めぐり逢ひて —大正怪異奇譚—
@kuro_neko0726
夢想
めぐり逢ひて —大正怪異奇譚—
黒猫。/作
めぐり逢(あ)ひて 見しやそれとも わかぬ間(ま)に 雲隠れにし 夜半(よわ)の月かな
帝都の中央街から少し離れた場所に、煉瓦造りの建物が並ぶ静かな通りがある。
街路樹の若葉が春風に吹かれて揺れており、まだ少し冷たい朝の空気の中に、季節の移ろいを感じさせていた。
その通りの一角に、深紅の煉瓦と黒い木枠が印象的な洋館が建っている。
一階部分には、落ち着いた佇まいの喫茶店があった。
店先の扉の上には、『喫茶 白百合』と記された看板。
出入り口の左手の外壁には掲示板が取りつけられ、そこにはこのように綴られていた。
喫茶 白百合
営業日 月曜より土曜まで(日曜定休)
営業時間 午前六半時より午後六時まで
怪異退治屋
対応日 月曜、水曜、土曜の夜
営業時間 午後七時より深夜まで
※悪霊退治もお引き受けいたします
依頼内容によりお引き受けできない場合もございます
扉の内側の錠の外れる音が響く。
カラン、と音を立てて出入り口の扉が開かれる。
中から出てきたのは、一人の青年・真矢(まや)。
焦茶色の髪は藤色の組紐でゆるりと束ねられ、白いシャツに黒のベストを纏う姿は端正だ。
ループタイをつけ、胸元にはアメジストのブローチが輝いている。
二十八、九歳に見える彼は、この『喫茶 白百合』の店長でもある。
朝の空気を吸い込みながら身体をぐっと伸ばし、店内に向かって声をかけた。
「朝の空気は澄んでいて気持ちがいいね。白俐(はくり)、窓を開けてくれるかい?」
「承知いたしました、真矢様」
応える声と共に、店の奥から一人の少女が姿を現した。
歳の頃が十二、三歳に見えるその少女は、この店で主に接客を行う給仕・白俐である。
銀色の髪は肩の少し上で切り揃えられ、動く度に静かに揺れる。
身に纏うのは、白いの七分袖ワンピースに水色の胸当てエプロン。
胸元には銀色のリボンが結ばれている。
歩く度にレースの裾がふわりと揺れ、グレーのストラップシューズが静かに『コツコツ』と音を響かせる。
白俐は静かに窓辺へと歩み寄ると、両手で窓を開け放った。
すると、新鮮な風が店内に流れ込んでくる。
その後、白俐はクロスを手に取ると、カウンターの六席、壁際の四人がけテーブル二つを順に回り、丁寧に拭いていった。
木目に沿わせるようにクロスを滑らせ、埃(ほこり)一つ残さぬよう静かに磨き上げていく。
全てのテーブルを終えると、白俐は椅子の向きを一つひとつ整えた。
その頃、真矢は外に出て、箒を手に店の前に広がる石畳をゆっくりと掃いていた。
朝の仕込みは既に終えており、店の奥のキッチンには、焙煎したての豆を乗せたミルが静かに置かれているのである。
辺りを見回してみると、まだ通りはひっそりと静まり返っており、行き交う人影も疎らだ。
その時、足音が近づいてきた。
帽子を目深に被ったスーツ姿の男が一人、早足でこちらへと歩いてくる。
「おはよう、真矢さん。今朝は晴れていて気持ちがいいね」
声をかけてきたのは喫茶店の常連客の一人。
役所勤めをしている。
年の頃は四十前後で、よく仕事帰りに立ち寄ってくれている。
「おはようございます。今日は随分お早いですね」
真矢は穏やかに微笑み、軽く頭を下げる。
「今日は早番でね。いつもより早く起きたから、まだちょっと眠いよ」
男は苦笑まじりに肩をすくめた。
「それはお疲れ様です。最近は昼間になると気温が上がりますから、お気をつけて。お帰りの際には、また冷たいものをご用意しておきますね」
その言葉に男はふっと口元を緩め、そっと帽子の鍔(つば)に手をかける。
「ありがたいね。じゃあ、仕事終わりの楽しみにしてるよ」
そう言い残し、男は通りの先へと足早に消えていった。
真矢はその背中を見送り、箒の柄を両手で持ち直す。
真矢は石畳を掃き終えると、ふうと息を吐いた。
そして、扉を開けて店内の白俐に声をかける。
「白俐、準備は終わったかい?」
「はい、問題ありません」
落ち着いた声が中から返ってくる。
真矢は店内へと入り、扉の側の壁に立てかけられた、立て看板に手を伸ばす。
それを抱えて再び外へ出ると、出入り口の脇にそっと立てた。
看板には『喫茶 白百合 営業中』と、丁寧な筆致で記されている。
「よし、それじゃあ始めようか」
空を見上げ、そう呟いた。
午後六時を少し過ぎた頃、喫茶店の扉がカランと鳴った。
