未完成なわたし

ゆきみまる

本文



 雨が窓を強く叩く音で目が覚めた。寝ぼけた頭のままカーテンを開ける。


 ——そこには、さっきまでの音が嘘のような青空が広がっていた。聞き間違いだったのだろう、と自分に言い聞かせ、大きく体を伸ばして朝の支度を始める。

 

 朝ごはんを食べていると、机の上のスマホがブルッと震えた。

 画面を見ると、お母さんから一件の通知が入っていた。


『おはよう。今日の予定は?』

『おはよー新しい参考書を買いに行くの』

『そう。気をつけていってらっしゃい。体調にも気をつけてね。』

 最近お気に入りのスタンプを添えて返信する。

『はーーい』


 一人暮らしを始めてからもう一年が経った。さすがに自分のことは自分でできるようになった。

 何かあっても、近所にお母さんの妹——日向さんの家があるから安心だ。


 一歩外へ出ると、ジメジメと肌にまとわりつくような湿気が全身を包んだ。雨は降っていないのに、空気はじっとりと重たい。無意識に足早になる。

 本屋に行く途中、枯れかけの紫陽花を見つけた。

 まだ五月下旬だというのに——その不思議さが胸の奥に小さな違和感を残した。


 買った参考書を片手に、いつものようにイヤホンを耳に差して歩く。

 その瞬間、前方を歩く猫がふと後ろ足だけで立ち上がった。それだけならよくある仕草かもしれない。でもその猫はそのまま背筋を伸ばして十数歩を歩いた。

 まるで人間のようだった。わたしは思わず目を疑った。

 いや、見間違いだろう。論理的にあり得ないのだから。

 けれど次の瞬間、猫はこちらを一瞥し、あの枯れかけの紫陽花に飛び込んで姿を消した。


——まるで「見たな。」とでも言いたげに。


 あの不思議な猫は何だったのだろう…。気づけば空は灰色に曇ってきて、これから雨が降りそうだった。鞄を探ると、雨傘が今日に限ってなかった。


「やっば…」


 走ったおかげか、雨が降る前になんとかアパートに着いた。階段をのぼり、曲がり角を抜けた時、部屋の前に立つ白髪の女が目に入った。


「すみません。何かうちに用があるのでしょうか…?」


 顔を見てわたしは目を見開いた。女の顔は九十代にも見えるほど皺だらけなのに、背筋はまっすぐ。

 後ろ姿は、髪を染めた二十代と言われても信じてしまいそうだった。

 わたしは気味が悪くて言葉を失った。


「あなた、蒼井涼夏?あたしは三崎鈴葉。現役の魔法使いよ。」

「………はい?」 


 論理的にあり得ない言葉にわたしは体を固めた。


「まあまあ、あなたが不信感を抱くのもわかっているわ。少しだけあたしの話を聞いて。」


 そこから語られたのは、現代社会では魔法の存在は国家機密であること。

 魔法使いの一族は数百年前に滅ぼされたとされていること。

 そして——日向さんの息子であり、わたしにとって従兄弟でもある、三歳の良奇が最後の後継候補であるという事実だった。


「良奇は命を狙われている。才能が開花するまで、あなたに守ってほしいの。」


 三崎の目は本気だった。魔法なんて信じない。信じられない。

 わたしは論理的にしか物事を考えられない。それに対して魔法は感覚的だ。

 それに…わたしには魔法使いの血は継がれていない。才能なんて初めからない。

 だけど、だからこそわたしが守るべきなんだ。良奇は才能を持っているから命を狙われている。才能のないわたしだけが、その盾になれる。

 守らなければ。良奇の命を。


 少しの沈黙の後、わたしは言った。


「…やります。」


 三崎は小さく頷き、分厚い本を渡してきた。表紙は紺色で、金色の文字が読めない字で刻まれている。魔法の入門書だという。


「まずはこれで、基礎の基礎からよ。できるだけ急いだほうがいい。」


 その夜から、魔法の練習が始まった。

