キミの宝物、わたしのキラキラ
碧(あおい)
キミの宝物、わたしのキラキラ
「ねえ、見て見て! この前の日曜、彼氏とパンケーキ食べに行ったんだ!」
「うわ、めっちゃ美味しそう! いいなー!」
昼休み。
教室のあちこちで、そんな甘ったるい会話が繰り広げられる。
スマートフォンの画面を覗き込むキラキラした女子たちの輪を、わたしは少し離れた席から、買ったばかりのメロンパンを齧りながら眺めていた。
恋愛対象なんかじゃなかった。
いや、正確に言うと、わたしの世界に「恋愛」というカテゴリそのものが、存在しているのかどうか怪しいレベルだった。
彼氏が欲しいと思ったこともないし、誰かを本気で好きになったこともない。
少女漫画を読めばキュンとはするけれど、それはあくまで二次元の話。
この三次元の世界で、自分の身にそんなことが起こるなんて、到底思えなかった。
わたしの名前は、
県立高校に通う、ごくごく平凡な高校二年生。
特に秀でた才能もなく、熱中できる趣味もなく、ただ毎日を淡々とこなしている。
そんなわたしにとって、教室で恋愛話に花を咲かせるクラスメイトたちは、違う世界の生き物みたいに見えた。
中でも、ひときわ異彩を放っていたのが、窓際の後ろから二番目の席に座る、君だった。
君の名前は、
別に、顔も好みじゃなかった。
どちらかと言えば、醤油顔のあっさりした顔立ちで、わたしが漫画で好きになるキャラクターとは正反対。
背は高いけど、ちょっと猫背気味だし、髪もいつも少しだけハネている。
クラスの中心にいるような人気者というわけでもない。
趣味も合うとは思えなかった。
彼がいつも首からぶら下げている、やたらゴツい一眼レフカメラ。
休み時間になると、彼はよく窓の外を眺めながら、指で四角いフレームを作って何かを覗き込んでいる。
わたしには、彼が何を見て、何を感じているのか、さっぱり分からなかった。
ただ、いつもキラキラしていた。
それは、容姿とか、そういうことじゃない。
彼の纏う空気そのものが、だ。
何かに夢中になっている人間だけが放つことのできる、特別なオーラ。
わたしにはない、眩しい光。
だから、わたしとはちがう。
そう、ずっと思っていた。住む世界が違うんだ、と。
いつも遠くを見てる君。
その視線の先には、一体何が映っているんだろう。
わたしが知らない、どんな素敵な世界が広がっているんだろう。
気になっていなかった、と言えば嘘になる。
でも、それを知ろうとは思わなかった。知ったところで、わたしたちの世界が交わることなんて、万に一つもないと思っていたから。
夢を追いかけるのって、楽しいことばかりなのかな。それとも、辛いことの方が多いのかな。
君のそのキラキラは、どこからやってくるんだろう。
そんなことを、メロンパンの最後の一口を飲み込みながら、ぼんやりと考えていた。
◇
わたしには、学校にお気に入りの場所があった。
旧校舎の屋上へと続く、外階段の踊り場。
立ち入り禁止の札がぶら下がった錆びた扉の前は、ほとんど誰も寄り付かない、わたしだけの聖域だった。
コンクリートの冷たい床に直接座り込んで、壁に背中を預ける。
ここから見えるのは、グラウンドで部活に励む生徒たちの姿と、どこまでも続く青い空だけ。
騒がしい教室の喧騒から逃れて、一人で物思いに耽るには、最高の場所だった。
わたしにはだれもいない。
友達がいないわけじゃない。休み時間に当たり障りのない話をする相手はいるし、移動教室だって一人になることはない。
でも、心の底から「親友」と呼べる存在は、いなかった。
心を許せる誰かがいない。悩みを打ち明けられる相手もいない。いつも、薄い膜が一枚、わたしと世界の間に存在しているような、そんな感覚。
だから、一人でいるこの時間が、わたしには必要だった。
