恋の相対性理論
酒と女と六本木
第1話 青山カフェ ― 玲奈との再会
恋愛というものを、数式に落とし込めると考えたのは、僕がまだ二十代の研究員だった頃だ。
真夜中の実験室で、冷めきったコーヒーを口にしながら、パソコンの画面に並ぶ数列を見つめていた。光速は、観測者がどこにいても変わらない。それならば、愛の速度も、同じように不変であってほしい。そう思っていた。けれど現実の恋は、光のように直線を進まない。観測する場所と時間によって、その形も色も変わってしまう。
冬の午後、青山のカフェは柔らかな光で満たされていた。ガラス越しに射し込む日差しは少し傾き、窓際の席に置かれた小さな花瓶の中の白いカスミソウを、淡く照らしている。
僕はその席に座り、目の前のティーカップに視線を落とした。カップはリチャード・ジノリの白磁。持ち手は繊細に曲がり、指先にしっくりと馴染む。縁は薄く仕上げられ、唇が触れると、液体の温度と香りが一気に広がる仕組みだ。
向かいには、高槻玲奈が座っていた。両手でカモミールティーのカップを包み込み、湯気の向こうから僕を見ている。
彼女の髪は肩にかかるあたりで緩やかに揺れ、光を受けて一瞬だけ琥珀色に変わった。
「変わってないわね、悠人くんは」
玲奈の声は、十年前と同じ穏やかさを持っていた。
「僕が?」
「ええ。大学のころも、あなたはいつも理屈と味の話をしていたわ。授業中に、どうしてワインの香りはあんなに複雑なのかって、延々と語ってたでしょう?」
「そうだったかな」僕は笑って、カップの縁を軽くなぞる。
「君も変わってないよ。器のように、形を保っている」
「含蓄に富む表現ね」
「僕の辞書にはそれしか載っていないのかもしれない」
窓の外では、歩道を急ぐ人々が黒や灰色のコートを揺らしながら通り過ぎていく。
その一人ひとりに、それぞれの速度がある。恋愛もそうだ。ある人との時間は速く、ある人との時間は遅い。玲奈と過ごすこの午後は、不思議と時がゆっくりと流れていた。
「あなたの話す器の話、嫌いじゃないのよ」
玲奈はそう言って、カップを持ち上げた。「でも、私にはワインの香りや味はわからない。お酒が飲めないから。でも、料理の温度や皿の重み、持ちやすさならわかるわ」
「観測の方法が違うだけだよ」僕は答える。「二重スリット実験って知ってる? 観測するかしないかで、電子のふるまいが変わる。恋愛もそうかもしれない」
「じゃあ、私があなたを観測したら?」
「たぶん、僕の中の感情が確定する」
彼女は少し首を傾げて笑った。
僕はその笑みを、数式ではなく温度として記憶に刻んだ。
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