 ページを捲るたび、読めない記号、見たことも聞いたこともない植物の図が現れる。そこに並ぶ呪文を何度も何度も声に出したが火花一つ起こらない。

 頭ではわかっていたが、才能がないとはこういうことかと痛感した。


 努力では届かない壁が目の前にある。


「もっと力を抜いて。魔法は理屈じゃない、感覚に身を任せなさい。」


 三崎は簡単そうに言う。感覚に身を任せる?そんな不確かなもので何ができるっていうのだろう。

 わたしはずっと、努力と論理でしか前に進めなかった。

 感覚なんて、信じられない。


 数日も経つと、寝不足が日常になった。授業のテーマは、文化祭の出し物についてだった。


「文化祭できるのも今年で最後だしー、楽しい思い出が作れれば良くない?」


 などという意見が次々と出る。

 寝不足で頭が重いまま、涼夏は心の中で毒づいていた。


『楽しければいい?目的が曖昧すぎる。もう少し論点を整理しなければまとまらない。話し合いになっていないし理解できない。』


 結局、担任が『また今度時間取るから』と言って話し合いは持ち越された。

 休み時間になって机に突っ伏していると、背後からヒソヒソと話し声が聞こえてきた。


『まただよあの子。細かく言い過ぎじゃない?』

『論理的、論理的って。私たちの気持ちを無視してる感じでなんかやだ』


 涼夏は聞こえなかったふりをした。


『…理解する必要なんてない。わたしは間違ってない。』


 そしてある日の放課後、図書室から帰って来て帰り支度をしていた時だった。机の中に一枚の手のひらほどの小さな紙が一枚入っていた。


『何も取り柄がないくせに』


 その言葉は、驚くほど静かに胸に刺さった。図星だったから、反論なんてできなかった。

 友達はいない。相談できる相手もいない。良奇を守るどころか、自分すら守れない。魔法もできない。


 ——わたしには何もない。


 やがて日常も崩れはじめた。勉強も集中できず、成績は少しずつ落ちていく。

 不安で眠れなくなり、寝不足が悪化していく。「良奇を守る」と誓ったのに、何一つうまくできないまま、何も守れないまま、時間だけが過ぎていった。


 練習を続けて一ヶ月が経った。毎日魔法の練習は欠かさなかったが、魔法は一度も成功しなかった。

 三崎はわたしの様子を見ても、助けてくれるわけではなかった。


「自分で努力して、つかまないと。意味がないのよ。」


 そう言うだけで、あとは台所でジャスミンティを飲んでいる。わたしは自分に対しての苛立ちと焦りを抱えたまま、また深夜まで本を読みふけった。


 その夜、部屋の隅にあった、小さな本棚の奥に手を伸ばすと、埃をかぶった古い日記が出てきた。一見すると見覚えのない模様。……けれど、どこかで見た気がする。

 めくると、青いインクでびっしりと文字が書き込まれていた。最初の数ページは魔法の修行記録。

 けれど読み進めるうちに、文章は暗く沈んでいった。


『守りたい人がいるのに、守れない』


『努力しても報われないのは、才能がないからなのか』


 そこに書かれた震える文字からは、悲しみの匂いが漂ってくるようだった。読み進めていくほどまるでわたしの今の日記を読んでいるようだった。

 しかし、その日記は突然、途切れていた。

 

 翌朝、ふと日記の表紙に刻まれた模様の正体に気づいた。三崎がいつも首から下げているペンダントと同じ模様だったのだ。

 問い詰めると、三崎はゆっくりと頷き、ぽつりぽつりと話し始めた。


「…そう。あの日記はあたしの息子のもの。元々努力家な子だったんだけど、才能がなかなか開花しなくてね。最後は、自分で命を絶った。」


 わたしは言葉が出なかった。この人の息子は、死を選んだのだ。

 わたしと同じ状況で。

 でも、わたしはそれが答えだと思いたくない。わたしはこの人の代わりに、一歩前に進もう。

 

 それがどんなに辛くて、どんなに怖くても。

 

