化学する飯野くん
福小紋
飯野くんとケーキ屋
夏の昼下がり、俺たちは街のケーキ屋にいた。
「なあ、今日のケーキ、どれにする?」
ずらりとケーキの並んだショーケースの前で、俺こと
飯野は眉をひそめ、ケーキをじっと見つめている。
「まず甘さを確認しないとだな」
「は?」
「甘味といえば糖類。スクロースがもっとも重要だ。αグルコースとβフルクトースがグリコシド結合した二糖類」
「何だよそれ?」
「別名ショ糖。一般的には砂糖とよばれる」
「普通に砂糖って言えよ!」
店員も小さく苦笑している。
「この苺ショートなんか単糖類と二糖類のブレンド感が絶妙」
「お前、そんなこと分かるのか?」
「質量分析法の装置を使えばな」
俺は思わず脱力した。そんな装置を持ち歩いてる奴、どこにいるんだよ。
「今わかんないんじゃん……」
「スポンジの断面も見ろ。メイラード反応も完璧だ」
「はあ、それも機械で測定か?」
「褐色化している色を見れば分かるじゃないか。スクロースとアミノ酸が加熱され、メラノイジンを生み出した奇跡! 柔らかな香ばしさが食欲をそそる」
「普通に美味そうって言えよ!」
店員は、こくこくと頷いている。
俺は、ショーケースの中のプリンを指さした。
「砂糖が焦げて茶色になるんだろ? 俺だって知ってるよ。うん、プリンも美味そうだな」
「違う。それは糖自体が分解して褐色になる現象、カラメル化だ」
「細けーな、おい」
店員は、プリンを覗き込んでいる。
飯野はさらに語りだす。
「メラノイジンは、ビタミンEより抗酸化力が高くて、健康にもオススメなんだぞ」
「すげーな、メラ何とか」
「ただし万能ではない。糖の中でもグルコースとアスパラギン酸が反応した場合は、発がん性が指摘されている」
「大丈夫なのか?」
「スクロースからの生成物は問題ない」
店員は、安堵の表情を浮かべている。
「あのぅ、お二人は、化学の専門家ですか?」
「その通りです」
「ちげーだろ!」
俺たちは、ただの高校の化学部員。今日は、夏休み中の部活でパーティーをするためのケーキを買いに来たのだ。
何より、高校生なのは見れば一目で気づくはずだ。俺たちは、「戌井」「飯野」と名前の入った高校の体操着を着ているから。
「俺たち、高校生ですよ」
「ですよね。一応聞いてみました」
店員は、事もなげに言った。
そこに、カランと音を立ててドアが開き、女の子が入ってきた。
「いらっしゃいませー」
店員の声に会釈しながら、俺の胸の高さくらいの子がてくてく歩いてきてショーケースを覗く。
「今日は、メイラード反応が抜群だぞ」
「ちょ、お前、こどもに何言ってんだよ」
女の子が顔を上げて、俺を見た。
「お兄ちゃん、助けて」
こともあろうか、女の子は飯野の後ろに隠れて俺を警戒しはじめた。
「大丈夫、噛みつかないから」
「噛みつかねーよ!」
カラン。また店のドアが開き、今度は大人の女性が入ってきた。女の子の母親だろうか。車の鍵と財布を手に、店内を見回す。
女性は、飯野に隠れる女の子を見て言った。
「あら、飯野さんちのお兄ちゃん。こんにちは」
「こんにちは。いつも母がお世話になっております」
飯野は、女性に深々とお辞儀をした。
「いつも礼儀正しいわね」
知り合い? なんでそんなに自然に挨拶してんだよ。俺だけ完全にアウェーじゃないか。
微笑みを浮かべる母親のもとへ女の子が走る。
ほほえましいなと目で追ったら、女の子が口走った。
「ママ、このお兄ちゃんこわーい」
「え?」
「お客様、店内で迷惑行為は困ります」
「はっ?」
隣に立つ飯野。
後ろから俺を見る母親、その脇の女の子。
そして、正面の店員。
「どんな四面楚歌? 俺何か悪いことした?」
こんな時こそ、飯野お前がフォローしろよと目くばせをする。しかし、飯野は我関せずといった顔でショーケースを覗いている。
おい、頼むよ。と願う心が通じたのか、飯野は話題を変えた。
「みっちゃん、今日はスポンジの活きがいいよ」
「魚じゃねーよ!」
思わず口から出た言葉に、ジロリとにらんでくる母親と店員。
ヤバい、おとなしくしなきゃ。幸いなことに、女の子は飯野との会話を続けた。
「うん、今日はねロールケーキ買いに来たの」
「さすが、みっちゃん、いい目をしてる」
女の子は、飯野に褒められてうれしそうだ。店内の雰囲気も和む。
でも、母親が一歩前に出た。
もしかして俺、怒られるパターン?
