リアリティ―仮想境界線の迷い人―

白石誠司

99:【漂流】――空から堕ちる夢


 そこは、何もない空白の世界だった。


 かつて多くの言葉が紡がれた場所だったが、今はただ、静寂だけが白く広がっている。だが、その白く空虚な空間に、一つの影があった。


 20代半ばだろうか、赤茶色のウェーブヘアを流し、くすみピンクのドレスの上に紫紺のローブを羽織った女性だった。

 その艶やかさは、この世の誰にも勝る美貌であり、さながら高級な猫のようだ。


 彼女は虚空を見つめていた瞳をこちらへ向けると、扇子越しに軽く微笑んだ。


「あらぁ⋯⋯旅人さん。ようこそこの『狭間の世界』へ⋯⋯」


 彼女のその声は、涼やかだが、聞く者の魂に直接染み込んでくるような、甘く絶対的な響きを帯びている。


「『リアリティ―仮想境界線の迷い人―』はどこに行ったんだ、ですってぇ?」


 彼女は扇子で口元を覆い、静かに笑う。その笑みは、まるで道に迷った者をあざ笑うかのようだった。


 不可視のウィンドウを指先でなぞりながら、彼女は懐かしむように語り始める。


「ふふ⋯⋯そうですわねぇ。あなた様の記憶の中では、こんな『甘い物語』でしたかしらぁ?」


 彼女が手をかざすと、虚空にホログラフィックの映像が浮かび上がった。その映像を見ながら、彼女は物語の解説員かのようにナレーションしていく。


「念願のVRマシンを手に入れ――仮想の東京へ無邪気に踏み込んだ高校生・悠斗。待ち合わせ場所に現れたのは、いつも無骨なアバターを使っているはずの親友『エリオット』――ではなく、可憐な金髪の美少女・エリスでしたわねぇ」


 彼女は呆れたように肩をすくめる。


「エリスの性別を偽装する幼稚ないたずらに翻弄されながら、彼らは平和な観光ごっこに興じておりましたの」


 彼女の瞳が、すぅっと冷たく細められる。


「――けれどぉ、空中散歩バードビューの直後、彼らの目の前で⋯⋯張りぼての『東京』は崩壊してしまいましたわ。他のノイズたちは消去され、残されたのは悠斗と彼女だけ。彼らはそれをバグだの、悪質なゲームの演出だのと疑っておりましたけれどぉ⋯⋯」


 彼女は、まるで哀れな赤子を見るような目で微笑んだ。


「おかしな話ですわよねぇ。全てが嘘で塗り固められたデジタルの地獄で、握った彼女の手だけは⋯⋯ありえないほど“温かかった”と、彼は認識したのですものぉ」


 彼女の指が、ログの特定の箇所で止まる。


「こうして、出口のない仮想世界という檻で、二人の決死の脱出劇が始まりましたわねぇ」


 彼女は、ふぅ、と艶めかしいため息をついた。


「圧倒的な絶望の前で、彼らは手を取り合い、必死に『目覚め』への道を探しましたわ。⋯⋯その結末は、光ある生還かしらぁ、それとも永遠の闇だったのかしらぁ⋯⋯?」


「このお話の続きは、この狭間の向こうで消えてしまいましたけれどぉ⋯⋯」


 語り終えた彼女は、ふっ、と優しく目を細めてウィンドウを消し去る。そこには、先ほどまでの冷笑ではなく、観測者への奇妙な慈愛と敬意が滲んでいた。


「⋯⋯でもねぇ、旅人さん。今語ったその物語は、紛れもなく、あなた様がかつてその目で視て、心で感じた『真実リアル』」


 彼女は自身の豊満な胸に手を当て、深く頷く。


「あなた様が彼らの痛みに涙し、その温もりに触れたならぁ⋯⋯その世界は、あなた様の記憶の中で永遠に『正史』として機能し続けるのですわよぉ?」


 空間が静かに振動し、世界が新しい色を帯び始める。


「そして――これからあたくしが紡ぐ『再構築リブート』」


 彼女が優雅に手を振ると、何もない空間に無数の光の粒子が集まり、一つの『扉』を形作られた。そこから漏れ出す光は、過去の物語とは違う、鋭く鮮烈な輝きを放っている。


「これもまた、もう一つの『現実リアル』なんですのよ」


 この世界のことわりそのものであるかのような女性は、妖しく、そしてどこまでも深く、飢えた瞳で見ていた。


「さあ、この扉を開けてごらんなさいなぁ。そこには、あなた様が知っているけれど、まだ知らない――境界線の向こう側の『リアリティ』が待っておりますわぁ」


〈To be continue to Virtual Boundary Chronicle〉

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