逃げ上手の邦時

マー爺

鎌倉炎上

 炎がすべてを焼き尽くしていく。鎌倉の街は、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。


「邦時様!早くこちらへ!」


 伯父である五大院宗繁ごだいいんむねしげの声が、熱気に浮かされた私の意識を強引に引き戻す。

 燃え盛る屋敷の中、私は伯父に手を引かれるまま、降り注ぐ火の粉を振り払って瓦礫の間を走り抜けた。


 ここは……どこだ?


 私の頭はひどく混乱していた。

 数日前まで、この街は平和そのものではなかったか。

 確かに遠方で戦が始まったとは聞いていた。大人たちが奥座敷で、険しい顔をして密談を交わしていたのも覚えている。

 だが、百年以上の平穏を享受してきたこの鎌倉が、これほど脆くも燃え落ちるなど、誰が想像できただろうか。


 気がつけば、空は黒煙に覆われ、叫び声が街のあちこちで響いていた。


「邦時様、しっかりしてください!今は一刻も早く、ここから逃げるのです!」


 父上…母上……亀寿丸……皆……。


 逃げる道中、背後に遠ざかっていく赤く染まった空を見て、私の目から涙が溢れ出した。

 しかし、涙を拭う間さえ惜しんで、伯父の手は私の腕を強く引き続ける。


 どれほどの時間が経っただろうか。私と五大院の伯父上は、人気のない山道をひたすらに歩いていた。


「伯父上、一体何があったのですか?なぜ、鎌倉はあのようなことに……」


 ようやく一息つける岩陰に辿り着いた時、私は震える声で尋ねた。

 五大院の伯父上は、煤で汚れた顔に苦渋の色を浮かべ、重い口を開いた。


足利高氏あしかがたかうじが裏切ったのです。奴は、後醍醐ごだいごの帝と内通し、新田義貞にったよしさだに鎌倉を攻め滅ぼさせたのだ」

「高氏殿が…? そんな………」


 信じられなかった。あの、穏やかで高潔なはずの足利殿が。


 呆然と立ち尽くし、私は言葉を失った。

 足利氏と北条氏は長きにわたり血縁を結び、共に幕府を支えてきた柱石ではないか。

 現当主である足利高氏殿の正室は、赤橋流とはいえ幕府の中核である執権・北条守時殿の妹だ。

 北条家にとって、これほど信頼に足る武将はいなかったはず。その男が、なぜ……。


「我々は、もはやこれまでか………。おそらくは高時様も長崎殿も………」


 五大院の伯父上は、絞り出すような絶望の声を漏らした。

 だが、私はまだ諦めきれなかった。

 父・北条高時ほうじょうたかときは北条得宗家の長。実務は御内人の長崎氏が握っていたとはいえ、父はその権威の象徴だ。

 名目上の最高権力者が守邦親王もりくにしんのうだとしても、得宗家の力がそう容易く潰えるはずがない。


「そんなことはありません! まだ、希望はあります! 必ず、鎌倉を再興してみせます!」


 自分は北条得宗家の嫡男なのだ。私が生きている限り、北条の火は消えない。

 父上が死んだとは限らないし、弟の亀寿丸だってどこかで無事でいるはずだ。

 私は必死に伯父を励ました。それは同時に、折れそうな自分自身の心を繋ぎ止めるための叫びでもあった。



 その時だった。

 どろりと溶け出すような感覚と共に、脳裏に「前世の記憶」が鮮明に蘇った。走馬灯のように、遥か未来の情景が目の前を駆け抜ける。

 

 そうだ……すべてを思い出した。


 私は遠い未来、平成の日本を生きた外科医だった。若き日は青年海外協力隊として途上国へ渡り、帰国後は不眠不休で救急医療の最前線に身を投じた。

 患者の命を救うことだけに心血を注ぎ、自分の体など二の次だった。

 「医者の不養生」とはよく言ったもので、結果、私は四十五歳という若さで過労死した。そして、この鎌倉時代へ転生したのだ。


 前世で学んだ歴史が、残酷な事実を突きつけてくる。

 教科書に載っていた「鎌倉幕府の滅亡」。

 幕府に対して反感を持つ後醍醐天皇が挙兵した。元弘の乱。

 後醍醐天皇は捕らえれて、隠岐に流されたが、残存勢力が各地で戦い続けていた。

 そんな中で足利高氏が後醍醐天皇に寝返ったのである。

 形成は逆転し、各地で反鎌倉の動きが加速した。そして、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め込んで来たのだ。

