探したっきり

白山無寐

 

 呼び出しベルが鳴る。この音が嫌いだ。犬みたいだから。愛されていない犬を呼ぶときに使う音のように聞こえて、不快だ。

 それでも僕は気づいていないフリをして小走りでレジに向かった。横目に見えた数人の列。人が並んでいることに気づいていたのだが、いつも僕に仕事を押付けてくる先輩とシフトが被っていたから無視をした。

「お待ちのお客様どうぞ」

 おまたせしましたと聞こえていないであろう声量で言葉を発しながら、商品のバーコードを探す。毎日これの繰り返しでいい。バーコードを探して、ピッと音が鳴ったらまた次のバーコードを探す。

 バーコードを探し続ける人生も悪くないなと思った。

 客の列が無くなり、品出しを放り投げたお菓子の棚に戻った。

 駄菓子を補充する時だけ楽しい。当時買っていた値段とはだいぶ変わってしまったが、それでも未だに買うことを躊躇う量触れられることは嬉しかった。

 お菓子の品出しが終わったら次は雑貨。コンビニの雑貨棚にはよく埃がたまる。たまに、使うことのある何かが置いてある。

 お菓子が大量に入ったカゴをバックヤードまで運び、また別のカゴを出す。

 他の商品棚にカゴをぶつけないように慎重に転がした。何回運んでもいつもどこかにぶつける。

 背中が熱いなと思い、ふと後ろを振り返ると青空がそこにはある。大きな窓から見える小さな空。

 太陽光に照らされ続けた雑貨の一部は日焼けしてしまっている。

 雲が濃い。夏場の雲は、触れたくなるほどに濃い。

 まるで生きた心地がしない。僕はこの空を見る度に、どこで何をしているんだろうかと心が宙ぶらりんになる。コンビニで品出しをしている。わかっていることが途端に嘘のように思える。誰かの体に乗り移って、無意識のままその人の体を動かしているような、そんな気分。

 またベルが鳴る。辞めてくれと思う。


 目が痛かった。空がオレンジ色になる手前の時間。まだまだ日差しは強く、身体を焼こうとする太陽が視界までも邪魔しようとしている。

 手で影を作りながら歩き、ついでに汗を拭った。

 暑い。蝉も鳴いている。入道雲が遠くに見える。汗が額を伝って、目に入った。僕は今、どこで何をしているのだろうか。

 これだけ全身で夏を感じているはずなのに、夏を生きていない。夏に置いてけぼりにされたのか、僕が止まってしまったのか。

 心だけ浮いている。体は軽くない。

 夏だから、そうめんを茹でている。毎日、そうめんを食べている。休みの日にはスイカを買って食べる。たまに桃も食べる。僕は、今どこにいるんだろうか。


 今日もベルを鳴らされる。犬のように駆け出す。犬だ。僕は犬なのだ。そう言い聞かせてたら犬になれた気がして、楽しくなってくる。

 今日は仕事が午前中で終わった。どこかの誰かから着信履歴があり、自動ドアが開いた瞬間にかけ直した。

 どこかの誰かは、僕の声を聞いた瞬間少し潤んだ声を出した。電話の向こうにいる誰かの涙が枯れきってしまう前に、と電話を切ってコンビニにまた戻った。

「ということなので、来週までお休みをいただきます。代わりを探す時間が僕自身にもありません。ご迷惑おかけします。大変申し訳ないです」

 直接頭を下げた。店長は優しい。気さくで常に楽しそう。苦しそうな時はとことん苦しそう。感情に泳がされているように見えるが、彼女が感情を泳がせているという余裕が垣間見える瞬間がある。

「それはしょうがないね。気をつけて行ってきてね」

 駆け足で家に帰った。部屋の中は蒸し暑い。畳に垂れて染み込んでいく汗よりも早く体を動かして、棚を漁った。

 喪服だけ持って急いで駅に向かった。暑い中歩く。甘ったるい感情が離れないまま、歩いていると必死な人生だと思う。夏はなにかに引きずられている。

 幸いまだお盆には入っていないからか、新幹線の空席があった。それでも料金は余裕を持って買う時の二倍した。

 駅のホームで汗を垂れ流す。今の僕にはそれしかできなかった。

 潤んだ声を思い出す。あなたは普段、涙を流すことは無い。何十年も一緒にいたが、僕ばかりが泣いていた。

 どういう涙なのだろうかと考えた。そうすれば、僕は涙が出ないと思った。もう、お酒を飲んだって失敗しない年齢だ。あまり泣きたくない。涙は重たい。

 あと五分で来る。飲み物がないことに気づき、急いで自販機で水を買った。

 それを一口飲む。半分まで減ってしまった。

 汗を拭いながらゆっくり列に入っていった。ここは観光地だ。今日は日本人の方が少ないように思える。席を取られてしまったらどうしようといらぬ心配をして、やっと来た新幹線に乗り込んだ。