 いったい、何度失敗したのだろうか。もう数えることすらできなかった。

 魔法を練習し始めてから三ヶ月が経っていた。失敗する度に、自分は魔法使いに向いていないのだと突きつけられている気がした。


 しばらくして、わたしは魔法を「感覚」ではなくて「論理」で捉えることにした。

 ノートに全ての失敗例を記録して、毎日条件を組み合わせては試す。まるで変数を入れ替えるように、呪文を組み替えていった。

 こうして自分に合った成功の形を導き出そうとした。


 そしてある日、指先に力を込め、冷静に頭の中に魔法式を思い浮かべる。


 ……ボッ…


 乾いた音と共に手のひらの中で一瞬だけ青い炎が出た。手のひらに残った熱を感じてようやく今起こったことを理解する。


「…できた……」


 今、確かに自分の魔法を使えたんだ。

 その音に気づいた三崎が慌てて駆け寄ってきた。


「今…感覚が少し掴めたのかい?」

「いえ。自分なりにどんな条件で魔法を使えば成功するのかを記録して、魔法を作り出したんです。」

「……」

「…?」


 恐る恐る見ると、三崎は目を見開いていた。


「もしかして…感覚魔法ではなくて論理魔法を使ったのかい?」


 論理魔法?そもそも魔法に種類があったことすら知らなかった。

 三崎はゆっくりと説明し始めた。


「魔法には二つの種類がある。ひとつは感覚魔法。臨機応変に魔法を変化させることができるが、才能や経験に強く依存する。そしてもうひとつが論理魔法。使い手はほとんど存在せず、情報もほぼない。……あたしも論理魔法を使う魔法使いは今まで見たことがない。」


 驚きと同時に胸が熱くなる。やっと魔法を少し使えるようになった。

 自分は論理魔法を武器として磨き上げればいいのだと、そう気づいた瞬間だった。 

 自分は血の継承を受けていないのだから、普通の感覚魔法を使いこなせるわけがないのだ、と改めて実感する。

 

 それから数日間、わたしは自分専用の魔法論理式を作り始めた。

 この時のわたしは、すでに敵が動き出していて、残された時間が少ないことを知る由もなかった。


 敵襲は突然だった。いつも通り、夜に三崎と魔法の練習をしていた。

 魔法の扱いに慣れてきて、手のひらで灯した炎を任意の物体に移らせるようになったばかりだった。


 ……空気が重い。


 気がつけば窓辺に駆け寄っていた。カーテンを開けた瞬間、視界いっぱいに巨大な竜巻が迫る。息が詰まる。

 耳を塞ぎたくなるような爆音、足元まで伝わる振動。


「もう来たのか…!予想よりも早い。この竜巻は良奇の元へと向かっている。あの子が攫われる…」


 三崎の顔色は見たことがないほど青ざめていた。


「おい…何をしている。早く行くぞ!」


 三崎の声で我に返る。わたしは全力で良奇の家へと走った。


 たどり着いた時、二階の窓は開いていて、良奇は見知らぬ長身の男に抱えられ、竜

巻の中へ消えようとしていた。


「誰…?良奇をさらって何がしたいの?良奇を返して!」


 男は振り向きもせず、渦の中心へと進む。


「待ちなよ…!」


 頭の中に魔法式を描く。


 ……ボッ!


 炎が生まれ、膨れ上がる。炎を竜巻に移らせると、竜巻に飲み込まれてオレンジ色の渦になった。

 渦が揺らぎ、消えかけた。その中に良奇を抱えた男が姿を現す。


「ほう…才能がないにしては随分と成長が早いようだ…。しかしいずれわかる。その炎は、やがてお前自身をも焼き尽くすだろう…。」

「……!」


 男は、一瞬でわたしが論理魔法を使っていることを見抜いた。


「………お前は…」


 いつの間にか背後にいた三崎が、驚いたような声を上げる。

 男がゆっくりと左手をこちらに向けた瞬間、強風が吹いてきた。男の位置や風の速さを読んでどのタイミングで攻撃が来るかを計算する。


『風速はおよそ…』


 咄嗟に受け身をとる。なんとか踏みとどまったが、肺が苦しい。これが本物の魔法使い。そう、嫌でも理解せざるを得なかった。


 ——うめき声が聞こえた。振り返ると、三崎が街灯に打ちつけられ、頭から血を流していた。


「あたし以外魔法使いはいないとばかり思っていた…。だから…戦闘なんて…久しぶりで…。体がもう鈍ってしまって…いるみたいだ…。」


 三崎の弱々しい声が耳に残る。

 その瞬間わたしの中で何かが弾けた音がした。良奇も、三崎も、守れなかった。敵にはかすり傷一つつけられていない。

 怒りと悔しさで頭は真っ白になり、わたしの中で感情が爆発した。論理なんて吹き飛び、ただ男に魔法を叩きつけようとした。


 ——バンッ…!


