第7話 覚醒の代償
一
目を開けると、天井が見えた。
古びた木の梁。蜘蛛の巣が隅に揺れている。
(ここは……?)
体を起こそうとして、全身の痛みに顔をしかめる。まるで内側から焼かれたような、鈍い痛み。
「目が覚めたか」
横から声がした。
氷室先輩だった。
壁に背を預け、腕を組んで立っている。その表情は相変わらず冷静だが、どこか疲れているようにも見えた。
「……ここは」
「廃寺の本堂だ。お前が倒れてから三十分経った」
悠真は辺りを見回す。
薄暗い室内。窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。
床には自分が寝かされていた毛布。そして——壁には、黒い染みが残っていた。
墨の痕。
記憶が蘇る。
影が襲ってきた。
喉から溢れ出た言葉——『カム』。
そして、暴発。
「俺……また……」
「ああ。暴発した」
氷室先輩は淡々と言う。
「だが、今回は違った」
「違った……?」
「お前の墨は、影を消した」
悠真は息を呑んだ。
消した?
試験の時は、ただ暴走しただけだった。制御不能の破壊。
だが今回は——。
「物理的な攻撃が効かなかった影を、お前の力は一瞬で霧散させた」
氷室先輩は窓の外を見る。
「これが偶然だと思うか?」
「……分かりません」
「俺は知っている」
氷室先輩は悠真を見据えた。
「お前の中にあるのは、書の力だけじゃない」
二
廊下から足音が聞こえ、結城教官が入ってきた。
その後ろには、杉浦と藤間さんの姿も見える。
「朽木、無事か」
結城教官の声は厳しいが、どこか安堵している。
「はい……すみません、ご迷惑を……」
「謝罪は後だ。まず、お前の状態を確認する」
結城教官は悠真の左手首を取り、封印の環を見た。
その瞬間、彼女の表情が硬くなる。
「……これは」
環が——ひび割れていた。
黒い輪の表面に、細い亀裂が無数に走っている。まるでガラスが砕ける寸前のように。
「封印が、壊れかけている」
結城教官は低く呟いた。
「内側からの圧力が限界を超えた。このままでは——」
言葉が途切れる。
だが、悠真には分かった。
このままでは、封印が完全に壊れる。
そして、自分の力が再び暴走する。
「悠真……」
杉浦が心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫なのか? さっき、すごかったぞ。お前から墨が噴き出して——」
「杉浦、静かに」
藤間さんが制止する。
結城教官は立ち上がり、氷室を見た。
「氷室、お前の意見は?」
「封印の解除が必要です」
即答だった。
結城教官が眉をひそめる。
「解除? 危険すぎる。制御できない力が完全に解放されれば——」
「むしろ、今のままの方が危険です」
氷室先輩は冷静に続ける。
「封印が中途半端に壊れている状態が、最も制御が難しい。完全に解除して、朽木自身に力をコントロールさせるべきです」
「だが、彼はまだ——」
「時間がありません」
氷室先輩の声に、珍しく強い意志が込められている。
「朽木の中には、言霊が眠っている。それが覚醒し始めている今、封印で押さえ込むことは不可能です」
言霊——その言葉に、結城教官の表情が変わった。
「……お前、それを確信しているのか」
「はい」
沈黙。
やがて結城教官は深く息を吐いた。
「分かった。学園に報告する。だが、最終判断は学園長だ」
そう言って、結城教官は部屋を出ていった。
三
結城教官が去った後、杉浦が悠真の隣に座った。
「なあ、悠真。言霊って何だ?」
「……俺にも、よく分からない」
藤間さんが口を開く。
「授業で習ったよね。古代の術式で、言葉に力を宿すっていう」
「でも、学園長は迷信だって言ってたじゃん」
「表向きはね」
氷室先輩が言った。
「学園は言霊を公式には認めていない。だが、実在する」
氷室先輩は腕を組み、遠くを見つめる。
「俺の姉も、言霊の使い手だった」
「……姉さん?」
「氷室鏡華。五年前に卒業した。天才と呼ばれた書士だった」
悠真は入学式の日に見た額装を思い出す。
荒々しく、しかし力強い二文字。
「姉は独自に言霊を研究していた。学園が禁じていたにも関わらず」
氷室先輩の声が、わずかに沈む。
「そして——任務中に消息を絶った」
「消息を……」
「遺体も、痕跡も見つかっていない。ただ、最後の通信で——」
氷室先輩は言葉を切る。
「『言霊の深淵を見た』と言い残していた」
室内に重い沈黙が落ちる。
やがて氷室先輩は、悠真を見た。
「お前の中にある力は、姉が追い求めていたものと同じだ」
「俺が……?」
「ああ。だからこそ、俺はお前を見ている」
氷室先輩は窓の外を見る。
「お前がどうなるのか。そして——姉の消息を掴む手がかりになるかもしれない」
その言葉に、悠真は複雑な思いを抱いた。
自分は、氷室先輩にとって——姉を探すための道具なのか?