その日も、わたしはいつものように、昼休みが終わるまでのわずかな時間を、その聖域で過ごしていた。
ぼうっと空を眺めていると、不意に、すぐそばでカシャッ、という乾いた音がした。
驚いてそちらを見ると、そこにいたのは、桐谷くんだった。
「…あ」
「…水野さん」
彼は、わたしと同じくらい驚いた顔で、手に持ったカメラを下ろした。
どうして、彼がここに? ここは、わたしの場所なのに。
「ご、ごめん。邪魔した?」
「ううん、別に…。桐谷くんこそ、どうしたの? こんなところで」
「……ちょっと、写真を撮りに」
彼は気まずそうにそう言うと、首から下げたカメラをぎゅっと握りしめた。
彼の視線の先を追うと、そこには、古びた校舎の壁を覆うように生い茂った蔦の葉があった。
午後の日差しを浴びて、緑色の葉がきらきらと光っている。
「…こんなものが、何か面白いの?」
思わず、心の声が漏れてしまった。
しまった、と思ったけれど、もう遅い。
「面白いよ」
でも、彼は怒るでもなく、呆れるでもなく、静かにそう答えた。
「光の当たり方で、全然違う表情を見せる。風が吹けば、葉っぱ一枚一枚が違う動きをする。同じ瞬間は、二度とないんだ。…それを、切り取るのが好きなんだ」
そう語る彼の横顔は、教室で見る彼とは少し違って見えた。
いつもは遠くを見ている彼の瞳が、今はすぐそこにある緑を、愛おしそうに見つめている。
その瞳は、わたしが今まで見たどんなものよりも、真剣で、綺麗だった。
「…そうなんだ」
わたしは、気の利いた言葉を返すこともできず、ただそれだけを呟いた。
沈黙が、落ちる。
気まずい。
早くこの場から立ち去りたい。
でも、なぜか足が動かなかった。
「水野さんは、なんでここに?」
「…別に。ただ、ぼーっとしてるだけ。人がいないから」
「そっか。…ここ、いいよな。空がよく見える」
彼はそう言って、わたしの隣に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
そして、わたしと同じように、空を見上げた。
「……あなたも同じだったの?」
今度は、声に出さずに、心の中で問いかけた。
あなたも、一人になりたい時があるの?
いつもキラキラしているように見えるあなたも、本当は、わたしと同じように、孤独を感じたりするの?
聞けるはずもなかった。
でも、その瞬間、わたしと彼の間にあったはずの、分厚くて透明な壁が、ほんの少しだけ、薄くなったような気がした。
◇
その日を境に、わたしと桐谷くんは、時々、あの踊り場で言葉を交わすようになった。
彼が写真を撮りに来て、わたしが後からそこへ行く日もあれば、その逆もあった。
話すことと言えば、天気の話とか、昨日のテレビの話とか、本当に他愛のないことばかり。
でも、わたしにとって、その時間は少しずつ特別なものに変わっていった。
彼は、自分の撮った写真をわたしに見せてくれるようになった。
「これは、この前の雨上がりの水たまり。空が映ってて、綺麗だったから」
「こっちは、体育館の窓から差し込んでた光。ホコリがキラキラしてて、なんか、宇宙みたいだった」
彼のファインダーを通して切り取られた世界は、わたしが普段見ている景色とは、全く違って見えた。
ありふれた日常の中に、こんなにも綺麗で、儚くて、愛おしい瞬間が隠れているなんて、知らなかった。
「すごいね。桐谷くんの目には、世界がこんな風に見えてるんだ」
「…そんな、大袈裟だよ」
彼は照れ臭そうに笑う。
その笑顔を見るたびに、胸の奥が、きゅっと甘く痛んだ。
大切にしたいと思えること。
わたしには、そんなもの、今まで一つもなかった。
でも、彼の写真を見ていると、彼の話を聞いていると、わたしも何か、そんなものを見つけられるんじゃないかって、そんな気がしてくる。