店内では、真矢と白俐が店じまいの準備をしていたところだった。
「すみません、もう閉店の時間なのですが…」
真矢が店の奥から顔を出し、声をかける。
しかし、入ってきたのは二人がよく知っている女性だった。
「ご無沙汰しております。真矢さん、白俐さん」
そう言って、軽くお辞儀をした。
臙脂の矢絣の着物に深緑の袴を身に纏い、黒い髪をきちんと纏め(まとめ)上げている女性。
彼女は長年、とある名家に仕える家政婦・晴海紗羅(はるみさら)だ。
「今日はお二人にご相談があるのですが…」
「相談というのは、怪異退治の依頼ですか?」
「はい」
白俐が晴海に尋ねる。
「あの、今日は椿さんはご一緒ではないのでしょうか?」
椿というのは、晴海が仕える茅場(かやば)家の一人娘である。
椿はよくこの喫茶店を訪れており、その側にいつも晴海がついていた。
しかし、今日はその椿の姿がないのだ。
「はい。これから話そうと思っている相談が、お嬢様が関わることでして…」
「なるほど。では、応接間で詳しくお話を伺いましょう」
真矢はカウンター脇を通り、店の奥にある応接間へと晴海を案内する。
その間、白俐は店の外へと出て、出入口脇に立てられていた『喫茶 白百合 営業中』の立て看板をそっと抱え、静かに店内へと運び入れる。
続けて扉を閉め、看板を壁際に立てかけた。
窓のカーテンを引き、照明を落とした後にキッチンへと向かった。
香り高い紅茶を温め直し、金彩があしらわれたティーカップに注ぐ。
それを白磁のトレイに載せ、落ち着いた足取りで応接間へと向かっていった。
「こちらが応接間です」
真矢が扉を開けると、晴海は一礼し中へと足を踏み入れた。
重厚な木の床が、足元でわずかに軋む(きしむ)。
背後で扉が静かに閉まる音が室内に響く。
ふと、晴海の目に留まったのは、左奥に据えられた大きな執務机だった。
晴海は自然とそちらへ歩み寄る。
机の上には分厚い本が何冊か積まれ、横には書きかけの紙と黒い万年筆が置かれている。
「すみません、散らかったままで。昨夜、ちょっと調べ物をしていたもので」
真矢が苦笑気味に言ったが、晴海は首を振った。
「いえ、そんなことは」
そのまま晴海の視線は、机の背後に並ぶ書棚へと移った。
そこには、見慣れない装丁の書物がずらりと並んでいる。
和綴じの古書から西洋の革装丁の本まで、和洋入り混じって整然と収められている。
それらはどれも、怪異や霊、古代思想に関する書物であることが、背表紙に書かれた題字から読み取れた。
「…珍しい本ばかりですね」
感嘆する声に、真矢は微笑を浮かべて応える。
「僕が長年をかけて集めたものです。
『怪異記聞抄(かいいけんぶんしょう)』に『巴里吸血録(ぱりきゅうけつろく)』、それから『陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)』…どれも普通の書店ではなかなか見かけないものばかりですよ」
「どのように手に入れられたですか?」
晴海が興味を隠しきれずに尋ねると、真矢は顎に手を当て、少し考えるような仕草をしてから答えた。
「そうですね…書物市を巡ったり、古書店の知人に頼んだり。中には、地方の旧家から譲り受けたものもあります。中身を読むのに数年かかることもありますけどね」
そう懐かしむように語る声には、書物への愛着が滲んでいた。
ふと、晴海の目に映ったのは、机の左手にある西洋調のキャビネットだった。
硝子(ガラス)扉越しに、どこか怪しげな雰囲気纏った品々が並べられている。
「これは…?」
「よければ、見てみますか?」
そう言って真矢が鍵を外し、静かに扉を開ける。
中には組紐で封じられた木箱、銀細工の薬壺(やくこ)、水晶玉などが、一つひとつ丁寧に並べられている。
「この中は、僕らが怪異や霊を退治する際に使うものが多いですね。違うものもありますが」
「なるほど…」
晴海の視線は、キャビネットの隅に立てかけられた二つの刀袋へと吸い寄せられた。
一つは藤色の納められた、一般的な刀の大きさ。
もう一つはそれよりも長く、薙刀を思わせる形状をしており、白い刀袋に包まれている。
「その中は…刀、ですか?」
晴海が遠慮がちに尋ねると、真矢は頷き、そちらに向けながら軽く手を添えて答えた。
「ええ。こちらが僕の刀で、そちらが白俐の薙刀です」
「…廃刀令があるのに、持っていて大丈夫なのですか?」