四
夕方になり、結城教官が戻ってきた。
「学園長の判断が下りた」
全員が彼女を見る。
「封印の解除を許可する。ただし——」
結城教官は悠真を見据えた。
「条件がある」
「条件……?」
「解除後、お前は特別監視下に置かれる。寮も個室ではなく、監視付きの部屋に移る。授業も、一部制限される」
つまり——自由を奪われるということだ。
「それと、もう一つ」
結城教官は懐から何かを取り出した。
銀色に輝く、輪状の器具。
矯筆環だ。
「解除後、この矯筆環の装着を義務付ける」
「でも、それじゃ——」
悠真の言葉を、結城教官が遮る。
「これは命令だ、朽木。封印を解除する代わりに、最低限の制御装置は必要だ」
矯筆環——自由な線を封じる代償。
だが、拒否すれば封印は解除されない。
そして、封印が壊れれば——再び暴発する。
選択肢はなかった。
「……分かりました」
悠真は頷いた。
結城教官は矯筆環を机に置く。
「解除は明日、学園に戻ってから行う。それまでは安静にしていろ」
そう言って、結城教官は再び部屋を出た。
五
夜。
廃寺の境内に、月が昇っていた。
悠真は一人、外に出ていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
左手首の封印を見つめる。
ひび割れた環が、月光を受けて鈍く光っている。
(封印が解ける……)
それは、ずっと望んでいたことだ。
だが、矯筆環という新たな枷がつく。
そして、監視下に置かれる。
(これで……いいのか?)
「迷っているのか」
背後から声がして、振り返ると氷室先輩が立っていた。
「……はい」
「迷うな」
氷室先輩は悠真の隣に立つ。
「お前には、力がある。それを恐れるな」
「でも、俺は制御できない」
「今はな」
氷室先輩は月を見上げる。
「だが、制御できるようになる。俺がそうだったように」
「先輩も……?」
「俺も最初は制御できなかった。姉の影に怯え、自分の力を恐れていた」
氷室先輩は拳を握る。
「だが、恐れていても何も変わらない。だから俺は、力と向き合うことを選んだ」
その横顔は、どこか寂しげに見えた。
「お前も、向き合え。自分の中にあるものと」
氷室先輩はそう言って、廃寺の中へ戻っていった。
悠真は一人、夜空を見上げた。
星が瞬いている。
遠く、遠く。
手の届かない場所で。
(俺の力……言霊……)
喉に手を当てる。
そこに、まだ何かが眠っている気がした。
言葉になる前の、巨大な何か——。
六
翌朝。
一行は廃寺を後にした。
任務は完了——影は消え、異常筆跡も確認された。
だが、悠真にとって、これは始まりに過ぎなかった。
帰路の途中、杉浦が悠真の肩を叩いた。
「なあ、悠真」
「何だ?」
「お前、変わるんだな」
「……変わる?」
「封印が解けるんだろ? それって、お前が本当の力を出せるようになるってことじゃん」
杉浦はニカッと笑う。
「楽しみだぜ。お前がどれだけすごいか、見せてもらうからな」
その言葉に、悠真は少しだけ救われた。
藤間さんも優しく微笑む。
「私も応援してる。朽木君なら、きっと大丈夫」
二人の言葉が、胸に温かく響く。
(そうだ……俺には、仲間がいる)
学園が見えてきた。
高い塔、白い壁。
そこで——封印が解かれる。
そして、新たな枷がつけられる。
だが、それでも。
(俺は、前に進む)
左手首の封印が、最後の脈動を刻んだ。
まるで、別れを告げるように。
【第7話 了】
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