かたすみの逃避行

なごみ

第1話

 忘れられない恋だった。


 わたしの初恋。初めての好きな人。こころを奪われたひと。

 伝える間もなく、叶わなかったけれど。


 中学の時、人見知りで誰にも話しかけられなかったわたしに話しかけてくれた人が居た。その人はとても格好良くて、頭が良くて、先生からの評価も高い優等生。運動神経は抜群とは言えなかったけれど、そんなところも好きだった。

 クラスでも人気者の彼とわたしが話せる機会なんて、席が隣のときくらいしかなかったのに。

 そんな一瞬で恋に落ちてしまったのだった。


 その、束の間の席が隣だった時のこと。

 いまでも覚えている出来事がある。

 シャーペンと消しゴムが一つづつ、彼の筆箱から消えた。恐らく、彼のことが好きな女の子の仕業だろう。

 本当はいけないことだけれど、女の子の気持ちが少しわかってしまう自分が居た。

 文房具がないことに、授業中に気付いた彼は少し焦っているようだった。なんとかしてあげたいけれど、人に話しかけることが苦手なわたしは躊躇った。それはもう、とても。それでも彼のための気持ちが勝り、自分の消しゴムを割ってあげたはずだ。 

 優しい彼がたいそう申し訳無さそうにしていて、授業の後、小さなありがとうの手紙といちごミルクをくれたのを今でも覚えている。あの手紙はいまでも大切にしまってあるし、いちごミルクは大好物である。


 そんな彼に、彼女ができないわけもなく。中三の夏、彼に可愛い彼女ができた。

 学校帰りの通学路、彼と女の子が一緒に帰っているところに遭遇したわたしは、羨ましいとか、妬ましいとか、そういった感情はまったくなく、お似合いだなぁと一言だけ。

 だって、わたしなんかが彼と結ばれる可能性なんて一億分の一にもないのだから。

 無駄な夢は、見ないと決めていた。


 それからわたし達のあいだに何かがあったわけでもなく、ただ単に時は流れ、中学を卒業。

 そもそも頭の出来が違うものだから高校も別で、本当に縁は切れた。

 高校のとき、ちらっと別れたらしいとか、振られたらしいとか聞いたけど、わたしにはとうに手の届かない人である。


 そう思っていたのに。


 高校も卒業し、適当に大学に入り、適当に就職をし、働き始めた今。再会するとは思わないじゃないか。

 見た目から性格から空気まで、まるまる違う雰囲気の彼なんかと。


 肩までつくほどに伸びたハーフアップ、見るからにダメージを受けたような艶のない金髪、おまけに数え切れないほどのアクセサリー。

 これが、現在の彼を構成する容姿のすべてだ。


「……ぁ……ばちゃん? あおばちゃん? 聞こえてる?」

「あ、ごめんなさい。ちょっと貴方に再会した日のことを思い出してた」

「あぁ、あの日? たしかに俺も鮮明に覚えてるなぁ」

「それくらい印象的だったもの」


 印象的というか、衝撃的。

 私のありきたりの日常の中に現れた、イレギュラー。


 そんなことを薄ぼんやりと考えていると、何かを思い出したかのように彼は続けた。


「あのときのあおばちゃん、ホント危なかったよ! 今にも倒れて気絶します〜みたいな」

「確かに。徹夜の仕事帰りでふらふらだったかも」


 思い返すとそれも、三ヶ月ほど前の出来事。

 仕事帰り、近所の公園の横道を歩いていたら彼がふらっと現れたのだ。

 最初は、不信感。それから彼だと言うことを知り、その代わり様への驚愕。それでも、あっという間に打ち解けていくのはわたしの記憶の中の彼と変わらなかった。

 それから、一週間に何度か公園で軽くお喋りをするだけの関係になった。帰るときに公園に立ち寄って、もし彼がいなかったらそのまま帰宅。それくらいの薄さ。

 仕事関係でも、友人でもない、昔の同級生との関係値なんてそんなものだろう。

 本当に、それだけ。


「あおばちゃんに出会えて、俺は幸せ者だなぁ〜こうやって話せるひと、あおばちゃんくらいだもん」

「……そうね。わたしも、この時間は特別よ」


 学生の頃、好きな人の言動一つ一つで心動かされたわたしはもういない。学校を卒業して、成人して、社会に揉まれて色々と経験したのだ。

 そしてそれは彼も同じだろう。


 彼もわたしも、あのときとは変わった。


「そういえばなんだけど、あなたに影響されたことがあって」

「ん? なぁに?」

「わたし、会社辞めたのよね」

「え」

「正確には、変えた、が正しいけど。転職したの」

「……ほんと?」

「ほんとほんと。元々自分には合っていないように感じてたんだけれど、最近やっと決心ついて。退職届叩きつけてきたわ」

「……そっ……か」

「貴方とこうして話していくうちに、自分と向き合え始めたのよね。あぁ、仕事楽しくないわって。だからありがと。一応、お礼は言っとく」


 珍しく無言。

 少しうつむく彼の横顔は、公園の街頭によってできた暗い影のせいで全く見えない。


「……なら。よかった」


 ちいさく呟いた彼の言葉は、聞こえなかったことにした。


 その日から彼の様子がおかしくなったような。話を聞いていなかったり、返事がなかったり。

 どんな話でも大きく相槌を打つから、やはり違和感がある。

 でも、そんなある日のこと。


「あは。髪の毛切ってきちゃった」


 彼の肩まで届くほどの金髪は、顎に届くかどうかくらいになっていた。

 眩しいほどに明るい街頭の下、晴れやかそうな笑顔で彼は続ける。


「俺もさー。ちょっと考えなきゃいけないことがあって」

「考えなきゃいけないこと?」

「そう。俺は、俺なりに」


 そう言う彼は、どこか遠くを見つめているように見えた。


「だから、これからもよろしくね? あおばちゃん」


 なにが「だから」なのかはわからないが、彼がいいならそれでいいのだろう。


 わたしの何かが、彼を決断づけたのかなんてわからない。

 もしかしたらわたしとは全く関係もないことかもしれない。

 それでもいいのだ。

 だから、なんで、なにがなんてどうだっていい。

 ここにある全て、それで十分。


 嫌なこと、見たくないことなんて蓋をしてしまおう。

 せめて、この時だけは全てを忘れ去ってしまえばいい。


 この世は、辛いこと、苦しいことで溢れかえっている。

 そんなの嫌ってほど知っている。

 ちゃんと向き合うから。ちゃんと、見るから。


 だからどうかこの時間だけは、このままで。



 どこかの世界の片隅で、きみとふたりだけの逃避行を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かたすみの逃避行 なごみ @Megu_9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