 白い閃光が走り、強い衝撃が襲ってきた。

 何が起こったのか理解できなかった。振り返ると、三崎が魔法の爆風に巻き込まれ、倒れていた。呼吸は浅く、意識もない。

 男は鼻で笑い、風の絨毯を足元に広げ、ふわりと宙に浮かぶ。

 

 追いかけなくちゃ。

 

 そう思って走りだした。強い向かい風がビュンとわたしの頬を裂き、呼吸は苦しく、足はズキズキと痛んだ。

 ゆらゆらと揺れる視界の端に見える男の髪や衣服は、全く揺れていなかった。まるで風が彼を避けているように。


 ——遠ざかっていく絨毯。伸ばした手は、虚しく空を切った。


 三崎の元へ戻り、改めて三崎の怪我の酷さに驚いた。急いで三崎に以前教えてもらった、魔法使い専用の病院というところに電話をかける。

 すると次の瞬間、目の前にすらりとした体つきの、顔を布で覆った女が現れた。


「その人が患者?」


 無機質で淡々とした声だった。目の前の状況が理解できず、何も答えずにいると、女がイラついた様子で叫んだ。


「どいて!」


 女は三崎を軽々と抱え、どこかへと消えていった。

 呆然としていると、電話口から『…すみませーん』と声がした。慌ててスマホを耳に当てると、電話の向こうから男の声がした。


『今、こちらの看護師がそちらに向かったと思うのですが…』


 さっき来た女は看護師だったのか、とようやく理解し、医者と名乗る男に状況を説明した。状況が変わったらまた連絡すると医者に言われて電話を切ると、どっと疲れが体に押し寄せる。

 家までの道のりが数時間のように感じられて、部屋のなかに入った途端、ふっと意識を失うように眠りについた。

 

 翌朝、目が覚めると床で寝ていたからか、身体中に痛みが走った。

 立ち上がり、学校の準備をしようと時計を見ると、すでに針は十時をまわっていて、口からはぁ…とため息が出た。

 今日は学校には行かず、家にいようと思った時、いつもより外が騒がしいことに気がついて重たい足を引きずるように窓に近づく。日向さんの家の周りに人がたくさん集まっている…。はっとして騒ぎの理由に気づき、急いで日向さんの家に向かう。

 

 日向さんの家についた時、人だかりの真ん中で日向さんが叫んでいた。


「良奇がいない!窓が開いてたのよ!」


 周囲の大人たちが慌ただしく駆け回る。足がすくんだ。

 

——昨日、あの男を止められなかったから。自分の弱さのせいで、良奇がさらわれた。助けなきゃ。でも、どうやって?


 言葉も出ずに、ただ騒然とした光景の端で立ち尽くすしかなかった。


 三崎が入院して一週間が経った時、三崎が目を覚ましたという病院から連絡があった。わたしは学校を休んで急いで病院へ向かった。

 病室に着いた時、三崎はいつもと変わらない姿でベッドに横たわっていた。


「あれ、来てくれたの。ごめんね迷惑かけてさ。」


 わたしは申し訳なさと不甲斐なさで、顔を上げることができなかった。わたしの魔法が未熟なせいでこうなってしまったのだから。

 しばらくの沈黙の後、三崎が話した。


「もう諦めていい。血の継承がされていないあなたに頼んだあたしが悪いんだ。」


 その言葉を聞いて胸がズキンと痛んだ。三崎もとうとうわたしに呆れたのだと。

 やっぱりわたしは何もできなかった。

 虚しさに耐えきれず、勢いよく病室を飛び出した。

 

