第8話 解放と束縛
一
学園に戻った翌日。
悠真は朝早くから、特別処置室へと呼び出された。
封印解除の儀式が執り行われる——そう告げられたのは、昨夜のことだった。
廊下を歩く間、左手首の封印がひび割れたまま脈打ち続けている。まるで時限爆弾のように。
特別処置室の前に立つと、扉が開いた。
中には、学園長、結城教官、そして氷室先輩が待っていた。
「朽木悠真、入れ」
学園長の声は穏やかだが、有無を言わせぬ威圧感がある。
悠真は一礼して室内に入った。
二
部屋の中央には、封印の時と同じ陣が描かれていた。
だが、今回の陣は逆向きだ。力を封じるのではなく、解放するための術式。
「座れ」
学園長が指示し、悠真は陣の中心に正座した。
学園長は悠真の前に立ち、静かに語り始めた。
「朽木悠真。お前の封印を解除する。だが、これは決して喜ばしいことではない」
「……はい」
「封印は、お前を守るためのものだった。それを解除するということは、お前自身が力と向き合わなければならないということだ」
学園長の目が、悠真を見据える。
「お前の中には、書の力だけではない、別の何かが眠っている。氷室からも報告を受けた」
悠真は氷室先輩を見る。
先輩は無言で頷いた。
「言霊——」
学園長が口にした瞬間、室内の空気が変わった。
「古の術式。言葉に力を宿す技。我々書士の源流とも言われるが、同時に最も危険な力でもある」
学園長は一歩近づく。
「お前がそれを持っているかどうか、まだ確定ではない。だが、可能性は高い」
「……俺には、まだ分かりません」
「分からなくていい。今は」
学園長は筆を取り出した。
「だが、いずれ分かる時が来る。その時、お前は選択を迫られるだろう」
「選択……?」
「力を受け入れるか、拒絶するか」
学園長の声が、重く響く。
「どちらを選んでも、代償は大きい。覚悟しておけ」
三
儀式が始まった。
学園長が筆を空中で走らせる。
墨の粒が光となって舞い、陣が明滅する。
「我、筆の理に従い——」
詠唱が響く。
封印の時とは逆の言葉。
「——この枷を解き放つ」
その瞬間、悠真の左手首が熱を帯びた。
「っ……!」
ひび割れた封印の環が、激しく光り始める。
痛い。
封印される時以上の痛み。
まるで、内側から何かが溢れ出そうとしているような——。
「耐えろ、朽木!」
結城教官の声が聞こえる。
だが、痛みは増していく。
封印の環の亀裂が広がり、そこから黒い墨が染み出す。
墨が手首を這い、腕へと伸びる。
「……うああああっ!」
悠真は叫んだ。
そして——
パリン。
硝子が砕けるような音。
封印の環が、粉々に砕け散った。
四
静寂。
悠真は荒い息をつきながら、左手首を見た。
封印の環があった場所には、もう何もない。
ただ、かすかに赤くなった皮膚だけが残っている。
「……終わった」
学園長が筆を下ろす。
「封印は完全に解除された」
悠真は左手を握り、開く。
震えている。
だが——それは、いつもの震えとは違った。
恐怖からくる震えではなく、力が溢れそうになるのを必死に抑えている、そんな震え。
「朽木」
結城教官が近づき、懐から銀色の輪を取り出した。
矯筆環だ。
「これを装着する」
悠真は黙って右手を差し出した。
結城教官が矯筆環を手首にはめる。
カチリ、と音を立てて固定される。
冷たい金属の感触。
そして——筆を持つ感覚が、わずかに変わった。
「これで、お前の筆の動きは制限される。基本字以外は書けない」
結城教官は厳しい顔で続ける。
「これは命令だ。矯筆環を外すことは許されない。分かったな」
「……はい」
悠真は右手首を見つめる。
左手首の封印が解けた代わりに、右手首に新たな枷がついた。
(これが……俺の選んだ道)
五
儀式の後、悠真は学園長に呼び止められた。
「少し、話がある」
二人きりになると、学園長は窓の外を見ながら言った。
