呉萠妃――合唱部にて
音楽室に入ると、
自然と低音が上手、高音が下手という四部混声の合唱の並びを取っている。歌っている当人たちから見て右端に立つのは、各パートのパートリーダー達だ。
萠妃も中央やや下手に立つ。立ち位置としてはアルトの1年生に混ざるくらいのところだ。
独唱としての歌唱力は、10歳の時から歌劇団受験専門の先生についてもらってレッスンを積んでいる。
だがここで習う発声、および合唱部員としての参加は週に2度ほどで、あまり積極的とは言えない。合唱部に籍をおいているのも、空き時間に大山先生や自分の夢を知るピアノを弾ける同級生に頼んでソルフェージュなどを使って新曲視唱の特訓をしてもらえるからだ。
歌劇団音楽学校の受験の場合の新曲視唱とは、数小節の短い楽譜を渡されて30秒ほどで暗譜し、その場で音程リズムともに正確に歌うというものだ。
集中力と短期記憶と音感、リズム感を問われる音楽の頭脳スポーツのようなもので、とにかくこれは繰り返し練習していかなる状況でも冷静に集中して覚え、自分の声で正確にアウトプットする力が求められる。
それには長年世話になっている歌唱指導の先生の元にいるだけではなく、環境を変えて違う人を相手に練習を積むのも必要になる。そのために合唱部の末端に籍を置かせてもらっているのである。
また萠妃の場合、今春の音楽学校受験が中止になった腹いせに、演劇部にも顔を出すようになった。本格的な入部届は出していないし出すつもりもないが、発声練習やストレッチ、インプロやエチュードのような舞台上での即興稽古に参加させてもらっている。
これは今年来年と、もしも歌劇団の音楽学校入学が果たせなかった場合、首都の舞台芸術系学科のある大学への進学を意識したものでもある。
首都には大きなミュージカル劇団もある。だがこちらは、ダンス、歌唱、そして演技が全てパート分けされており、すべてを修めた上で舞台に立つという歌劇団のスタイルでの出演は難しい。
それにただでさえ萠妃は一般女性としてはやや規格外な体格をしている。背が高いのだ。身長で174センチある。
女性だけの歌劇団の男役としては理想的だが、普通のミュージカルで女性役をするにはいささか大きすぎる。
実際、合唱部で並んでいると萠妃だけ悪目立ちしているかのようにひょこっと頭が飛び出ている。
ヒールのある靴を履いた子と並んでもまだ背が高い。下手をすると合唱部男子の平均身長よりも高いかもしれない。
顔のつくりは元女優の母親と目鼻立ちのくっきりした父親のいいところをもらえた。髪はうなじが隠れる程度に伸ばしている。このくらい無いとバレエレッスンの時にシニヨンを作りにくいからだ。
校則では許されているが、ピアスを開けたり髪を染めたりはしていない。
合唱部の他の部員らはそうでもない。
長い髪を亜麻色に脱色している子、目頭に近い鼻梁の上端を左右に貫くようなブリッジと呼ばれるフェイスピアスを開けている女子もいれば、ターコイズブルーのインナーカラーに髪を染めたウルフカットの男子も居る。
服は全体的に、安上がりに抑えようとした黒系統の地味めの子や着古した感のあるデニムスタイルの子が多い。
薔舎の合唱部では地味な服装の子ほど歌唱力が高い傾向がある。
それぞれ個人で音大の声楽科などに入るためのレッスンを受けており、そのレッスン料のために服や髪への出費を抑えているせいだ。
そういう意味で言えば、萠妃も似たようなものだった。
服はバレエ用品とブラジャー以外は安い古着かファストブランドだ。
小遣いもお年玉以外もらったことがない。というより、長年歌唱とバレエという高額な習い事の二刀流のために、月額の小遣いを受け取ったことがない。
むろん財布にもキャッシュレス決済用の口座残高もある程度お金は入っている。だがそれらは日用品や必要品やお使いなどで使うたびに後で親にレシートを渡して出費分を補填してもらっている。
誕生日とクリスマスのプレゼントは母と祖母との3人分の歌劇団の観劇チケットにしてもらっている。
父も、今でこそ三代続いたホルモン焼肉の家業を継いでいるが、両親はともに子供の頃は親に夢を反対され、実家を出てからようやく自分の夢を追うことが叶った人達だ。
そして結婚して子供ができるまでエンターテイメントの世界で生きた人たちでもある。
だからこそ、萠妃が子どもの頃に抱いた無邪気な夢をまっすぐに追うことを許してもらえているのだと思っている。
できることなら、実現という形で応えたい。
そのために今できることならなんでもするつもりでいる。それが成し遂げられる程度には恵まれているはずだと信じている。なにより自分は幸運だと思っている。
今の世の中、夢も自己肯定感も持てず、ただ眼の前の、そして頭の上を飛ぶ軍用機が示唆する暗い将来におびえて生きている子の方が圧倒的に多い。
だからこそ、自分はそういう人の心を照らす舞台の上で輝ける人にならなければならない。
萠妃はそう考えていた。
……発声練習が済むと、各自楽譜の収納棚や持ち物のカバンのもとに向かう。萠妃も、自分のカバンから授業用に使っている11インチサイズのタブレット端末を出した。
これから歌う曲の楽譜は、タブレットに楽譜用アプリを介してダウンロードしてある。
基準音が鳴らされ、無伴奏のままアルトとバスのピアニッシモという低声部から曲が始まる――。
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