 アパートまで走って帰る途中、電柱に貼られている良奇の行方不明のポスターをいくつも見かけた。その度に才能のない自分を恨んだ。


 部屋に着いた時、机の上に置かれた、今まで必死に失敗例を書き込んできたノートが目についた。早歩きで机に駆け寄り、そのノートを手に取る。

 表紙に黒いペンで太く書かれた「努力」という文字が太陽の光でキラキラと輝いているように見えて、ノートを強く握った瞬間、悔しさと悲しさが込み上げ、自然と涙が溢れてきた。


 男の声が頭の中でよみがえった——『その炎は、お前自身をも焼き尽くす』

 

 その通りだった。わたしの努力は結局才能には勝てなかった。もう諦めよう。


 握りしめていたノートを、涙で濡らしたままゴミ箱に投げ入れ、ベッドに飛び込む。

 睡眠も勉強の時間も削って積み上げてきた時間は、何だったのだろうか。

 無駄な時間だったのだろうか。

 一人に怪我をさせ、一人を攫われて、その家族を悲しませている。これが努力の結果なのだ。

 何の意味があったのか。自分と自分に魔法を教えた三崎を責め続けた。


——結局、努力は才能には勝てないのだ。


 起き上がって、部屋にある魔法の道具一式を段ボールの中に片付けようとしたときだった。机の中から「あの古い日記」が出てきた。

 ペラペラとめくっていくと、最後のページに折りたたまれた紙が挟まっていた。 


 そっとめくると、そこには日記の文字とは違う、別の継承者による文字が並べられていた。


『才能はない。何もできないのに、何かを守ろうとしている自分が嫌』


 紙には自責の念と絶望の言葉がびっしりと綴られていた。自分と同じ境遇に遭っている人が過去にもいたのだ。わたしはその文を夢中で読み進めた。


『未来にわたしと同じ道を歩むものがいませんように。』


 そう、文の最後には書かれていた。

 この人は多分、才能のない自分に絶望して諦めてしまったのだろう。


 そこでわたしはふと思った。


『わたしも、この人と同じように才能がないからって諦めていいのか?その人の思いも背負わなければならないのではないだろうか。それがわたしの役目なのではないか?』


 最後に少しだけ頑張ってみよう、と覚悟を決めて段ボールにつめた魔法の道具を机に置く。

 三崎がいない今、自分に何ができるのだろう。

 

 そうだ、もう一度だけ、「感覚」での魔法をやってみよう。


 入門書を片手に、魔法をイメージして呪文を唱えた。しかし、火花一つ起きなかった。やはり、自分には論理魔法しかできないのだ。

 冷静になって、頭の中に魔法式を描く。描いていく途中、段々と『悲しい』『不甲斐ない』『苦しい』というような感情が溢れてきた。


『まずい。また爆発してしまう。止めなければ——』


 感情を抑えようとすればするほどどんどん出てくる。そこで思いついた。感情を溜めずにどこかに逃したり流したりする場所はないのか、と。        


 そして、論理で組み上げてできた自分の魔法に、素直に感情を流し込んでいった。目を開けると、空中に大きな水の粒が浮いていた。わたしは目を見開いた。


 今、自分はどうやって魔法を扱ったのか?わたしは、自分で水を作り出せるようになったことに嬉しくなった。口からは自然と笑みが溢れていた。

 