明治初期に公布された廃刀令により、一般人が刀を帯びることは禁じられている。
帯刀が許されるのは一部の軍人や警察関係者に限られているはずだ。
しかし、真矢は気にも留めていない様子で肩をすくめる。
「軍に知り合いがいましてね。訳あって、『必要な時にだけ使う』という条件つきで、目を瞑ってもらっているんです」
そう言ってから、わずかに口元を綻ばせた。
「現場には念のため持参しますが、実際に使うことはほとんどありません。かなり強力な怪異と対峙する場面でも限り、鞘から抜くことはないですね」
「すみません、色々と見せていただいて…つい興味が湧いてしまって」
晴海が少し申し訳なさそうに頭を下げると、真矢は首を横に振った。
「構いませんよ。普段見慣れないものばかりでしょうから、気になるのも当然です」
真矢はにこりと微笑みながら、部屋の右手を指差した。
「では、こちらへおかけください」
真矢は部屋の右手にある栗色の革張りソファを手で示した。
三人ほどがゆったり座れそうなそのソファに、晴海は静かに腰を下ろす。
向かいには、同じ革張りの一人ソファが二脚並んでいて、間には木製のローテーブルが置かれていた。
真矢はそのうちの一脚に腰を下ろした。
晴海はふと視線を上げる。
真矢の背後、ソファの後ろの壁にかけられた一枚の風景画に目が留まる。
額に収められたその絵には、どこか遠い異国の丘陵地が描かれていた。
「後ろの風景画は…西洋のものですか?」
「ええ。喫茶店を開いた時に、知人が譲ってくれたものです。色味が落ち着いていて、気に入っているんです」
その時、応接間の扉の方から控えめなノック音楽が響いた。
「今、開けるよ」
真矢が立ち上がって扉を開けると、トレイを手にした白俐が静かに立っていた。
「紅茶を持って参りました」
「助かるよ」
白俐は軽く会釈すると、ローテーブルの側に歩み寄り、丁寧にトレイを置いた。
白磁のカップには湯気の立つ紅茶が注がれており、金彩の縁が仄か(ほのか)に光を反射していた。
「いつもと同じ紅茶をご用意いたしました」
「…お気遣い、ありがとうございます」
晴海がカップを手に取り、柔らかな香りを吸い込むと、少しだけ張っていた肩の力が抜けていくのが自分でも分かった。
白俐は続けて、真矢の方へ向き直る。
「真矢様も、同じものでよろしいですか?」
「うん、構わないよ」
真矢は軽く頷き、白俐は真矢のカップにも紅茶を注ぐ。
普段の真矢はどちらかといえばコーヒー派だが、今日のように来客が紅茶を希望したには、それに合わせることが多い。
一方、白俐自身は紅茶を好んでいる。
真矢と違い、コーヒーの苦味が苦手としており、あまり進んで飲もうとはしない。
二人に紅茶を行き渡らせると、白俐も自分の分を注ぎ、残る一人のソファに静かに腰を下ろした。
真矢がゆっくりと口を開く。
「それでは、お話を伺いましょう」
晴海はそっとカップをソーサーに戻し、膝の上で手を組んだ。
そして、静かに一息吐いた後に語り始めた。
「…お嬢様ご一家と私は、先月、神楽坂の屋敷に引っ越しました。最初の一週間ほどは何事もなかったのですが…それを過ぎた頃から、お嬢様が急に高熱を出されまして」
「高熱、ですか?」
白俐が問い返す。
表情に変化はないが、その声音にはわずかな緊張が滲んでいる。
「はい。三日、四日と経っても熱は下がらず、お医者様にも診ていただきました。けれど、どんな検査をしても原因が見つからず…」
春海は指先をカップの取っ手をなぞるように動かす。
「毎晩のようにうなされていて、『置いていかないで』『行かないで』と。まるで、誰かに縋る(すがる)ようなお声で」
「別人のような…?」
真矢が眉をひそめる。
「はい。お嬢様は、そのように誰かに縋ろうとするような方ではありません。最初は疲れや環境の変化によるものかと思っていましたが、日に日に様子が変わっていまして…もしかすると、霊か何かに取り憑かれているのではないかと、思い至ったのです」
晴海の声には、責任感と不安が滲んでいた。
真矢はわずかに目を伏せ、しばし黙考したのち、静かに頷いた。
「分かりました。お引き受けいたします」
「ありがとうございます…!」
春海の目が見開かれ、顔がパッと明るくなる。
白俐が真矢に一枚の紙を手渡すと、真矢はそれを晴海の前に差し出す。
