第11話

「ほらほら、ちゃんと言わなきゃダメだよ。もう決めたんだから」


 どうして、こうなったのだろうか。


「リピートアフタミー。『お姉ちゃん』、はいっ!」


 ほんとに、どうしてこうなってしまったのだろうか。




 ネットで近くのホテルの空室を探していたところ、直接電話した先で運良くキャンセルが入り予約を入れることもできた。

 けど、問題が起きたのはそれからだ。

 想像してみよう。高校生の男女二人で、どちらも家出に等しい状況。

 チェックインさせて貰えないまではないにしても、面倒ごとになりそうなのは目に見えていた。そこで彼女が提案したのが兄妹、いや、悔しくも僕と彼女の場合、姉弟としてカモフラージュするというものだった。


「……君が本当に姉だったら、弟は相当苦労しそうだね」


「なんだとぅ。これでも家庭科の成績は五だったんだよ!」


「学校の家庭科が姉であることに関係するとは思えないけど」


「う、じゃ、じゃあ……!」


「はいはい、分かったからもう。ほら早くチェックインしてきてよ……お、お姉ちゃん」


「……!」


 お姉ちゃん、と。その一言だけで、彼女は顔を赤くしてもごもごと悶え始めた。


「……普通の姉だったら、その程度で反応しないと思うけど?」


「わ、分かってるよ! 受付してくるからそこで待っててね!」


 怒ってるのか恥ずかしいのか、それとも両方か、彼女はボストンバッグを乱雑に渡してくると、くるりと背を向けて離れていく。ロビーのソファに座ったまま受け取ったものだから、勢いそのままで太ももに直撃した。


「いっ! あ、ちょっと待った」


「? なんか忘れてた?」


「そうじゃなくて上着。着といた方がいいよ」


「それもそうかも……よし、それじゃあ」


 ボストンバッグの持ち手に引っ掛けていたカーディガンを羽織って、今度こそと彼女は受付に向かっていった。


 しかし、本当に何が入っているのだろうか。さっき太ももで受け止めた時、やけに固い感触がしたし、金属の擦れるような音も微かに聞こえた。


 ボストンバッグを横に置きなおして、今更ながらホテルロビーをぐるっと見渡す。


 上を見れば、豪勢に輝くシャンデリア。下を見れば、靴が沈み込むほどのカーペット。


 予約したからには多少の部屋やロビーの画像を見ていたのだが、やはりネットというものは鵜呑みにしてはいけないと実感する。


 表情は平静を装いつつ、敷居の高さに居た堪れなくて内心そわそわと待ちわびていると、


「おまたせー、はいこれカードキーだって」


 緊張のカケラも感じさせない、ケロっとした感じの声とともに彼女が戻ってきた。

「なんか聞かれた?」


「特にはなかったよ。名前とか住所とかそういうの書いて、あとは保険証見せて一八歳だって分かったら大丈夫だった。あ、君のことはしっかり弟だって言っといたよ」


 ぐっと親指を立ててくるけど、何が良かったのかはさっぱり。


 十八歳以上であれば親の同意なしでホテルに泊まれることは事前に調べていたことだ。ただ残念なことがあるとすれば、僕が一八歳になる誕生日がほんの数日後だったことだろうか。もし過ぎていれば、姉弟の真似などしなくて済んだのに。


 荷物を持って部屋のある階までエレベーターで上がって、物静かな廊下を進む。


「そういえばなんだけどさ」


 途中、少し控えめな声音で言い出した彼女に、視線を向けて続けるよう促す。


「ホテルのお金、出してもらって……ううん、出してください。お願いします」


 ぺこー、と彼女は足を止めて、いちいち頭を下げてくる。

 こっちとしては気にしてくてもいいのだが、まあ、親しき仲にも礼儀ありという。なら、親しくない仲にはより一層、礼儀というものは必要か。


「いいよ。ほんと律儀なんだね君は」


「お金のことなんだからこれくらい当然でしょー、と。ここだね」


 カードキーを差し込んで重いドアを開くと、靴を放って彼女が飛び込んでいった。


「ふおぉぉぉ……すごいよほら! めっちゃ豪華だよ! ベッド超ふっかふかだよ!」


 荷物を壁際に置いてからベッドダイブ。


 子供よろしくはしゃぐ彼女の横を過ぎて、もう一個のベッドにそっと腰を下ろす。ダイブしたい気持ちもなくはないけど、子供っぽい真似はするまいと自尊心が欲望を引き止めた。