 そこからは夢中で新しい「自分流の魔法」を磨いた。三日ほど鍛錬した後には、出す水の量や状態、水をどこから出現させるか、などを自由自在に操れるようになっていた。


 良奇を攫われてから二週間が経ったとき、三崎が入院している病院に電話をかけた。すると次の瞬間、あの看護師の女が目の前に現れた。


「今度はなに。あなたが患者って感じではなさそうね。」


 淡々とした声で呟く女に『あなたの瞬間移動の魔法を使わせてほしい、敵のアジトに移動させて欲しい』と頼むと、女は少し驚いた顔をして言った。


「へぇ。折れたのかと思った。」


とニコリともせずに言うと、


「いいわ、移動させてあげても。あなたの従兄弟さん…?を助けに行くってことね。やられてもこっちは助けに行かないから。」


 といつものように淡々とした声で言った。

 その女が地面に円を描くように手を動かすと、地面に小さな円が現れた。その上に乗れと言うようにその女が合図をしてくる。

 心の準備をして、そっと円の中に足を踏み入れると、泥の中に足を踏み入れたかのようにどんどん体が沈んでいく。

 後少しで体全体が円に飲み込まれそうになった時、頭の上から声が聞こえてきた。


「良奇を頼むよ、涼夏ちゃん。あなたならできる。」


 聞き慣れた声にはっと顔を上に上げようとしたが、すでに体全体が円の中に飲み込まれて身動きが取れなくなっていた。

 だが、その言葉はわたしの胸にしっかりと残り、良奇を助けるという勇気に繋がった。


 わたしは気づけば森の中に一人で立っていた。

 森の中はザーザーと小雨が降っていて、気持ちが良かった。その気持ちよさにしばらく身を委ねようとしたとき、自分がここにきた理由を思い出し、アジトを見つけ出そうと周りを見渡した。


 すると、すぐ近くに小雨が降っているにも関わらずその周辺だけ全く濡れていない家を見つけた。直感的にわかった。

 これが敵のアジトなのだと。

 走ってその家の前まで行こうとした時、ゴオオッという、聞き覚えのある爆音と共に目の前に竜巻が現れた。


「ほう…今度は自ら来たのか…懲りないな。」


 と竜巻の中からあの男が現れた。そしてまた左手をゆっくりとこちらに向けると、男が強風を発生させた。前回の時と同じ計算方法でうまく攻撃をかわすと、男が感嘆の声をもらした。


「前回よりも成長している…。やはり若い芽は早く摘んでおかなければ…。」


 そして、意味深な笑みを浮かべてわたしに向かって言った。


「君にだけ教えてやろう…。あの女の言う通り、あの女以外にも魔法使いは残っていたのだ。そう、この私が。私はかつて、魔法の世界で『感覚派の頂点』と呼ばれた風の使い手だ…。後継を全滅させることで私だけしか魔法使いがいない、私が最強という構図ができるのだ…。君は私にとって邪魔だ…。消えてもらいたいものだ…。」


 そう言って、その男が両手を掲げると森中が震えるような轟音を立てた。

 そして男に四方八方から風が集まり、巨大な球ができた。男はにこっと不気味な笑顔を浮かべてその風の球をわたしに向かって投げつけた。


 次の瞬間、その風の球はわたしの髪一本揺らせずに爆音を立てて散った。


 わたしの周りにある、氷でできたシールドによって。


 あの男が長々と話している間に「自分流の魔法」を使って作っていたのだ。

 散っていく球の破片の隙間から、笑みが消えていく男の顔が見えた。


「どうやってそのシールドを作った……。防御魔法は論理魔法では作り出せないはずだ。できるとしたら…未だかつて成功者のいない…融合魔法…?」


 男の顔から血の気が引いていく。融合魔法?その名前の魔法があったことを知らなかった。とにかく、この「自己流の魔法」の名前は融合魔法というらしい。

 頭に魔法式を描いて、炎が生まれる。その炎で氷のシールドの一部を溶かして穴を作った。そしてまた頭に魔法式を描き、『怒り』『寂しさ』などの自分の感情を慎重に流しこむ。

 そして精一杯の憎しみを込めて、最初で最後の攻撃という気持ちで男に魔力をぶつけていった。


 男は風を集めて嵐を巻き起こし、抵抗しようとしたが、わたしの作った魔力に耐えきれずに吹き飛ばされていった。


「勝てた…ほんとうに?」


 小さく呟くと、ようやく実感が湧いてきた。

 わたしが費やした時間は無駄ではなかったんだ。そう喜んでいたが、良奇が周りに見当たらないことに気づいた。

 

 わたしは急いで敵のアジトに入り、良奇を探した。すると、二階の屋根裏部屋で良奇が横たわっているところを見つけた。

 慌てて駆け寄ったが、良奇は静かに眠っているだけで傷一つつけられていなかった。


「良かった……。」


 と安堵したその瞬間、すぐ近くの窓が割れた。そこでわたしは気がついた。

 先ほど男が吹き飛ばされた瞬間に、わたしがこの場所につくことを見越して屋根裏部屋に魔法をかけておいたのだと。


 ——そして良奇もろともわたしを殺す気なのだ。


 割れた窓から爆音を立てて竜巻が脅威的な速さで襲いかかってくる。

 