「依頼の費用についてご説明します。ご相談に関しては紅茶代で構いません。調査の基本料金は十圓(じゅうえん)、もし退治が必要な場合は三十圓程度。それに加え、護符や特殊な道具を使用する際には、別途費用が発生する可能性があります。それでもよろしいですか?」
「はい、構いません。お嬢様が助かるのであれば」
「ありがとうございます。それでは、少しだけお時間をください。支度を整え次第、すぐに向かいましょう」
真矢が席を立つと、白俐も静かに後に続いた。
二人は応接間を出て廊下を進み、右手にある一枚の木扉の前で足を止める。
真矢がポケットから鍵を取り出し、そっと錠を開けた。
扉の向こうには上階へと続く階段が伸びている。
言葉を交わさず、二人はその階段を上っていった
階段を上がった先は、彼らの住居スペースだった。
一階の喫茶店とは切り離された、私的な空間となっている。
それぞれの自室に入り、身支度を始める二人の動きには、一切の無駄がなかった。
真矢はベストを脱ぎ、クローゼットの奥から漆黒の外套を取り出す。
白いシャツの上にそれを羽織り、袴風に仕立てられた黒のパンツに脚を通す。
黒革のブーツを履き、最後に銀鎖の懐中時計を胸元のポケットに収めると、その姿はすでに喫茶店の店主ではなかった。
一方、白俐も静かに身支度を整えていた。
灰色のワンピースを脱ぎ、代わりに袖を通したのは、白無垢を思わせる小袖。
布地には銀糸で繊細な刺繍が施されている。
淡い銀色の帯を結び、足元には白革のブーツ。
そして、最後に髪を整え、白百合を模した簪をそっと差し込んだ。
真矢が静かに部屋を出ると、ほどなくして隣の部屋から白俐が現れる。
視線が合うと二人は頷き合い、階段を下りていった。
応接間の戻ると、晴海は変わらずソファに腰かけ、膝の上で静かに手を組んでいた。
真矢は部屋の左手、執務机の左にある洋風のキャビネットへと向かう。
白俐もその後に続き、右隣に立った。
真矢は鍵を取り出し、硝子扉の錠を外す。
扉をそっと開けると、棚の上段に置かれた縦長の木箱を手に取る。
そして、蓋を結ぶ細い紐を解いて蓋を開ける。中には護符の束が収められていた。
そのうち数十枚取り出し、真矢は右隣に立つ白俐に目を向ける。
「白俐も持っていくかい?」
「はい、ありがとうございます」
白俐は静かに頷くと、真矢から渡された護符を受け取り、自身の小袖の内側に仕舞った。
真矢もまた、残る護符を懐に仕舞い込む。
白俐はキャビネットに立てかけられた刀袋を二つ取り、うち一つを真矢に手渡した。
真矢の刀袋は藤色、白俐の刀袋は白で、それぞれ真矢の妖刀と白俐の薙刀が納められている。
刀を刀袋に入れられているのは、中身が外から見えないようにするためだ。
万が一巡回中の警官に見られても、咎められないように配慮している。
「ありがとう、白俐」
真矢は礼を言い、自身の刀袋を受け取ると、右肩に担ぐようにして持った。
「お待たせしました。準備は整いましたので、お屋敷に向かいましょう」
真矢がそう言うと、晴海はすっと立ち上がった。
懐から小さな革の財布を取り出し、紙幣を一枚、丁寧に真矢へ差し出す。
「こちら、相談料として。紅茶代分には少し多いかもしれませんが…」
「ありがとうございます。確かに、お預かりします」
真矢は受け取った紙幣を折り畳み、背広の内ポケットに仕舞う。
そして、店内の照明を落とし、晴海と共に出入り口に向かう。
白俐も扉の鍵を持って出入り口へ向かった。
二人が外に出ると、白俐が扉を閉め、鍵を静かに回した。
カチャリ、と金属の音が夜の路地に小さく響いた。
三人は石畳の神楽坂を歩いていた。
先導する晴海がふと立ち止まり、後ろを歩く二人に声をかけた。
「…あの、以前から気になっていたのですが…お二人は、ご家族なのですか?」
問いかけに、真矢は少し笑って答えた。
「その前に…僕ら自身のことを、少しお話しした方がいいかもしれませんね」
「え…?」
真矢の横にいた白俐は顔を上げ、真矢のことを見つめる。
「よろしいのですか?」
白俐が尋ねたのには理由があった。
真矢は元々、自分のことを進んで語りたがる性格ではない。
周囲に心の内を明かすことはほとんどなく、話すのは白俐くらいである。
だが、晴海は違う。
彼女は、これまで何度も椿と共に『喫茶 白百合』を訪れ、真矢と幾度となく言葉を交わしてきた。
丁寧で礼儀正しく、椿のことを大切に思っている。
何より、真矢達のことを信じ、怪異退治屋の依頼をしてくれた。