 ベッドの他にも、大きな窓と、その手前には一人掛けソファが二つと丸テーブル。ベランダにもまた二人分の椅子とテーブルが備えられていて、壁に埋め込まれたテレビも相当大きなものと、十分過ぎるくらいに整っている。


 その分値段は多少張ったけど、後悔は微塵もしていない。


「ベッド汚れるから、風呂入ってからにしなよ」


「そうだよ、お風呂お風呂! どうする? 君が先入る?」


「僕は後でいいよ」


「はーい! そうだ。一応聞くけど、私の後のお風呂で変なことする気じゃないよね?」


「悪いけど、僕はシャワーで済ませる人だから。君の行き過ぎた妄想みたいなことはないから安心しなよ」


「一言余計だよ。じゃ、覗かないでね!」


「はいはい、分かってますよ」


 ボストンバッグから必要なものを取り出し、浴室に姿を消した。念のためか、覗かないよう再度言われたのに生返事を返し、座っていた姿勢から上体をベッドに倒した。

 長く息を吐く。強張った身体から力を抜くと、どっと押し寄せてくる疲れは深い微睡みを孕んで僕をベッドへと引きずり込もうとする。


 このまま眠ってしまって、一体誰が僕を咎められよう。


「彼女に、何か、言われるくらい、でしょ…………。っ!」


 瞬間、ぞわりと全身に震えが走った。

 落ちかけていた意識は一瞬で覚醒、けれどその次の瞬間に何事かと理解しては、どうでもよくなってベッドへと身体を沈めた。

 バイブレーションを繰り返す邪魔者は、ポケットの中から僕を呼び立ててくる。


 電話なのはすぐ分かって、掛けてくるとすれば、親かもう一人に限る。いや、親はまだ仕事の時間だろう。ならあの人しかいない。


 無視しようかどうか迷って、けど、彼女がいる時に掛かってきても面倒なので、スマホの応答ボタンを押してから耳元に置き捨てる。


「何か用? 今まさに寝ようとしてたんだけど」


『用がなきゃ電話しちゃいけないのかよ。てかもう寝るとか早過ぎだろ』


 案の定、返ってきたのはつい先日も鬱陶しく感じたあの声。


「今日は疲れたんだよ。僕一人ならまだしも、あの人といると余計に、」


 つい愚痴が漏れそうになったのに、はっと気付いて途中で切っても、もう遅かった。


『そう、そのことだよ。彼女できたんなら言ってくれりゃいいのに』


「旅行行くって言っただけで、僕は一言も彼女となんて言ってないんだけど」


『え、じゃあなに。男と付き合ってんの? お前ホモだったの?』


「なぜそうなる。真っ先に思いつくの男友達とかでしょ普通……まあ、女子だけどさ」


 今言われて気付いた。言われなきゃ気付けなかった僕もなんだけど、ホテルで男女二人、同じ部屋に泊まろうとしている今の状況を今更ながら意識した。世間一般からしたら批判されて当然だろうと思いつつも、何ら疾しいことはない。


