第7話 【前編】睡蓮

 写真立ての前にある木箱には、陶器の破片が入っている。


「行ってきます」


 あの頃の笑顔のまま、時が止まった彼女に声をかけた。


***


 最初は上手くいっていた。


 まんまるの目が細くなる笑い方が好きだった。背が小さくて、彼女のつむじが見えるたびに愛おしく思った。


 だけど、同棲してから喧嘩が増えていく日々。


「なんでちゃんとやってくれないの!」


「ごめん、だけど」


「言い訳ばっか!もういい!!」


 その頃は仕事量も増え、疲れが溜まっていることもあり、自分のことで精一杯だった。

 今では言い訳にしかならない。


 もっと彼女を大切にできていれば、こんな結末にならなかったはずだ。


「・・・・・・行ってきます」


「・・・・・・」


 その日も喧嘩の気まずさからなのか、彼女は挨拶を返してくれなかった。


 玄関を出たが体は重い。


「俺も悪いけど、君だって・・・・・・」


 そう呟いて、ため息を吐く。

 こんな気持ちではダメだと頭を切り替えて、会社に向かった。


 それから午前中の仕事も終わり、やっと昼食が取れると肩を回していた時、名前を呼ばれた。


「・・・・・・青葉さん、少しいいか?」


「え?は、はい!」


 誰もいない会議室に呼ばれ、上司から言われた言葉を理解できなかった。


「落ち着いて聞いてくれ。警察から電話があって——」


 彼女が事故にあい即死したという話だった。

 事故にあった際、直前に電話をかけていたのが俺なのだという。


 ハッとしてポケットにあるスマホを見ると、確かに彼女から電話が来ていた。


「あ、でん、わ、ありました・・・・・・」


 一瞬意識がなくなり、何かにぶつかる。


「無理するな!・・・・・・仕事はいいから、帰ったほうがいい」


「・・・・・・は、い」


 その言葉に甘え、家に帰ったが記憶がない。


 鍵を開け、彼女のいない部屋に入ると呼吸が荒くなっていく。信じられるわけなかった。


 酷い夢を見ているのではないか、誰かが嫌がらせをしているのでないか。そんな希望的観測をしてしまう。


 リビングの明かりをつけてから固定電話が光っていることに気づいた。留守番電話のメッセージを聞く。


 ピッー


『もしもし、突然のお電話、驚かせたと思います』


 その声に聞き覚えがあった。

 一度だけ会ったことのある、彼女の母親からメッセージが残されていた。


『あなたが家に帰る頃には、あの子が、事故にあったと伝わっていることでしょう』


 事故、その言葉に苦しさが増す。


『・・・・・・どうか気を強く持って、ごめんなさい。それだけ伝えたくて、失礼します』


 俺なんかより辛いはずなのに、気を遣って言葉をかけてくれた。あの優しい笑みを思い出す。


 背筋がまっすぐで、仕草から品の良さが分かる人だった。緊張する俺に穏やかな雰囲気で迎えてくれた。


 その時、心の中で幸せにすると決めたんだ。

 彼女の笑顔を横から見て、今この瞬間が続くように強くなろうって。


「・・・・・・ごめんっ、ごめんっ!!うっ、ああっ、ああっ!!」


 幸せにしてあげられなかった。喧嘩ばかりで、守るだなんて口先だけだった。


 そう後悔しても、別れというのは必ず訪れてしまう。


 彼女とまた会えたのはそれから3日後。


 喪服を着て、列に並んでいる。

 最後に花を添えるため、棺桶に一歩ずつ近づいていく。


『また行きたいね、水族館』


『このナポリタン、美味しい!』


『大好きだよ』


『おかえりなさい』


 ただいまって言いたかったな。


 そう思った瞬間、堰き止めていた何かが崩れて、涙が溢れて止まらない。


 順番が来て、目の前に立った時、抑えていた声を我慢できなかった。


「・・・・・・うっ、あ、ああっ!」


 花じゃなくて指輪を送りたかったよ。

 何度も何度も後悔しても、自分を責めても、彼女は瞼を上げない。


 立っていられず、スタッフに支えられながら椅子に戻る。泣き続けていたら、肩を優しく叩かれた。


「・・・・・・す、すみませっ」


「お久しぶりね、青葉くん」


 顔を上げた先には、彼女の母親が眉を下げてこちらを見ていた。

 いつのまにか、式は終わっていた。


「ありがとう、来てくれて。・・・・・・あなたにこれを渡したかったの」


 差し出してきた茶色の紙袋。

 中を見るとマグカップが入っている。


「こ、れは?」


「あの子が買ったマグカップよ」


 彼女はマグカップを買いに事故当日、出かけていたのだと話してくれた。


 二人で買った思い出のマグカップ。


 些細なことで喧嘩に発展し、割れてしまったマグカップを買いに行ってくれてたのか。


「あの子があなたに買ったものだから、どうか持っていて」


「あ、ありがっ、ありがとうございますっ」


 泣き続ける俺の背中を涙ぐみながら、彼女の母親はさすってくれた。


***


「おはようございます」


「おはようございます!」


 あれから二年が経った。

 今も彼女との思い出に縋るように、水色のマグカップを使っている。