「晴海さんになら、話してもいいかなと思ってね。僕らのことを話しても、きっと受け入れてくれる気がして」
真矢はそう穏やかな声で言った。
「真矢様がそう仰るのであれば」
真矢の言葉に、小さく頷いた。
三人は再び歩き出し、真矢は夜空を一瞥した後、自身のことについて話し始めた。
「少し、驚かれるかもしれませんが…僕は人と、かつて『妖怪』と呼ばれていた怪異の血を受け継ぐ『半妖』です」
晴海は思わず立ち止まって振り返り、驚いたように彼の顔を見つめた。
「半妖…物語の中でしか聞いたことがありませんでした。こんなにも身近にいたなんて…」
その声は、驚きよりも、どこか敬意のようなものが感じられた。
その隣で、白俐が静かに口を開く。
「私(わたくし)も、人ではありません。怪異…人の姿をして生きている、化け猫の類で御座います」
晴海はまたも驚いたが、真剣に白俐を見つめ、静かに頷いた。
「では、お二人は…」
「僕らが出会ったのは平安の世…何百年も昔です。僕は怪異退治をしながら旅をしていたのですが、ある里山で、多くの妖怪に囲まれた一人の少女を見つけました。…それが白俐でした」
「あの時、命を狙われていた私(わたくし)を、真矢様が助けてくださいました」
白俐の声には、誇りと敬意を感じられる。
「私(わたくし)のことを救って下さったこの方が人か妖(あやかし)かなど、気になりませんでした。ただ、一目で『この方にお仕えしたい』と思い、真矢様にお願いいたしました」
真矢は小さく苦笑する。
「白俐のような存在は…非常に稀です。人間と妖怪、どちらでもない半妖は双方から疎まれる存在。なので、妖怪が半妖に仕えるなんて、普通はありえないことないんですよ」
「ですが、真矢様が半妖であろうと、私(わたくし)にとっては『主』であることは変わりません」
白俐はそっと微笑みながら言った。
晴海は二人の言葉に、しばらく言葉を失っていた。
やがて、そっと口を開いた。
「…正直、驚きました。ですが…納得もしました。お二人から、どこか普通の人とは違う雰囲気のようなものを感じていましたから」
そして、優しく微笑んだ。
「けれど、今のお話を聞いて…大切なお嬢様を託すなら、このお二人しかないと、改めて思いました」
その言葉に、真矢と白俐は軽く会釈をした。
そして、月明かりが差し込む坂道を、再び三人は歩いていく。
その先に待つのは、一人の少女と、彼女を蝕む『何か』である。
屋敷に到着した時、空は深い群青に染まっていた。
木々が揺らめく中、晴海に案内されて真矢と白俐は門を潜った。
夜風に冷たさを感じながら石畳を進む。
玄関に着くと、晴海が鍵を取り出して重厚な玄関扉を開ける。
屋敷の中に足を踏み入れると、微かに湿り気を帯びた空気が、まるで床下から這い上がってくるかのように、二人の足元を包んでいく。
真矢は無言で辺りを見回した。
白俐はそっと真矢の袖を引き、小声で囁く。
「…微かに、邪気を感じます」
「…そうだね」
案内役の晴海は平然とした様子だった。
邪気を全く感じていないようである。
二階へと続く階段を上るにつれ、邪気は一層濃く、肌に纏わりつくようになっていく。
晴海は廊下の突き当たりを指差した。
「お嬢様の部屋は、こちらです」
その場に立った瞬間、真矢と白俐は確信した。邪気の中心はこの部屋だと。
真矢は振り返り、晴海に穏やかな声で告げた。
「申し訳ありませんが、外で待っていていただけますか?危険な目に遭うかもしれませんから」
「…分かりました」
晴海が頷くと、真矢と白俐は刀袋から刀を取り出す。
そして、晴海に頼み事をする。
「しばらくの間、僕らの刀袋を預かっていただけますか?」
「はい」
晴海は丁寧に受け取った。
真矢は刀を腰に差し、白俐は薙刀の柄をぎゅっと握り締める。
それを見て、真矢は一度だけ頷き、扉に手をかけた。
ギィ…と軋む(きしむ)音をさせながら扉を開ける。
部屋の中は静まり返っていた。
右手には二人がけのソファと丸テーブル、左手には繊細な装飾が施されたドレッサーが置かれている。
そして、奥—窓際には天蓋(てんがい)つきのベッド。
白い帳(とばり)の向こうに、椿が眠っているようだった。
「真矢様、あそこに…」
天蓋の布の隙間から、小さな影が見えた。
六、七歳ほどの少女だった。
肩にかかった黒髪。
真っ白な寝間着を身に纏い、楕円形をした淡い桃色のブローチを左胸につけている。
しかし、その身体は透き通っている。
真矢と白俐はすぐに悟った。
