第2話 銀座ワインバー ― 奈々との夜
夕暮れを過ぎると、銀座の空気はまるで別の都市のように変わる。昼間のビジネススーツの流れは消え、代わりに、光沢のあるドレスや深い色のコートをまとった人々が、通りをゆったりと歩く。舗道に並ぶショーウィンドウは、海面に浮かぶクラゲのように柔らかく光を放ち、その中を僕は歩いていた。
目的地は、ビルの二階にあるワインバーだ。重たい扉を押すと、カウンター越しの奥に棚があり、大小のボトルが世界地図のように整然と並んでいる。
バーカウンターには低いスポットライトが落ち、木のカウンターに琥珀色の光の帯を作っていた。壁際では小さなスピーカーからジャズの低音が流れ、客たちはそのリズムを無意識に呼吸に取り込んでいるようだった。
「あなた、少し痩せた?」
カウンターの中央で待っていた奈々が、僕を見るなりそう言った。彼女は黒のノースリーブに、細い銀のネックレスをつけている。その首筋は、フライトの合間に見せる緊張と解放の痕跡を宿していた。
「気のせいだよ。光の加減かも」
「じゃあ、このライトの角度を変えてみる?」
彼女は冗談めかして、頭上のスポットライトを指さした。赤いシェードの内側から漏れる光が、彼女のグラスを透かして深紅を散らす。
奈々はワインリストを開き、指先である銘柄を押さえた。「これにしましょう。去年パリで飲んだのと同じヴィンテージ」
「覚えてるんだ」
「忘れないわよ。あの夜は、香りが全部残ってたもの」
ボルドーのワインが僕の前に置かれる。リーデルのボウルは丸く大きく、液面が揺れるたびに香りが空中にほどける。
「このワインはね、空港の夜に似てるの」奈々はそう言って、グラスを傾けた。
「どういう意味?」
「人が行き交い、出発と到着が繰り返されても、滑走路の灯りは変わらない」
「光速みたいだな」
「あなたの愛もそう?」
「そうでありたいと思ってる」
奈々は口角を上げ、僕のグラスにもワインを注いだ。液体の重みが、透明なガラスの内側でわずかに弾み、すぐに静まる。その揺れを見つめながら、僕は自分の感情にも同じような弾みと静まりがあることに気づく。
「ところで、あなたの理論は今どうなってるの?」
「進んでるよ。だけど、恋愛は観測者の存在で結果が変わる。不確定性を排除できない」
「それなら、私はあなたの観測を狂わせる役割なのかもね」
「たぶんね」
「光栄だわ」
奈々の笑みは、空港の出発ゲートに差し込む朝の光のようだった。少し眩しくて、少し切ない。
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