第7話 覚醒の代償

 目を開けると、天井が見えた。

古びた木の梁。蜘蛛の巣が隅に揺れている。

(ここは……?)

体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめる。まるで内側から焼かれたような、鈍い痛み。


「目が覚めたか」


横から声がした。

氷室先輩だった。

壁に背を預け、腕を組んで立っている。その表情は相変わらず冷静だが、どこか疲れているようにも見えた。


「……ここは」

「廃寺の本堂だ。お前が倒れてから三十分経った」


悠真は辺りを見回す。

薄暗い室内。窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。

床には自分が寝かされていた毛布。そして——壁には、黒い染みが残っていた。

墨の痕。

記憶が蘇る。

影が襲ってきた。

喉から溢れ出た言葉——『カム』。

そして、暴発。


「俺……また……」

「ああ。暴発した」


氷室先輩は淡々と言う。


「だが、今回は違った」

「違った……?」

「お前の墨は、影を消した」


悠真は息を呑んだ。

消した?

試験の時は、ただ暴走しただけだった。制御不能の破壊。

だが今回は——。


「物理的な攻撃が効かなかった影を、お前の力は一瞬で霧散させた」


氷室先輩は窓の外を見る。


「これが偶然だと思うか?」

「……分かりません」

「俺は知っている」


氷室先輩は悠真を見据えた。


「お前の中にあるのは、書の力だけじゃない」


 廊下から足音が聞こえ、結城教官が入ってきた。

その後ろには、杉浦と藤間さんの姿も見える。


「朽木、無事か」


結城教官の声は厳しいが、どこか安堵している。


「はい……すみません、ご迷惑を……」

「謝罪は後だ。まず、お前の状態を確認する」


結城教官は悠真の左手首を取り、封印の環を見た。

その瞬間、彼女の表情が硬くなる。


「……これは」


環が——ひび割れていた。

黒い輪の表面に、細い亀裂が無数に走っている。まるでガラスが砕ける寸前のように。


「封印が、壊れかけている」


結城教官は低く呟いた。


「内側からの圧力が限界を超えた。このままでは——」


言葉が途切れる。

だが、悠真には分かった。

このままでは、封印が完全に壊れる。

そして、自分の力が再び暴走する。


「悠真……」


杉浦が心配そうに覗き込んでくる。


「大丈夫なのか? さっき、すごかったぞ。お前から墨が噴き出して——」

「杉浦、静かに」


藤間さんが制止する。

結城教官は立ち上がり、氷室を見た。


「氷室、お前の意見は?」

「封印の解除が必要です」


即答だった。

結城教官が眉をひそめる。


「解除? 危険すぎる。制御できない力が完全に解放されれば——」

「むしろ、今のままの方が危険です」


氷室先輩は冷静に続ける。


「封印が中途半端に壊れている状態が、最も制御が難しい。完全に解除して、朽木自身に力をコントロールさせるべきです」

「だが、彼はまだ——」

「時間がありません」


氷室先輩の声に、珍しく強い意志が込められている。


「朽木の中には、言霊が眠っている。それが覚醒し始めている今、封印で押さえ込むことは不可能です」


言霊——その言葉に、結城教官の表情が変わった。


「……お前、それを確信しているのか」

「はい」


沈黙。

やがて結城教官は深く息を吐いた。


「分かった。学園に報告する。だが、最終判断は学園長だ」


そう言って、結城教官は部屋を出ていった。


 結城教官が去った後、杉浦が悠真の隣に座った。


「なあ、悠真。言霊って何だ?」

「……俺にも、よく分からない」


藤間さんが口を開く。


「授業で習ったよね。古代の術式で、言葉に力を宿すっていう」

「でも、学園長は迷信だって言ってたじゃん」

「表向きはね」


氷室先輩が言った。


「学園は言霊を公式には認めていない。だが、実在する」


氷室先輩は腕を組み、遠くを見つめる。


「俺の姉も、言霊の使い手だった」

「……姉さん?」

「氷室鏡華。五年前に卒業した。天才と呼ばれた書士だった」


悠真は入学式の日に見た額装を思い出す。

荒々しく、しかし力強い二文字。


「姉は独自に言霊を研究していた。学園が禁じていたにも関わらず」