椿に取り憑いているのは、あの少女の霊なのだと。
「ねむのこと、見えるの?」
少女の霊・箱崎(はこざき)ねむは、ベッドの天蓋から顔を覗かながら問いかけた。
目には怯えと怒りが混ざり合っている。
「見えるさ。君が、椿さんに取り憑いているのかい?」
真矢が一歩、彼女に近づく。
「来ないで!」
ねむの声が部屋中に響いた。
彼女の肩が震わせ、こちらを警戒している。
「僕らは君を傷つけたいわけじゃない。椿さんと、君をを助けてあげたいんだ」
優しく話しかける真矢だったが、ねむの心には届かない。
「来ないで、来ないで、来ないで…!」
その言葉と同時に、空間の空気が激しく歪んだ。
少女の周囲に渦巻いていた邪気が、一気に凝縮し、黒く濁った塊となって暴れ出す。
それはやがて、うねる腕と裂けた口を持つ異形の化け物へと変貌した。
「ねむが邪魔だから、いらないから、お兄ちゃんたちが殺しに来たんでしょ!」
「……!」
真矢は即座に刀を引き抜いた。
腰に差していたのは、妖刀。
妖怪を祓うための特別な刀である。
普通は霊には効かないが、真矢の手にかかれば話は別だった。
真矢の妖刀は、霊力をも通す。
人と妖の血を引く真矢のために作られたこの妖刀は、彼の妖力に加えて霊力を通すことができる。
だが、それは同時に、使う者の命を削る行為でもあった。
白俐もまた、薙刀を手に護符を貼りつけ、構えを取る。
彼女の役割は結界の展開。
直接攻撃するのではなく、ねむの暴走を封じ、真矢の動きを援護する。
「真矢様、邪気の核は中央です!結界、展開します!」
「任せるよ…!」
化け物の腕が振り下ろされる。
白俐がすかさず薙刀を横に振ると、結界の光が発生し、黒い腕を弾き返した。
だが、その力は凄まじく、白俐の足元を溶かした。
真矢は空いた隙に踏み込み、刀を逆手に構える。
そして、霊力を込めると、青白い光が刀身に宿る。
「……っ!」
喉の奥に焼けつくような感覚が走る。
霊力の無理な流入によって、内臓が悲鳴を上げた。
それでも、暴走するねむを放っては置けなかった。
「こわい顔…!いなくなってほしいんでしょ!」
化け物の身体が分裂し、複数の触手のような腕が真矢に迫る。
白俐が再度、結界を広げる。
薙刀に貼られた護符が輝き、床から立ち上がる光の壁が触手を遮る。
しかし、防ぎきれずに一部が真矢の肩を裂いた。
「……っ!」
肉が裂ける音がし、血が飛び散る。
真矢は暴走するねむから目を逸らさず、最後の霊力を振り絞る。
刀が軋み(きしみ)、全身の血管が浮き上がるほど力を注ぎ込む。
限界を超えて、刀身から青白い炎が吹き上がった。
だが、その代償はすぐに来た。
「がっ…!」
真矢は膝をつき、血を吐いた。
それでも、刀を握る手は離さない。
白俐が駆け寄ろうとするが、彼は首を横に振った。
「もう少し…あと、少しだけ…」
ねむの霊核が露わになったその瞬間、真矢は最後の一閃を放った。
青白い光の斬撃が霊核を貫き、黒い邪気が崩れる。
悲しみの叫びと共に、濁流のように満ちていた憎しみが霧のように溶けていく。
そして、ねむがゆっくりと床に降り立った。
もう化け物の影はない。
そこに立っているのは、一人の幼い少女の霊だった。
真矢は、崩れるように床に倒れ込んだ。
白俐がすぐさま支える。
「真矢様…!」
彼は弱々しく笑いながら、ねむを見つめた。
「ねむ…もう、大丈夫だから…」
ねむは、ぽつりと口を開いた。
「ねむね…ほんとは、ずっと…さみしかったの…」
その小さな瞳には、涙が浮かんでいた。
「ねみはね…ねむはね…」
掠れるような声で、途切れ途切れに語り始めた。
まるで冬の冷たい川の水を掬い(すくい)上げるように、過去の記憶をぽつり、ぽつりと。
わたしの名前は、ねむ。
でも、だれもそう呼んでくれなくなってどのくらいたったのか、もうよくわからない。
おかあさんのことは、ほとんどおぼえてない。
あたたかかったがした気がするけど、それも本当かどうかわからない。
ねむがまだ赤ちゃんのころ、おかあさんはいなくなった。
生まれつき体が弱くて、ねむを産んで、しばらくしてから…
それから、わたしは、ひとりだった。
ある日、からだがふしぎとうごかなくなって、お医者さんが「長くはないかもしれない」って言った。
それからずっと、ベッドの上でくらすようになった。
おとうさまは、わたしのことを「家の恥だ」と言った。
「母親譲りの弱さだ」
「生まれてこなければよかったのに」