 新幹線では眠った。案外眠れるものだ。僕の大事な誰かだった人が死んでも、僕は眠れる。もう、思い出して眠れない夜がない。彼女の作ってくれたご飯が恋しくなることなく、僕は自分で作る適当なご飯を食べる。時にはコンビニの弁当だって食べる。そうやって、時は進む。

 成長でも退化でもなんでもない。これが、流れだ。時の流れとはそういうものだ。

 できなかったことができるようになる。それは、記憶が薄れた時にもそう言える。感覚を忘れてしまった時にやってみる。そうしたらできなかったことができるようになる。努力でもなんでもなく、記憶で、時の流れで。

 それを悲しく思う時もある。どうしても変わらないで欲しいことがある。どう足掻いても変わってしまうことでも、変わってしまったとしても、また元に戻って欲しいと願ってしまう。それもきっと、時の流れの一部だ。

 垂れかけた涎を拭いて席を立つ。一気に湿気がモヤとなり、僕の体にまとわりついた。夏の都会は匂いのする湿気を漂わせている。

 着いたことも電話せず、手土産も持たず、改札を通ってバス停に行く。喫煙所を探したが無くなっていた。

 バスはすぐに来た。何もかも順調に進む。新幹線のチケットも取れた。バスもすぐに来た。人もあまりいない。予定していた時間より早く実家に帰ることができそうだった。

 心の準備をしていない。そんな時間を与えなかった。そうしたら僕はきっと、二度とこの場所には帰らない。今ここには存在していなかったと思う。

 実家で飼っていた犬が死んだ時もなかなか帰ることが出来ず、次の年の命日に線香を上げに行った。あなたはいつも通り、柔らかく笑うだけで僕を責めなかった。

 ただ今回は違う。犬も愛していた。犬のこともすごく愛していたが、今回は愛なんて言葉を使いたくないくらいだった。どうしても会いに行きたかった。同じくらい、会いたくなかった。

 景色は何も変わらない。そんなに頻繁に帰省しているわけではないから、少しくらい変わっているものがあったっていい。なのに何も変わらない。

 あの大きなマンションが潰れて商業施設になっていたり、工事の放置されたあの場所にやっと綺麗な建物が立っていたり、そんなことがあったっていいと思う。なぜ、この街は変わらないんだと思ってすぐ、喉元が締まる。

 徐々に建物がなくなり、緑が増える。バスの中にいてもわかる蝉の声。葉を通して輝く陽の光はすごく暑そうだ。瑞々しい陽の光が少し恋しいと思ったが、次が僕の降りるバス停だった。

 恋しいと思った光が体を包んだ瞬間、汗が吹き出た。まだ体温が外気温と合わず、鳥肌が立つ。なのに暑い。不快感の中歩いた。

 実家の鍵は持っていない。家に着きそうなタイミングで電話をかけようと思ったがやめた。

 十分ほど歩き、やっとエントランスに着く。高級マンションのようなエントランスに変わっている。昔は蝉や蛾の集まる汚いタイルの敷かれたボロボロのエントランスだったのに。

 エレベーターに乗る。乗ってしまった。ここまで来たらもう帰ることは出来ない。帰る方が手間だから。

 チャイムを鳴らし、少し待った。もう犬の鳴き声は聞こえない。

 鍵の開く音がして、また少し待つ。開けてくれるのかと思ったが足音が遠のいていくのを感じた。

 重たいドアだ。小学生の頃、新学期が始まる時大荷物を抱えて肩でこのドアを開けていた。夏休みが入る時、冬休みが入る時、足でドアを抑えて荷物を抱えたまま思い切り開けていた。