 健全にして潔白。僕と彼女の関係において一切そういうものはないのだから。


『ほらやっぱな。で、どうなの彼女とは。旅行ってことはあれか、一線越えるのか?』


「そういうセリフ言う人って小説の中だけだと思ってたよ。前にも言ったしもう一度言っとくけど、別に彼女じゃないから」


『何を意地になって。秘密で旅行行く女子が彼女じゃなきゃ一体なんだっての』


「それはまあ友達、じゃないし、赤の他人、ってわけでもないし、知り合ったのはつい最近だし……これなんていうの?」


『いや……おい。大丈夫かお前、そんな疲れてたんなら言ってくれよ……あとはあれだ、無遠慮に聞いて悪かったな』


 素で聞き返すと、思いきり心配された。


 たしかに彼は鬱陶しくて、面倒臭い人間だ。けど素直に感謝できて、素直に謝れて、そんな性格をしているから、根っから嫌いになることができない。


「いや、大丈夫。けど疲れてるのは本当だから、そろそろ切るよ」


『おう、なんかあったら連絡しろよ。頼み事くらい聞いてやるから。あと愚痴も、彼女のことでも話せよ』


「というと、今の高校で彼女できたんだ」


『おう、物静かだけど良い子でさ、俺と同じ大学行きたいからって今は勉強頑張ってくれてるんだよ。今日も一緒に図書館行って勉強したしな』


 そりゃそうだろうな、と。聞いときながら答えは分かっていたようなものだった。


 類は友を呼ぶと言うように、彼のような『良い人』を体現した人を好くのもまた、良い性格をした人間なのだろう。


「はいはい末長くお幸せに。なんかあったら頼らせてもらうよ」


『ほいよ、おやすみな」


 ありがとう。それと、ごめん。


 心の中で小さく呟いては、おやすみと返して電話を切った。


 多分、彼を頼ることはない。頼れる相手が必要な時でも、頼ることはできないだろう。

 彼女のことを知られてはいけない。知ったら、きっと傷つけてしまうから。

 良い人過ぎる彼は、きっと僕も彼女も、救おうとしてしまうから。


 彼女と、そして僕の願いを叶えるためにも、頼ってはいけないのだ、彼には、絶対に。


「弱いな、僕は」


 今度こそ微睡みに誘われるがまま閉じた瞳は、


「なに、また……?」


 再び耳に届いた振動音に、顔だけを耳元においていたスマホに向ける。

 僕のスマホは振動をしていなければ、通知の一つすら届いてもいなかった。

 身体をベッドから剥がして音の聞こえる方によると、音を放っていたのは彼女のスマホのようだ。ボストンバッグの中に入っているのだろうが、その荷物の多さですぐに取り出せそうにはなかった。


 彼女には悪いけど、少し荷物を出させて貰った。


 そして、荷物の上を覆っていた衣類を取り出した先に、僕はそれを見た。


 何度となく気になっていた、バッグの重さの正体。

 知りたかったことで、知らないままでいたかったと後悔する。


 脳裏に焼き付いた彼女の姿がフラッシュバックする。

 傷だらけで、痛々しくて、なのにいつも笑っている彼女。


 思い出して、次の瞬間には強い目眩と吐き気がした。胃と、心臓と、内臓という内蔵がどれもギリギリと締め付けられるような感じがして酷く気持ち悪い。

 浅く唇を噛む。そうすることで必死に理性を保とうとした。噛んで、それでもダメならより痛めつけて、口の中に鉄の味を覚えさせるまで食いしばった。


「……………………」


 たったの数分。もしかしたら数十秒かもしれない短い時間だった。

 なのに脳には、まるで数時間も考え続けたような疲労が溜まっていた。


 焼き切れそうに熱くなった神経が徐々に冷めていき、同時に冷静さも戻ってくる。


 見るべきではなかった。考えるべきではなかった。


 けど、それを見てしまったせいで、考えずにはいられなかった。


 消化不良のままただひたすらに湧き出てくる思考は濁った靄を掛け、ドロドロとした感情を生み出し、じくじくと心を蝕んでいく。


 考えれば考えるほど、そうするだけ、深く暗く堕ちて続けていく。


 止まらない。自分では止められないから、歯止めをかけるよう、思考を断ち切るように、バッグのファスナーを閉めた。

 考えちゃだめだ。もう忘れよう。寝て、明日になったらきっと消えてるはずだ。


 今日は疲れていたから、悪い夢の一つとでも勘違いしてしまうだろう、と。自分の心にまで嘘をついて、逃げる口実を並べて、そのままベッドに身体を投げた。


 プツリと、意識の糸が切れるようにして、僕は眠りに落ちた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る