第13話

 夢を見た。


 眠りから覚めるような感覚は、実は夢の中に入りこんだものだったらしい。


 外は夕焼け色に染まっていて、部屋の中は仄暗く、何もないのに荒んで見える。

 長く伸びる影が一つだけ。私は独りぼっちで、壁に凭れ掛かっていた。


 首を傾けて瞳に掛かっていた髪を払う。視界が晴れて、傷だらけの肌が見えた。


 床に垂れた腕を持ち上げる。ジャラリと鎖の音がした。

 痺れそうな脚を伸ばした。ジャラリと鎖の音がした。


 私はこの部屋から出られない。

 私はこの部屋から逃れられない。

 私はこの部屋に縛られているから。


 独りの私にはもう、ここしか居場所がなかったから。


 懐かしいというにはあまりにも痛みばかりの、あの時の感覚を身体が思い出していく。


 それに連れて、頭から感情という感情がスーッと遠退いていく。


 一瞬顔に表れた困惑も、今はもう何も映さない無表情に変わる。


 景色さえも濁るような真っ黒な私の瞳は、モノクロの変わった部屋の扉の方を見た。


 今日もこの時間か。

 今日は早く終わってくれるといいな。


 今日はどんな反応をしたら、満足してくれるかな?

 泣けばいいかな? 苦しめばいいかな? それとも笑えばいいかな?


 ああ、嫌だなぁ。痛いのも、苦しいのも、こうやって無理して……


『約束する』


 ぇ……?


『怖くしない。痛くしない。もう、苦しまないでいいよ』


 この声は、君……?


 耳元で囁かれた微かな幻聴に、小さな光が見えた気がした。

 そして同時に、感情が、表情が、痛みが、全ての感覚が戻ってきて——


「ぁ、ぁあ、ぁああああ…………!」


 激しく、暴れ始めた。


 タン、タンと、階段を登ってくる足音に全身が震え出す。

 恐怖が近付いてくる。悪魔が寄ってくる。


「い、や……嫌だ…………」


 全身の痣が疼き出して、掻き抱いても治ってくれない。


「嫌っ……! だれか! だれか助けて! お願い、お願いだから、ねぇ!」


 動けない。逃げ出そうにも、鎖は私の身体をこの部屋に縛り付ける。

 ガシャリガシャリと金属音。ギシギシと手足の軋む音。


「助けて!」


 助けを乞う相手に真っ先に頭に浮かんだのは、彼の顔だった。

 名前も知らない、私にたった一つの未来を見せてくれた人。


「約束……約束守ってよ! 言ったでしょ!? 痛いのはもう嫌なのっ!」


 助けて、と叫ぶ。

 助けて、と怒鳴る。

 助けて、と希う。

 助けて、と祈る。


 誰も来ない。声も聞こえない。助けに来てはくれない。


「絶対……絶対守るって、言ってくれたのに……なんで…………」


 叫び続けた喉は枯れて、語気は段々と萎んでいく。

 じわりと視界を歪める涙は、やがて止め処なく床に溜まっていく。


『諦めなさい。約束なんてバカバカしい』


 次に聞こえた声は、彼のものではなかった。


 嫌というほど耳が覚えてしまった、まるで汚物にでも吐き捨てるような。


 女の、自分を生んだ母親から浴びせられる蔑む声だった。

 そこで、映していた光が一瞬にして消え去ってしまう。

 外の夕焼け色も落ちて、部屋の中はいつの間にか、闇色が支配していた。


 私は、いつまでもこの人に囚われてる。殺しても、逃げ出しても、夢の中まで……


「そんな、ことない……守ってくれるって、ちゃんと……」


『貴女みたいな醜い人に、誰が約束なんて守るのよ。どうせ同情するだけしといて、利用して価値がなくなったら捨てるわよ、貴女なんかそれくらいのモノでしかないの』


「違う、彼はそんなことしない、私は彼を……彼と約束したもん!」


『……そう、そこまで彼にご執心してるのね。洗脳? 心酔? そんなのなんでもいいわ。その彼って子との約束がどんなものでも、無駄なものは無駄よ』


「なんで、そんなこと……」


『だったら、なんで彼は貴女のことを殺してくれるわけ? 理由は? そもそもあんな小さな子供にそんなことができると思う? 無理に決まってるじゃない』


 少し考えればわかることじゃないと、最後に吐き捨てたそれに。


 私は、ようやく気付いた。


 これは母の言葉ではない。母の声をした、もう一人の自分の声だと。


 だってこの疑念は、自分がずっと見ないようにしてきたものだから。


 気にしたら私は今の私でいられなくなるから、考えないようにしていた。


 私が笑っていられるためには、そうすることが必要だったから。


『それともいっそのこと、彼に直接聞いてみたらどうかしら? ああ、でももし聞いちゃったら、楽しい楽しい旅行はもう続けられないわね』


「それは……嫌だ」


『ならどうする気? 本心を殺しながら偽りの楽しさを味わう? それとも聞いて、安心できるか絶望するかに賭けてみる?』


 どちらにせよ明るい未来は望めないわねと、笑いの消えた冷たい声。


「まだ、彼と一緒にいたら分かるかもしれない。彼だってきっと悩んでるんだと思う。それで答えが出たら、私にちゃんと伝えてくれる」


『それも一つの手かもね。でも、それは選べない道よ。貴女たちはすぐにでも選択を迫られる。そうしたら、自ずと分かるんじゃないかしら。それが残酷なものだとしてもね』


 それを最後に、母の声が聞こえてくることはなかった。


 チャリと、鎖の音がやけに大きく聞こえる。

 また、独りぼっちになってしまった。


 けどこれは夢。ここは夢の中。全ては偽物。自身の心が生み出した幻想。

 現実じゃない。現実じゃないから、痛くも苦しくても、独りぼっちでも大丈夫。


 そう分かっているから、私は抗うのをやめて、瞳を閉じた。

 代わりに強く膝を抱いて、顔を埋めて、早く目が覚めることを願う。


 そう、大丈夫。元に戻ったら、いつか私は、彼に、


「私は——あれ……?」


 私は、どうしてもらいたいんだっけ……?


 □□□


 夢が覚めた。悪夢が終わった。


 ぐっしょりと汗を吸い込んだ浴衣が張り付いて気持ち悪い。


 ベッドから起きて、机の上に置いてあった、飲み掛けの水を一気に流し込んだ。


 カーテン越しでも分かるほどに外は真っ暗。まだ真夜中だ。


 もう一つのベッドに目をやれば、彼がぐっすりと熟睡しているところだった。

 横向けで身体を丸めて眠る彼の姿は、少し愛らしくも見える。


 そして、夢の中の言葉が脳に反芻した。

 彼に直接言ったら怒るだろうけど、こんな子供らしい男の子が。


『あんな小さな子にそんなことができると思う?』


 ううん。まだ、まだ私は待つの。あの言葉は、嘘じゃないって信じてる。


 彼の髪を分けて、額をそっとなぞる。と、擽ったそうに唸って背いてしまった。


 ちょっと残念と思いつつも、再び寝るためにベッドに戻る。


「携帯、充電しとかないと」


 ポシェットを漁ってから、ボストンバッグに入れていたことを思い出し、取り出す。


 それからホテルのコンセントに充電器をさして、スマホに繋げる。


「え……?」


 淡い光を放つ画面に、目を止める。


 不意に、夢の中の女が嗤った気がした。


 あり得るはずのない、母親からの着信を知らせる一件の通知が。

 本当の悪夢はこれからと、狂った笑みを浮かべていた。

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