第2話 初めての録音


「ちょ、ちょっと、響さん! どこに連れてくんだよ!」


 放課後、僕は響さんに腕を引かれ、図書館の奥へと連れてこられた。彼女は重い書庫の扉をゆっくりと開ける。古い油の匂いと、紙の乾いた匂いがした。


「静かに。ここは図書館の特別書庫。一日中、誰も来ない。最高のレコーディングスタジオ」


「スタジオって……だから、何を録るんだよ!」


 彼女は僕の言葉を無視して、持ってきた大きな機材ケースを床に置いた。金属の留め具を外すと、中から現れたのは、どう見てもプロ仕様の録音機材だった。人間の頭の形をしたマイク……確か、バイノーラルマイクとかいうやつだ。


「いい? まずは、あなたの自然な音を録る。そこに座って。リラックスして」


「こんな状況でリラックスできるか!」


 彼女は慣れた手つきでマイクをセットし、自分のヘッドホンを着ける。その真剣な横顔を見ていると、なんだか断りきれない雰囲気があった。


「……聞こえる。うん、最高。この部屋の空気の振動と、あなたの心臓の凪が、完璧に調和してる……」


 完全に自分の世界に入っている。僕はため息をつきながら、言われた通り椅子に座った。


「じゃあ、始めるよ。まずは、呼吸から。普段通り、自然な呼吸を続けて」


「こ、こうか……? すー……はー……」


 僕が呼吸をすると、彼女はヘッドホンを抑えて恍惚とした表情を浮かべた。


「……はぁ……すごい。ノイズが一切ない。空気だけが、あなたの肺の中で、清められていく音……。まるで、聖域の風……」


「大袈裟だろ……!」


「次は、この本。適当なページを、ゆっくりめくってみて」


 渡されたのは、分厚い古書だった。僕は言われるがまま、乾いたページをゆっくりとめくった。


「……最高。指先の皮膚が、乾いた紙の繊維を撫でる、繊細な摩擦音。ページの角が空気を切り裂く、わずかな高周波……。鳥肌が……」


「そんなマニアックなとこ聞いてたのか……」


「音無くん。次は、少し難易度が上がるよ」


「テストみたいに言うな!」


 彼女はペットボトルの水をグラスに注ぐと、僕に差し出した。


「この水を、飲んで。ただ飲むんじゃない。『夏の終わりの夕暮れ、誰もいない教室で、ふと自分の将来に思いを馳せながら、渇いた喉を潤すように』飲んで」


「設定が細かい!」


「お願い。その情景を、音だけで表現して。あなたならできる」


 無茶苦茶だ。でも、彼女の真剣な瞳に見つめられると、なぜか、やってやろうという気になってしまう。

 僕は目を閉じ、言われた情景を思い浮かべた。夏の終わり……。


 グラスを持ち、ゆっくりと水を飲む。喉が、こくり、と鳴った。


「……あぁ……すごい……。喉が鳴る音の奥に、微かな寂寥感が……。水が食道を通り過ぎる音の残響に、未来への不安と、ほんの少しの希望が……。完璧な『青春の音』……!」


「考えすぎだって! ただ水飲んだだけだから!」


 彼女はヘッドホンを抑え、恍惚とした表情で天井を仰いでいる。

 僕はただ、ページをめくって、水を飲んだだけなのに。

 この先、僕は一体、何をさせられるんだろうか。不安と、ほんの少しの好奇心が混じった、奇妙な録音は、まだ始まったばかりだった。

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