そんなに難しいことじゃなかったのかもしれない。ただ、わたしが気づこうとしていなかっただけで。
すぐ足元に、すぐ隣に、大切にしたいと思える瞬間は、たくさん転がっていたのかもしれない。
きっとそれはいつか自然と生まれていたもの。
この感情が何なのか、わたしはまだ名前をつけられずにいた。
でも、彼と過ごす時間が、わたしの中でかけがえのないものになっていることだけは、確かだった。
ある日の放課後。わたしが踊り場に行くと、彼は珍しく、難しい顔をしてカメラの液晶画面を睨みつけていた。
「どうしたの?」
「…ああ、水野さん。いや、ちょっと…」
彼は、歯切れ悪く言葉を濁す。
何か、コンテストにでも応募するのだろうか。
「…今度、市の高校生写真コンテストがあってさ。それに出す作品、選んでるんだけど…テーマが、『宝物』なんだ」
「宝物…」
「俺、今まで、自分が綺麗だと思ったものを、ただ夢中で撮ってきただけだから…。いざ、『宝物』って言われると、何がなんだか、分かんなくなって」
彼の声には、焦りと、ほんの少しの弱音が滲んでいた。
いつも自信に満ち溢れているように見えた彼の、初めて見る弱い部分だった。
「…わたしには、宝物なんてないから、アドバイスはできないけど」
わたしは、彼の隣に座った。
「でも、桐谷くんが今まで撮ってきた写真、全部、桐谷くんの宝物なんじゃないの? だって、全部、桐谷くんが『綺麗だ』って思った瞬間の、かけがえのない欠片なんでしょ?」
我ながら、クサい台詞だと思った。でも、それがわたしの本心だった。
彼は、驚いたように目を見開いて、わたしをじっと見つめた。
その真っ直ぐな視線に、心臓が大きく跳ねる。
「…そっか。そう、だよな」
彼は、ふっと息を吐くと、少しだけ笑った。
「ありがとう、水野さん。なんか、すげえ、楽になった」
その笑顔は、いつものキラキラした笑顔とは違う、もっと穏やかで、優しい笑顔だった。
わたしは、その笑顔を、ずっと見ていたい、と思った。
恋は苦しいもの?
以前のわたしなら、そう答えたかもしれない。
クラスメイトたちの、一喜一憂する姿を見て、面倒なものだとさえ思っていた。
たしかにそうだった。
でも、今のわたしには、この胸の痛みも、苦しさも、全部が愛おしくて、なくてはならないものになっていた。
桐谷くんを想うだけで、世界が色鮮やかに見えてくる。
この感情は、間違いなく、わたしの「宝物」だった。
◇
コンテストの締め切りが近づくにつれて、桐谷くんはますます写真に没頭するようになった。
わたしは、そんな彼をただ隣で見守ることしかできなかった。
「なあ、水野さん」
ある日、彼が唐突に言った。
「もし、よかったらなんだけど…。俺の、モデルになってくれないかな」
「…え? わたしが?」
「うん。『宝物』っていうテーマ、色々考えたんだけど…。やっぱり、俺、人を撮りたいんだ。誰かの、心を撮りたい」
彼の真剣な瞳に、わたしは頷くことしかできなかった。
撮影は、休日に、学校の許可を取って、あの踊り場で行われた。
何を着ていけばいいか分からなくて、クローゼットの中の一番お気に入りの、白いワンピースを選んだ。
「…うん、いいじゃん。似合ってる」
彼は、少し照れたようにそう言うと、カメラを構えた。
「じゃあ、撮るよ。…普通にしてていいから。笑わなくていい。ただ、そこにいてくれるだけでいい」
レンズを向けられると、急に体が強張る。
何を考えればいいんだろう。どんな顔をすればいいんだろう。
「…水野さん」
彼が、優しい声でわたしの名前を呼んだ。
「…いつもみたいに、空、見てて」
言われた通りに、わたしは空を見上げた。
いつもの空。
いつもの雲。