 新田の軍勢により鎌倉幕府は滅びた。


 この話を私はマンガで読んだことがある。

 北条時行を主人公とした「逃げ若」という漫画だ。

 私はその物語の主人公である時行の兄、邦時。

 そして、史実における北条邦時は、伯父である五大院宗繁に裏切られ、新田軍に引き渡されて命を落とす――。


「伯父上………」


 思わずそう呟いて、私は自分の手を引く五大院宗繁を見上げた。

 その手は温かい。だが、その温もりこそが、私を死地へ誘う毒だと知っている。

 この男は今、私を助けるふりをしながら、心の中では私を売る算段を立てているのだ。

 歴史という名の定めから、逃れることはできないのだろうか。……いや、違う。私は、歴史の通りには死なない。



 私が突然足を止めたことで、宗繁が焦燥を滲ませた。


「邦時様、何をぼさっとしているのですか。早くここを離れねば、いつ敵に見つかるか分かりませんぞ!」


 その言葉には、私の身を案じる響きがあった。

 だが、歴史が語る冷酷な裏切りの事実が隠されている。

 前世の記憶が確かならば、彼は私を新田軍に差し出し、自らの命と地位を保障させようとしているのだ。


「疲れてしましました………伯父上」


 私は努めて冷静に、九歳の子供らしく力なく言った。

 現在の肉体は十歳にも満たない。体力の限界を訴えるのは極めて自然な振る舞いだ。


「この先、どこに敵が潜んでいるか分かりません。私は少し休みたいのです。伯父上が先に様子を見てきてくれませんか? その間、私はこの草むらに隠れています」


 宗繁は一瞬、言葉を呑み込んだ。私を確実に捕らえるためには、片時も離したくないはずだ。

 だが、一人で先行すれば、私を売るための「商談」を敵とつけることも容易い。


「……承知いたしました。では、くれぐれも静かに息を潜めて。ここを動いてはなりませぬぞ。必ず、すぐに戻ります」


 宗繁はしぶしぶといった様子で、私を近くの深い茂みへと押し込んだ。「すぐに戻る」という言葉に嘘はないだろう。彼は必ず、敵兵を引き連れて戻ってくる。


 チャンスは、この数分の間しかない。


 宗繁が闇の中へ溶け込むように去っていく。

 私は彼が完全に視界から消え、その足音が遠ざかるのを極限まで耳を澄まして待った。


 気配が消えた。


 その瞬間、私は草むらから飛び出し、彼が向かったのとは真逆の方向へ、全身の力を振り絞って走り出した。

 私は生きるために逃げる。北条の再興などどうでもいい。

 ただ、この命を全うするために、死なないために逃げるのだ。


 逃げて、逃げて、逃げ延びてやる。


 こうして、私――北条邦時の、歴史を覆す「逃亡人生」が幕を開けた。




□□□□□□□□□□□


 1333年。鎌倉幕府滅亡。

 後醍醐天皇の討幕の乱に乗じて足利高氏が裏切り、京都の幕府軍を討ち破った。

 それと同時期に新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅亡した。

 北条得宗家の長の北条高時らの幕府首脳陣は全員が討ち死にか切腹をした。北条家はここに滅ぶ。


 そして、北条高時の嫡男である北条邦時も、伯父である五代院宗繁に裏切られて捕えられて斬首された。

 五代院宗繁は卑怯な裏切者として蔑まれて、建武政権にて士官も出来ずに浮浪者として放浪して飢え死にしたと伝えられている。


 この世界の五代院宗繁は裏切ろうとしたが、邦時が既に逃げてしまっていたので、そのまま敵に捕まり斬首された。

 彼は邦時を逃がすための囮となったとして、太平記において北条家の忠臣として伝えられている。

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