「お前は、氷室鏡華を知っているか」
「……はい。氷室先輩の姉で、行方不明だと」
「そうだ」
学園長は目を細める。
「彼女もまた、言霊の使い手だった」
悠真は息を呑んだ。
「鏡華は天才だった。だが、同時に危険でもあった」
学園長の声が、わずかに沈む。
「彼女は言霊の研究に没頭し、やがて禁忌に触れた」
「禁忌……?」
「言霊には、段階がある」
学園長は振り返り、悠真を見た。
「初段は『言葉の力』。文字を使わず、声だけで現象を起こす」
悠真の喉が、かすかに反応した。
「二段は『響きの共鳴』。他者の言霊と共鳴し、力を増幅させる」
「そして、三段——」
学園長の声が、一層重くなる。
「『真名の開示』。すべての存在には真の名がある。それを知り、呼ぶことで、絶対的な支配が可能になる」
悠真は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「鏡華は、三段に至ろうとした。そして——消えた」
「消えた……」
「任務中、忽然と姿を消した。手がかりは一切ない」
学園長は悠真の肩に手を置く。
「お前が同じ道を辿らぬよう、私は見守る。だが——」
その目には、警告の光があった。
「もしお前が禁忌に触れようとするなら、私は容赦しない」
六
部屋を出ると、廊下で氷室先輩が待っていた。
「学園長から、何を聞いた」
「……姉さんのこと」
氷室先輩は頷く。
「俺は、姉を探している」
真っ直ぐな目で、悠真を見据える。
「お前の力は、姉の手がかりになるかもしれない。だから——」
氷室先輩は拳を握る。
「お前が暴走するなら、俺が止める」
その言葉は、脅しではなく、約束だった。
「でも、お前が正しく力を使えるなら——」
氷室先輩の目に、わずかな光が宿る。
「俺は、お前を支える」
悠真は胸が熱くなるのを感じた。
氷室先輩は、敵でも味方でもない。
ただ、同じ道を歩く者として——見守ってくれている。
「……ありがとうございます」
氷室先輩は小さく頷き、立ち去った。
七
寮に戻ると、杉浦が待っていた。
「おお、悠真! 封印、解けたのか!」
「ああ」
「見せて見せて!」
杉浦は悠真の左手首を掴む。
「うわ、本当だ! 環がない!」
喜ぶ杉浦を見て、悠真は右手を差し出した。
「でも、代わりにこれがついた」
矯筆環を見て、杉浦の表情が曇る。
「これって……」
「矯筆環。筆の動きを制限する道具」
「……そっか」
杉浦は悠真の肩を叩いた。
「でも、封印よりはマシだろ? 少しでも書けるようになったんだから」
その前向きな言葉に、悠真は救われた。
「そうだな」
「よし! じゃあ早速、練習しようぜ!」
「えっ、今から?」
「当たり前だろ! せっかく封印が解けたんだから!」
杉浦に引っ張られて、悠真は練習場へと向かった。
八
夜。
練習を終えて部屋に戻った悠真は、机の前に座った。
筆を持つ。
右手首の矯筆環が、ひんやりと冷たい。
半紙に向かい、一文字を書こうとする。
だが——筆が、思うように動かない。
矯筆環が筆の動きを制限し、単純な線しか引けない。
「……くそ」
何度も試すが、同じだった。
震えは抑えられている。
だが、自由な線は失われた。
(これが……代償か)
悠真は筆を置き、天井を見上げた。
封印が解けた。
だが、本当の意味で自由になったわけではない。
新たな枷がつき、新たな監視下に置かれた。
(でも……)
悠真は右手首の矯筆環に触れる。
(これが、今の俺にできる最善だ)
窓の外では、月が輝いている。
遠く、遠く。
だが、確かにそこにある。
悠真は筆を再び取り、半紙に向かった。
たとえ制限されていても。
たとえ自由がなくても。
書き続けることを、諦めない。
それが——朽木悠真の、誓いだった。
【第8話 了】
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