第9話

目が覚めると気持ちが幾分かスッキリしていた。



昨夜は疲れていたせいか、館に戻った途端に眠気に襲われて、そのまま怪我の手当もしないまま、眠ってしまっていたようだった。



でも、起きてみると頬にはしっかりと薬が塗ってあり、手に巻かれていた薬草も新しい物に替えられていた。




「………。」



お夢さんか、お里さんが寝ているうちにやっておいてくれたのかな…。




「…おはようございます。」




「あっ…おはようございます。

お夢さん、傷の手当てお夢さんがしてくれたんですか?」




「いえ…実は昨夜、景虎さまがこちらにいらしまして…。

姫の手当てをして下さったのです。」




「景虎さまが!?」




「はい。姫の頬の傷…毒矢が当たっていたようで、そのせいで姫さまは眠っておられたようです。」





「…毒ですか?」




「はい。少量だったので、問題はないようですが…。」




「そうですか…。」




景虎さま…わざわざ心配して見に来てくれたんだ。


胸の奥にほんの少しだけ嬉しさが広がる。





「姫…お身体の方は大丈夫なのですか?」




「はい。もうすっかり元気になりました。」



私はお夢さんに心配をかけないように、できるだけ明るく振る舞った。





「よかったです。姫に何かあったら…申し訳なくて…。それに…お顔に傷まで…。」




お夢さんは、私が伊勢姫の身代わりになった事を気にしているようだ。





「こんな傷、大したことありません。

かすり傷だし、直ぐに治りますから。」




「…でも。」




『失礼いたします。景虎さまがお見えです。』



お夢さんの言葉を遮るように部屋の外から侍女が声を上げた。





「景虎さまが?」




私は部屋の下座に座ると、頭を下げて謙信さまが部屋に入るのを待った。





「―はい。お蔭様で、すっかり良くなりました。」




私はお夢さんと同様、謙信さまにも、なるべく明るく返事を返した。




「そうか…。


昨夜は少し熱を出していたようだったが…。」





「問題ありません。


それより、誰が命を狙ったのか判ったのですか?」




「…いや。はっきりとは。


ただ昨日の奴らは、大した腕ではなかった…。


刀の太刀筋から見ても武士ではなかろう。


恐らく『人に頼まれた』と言うのは真実だろう…。



だが、矢を射た者は、腕に覚えがある者だ…。


恐らく、敵は身内にいるはず…。


いま首謀者を宇佐美と直江に探らせておる。


お主もしばらくは気をつけろ…。」






「…はい。」





「それにしても、お主の剣の腕…なかなかの物だ。


木刀や竹刀がいいと言っていたのも頷ける。


私が斬った男達より、お前にやられた男の方が傷が深そうだったぞ…。


私が止めなければ、どうなっていたことか…。


姫が、賊を殴り殺したなんて噂が立てば、本当に嫁の貰い手が無くなる…。」





「…夢中だったので自分でも訳が分からなかったんです。」




「それであんなに殴られたのでは敵わんな。


女子にしておくのが惜しい。」




「それでは、もし嫁の貰い手がなかったら、景虎さまの家臣にでも取り立ててください。」




「私の家臣に……?」




「はい。嫁に出されるよりもその方が私には合っていますから。」





「…なるほど。


そちは真に面白いな。」




そう云うと、謙信さまは、低く声を上げて笑った。






「………。」





「…どうした。」




「…景虎さまが、そのように声を上げて笑った姿…初めて見ました。」




「…そうか?」




「はい。」




「………。」




「何だか…嬉しいです。


景虎さまが笑う姿が見られて。


いつも眉間にシワを伸ばして、殺気を纏っていらっしゃったので…。


たまにはそうやって、笑って下さい。」





「…………。」




彼女は嬉しそうに満面の笑みを零した。



謙信は自分に向けられたその真っ直ぐな笑顔に、戸惑いを隠せずにいた。





夜になり、謙信は独り縁側で月を見上げていた。




頭の中に浮かぶのは、半月ほど前に人質としてこの城にやって来た姫のこと―。



「変わった女子だ。」



思えば…初めて会った時から違っていたか…。



確か、あの姫は城まで自分の足で上って来たな…。



正直…最初その話を聞いた時、城内を偵察していたと疑っていた。



しかし、伊勢に感想を問うた時の返事は【疲れた】の一言。



今思えばあの時から変わっていた。



毎日鯉にばかり餌をやるし、城下に連れ出せば敵である武田と遭遇し、魚まで奢らせて…。



馬にも乗りたがるし竹刀も欲しがる…。



敵に遭ったと思えば、相手をボコボコに殴りつける。


顔に傷を作って…嫁の貰い手をきにすれば、家臣にせよと申し出る。




…そして、私が少し笑っただけで


まるで自分の事のように嬉しそうに笑う。




媚びる女。



色香を撒き散らし近づいてくる女。



その名に群がりすがろうとする女。



今まで沢山の女子を見てきた。




しかし伊勢はそのどれとも異なる。



媚びることも、縋ることも、恐れることもしない。




どうしてか私に対して真っ直ぐに向かってくる。




まったく、不思議なやつだ…。




今まであんなに純粋に笑顔を向けられた事があっただろうか…。



幼い頃から家督争いに巻き込まれ、実の父にさえ煙たがれた。



元服してからも、裏切りや無謀、家臣どうしのいざこざ…そして戦ばかりの毎日。



信じられるのは己と神の教えのみ―。



立ち止まったら負ける。



取るか、取られるか。



そんな世の中を一人で生きてきた。




でも…




彼女が笑った時…


ほんの少しだけ、満たされた気持ちになった。




初めて


人が笑う姿を



この手で【守りたい】と思った。




何故だ…?




そんな気持ち



今まで感じることがなかったのに…。





そしてまた、そんな事を思う己自身を無償に【弱くなった】ような気がした。




謙信はゆっくりと天を仰ぐと、月を眺めた。




「酒を持て…。」




「はい。」





彼は胸に宿り始めたその思いが何なのか―まだ気付かずにいた。




その気持ちを掻き消すように、謙信はただ黙々と酒を煽り続けた。













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