はじめに

「ケルヌンノスの日」を迎えて

 2101年7月3日――その日、人類は「太陽に墜ちた惑星」を目撃した。


 地球質量の数倍に及ぶ自由浮遊惑星ケルヌンノスが太陽へ突入し、恒星は前例のない規模のフレアとコロナ質量放出を引き起こした。強烈な太陽嵐は地球圏を直撃し、数週間にわたる停電や通信網の崩壊を招いた。人々は空に舞う極光を見上げながら、文明の基盤が音を立てて揺らぐのを感じたのである。


 それから二百年。私たちはこの出来事を「ケルヌンノス・インパクト」と呼び、単なる天文学的事件としてだけでなく、人類史を分岐させた大転換点として記憶している。2101年を境に、恒星活動と文明との関係を専門的に扱う「恒星防災学」が確立し、国家や企業はこぞって宇宙空間でのリスク管理に投資するようになった。言い換えれば、ケルヌンノスが人類に突きつけたのは「恒星という母胎は決して安定ではない」という厳然たる事実だったのだ。


 この事件の記憶は、科学だけでなく文化の中にも深く刻まれている。21世紀末から22世紀初頭にかけて、世界各地で「終末」を主題とする宗教運動が急増した。ある信仰団体はケルヌンノスを「天よりの審判」と呼び、別のグループは「新しい太陽の伴侶」として礼拝対象に取り込んだ。文学や芸術も例外ではなく、当時の詩人や画家たちは燃え盛る太陽のイメージを借りて、恐怖と再生を重ね合わせた表現を生み出した。


 その後の二世紀にわたっても、映画や小説、音楽の中で「太陽に墜ちた惑星」は繰り返し描かれてきた。特に2301年、衝突から二百周年を迎えるにあたって公開された映画『フォール・イントゥ・ザ・サン』は世界的な大ヒットとなり、改めてケルヌンノスへの関心を呼び起こしたことは記憶に新しい。


 しかし文化的想像力がどれほど膨らんでも、この出来事の根底には冷徹な科学的現実がある。発見からわずか十年の猶予しかなく、地球は惑星の衝突そのものを避ける術を持たなかった。科学者たちは衝突の余波を最小限に抑えるべく奔走したが、政治的混乱や市民社会の動揺は避けられなかった。数年にわたる「太陽風の冬」を生き延びた経験は、結果的に人類をより強靭にしたが、それは決して安易な成功物語ではない。


 ここで問いたいのは、なぜ二百年を経た今なお、私たちはケルヌンノスを語り続けるのかということである。おそらく理由は二つあるだろう。第一に、恒星災害の脅威は終わっていないからだ。太陽系の外から訪れる惑星、彗星、あるいは突発的な恒星活動――そのいずれもが文明を揺るがす可能性を持つ。第二に、この出来事が人類の「宇宙的自己像」を根底から変えてしまったからである。それまで私たちは、太陽を揺るぎない存在と見なしてきた。だがケルヌンノスは、その太陽すらも偶然に揺らぐ存在であることを突きつけた。


 私自身、月面で生まれ育った研究者として、この出来事を「遠い神話」ではなく「身近な歴史」として感じてきた。月では、ケルヌンノスの衝突をしのぶ記念碑が各地に残されており、毎年の「ケルヌンノスの日」には追悼と祝祭が同時に営まれる。その空気の中で育った世代にとって、ケルヌンノスは単なる過去ではなく、未来への教訓として息づいているのだ。


 本書は、二百周年を機に再び注目を集めたケルヌンノス衝突事象を、一般読者に向けて平易に描き出すことを目的としている。詳細な科学的報告や専門論文はすでに膨大な量が存在するが、それらは専門家の手に委ねられてきた。私はあえて学術的な厳密さよりも「物語」としての力に重点を置き、人類がどのようにこの危機を受け止め、乗り越えたかを描こうとした。


 本書では、まず惑星発見の驚き、衝突を前にした人類社会の動揺、そして2101年7月3日の決定的瞬間を追っていく。さらに、その後の長い混乱と再生、そして二百年後の今日に至る歴史をたどりながら、私たちが学ぶべき教訓を探っていく。


 「太陽に墜ちた惑星」は、もはや恐怖の象徴ではない。それはむしろ、人類が初めて宇宙的スケールで自らの脆弱さと向き合い、そこから新しい時代を切り開いた記念碑なのである。


エレナ・カシモフ

2302年 ルナシティにて

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