「えっと、こちらのロールケーキ、ホールで一本お願いします」
ぱーっと喜びの表情を浮かべる女の子。
良かったと胸をなでおろす俺。
会計を済ませ、親子は店を後にした。
再び店内には、俺と飯野と店員の3人に戻る。
「さて、吟味を再開しようか」
「まだ続けるんかい! 俺らも活きがいいロールケーキでいいじゃん」
「いやきちんと検討せねば」
別に悪いことをしているわけではないと思うのだが、どうも居心地の悪さを感じていた俺は店員に謝る。
「すみません。忙しい時間に、こんな手間取らせちゃって」
店員は時計を確認してから優しく答えた。
「いいですよ。午後2時ころって、お客さん少ない時間帯ですので」
「
「お前が言うな」
「確かに、昼食直後は買い物客も少なく、また会社や学校帰りの時間にもまだ早い」
「そうなのか」
「ただ、この時間帯は仕込み作業をすることもあるから、暇ではない」
「わかってんなら、早く決めろよ!」
店員は、ニコニコしながら俺たちを眺めている。
「ところで飯野さ、味ちゃんとわかるの?」
「舌には味を感じる味蕾というものがある。私はそれを7500個持っている」
「おお、7500個! すごく味がわかるってことか?」
「人は生まれたとき約1万個、年を取ると減っていって成人の平均は7500個だ」
「平均なんかい!」
飯野は、ふぅとため息をついて、俺の肩に手を置いた。
「ちなみに犬の味蕾は2000個程度だ」
「なぜそこで犬を出す!」
店員は、小さく噴き出した。
「ついでに言えば、味蕾の数が1万個以上ある人はスーパーテイスターと呼ばれる。通常の人の3倍くらい味を強く感じられる」
店員が反応した。
「あ、私、スーパーテイスターですよ」
「えぇぇ、ここにいた?!」
誇らしげ、というかどや顔の店員。
飯野は顔を輝かせ、店員を見つめる。
「ここの生クリームの糖度と酸度はいかほどでしょうか?」
おいおい、店員にお前の話を振るのはやめとけよ。
「えっと、糖度は7%、酸度は正確に分からないですけどpHは6.5くらいです」
まさか、店員が答えた。さすがスーパーテイスター?!
「おぉ、甘さ控えめの少し上をいく糖度。そして、肌にやさしい弱酸性」
「肌、関係ないだろ!」
店員は「まぁそうですね」とうつむいた。
飯野はショーケースから香る匂いかぎながら、俺に矛先を向けた。
「揮発性物質のバランスも理想的。お前の鼻は、どれを欲している?」
「また、犬の流れかい!」
「食べるのが私と
「はぁ……もう、犬でいいよ」
店員は、また笑いをこらえている。
「そうか、では、最後に戌井の胃袋容量も考慮に入れて理論的に選ぶべきだな」
「いや、それ俺の腹を計算するってことか? さすがにやめてくれ」
ハンカチで笑い涙を押さえつつ、店員は言った。
「お客様、そろそろ終わりにしていただけるとありがたいのですが」
ふと見れば、奥の厨房からマスターが目を光らせていた。
――まさかの出禁に?!
俺たちがこの店から追い出されるのも時間の問題か? と焦ったとき、飯野は店員に向き直った。
「では、今日のオススメを教えてください」
店員は少し驚きながらも、笑顔でタルトを差し出す。
「はい、こちらのシャインマスカットのタルトですね。季節のフルーツが最高に美味しいです」
「それ3つください」
「おいっ、今までのフリはいったい何だったんだよ!」
こうして、俺たちはケーキを手に入れ、学校に戻り化学部パーティーを楽しんだ。
(終)
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