 変わらないものだ。

 中に入るとほんのり煙草の匂いがする。父さんはまだあの頃と同じたばこを吸っているのだろうか。

 何年もコンビニ店員をやっている。何個も煙草が廃番になった。父さんの吸っている煙草も、廃盤になっていた。

「ただいま」

 犬が僕の足に飛び込んでくることなく、猫が僕にすり寄ってくることもなく、不自由のない足を動かすことが出来ないまま、荷物を置いた。

 母さんの遺体はこの家にはいなかった。

「おう、おかえり」

 僕はこの声を聞いてやっと涙が出た。


 葬儀に参列したのは僕と、祖母や親戚、生前仲良くしていたであろう友人だった。父さんは来なかった。

祖母にはなにか声をかけられた気がする。何も聞こえなかった。

 お焼香のやり方なんてすっかり忘れている。

 斎場はやけに涼しい。水の中みたいだ。冷たくて、周囲の音をうるさく感じない。

 水底がうねる。それに身を委ねているだけ。目を開けて、屈折した光を眺めている。そんな気分のまま周りに合わせて体を動かしていたら火葬の時間になっていた。

 遺骨を食べることができるとどこかで聞いた。僕の大切な人が死んだらきっと食べるんだろうなとその話を聞いた瞬間そう思った。

 僕の家族はぐちゃぐちゃの毛糸だった。絡まってきつく結ばれて、どんなものを使ってもほどけることの無い大きな毛糸。

 それもゆっくり時を重ねると、ほどき方がわかっていく。自然とほどかれていく絡まりもあれば、少し手を加えてほどいた結び目もある。

 やっとこの毛糸で編み物ができるようになったと思っていた矢先、死んだ。

 毛糸は綺麗に丸まったまま、誰にも編まれることなく放置されて、ゴミになる。

 やっとほどけた最後の固結びは母さんのせいだったのかもしれないと思う。

 それがほどけた。あとはもう、父さんと僕で毛糸を分け合って編み物を始めるだけなのに僕らにはそれをやろうとする気力が無くなっている。

 固結びがほどけたのであれば、解放されたに近い。だけど、遅い。解放されても世間から置いていかれている部分が大きかったら逆に不自由だ。

 僕ら家族の関係もそう。母さんが死ななければ終わらなかった毛糸をほどく作業。終わったからといって、もういないのだ。

 家族の毛糸で何を編めばいい。あの頃は編みたいものがあった。確かにあった。でも、それは誰も欠けてはいけなかった。犬も猫も、母さんも父さんも僕も。全員が必要で、代わりなんかいない。

 家族の毛糸。僕には僕の毛糸があり、父さんには父さんの毛糸がある。

 母さんが骨になる。この女には入れる墓がある。贅沢な死に方だと思う。ろくな死に方をしないと思っていたが、病院で息を引き取ったと聞いた。きっと僕の方がろくな死に方をしないだろう。父さんはどこで死にたいのだろうか。

 母さんだったものが箸で摘まれている。変な気分だ。涙は出てくる。

 素手で触ると熱いから触らないようにしてくださいと注意されたことを思い出しながら、箸を投げて骨を叩き落とした。

 熱かった。軽くて、熱い。本当にしょうもなかったなと思う。 

 祖母は僕を見て手で口を覆っている。この場にいる全員が僕を見ている。目が合ったらそらす人もいれば、俯く人もいる。誰も何も知らないのだ。ここにいる誰も、僕らの苦労を知らない。

 母さんが死んでもなお、こんな扱いを受けたことにショックを受けた人がいるならとんだ贅沢者だと思う。どこまでお前は図々しいんだと、怒りが湧いてくる。

 上手く崩れることの出来なかった骨を踏み、祖母に一礼して会場を出た。

「もしもし? 飯いこう」

 父さんに電話をした。

 今日僕がしでかしたことは何も話さなかった。予想より早く帰ってきたことに驚いていたが、なんの言い訳もしなかった。

 相変わらず父さんはウーロンハイを飲み、僕はコーラを飲む。何十年も変わらない。僕は父さんの前では酒を飲まないことにしている。特に理由は無いが、なんとなく父さんの前では子供のままでいたかった。

 

 帰りの新幹線でも泣いた。僕らは変わらない。変わらないまま、死んでいく。ほどけきった毛糸を転がして、そのままほつれてどこかに消えていく。

 窓から見える空は血のにじむ様な夕焼け空だった。

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