部へ走った。ドアはもちろん開かない。非常ボタンも、インターホンも、全てが死んだように反応しない。次の車両へドアを開けて覗く。そこも同じ光景だった。眠り込んだ乗客たち。淀んだ空気。窗外の意味不明な白い闇。


「やめろ……誰かいるのか!? 停まれ!」


 叫び声は、吸音材に吞まれたように、車内に広がる前に消えていった。


 パニックに駆られ、僕は必死で車内を何往復もした。全ての車両が同じ状態だ。乗客は皆眠り、僕以外に意識がある者は一人もいない。僕は最初の車両にたどり着き、運転台のドアを叩きつけた。


「開けろ! 何が起きてるんだ!?」


 ドアはびくともしない。しかし、小窓からちらりと中を覗くことができた。


 運転席には、制服を着た運転士が座っていた。背筋をピンと伸ばし、両手は確かにマスコンとブレーキハンドルを握っている。


 だが、その運転士もまた、深く深く“眠って”いた。目は閉じ、顔には一切の表情がない。そして、その眠りながら、彼は機械のように、正確にハンドルを操作し続けていたのだ。


 この電車を、止まらないこの最終電車を、眠ったまま運転し続けている――。


 その絶望的な光景に、僕はのけ反り、声も出せずに後ずさった。背中が冷たいドアにぶつかった。


 その時だ。


 キィィィ……と、小さな、しかし鋭い金属音がした。


 僕の真正面にある座席で、あごを胸に付けて眠っていた老婆が、ゆっくりと、とてつもなく不自然な動作で首を持ち上げ始めた。骨のきしむような音が静寂の中に響く。


 やがて、完全に上げられたその顔は、年齢のよくわからない、しかしとてつもなく疲弊した女のものだった。顔色は土気色で、目の下には深い隈がある。その女は、ぱっちりと見開かれた双の瞳で、僕をまっすぐに見つめた。瞳には光がなく、窓外の闇と同じくらい深い暗色をたたえている。


 女はゆっくりと口を開いた。乾いた唇がひび割れる音がした。


「……まだ、お目覚めですか?」


 嗄れた、まるで砂利を踏みしめるような声だった。


「あの……これは、どういう……? 電車はなぜ止まらないんです? みんなは……?」


 女は微かに首を傾げた。首の関節がきしんで聞こえた。


「止まりませんよ。もう。ここでは、みなさんずっとお眠りになります。お疲れでしょう? ゆっくり、休みなさい」


 女の言葉に誘われるように、猛烈な睡魔が再び僕を襲った。まぶたががくんがくんと重くなる。全身の力が抜けていく。座り込んでしまいそうになる。


 だめだ。寝てはいけない。眠ったら、彼らのようになってしまう。永遠に目覚められなくなる――。


 そう直感した。僕は歯を食いしばり、自分の頬を強く叩いた。痛みがわずかに睡魔を退ける。


「……お断りします」


 そう答えると、女の無表情な顔に、ごくわずかに、しかし確かに怒りのような歪みが走った。


「そうですか」


 女はそう呟くと、今度は僕の斜め後ろの席から、またぎしりと音がした。振り向くと、さっきまでぐったりと眠っていた中年の男が、同じように不自然に首を上げ、虚空を見つめている。そして、その隣の若い女性も、そしてその隣の老人も――。


 カクン、カクン、カクン。


 次々と、車内の全ての眠りについていた乗客たちが、首を上げ始めた。無機質な動作で、一糸乱れず、僕を中心に、ゆっくりと視線を向けてくる。


 彼らの目は皆、同じ深い闇を宿している。


「ゆっくり、休みなさい」


 老婆の嗄れた声が再び響いた。


「もう、すぐ次の駅には着きませんから」


 僕は叫びたいのに声が出ない。逃げ場はどこにもない。ゆっくりと、しかし確実に、無言の乗客たちが立ち上がり、僕に迫ってくる。彼らの影が、蛍光灯の明かりを遮り、僕の上に覆い被さる。


 窗外の白い闇が、より濃く深くなっていくのを感じた。


 そして、電車は、誰にも止められることなく、レールのない暗闇へ、速度をさらに上げて突き進んでいった。


 僕は最後の力を振り絞り、瞼を閉じる睡魔と戦いながら、それでも必死に顔を上げた。


 はるか前方の、運転台の小窓越しに、眠ったまま無表情でマスコンを全開にしている運転士の横顔が、ちらりと見えた。


 その時、僕は気付いた。


 彼の横顔が、どことなく、疲れ切った自分自身のように見えたのだ。

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