でも、彼のレンズを通して見られていると思うだけで、なんだか特別なものに思えた。
――カシャ、カシャ、とシャッター音が心地よく響く。
しばらくして、彼がカメラを下ろした。
「…ちょっと、髪、直していい?」
「え、あ、うん」
彼が、わたしに近づいてくる。
そして、そっと、わたしの髪に触れた。
風で乱れた前髪を、彼の指が優しく梳いていく。
その瞬間、時間が止まったみたいだった。
触れられたところから、熱が伝わってくる。
心臓が、今にも張り裂けそうなくらい、大きく音を立てている。
あなたに触れられたい。
もっと。わたしに触れてほしい。
彼の指が、髪から頬へ、そっと滑り落ちていく。その優しい感触に、思わず目を閉じた。
「…栞」
初めて、名前を呼ばれた。
目を開けると、すぐ目の前に、彼の顔があった。
その瞳に映っているのは、戸惑いと、切なさと、そして、どうしようもないくらいの愛情を湛えた、わたしの知らないわたしだった。
わたしの身体の隅々まで愛して。
そう、心の中で叫んでいた。声にならない声で。
そう思える日が来たんだ。この、何もないと思っていたわたしにも。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
わたしは、もう一度、目を閉じた。
唇に、柔らかくて、温かいものが触れた。
それは、今まで経験したことのない、甘くて、優しいキスだった。
◇
桐谷くんは、わたしをモデルにした写真で、コンテストの最優秀賞を獲った。
『宝物』と題されたその写真は、白いワンピースを着たわたしが、少しだけ憂いを帯びた表情で、遠くの空を見上げている、ただそれだけの写真。
でも、審査員は、「被写体の内面にある、繊細で、かけがえのない輝きを見事に捉えている」と絶賛してくれたらしい。
わたしには、そんな輝きなんてない。
あるとすれば、それは、全部、君が引き出してくれたものだ。
あの日以来、わたしたちは、恋人になった。
学校の帰り道、二人で手を繋いで歩く。
今まで一人で過ごしていた、あの踊り場で、二人寄り添って夕日を眺める。
彼が撮ってくれる写真は、いつだって、わたしが主役だった。
「陽介くん」
「ん?」
「…好き」
「…知ってる。俺もだよ、栞」
そんな、甘いやり取りにも、もう随分と慣れた。
そして、わたしたちが付き合って、半年が経った、わたしの誕生日。
彼は、少しだけ高そうなレストランに、わたしを連れて行ってくれた。
「誕生日、おめでとう」
そう言って彼が差し出したのは、小さな箱。
中には、レンズの形をした、小さなシルバーのネックレスが入っていた。
「これ…」
「栞に、俺の世界を、いつも見ててほしくて」
もう、涙を堪えることなんてできなかった。
その帰り道。
わたしたちは、どちらからともなく、彼の家、彼の部屋へと向かっていた。
繋いだ手が、熱い。
緊張と、期待と、少しの不安で、心臓がドキドキと鳴り響く。
部屋に入ると、彼はわたしを後ろから、そっと抱きしめた。
「…栞」
耳元で囁かれる、甘い声。
「…好きだ。お前の、全部」
わたしは、彼の腕の中で、こくりと頷いた。
そしてわたしは、あなたにおいしくいただかれた。
彼の優しいキスも、愛撫も、わたしの身体を熱くする彼のすべてを、わたしは受け入れた。
痛みよりも、快感よりも、ただ、彼と一つになれた喜びが、わたしの全身を駆け巡った。
これからもいっぱいおかわりしてね。
彼の腕の中で抱かれながら、わたしは、彼の寝顔にそっとキスをした。
キラキラしているのは、君だけじゃない。
君の隣にいるわたしも、今、最高にキラキラしているんだよ。
そう、心の中で、得意げに呟いた。
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