ぼくには見える
1
俊照は自分の身体がよく判らぬモノにも思えていた。身体は人間でも、本当は違う何か。
「ぼく、男だよね、ママ」
楓が買い物袋から俊照の大好きなプリンを取り出そうとした時、サラっと聞き捨てられない発言が耳を小突いた。
「え?としくんは……もちろんよ」
母として当たり前に息子の言葉の返事をする。俊照が二〇一五年の春に生まれた日からずっと男の子として共にいたのだから。
「本当かなぁ」
時々、俊照は妙な発言を漏らす時があった。
それは幼稚園に上がる頃から始まった気がすると楓は思い出してみた。不思議な声が聞こえるとか風の中に神さまがいるとか、そんな神秘的な話を次々と喋って、親戚たちをも困らせた記憶。だが、本人はなんのおかしい事ではないよと微笑んでいたっけ……。
「あ、そうだ」
楓は一つ、明日の用事を閃いた。大切な息子の用事。
「明日、こころの病院だよね。緊張する?」
「うん。でも……」
「でも?」
ーーゆうれいが見えるとか、そんな事いっちゃダメだよね。
2
二〇二五年七月十二日 午前十一時十八分
相馬こころクリニック 待合室
俊照は思っていたよりも綺麗な病院だと安心していた。笑顔のある受付のナース、明るくほんのり暖色のライトが昼の現在でも受付窓口にポツリ点灯しており、いかにもこれから心の中を診ますよ、と医師に言われているように感じられる。他の患者の様子も老若男女問わず十名ほど、広々とした待合室のソファにもたれかかっている。
この病院に来るまで、なかなか朝起きない俊照の寝顔と、やや強ばった身体は楓の心をチクリと不安にさせたが、何とか九時前に起きて「おはよう」と言ってくれたので、眠い目をこすりながらでもこのまま無事に心の安定を図れたらと想いを一つにしていた。幽霊が見えるなんちゃらの話は一回目の診察でどんなドクターなのか知ってからでも遅くはないと楓は思った。ママ友の
ネットで今回の院長である
小さな子供が診察室に入っていく姿が目に映った。まだ小学校低学年だろう。こんな小さな子でも、社会の荒波に立ち向かって歯を食いしばっている。楓は負けていられないと、『社会』という姿なき化物を見つめるように窓の外を眺めた。国道が歩道を挟んですぐ前にあり、大型トラックが一台ガタガタと地割れのような音を立て通っていくのが見える。ふとその後に俊照の方を向くと、ソファーに深く座り、両手を膝の上におき、完全に目の色は黒く塗られた具合に受付へと集中している。
「ちょっと疲れた?」
楓が静かに声をかけると「ううん」とだけ一言返して「トイレはどこ」と、次は立ち上がった。
受付の前を横切り、長い廊下を少し進むと男子トイレが俊照の目に飛び込んできた。
幸い、トイレの位置は待合室から楓が顔を覗かせればすぐ確認できる一本道のため、黙ってその背中を見守る。ただ、俊照の場合は鏡一つでも、たまに怖がって震えだす時も最近あり、心配が胸を覆った。
……大丈夫かしら。いや、大丈夫。
ただ、あの子はやけに不思議な瞬間がある。
三日ほど前にも、アパートの近くの公園でサッカーボールを蹴って遊んでいた時、風もないのに独りでにボールが俊照の方に向かって転がっているのを見たのだ。
あれは、風とも違う大きな念の力が加わっていたとしか思えない奇怪な動きだった。俊照は「ありがとう」と空中に向かって言うと、何事もなかったかのように、またサッカーに夢中になっていた。この疲れた頭がそう見せているのだと、日頃の疲労のせいにして、それ以上考えないようにしていた。
だが、この子の周りで赤ん坊の頃からそういった出来事、いわゆる……霊的な?いや、ナゾめいた神秘性といった方がいく分安心だろうと楓は努めて『神がかり』なミラクルのほうに持っていこうとする心理が働いた。一番記憶に残っているのは、俊照が五歳の頃だ。
まだ耕助と三人で前のアパートに暮らしていた時。あれは昼だったか、畳の押入れ部屋に一人で立っていて、まるで直立不動の石像みたいな様子でいたのを見た際はゾッとしたものだ。後ろ姿で、俊照の眼の前には置きっぱなしの掃除機が壁に立てかけられているだけの殺風景な一室。
「どうしたの」と声をかけて、初めて魔法が解かれたというのか、そのまま何事もなく昼ご飯のチャーハンを食べていたのを憶えている。そして、その夜。閉めているはずの例の部屋、俊照のジッと立っていた部屋から、まだ幼い声で「フフフ」という笑い声が響いた。もう楓しか起きていない午後一〇時頃。夜の襖の向こうで、俊照は昼に何を見たのだろうか。そんな昔を回想していると、俊照はトイレから帰ってきて廊下を歩いているのが見えた。
怯えた様子はない。いつもの様子だ。
その時、ちょうど玄関入口の自動ドアが開き、若い男女二人が入ってきた。
「だから大丈夫だって!ほら!」
恋人同士だろうか。二十代前半といった二人はどちらも青いスウェット、綺麗とは言い難い格好で、男の方は声を荒げていた。
女は、見るからに痩せ細っており、顔が痛々しくこけている。強気な男に押される形で入ってきた表情は、ゾンビのように黒い悲愴で満ちていた。男は元気そうな笑顔をややオーバーに見せ、二人は受付のナースと予約の確認をしている。
その男女を見た、前方のソファーに座っていた一人のお婆さんが「気持ち悪い」とボソッと呟くと、咳をして立ち上がり、一番端の空いているソファーへと移った。
お婆さんは目をギョロッとさせ周囲を落ち着かなく見渡すと、男女の顔を睨み、「イシガサ」、と訳の分からない言葉を口にし、俯いてしまった。
……イシガサ?
