第32話 玲奈との日常 ― 新しい速度での関係

 選択を終えた夜から、僕たちの日常は少しずつ新しい速度を持ち始めた。

 以前は、会うたびにどこか探り合うような視線があった。言葉の奥に、測定できない何かを探す時間があった。だが今は、互いを観測すること自体が、確認ではなく共有になっている。

 その週末、僕と玲奈は神楽坂の小さなカフェにいた。石畳の細い路地を抜け、古い木の扉を開けると、深煎りのコーヒーと焼き菓子の香りが漂う。窓際の席に腰を下ろすと、冬の柔らかな日差しがテーブルを斜めに照らしていた。

「最近、顔つきが変わったわね」

 カプチーノの泡をスプーンでなぞりながら、玲奈が言った。

「そうかな」

「うん。観測されてる自覚があっても、それを楽しんでる顔」

「じゃあ、それは君のおかげだ」

 その会話は冗談めいていたが、本音でもあった。

 観測者と被観測者という二項は、もはや実験室だけのものではなく、僕たちの暮らしの中に自然に入り込んでいる。

 たとえば、夕食を作るとき。玲奈が包丁で野菜を刻む音、その手首の角度を見ているだけで、こちらの心拍は僅かに上がる。

 逆に、僕がワインのコルクを抜くとき、玲奈の瞳に一瞬だけ灯る期待の光。それらはデータとして記録していないにもかかわらず、僕らの中では確かな「数値」として残っていく。

 ある夜、彼女の部屋で夕食をとったあと、ソファでワインを飲んでいるときのことだ。

「ねえ、もしあの実験をもう一度やるとしたら、私たちも被験者になってみない?」

「僕らが?」

「ええ。同時観測。片方に刺激を与えて、もう片方の反応を測るの」

「結果が怖くないか?」

「怖いけど、見てみたい」

 その提案に、僕は即答できなかった。科学としては魅力的だが、人間としては危うい。自分の感情の揺れが、数字やグラフとして突きつけられることを、果たして受け止められるのか。

 そんなやりとりの後、テレビもスマートフォンもつけず、ただ沈黙の中でワインを飲み続けた。沈黙は以前なら不安を伴っただろうが、今は心地よい。視線を合わせずとも、同じ速度で流れている時間を感じられるからだ。

 翌日、僕たちは銀座で買い物をし、その足で寿司屋に入った。白木のカウンターに並び、店主の手元を眺めながら旬のネタを味わう。玲奈はトロを口に運びながら、「これもペアリングよね」と笑った。

「ワインと料理の関係みたいに?」

「そう。お互いを引き立て合う。単体でも成立するけど、一緒になると全く違う味になる」

 僕は頷き、その言葉を胸の奥にしまった。

 帰り道、丸の内のイルミネーションが二人の影を長く引き延ばす。その影が重なったり離れたりするのを見ながら、僕は思った。

 この関係は、ただ選んだだけで終わるものではない。選び続ける意思がなければ、速度はまたずれていく。

 その夜、ベッドに横たわりながら、彼女が眠る呼吸のリズムを数えた。僕は観測者であり、同時に被観測者でもある。その二重性を受け入れたとき、初めて僕らは同じ速度で進めるのだと、静かに確信していた。

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