 どうやって魔法式を立てるんだっけ。

 どうイメージすれば感情を流し込めるんだっけ。

 

 焦ってわたしはどの魔法も作り出すことができなかった。竜巻が目前に迫ってくる。


 もうダメだ。この場所でわたしは死ぬんだ。


 その瞬間だった。床が抜けたように、体が急にズンと落ちた。

 わたしは驚きのあまり目をギュッとつぶって良奇を抱きしめた。


 しばらくすると、誰かに包まれているような温かさを感じた。そっと目を開けると、目の前には目にいっぱいの涙を溜めながらわたしと良奇を抱きしめる三崎とあの看護師の女がいた。


「あなた、よくやったね。頑張ったよ…。」


 勢いよくわたしの頭を撫でる三崎の顔は喜びと誇らしさでいっぱいのようだった。この病院にいる理由がまだ理解できなかったわたしは、キョロキョロと周りを見渡していた。

 その時、視界の端に映る看護師の女がふふっと初めて笑った気がした…。

 


 三崎は他人の視界を共有できる魔法の持ち主で、たまたまわたしの視界を共有していた時、竜巻が迫っているのを見て、看護師に瞬間移動を頼んでくれたのだという。

 

 良奇は魔法使い用の病院で多少の治療をしてもらった後、寝ている間に三崎が魔法で、良奇を日向さんの家のベッドに帰らせてあげた。次の日の朝は日向さんの家の周りがまた騒がしくて、今度は良奇が急に帰って来たことで日向さんが騒いでいるようだった。

 

 自称『風の使い手』の男は、良奇を病院に送った後、三崎がもう一度アジトへ行き、気絶していたその男を、回収したそうだ。男がその後どうなったのかは恐ろしくて誰も聞けない。



 そして、良奇にとって危険な存在がいなくなった今、わたしが魔法使いとして存在する理由は無くなった。


「ありがとう、蒼井涼夏。後はあたしがやろう。これからは残り少ない学校生活を楽しめ。」


 これまで自分にのしかかっていた重い責任感から逃れることができ、わたしは喜べるはずだった。しかし、わたしに残ったのは論理的に説明できない、どこから来たのかわからない、『寂しさ』だった。

 わたしが何も言わずに顔を俯かせて立っていると、三崎がわたしの顔を覗き込むように、呆れた顔で言う。


「はぁ…まだやりたいなら、そう言えばいいのに。あなたは血を受け継いでいないから、正式な魔法使いには残念ながらなれない。でも、良奇に才能が芽生えた時、良奇の最初の『師』として傍に残ることはできる。どうだ?」


 あぁ、そうか。論理的に説明がつかなくても、わたしのこの気持ちだけを根拠に行動していいんだ。

 


 そして満面の笑みで叫ぶ。


「はい!そうさせてください!」


 良奇を取り戻す戦いに勝ってから二ヶ月が経った。今日は文化祭の日。

 みんな、今日のために毎日たくさんの努力をしてきた。担任の声掛けを受けてみんなで円陣を組む。


 すると、円陣で隣になった子がこっそりとわたしに呟いた。


「蒼井さんさ、最近私たちの意見ちゃんと聞いてくれてて嬉しいってみんな言ってるよ。」


 そう思われていたのか、と少し驚いた。


「論理的に生きるのもいいけど、感情で生きることも大切なんだって気づいたんだ。それと、別に何か才能がなくても努力すればなんとでもなるって。誰かの役に立てるんだって。」


 わたしが答えたことに驚いたのか、隣の子は少し間が空いてからクスッと笑った。


「そうなんだ。じゃあ、今日一緒に頑張ろうね。」


 円陣の掛け声がかかる。


『せーの…!』

「オーーーーッ!!」


 みんなの声が一つになって、教室の中が熱気で満ち溢れる。隣の子と笑い合いながら、わたしも声を張り上げる。



 ——もう一人じゃない。きっとこれからも大丈夫。

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