「九時半からの会議って、持っていくのはPCだけですか?」


「ええ、PCだけで大丈夫です」


 ずっと時が止まったまま、俺は毎日を過ごしている。


 部署を移動し、彼女の死から目を逸らすように仕事にのめり込んだ。


 蓮野さんに出会ったのは、事故から一年後。


「蓮野と申します。これからよろしくお願いいたします」


 まっすぐ前を向く瞳とは裏腹に、どこか空白を見ているような印象だ。

 俺は拍手をしながら、そんなことを考えていた。


「青葉さん、担当する業務を少しずつ教えてあげて欲しい」


「はい、分かりました」


「よろしくお願いします」


 緊張した面持ちで、頭を下げる彼女に仕事以外で話すつもりはなかった。


 教えるとスポンジのように吸収し、分からないことは質問してくれた。

 根が真面目で素直な性格なのだろう。教える立場としても、教えやすい。


「ここまで、分からないところはありました?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 ひたむきな姿に、交わす言葉が多くなっていく。


 人当たりは良いのに、どこか孤独を感じる横顔が放って置けない。

 彼女の笑う姿が多くなるたびに、距離が近づいているのが嬉しかった。


「青葉さん、久しぶりだね」


「お久しぶりです」


 エレベーターに乗り合わせたのは、部署を移動する前にお世話になった人だ。

 あの時は迷惑をかけてしまった。


「・・・・・・良かったよ、顔色も良いね」


「すみません、ご心配をおかけしました」


 背中を軽く叩く上司の顔は安堵していた。別の部署になっても、気にしてくれていたことが分かる。


「実は、あの時の君は見ていられなかった。けど今は、とても良い顔をしている」


「良い顔、ですか」


「うん、前を向けているのは良いことだ。安心したよ」


 俺は前を向けているのか。

 思い出せば最近、家にいてもふと蓮野さんを考えていることが多くなった。


「俺は五階だから、じゃあまた」


「はい、お疲れ様です」


 エレベーターのドアが閉まっていく。

 何か大事なものを忘れている様な感覚に襲われる。大きな塊がボロボロと崩れていくような。


「あの、降りますか?」


「あっ、すみません!降ります!」


 慌ててエレベーターを降りる。


 一瞬、考えてしまった。

 俺は彼女を忘れようとしているのではないかと。


 そんな不安を抱えながらも、蓮野さんと話すたびに何かが満たされていくのを感じた。


 一年も経てば、彼女が真面目で面白いことが好きな人だと分かる。突飛なことを言うし、新発売のお菓子を勧めてくることもある。


 普段、甘いものは食べないが蓮野さんに勧められると一つもらってしまう。


「このチョコレート、美味しくないですか?」


「ん、美味しいですね。コーヒーに合うと思います」


 貰うばかりで、何かあげれるものはないか探すと、取引先でもらった桃の飴が出てきた。


「すみません、今これしかなくて」


「全然!ありがとうございます!」


 彼女にすぐお礼できるように、初めて色とりどりな飴を袋で買った。


「はい、どうぞ。いつも美味しいお菓子、ありがとうございます」


「ありがとうございます!へえ、マンゴー味もあるんですね」


「ああ、今は色々な味がありますね」


 面白いことが好きな彼女だから、マンゴー味をあげようと思ったけどやめた。なんとなく無難なリンゴ味を渡した。


 ポンッ


 突然鳴った破裂音に体が止まる。


「え、なにを」


「あれ、知りませんでした?これ飴の両端を摘むとポンッて、飛び出てくるんですよ!」


 揶揄うわけでもなく、子供のように無邪気に言うものだから、笑いが込み上げてくる。


「・・・・・・ふ、ふふっ、そ、うなんですね!」


「え、なんで笑ってるんですか?」 


 不思議そうに人間を見る猫のようで、本当に、本当にかわ——


「・・・・・・いえ、すみません。教えてくれてありがとうございます」


「はい、青葉さんも試してみてください」


 その先の言葉は続かなかった。

 俺も無邪気でいられたら、どれだけ良かったか。


『けど今は、とても良い顔をしている』


 何故いま、上司の言葉を思い出したのか分からない、分かりたくなかった。


 ***


「ただいま」


 家に帰ると真っ先に彼女に挨拶する。


 彼女を失って二年の月日が経った。短いようで長い気がする。


 木箱に入っているマグカップの破片は、俺が彼女の恋人であった証。


 家族でもない人間が彼女の一部を持つなんて、烏滸がましい。守れなかったくせに、持ちたいなんて言えるわけがない。


「今日は面白い飴を買って——」


 だから、自分を誤魔化して生きていくしかなかった。


君がいた日々が薄れてるとしても。

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死んだら上がるコイノボリ 毒舌アザラシ @hygx4bcjr

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