何の事だろう、と楓は、しばらくその四文字に聞こえた謎の発音について考えていた。
3
院長の相馬総司は微笑みながら明るい態度で俊照の顔を見つめた。診察室は完全個室になっており、密室には院長、母と子のみが対面していた。相馬が写真で見たより恰幅のいいにこやかな年配の先生だったので俊照は安心したが、自分の抱えている内容を半分も話せないなと思った。
「現在学校には通われていないんですね」
言葉にすれば厳しい現実だが、相馬の優しく落ち着いた口調のフィルターにかかるとそれは解決可能な問題に思えてくる。しかし、俊照が三ヶ月前から学校に通わなくなったのは大きな予感が彼を襲ったからだった。
……学校の給食室で、黒いゆうれいを見たんです。
腹の底で、俊照はその目撃した日から自分が過呼吸気味になってしまう症状を、しばらく目の前の医師に伝える事が出来ないでいた。言ってしまえば、自分が頭がおかしい子なのだと思われてしまう。そんな気がした。だから彼はオブラートに包み、やんわりとこう言い直した。
「学校の給食室で変な上級生に腕を掴まれてそれから……」
一旦、俊照の口が止まって、相馬はふと顔をこわばらせた。
「か……過呼吸になっちゃったんです」
そう言い終えると同時に、身体の震えが襲った。体内から強い警告がなされているような不安の波。給食室で見たモノの正体は、黒い姿をしている大人の背の、長い髪をしたオンナだったとハッキリ憶えている。口にしてしまうのは絶対に避けたかった。
「それは怖かったね。呼吸、辛くなるのも無理はないよ。君みたいな子は沢山この病院にも来ているんだよ。ちゃんと対処すればよくなるからね」
相馬の言葉には父の影が重なる。今となってはシングルマザーの楓にだけ抱えられた俊照は、本当は父の姿もいつも求めていた。サッカーをしている時も、違う男の子が親子そろってサッカーをしていると、決まって泣き出してしまうのだ。涙が止まらなくて、ふと顔を空に見上げると、不思議な風が吹いた。
身体の全てを持ち上げて、どこかへ連れて行く勢いの強烈な風。だがその時は全く風なんか吹いていなかった。こういった風を、ある日を境に俊照は感じるようになった。
まだ四歳の頃、ちょうど暑い季節。
扇風機が回っていた風景が鮮明に思い出される真夏の午前。
楓の祖母の光恵の葬場に、当時二〇一九年夏、俊照も参列していた。
まだ死という概念が朧げな幼年期に光恵の遺影を祭壇の中央に見た時、この世とあの世が地続きで存在しており、いつでも夢の中で会える仕組みになっていると俊照は解釈していた。そのため、まだお化けになった光恵がそこらへんをうろちょろして、話しかけてくる可能性もあるといったファンタジックな誤解を持っていて、陽気に踊ってみたり、「また会えるよ。大丈夫だよ。ママ」と楓にも元気づける意味合いで笑っていた。
楓はその子供特有の明るさに不謹慎ながら救われ、葬式の重さを乗り越えた。しかし俊照は陽気な心境と対極にある、海の底に手を伸ばすような冷たいものがリアルに差し迫ってくるのを感じていた。日常の隙間、表面的な会話。幼いながら、この世は嘘に溢れていると勘づいていた。初めて会った親戚のおばさんは「地獄に行く」と奇妙に笑い他のおじさんと話していた。彼女たちの顔は次第に列をなし、悪い口を叩く者のみで構成された大蛇と化し、表情は能面を被った怪物に変わった。そして、異界の民として夜に踊りを踊って、オトナたちは二度と天への門をくぐれなくなってゆく。そんな光景が俊照の脳裏には流れた。映像にでも撮ったものを見ているような一連の流れに、息を飲み、その日は一睡もできずに終えた。
時おり感じる風は、その葬列に結ばれながら吹いている。亡き者たちをあるべき所へと送り届ける鎮魂の風。十歳の俊照は、生に対する怖さと幸せを両面に抱いて育っていた。
診察の帰り、楓の運転する車で通りかかった行きつけの公園は、太陽が照らされ、奥に見える湖も光を反射し、キラキラと光っていた。
「話せてよかった」
まだ言いたい事はあったけれど、待合室の一件を言えただけで、体調の味方ができたみたいで肩の荷がおりた気がした。
湖に面した公園のグラウンドで、見知らぬ父と子が元気にサッカーをしている光景が映った。
その親子を守るようにして、かたわらに光が射し込んでいるのが見える。陽射しに包まれた親子は、沢山の透明な手たちに重なっていた。
……死んでしまった者の、果たされなかった想い。その光景に手は日常の中で、ささやかに、蠢いている。
そして、見たかったと言わんばかりに輝いて、一層透明さを増し、父の放った黄色い光のオーブに消され、湖の中へと潜っていくのであった。
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