「お前のせいで、すべてが台無しだ」
そんなことを毎日のように言われた。
ねむは、なにもしていないのに。
でも、ねむの体が弱いせいでだめなのかなって…そう思うしかなかった。
だけど、そんなねむにやさしくしてくれた人が、一人だけいた。
月島すみれさんっていう女の人。
お手伝いさんだったけど、いつも笑って、話してくれて、手を握ってくれて、絵本を読んでくれた。
すみれさんの声を聞くと、ねむはすこしだけ、からだが痛くなくなる気がした。
五才のたんじょうびの日、すみれさんがうすいもも色のほうせきのブローチをくれた。
絵本の中のおひめさまになったみたいで、とってもうれしかった。
「ずっと大切にするね」と言ったら、すみれさんもうれしそうだった。
でも、ある日、すみれさんはいなくなった。
わたしの世話をしていて、夕ごはんのじゅんびがおくれたせいだった。
おとうさんは、「召使いの分際で私の晩餐を遅らせた」って怒って、すみれさんを家から追い出した。
「ねむちゃん、ごめんね」と言って、すみれさんは泣いていた。
でも、すみれさんはわるくない。わたしのせい。
それから、ほんとうに、だれも、話しかけてくれなくなった。
時間がたって、おとうさんは、別の女の人とけっこんした。
新しいおかあさんとその子どもが、やしきに来たみたいだった。
でも、ねむは会っていない。
だれも、ねむのことを紹介しようともしなかったから。
もともと、いなかったみたいにされた。
おへやから出ることもできなかったし、外の声も聞こえない。
お手伝いたちは、目もあわせてくれなかった。おとうさんがこわいから。
ごはんを持ってきてくれるだけ。
あとは、ずっとしずか。
あの日の夜も、いつもと同じようにねむった。
さみしくて、くらくて、ひとりのまま。
そして、そのまま…目が覚めなかった。
誰も、泣かなかった。
ねむがいなくなっても、おとうさんも、新しい家族も、なにも気にしてなかった。
すぐに、べつの場所に引っ越していったみたい。
まるで、「もう用はない」と言ってるみたいだった。
でも、ねむのこころだけは、のこっていた。このおへやに。
何年たったのか、わからない。
ある日、やしきに新しい家族がきた。
女の子がいて、その子—つばきちゃんは、ねむがいたこのおへやに住むようになった。
つばきちゃんは、ねむとはぜんぜんちがった。みんなに、あいされていた。
おとうさんも、おかあさんも、使用人たちも、笑って話しかけていた。
…いいな、って思った。
でも、うらやましいっていうよりも、ねむのことを見つけてほしかった。
ここにいるよって、わかってほしかった。
だから、声をかけようとした。手をのばした。でも、それがつばきちゃんをくるめてた。
ごめんなさい。わざとじゃなかったのに…
ねむはただ、「ここに、いたんだよ」って、だれかに知ってほしかっただけ。
空間の歪みが、ゆっくりと静まりはじめた。
真矢は白俐に支えながら、ねむの前に俯いたまま立っている。
わずか六歳。たったそれだけの時間しか生きられなかった少女。
愛されず、気づかれず、忘れ去られた命。
「ねむさん…」
白俐が目線を合わせるように膝をつき、ねむの手を取って優しく声をかける。
「あなたは、ずっと一人で頑張ってきたんですね。怖かったですよね、寂しかったですよね」
ねむは顔を上げた。
瞳から涙が零れ落ちている。
「だれも、ねむのことを見てくれなかったの…だから、きづいてほしかったの…」
声はか細く、震えていた。
「その気持ちが、椿さんを苦しめたんだ」
ねむは、そっと唇を噛んだ。
「でも、僕らが君の存在に気づいた。もう、この場所に縛られる必要はないよ」
「出ていって、いいの…?」
「そうさ。もう、誰かを恨む必要はない。君は存在していいんだよ」
真矢は刀を床に置き、そっとねむの頭を撫でた。
「君はこの世に存在していたことは、変わらない事実だ」
白俐がそっと手を差し伸べる。
「きっとあなたのことを天国で、待ってくれている人がいますから」
ねむの瞳が、初めて微かな光が宿った。
「ねむのこと、わすれない?」
「忘れないよ」「忘れません」
真矢と白俐が同時に頷いた。
その瞬間、ねむの体が淡い光に包まれた。
髪が風に揺れるように舞い上がる。
髪も寝間着も薄れていき、やがて空気に溶け込むように消えていった。
「…ありがとう」
最後に残したその声が消えた後、部屋に残ったのはほんのわずかな春のような温もりだった。