氷室先輩の声が、わずかに沈む。


「そして——任務中に消息を絶った」

「消息を……」

「遺体も、痕跡も見つかっていない。ただ、最後の通信で——」


氷室先輩は言葉を切る。


「『言霊の深淵を見た』と言い残していた」


室内に重い沈黙が落ちる。

やがて氷室先輩は、悠真を見た。


「お前の中にある力は、姉が追い求めていたものと同じだ」

「俺が……?」

「ああ。だからこそ、俺はお前を見ている」


氷室先輩は窓の外を見る。


「お前がどうなるのか。そして——姉の消息を掴む手がかりになるかもしれない」


その言葉に、悠真は複雑な思いを抱いた。

自分は、氷室先輩にとって——姉を探すための道具なのか?


 夕方になり、結城教官が戻ってきた。


「学園長の判断が下りた」


全員が彼女を見る。


「封印の解除を許可する。ただし——」


結城教官は悠真を見据えた。


「条件がある」

「条件……?」

「解除後、お前は特別監視下に置かれる。寮も個室ではなく、監視付きの部屋に移る。授業も、一部制限される」


つまり——自由を奪われるということだ。


「それと、もう一つ」


結城教官は懐から何かを取り出した。

銀色に輝く、輪状の器具。

矯筆環だ。


「解除後、この矯筆環の装着を義務付ける」

「でも、それじゃ——」


悠真の言葉を、結城教官が遮る。


「これは命令だ、朽木。封印を解除する代わりに、最低限の制御装置は必要だ」


矯筆環——自由な線を封じる代償。

だが、拒否すれば封印は解除されない。

そして、封印が壊れれば——再び暴発する。

選択肢はなかった。


「……分かりました」


悠真は頷いた。

結城教官は矯筆環を机に置く。


「解除は明日、学園に戻ってから行う。それまでは安静にしていろ」


そう言って、結城教官は再び部屋を出た。


 夜。

廃寺の境内に、月が昇っていた。

悠真は一人、外に出ていた。

冷たい夜風が頬を撫でる。

左手首の封印を見つめる。

ひび割れた環が、月光を受けて鈍く光っている。

(封印が解ける……)

それは、ずっと望んでいたことだ。

だが、矯筆環という新たな枷がつく。

そして、監視下に置かれる。

(これで……いいのか?)

「迷っているのか」

背後から声がして、振り返ると氷室先輩が立っていた。


「……はい」

「迷うな」


氷室先輩は悠真の隣に立つ。


「お前には、力がある。それを恐れるな」

「でも、俺は制御できない」

「今はな」


氷室先輩は月を見上げる。


「だが、制御できるようになる。俺がそうだったように」

「先輩も……?」

「俺も最初は制御できなかった。姉の影に怯え、自分の力を恐れていた」


氷室先輩は拳を握る。


「だが、恐れていても何も変わらない。だから俺は、力と向き合うことを選んだ」


その横顔は、どこか寂しげに見えた。


「お前も、向き合え。自分の中にあるものと」


氷室先輩はそう言って、廃寺の中へ戻っていった。

悠真は一人、夜空を見上げた。

星が瞬いている。

遠く、遠く。

手の届かない場所で。

(俺の力……言霊……)

喉に手を当てる。

そこに、まだ何かが眠っている気がした。

言葉になる前の、巨大な何か——。


 翌朝。

一行は廃寺を後にした。

任務は完了——影は消え、異常筆跡も確認された。

だが、悠真にとって、これは始まりに過ぎなかった。

帰路の途中、杉浦が悠真の肩を叩いた。


「なあ、悠真」

「何だ?」

「お前、変わるんだな」

「……変わる?」

「封印が解けるんだろ? それって、お前が本当の力を出せるようになるってことじゃん」


杉浦はニカッと笑う。


「楽しみだぜ。お前がどれだけすごいか、見せてもらうからな」


その言葉に、悠真は少しだけ救われた。

藤間さんも優しく微笑む。


「私も応援してる。朽木君なら、きっと大丈夫」


二人の言葉が、胸に温かく響く。

(そうだ……俺には、仲間がいる)

学園が見えてきた。

高い塔、白い壁。

そこで——封印が解かれる。

そして、新たな枷がつけられる。

だが、それでも。

(俺は、前に進む)

左手首の封印が、最後の脈動を刻んだ。

まるで、別れを告げるように。


【第7話 了】

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