真矢は刀を鞘に収め、白俐と共に目を閉じて胸の前で手を合わせる。
「ようやく…眠りにつけたようですね」
「そうだね。成仏できて、本当によかった」
二人は目を開けると、足元に淡い桃色のブローチが落ちていることに気づいた。
白俐がそっと拾い上げる。そのブローチはほんのりと温かく、まるでねむの想いが宿っているかのようだった。
「…これは、ねむさんが残したものでしょうか?」
白俐が呟く。
「そうだろうね」
白俐は胸の前でそれを抱きしめるようにして、目を伏せた。
「ねむさんは…最後まで、忘れられたくなかったんですね」
その時、ベッドに横たわっていた椿が小さく呻き声を漏らした。
「……ん…」
やがて閉じられていた瞳がゆっくりと開かれる。
二人は側に駆け寄り、白俐が声をかける。
「椿さん!」
「あれ…?どうして、真矢さんと白俐が…?」
まだ意識は朦朧としているが、椿の瞳には確かな生気が戻っていた。
「晴海さんに依頼をされててね。けど、もう解決したから心配いらないよ」
真矢は優しく声をかける。
椿が無事であることを確認すると、白俐は 「晴海さんに知らせてきます」と言って部屋を出た。
晴海は隣の部屋にいた。
そこには椿の母もつき添っており、娘の身を案じて眠れぬまま待っていたのだ。
「終わったの…ですか?」
晴海が立ち上がって、険しい表情で問いかける。
「はい。無事、椿さんに取り憑いていた霊を成仏させることができ…椿さんが目を覚ましました」
「…本当ですか!?」
椿の母の顔に一気に日が差したかのように表情が変わる。
晴海も目を見開き、胸を撫で下ろした。
三人は急いで椿の部屋へ向かった。
部屋に入ると、椿は真矢と何か話していたようだが、すぐに母と晴海の姿に気づく。
「お母さま…晴海さん…」
母は椿に駆け寄り、抱きしめて涙を溢した。
「椿…!よかった、本当によかったわ…!」
「お母さま…ごめんなさい。心配かけて」
晴海も目を潤ませながら、真矢と白俐に向かって深く頭を下げる。
「お二人のおかげです。本当に…本当にありがとうございました」
続けて、椿の母も姿勢を正し、涙を拭いながら二人に頭を下げる。
「娘を救ってくださり、本当にありがとうございます。感謝してもしきれません」
白俐は少し戸惑いながら、優しく答えた。
「私(わたくし)達はただ、椿さんに安らぎを取り戻していただきたかっただけですから」
椿もベッドに入ったまま、感謝を伝える。
「真矢さん、白俐、本当にありがとう」
晴海は改めて懐から封筒を取り出し、真矢へと差し出した。
「これは本来のお約束です。どうかお受け取りください」
「ありがとうございます。…椿さんが元気になったら、また喫茶店に遊びに来てください」
「必ずお伺いします」
真矢と白俐は深々と一礼し、屋敷を後にした。
屋敷を出ると、夜の空気がひやりと頬を撫でた。
時刻は八時半を過ぎていた。
屋敷の周囲は静かで、庭の木々が風に揺れる音だけが響いている。
「…これで一件落着ですね」
白俐が安堵からそっと息を吐く。
胸に抱えた刀袋が重たそうに見えるのは、疲労のせいかもしれない。
「そうだね。ただ、あの子の心の傷は深かった。あんな小さな子が、どれほどの孤独を抱えていたのか…考えると胸が痛むね」
白俐は一瞬、俯いて足元を見つめた。
「たった六年しか生きることができなかったのに…どれほど辛かったんだろうね…」
二人はしばらく黙って歩いた。
夜空には月が高く昇り、淡い光が道を照らしている。
やがて、真矢が空を見上げながらぽつりと呟いた。
「でも、最後は笑ってくれた。それだけでも救いだ」
白俐も同じように夜空を仰ぎ、微かに微笑む。
「きっと今は、天国で大切な人と会えているはずです」
その言葉に真矢は小さく頷いた。
だが、すぐに咳を堪えるように口を押さえる。
「…っ」
赤いものが指先に滲むのを、白俐は見逃さなかった。
「真矢様!」
薙刀袋を抱えたまま、白俐が慌てて彼の腕に手を添える。
「やはり、霊力を使い過ぎたのです。少し休まれた方が…」
真矢は軽く手を振って苦笑した。
「大袈裟だよ、白俐。これくらい大丈夫だ」
白俐の表情は険しいままだったが、それ以上強く言えなかった。
「…次は、無茶をなさらないでください」
「心配症だね、白俐は」
軽口を叩く真矢の横顔には、ほんの少し疲労の影が差していた。
二人は街灯が並ぶ通りへと歩みを進める。
「帰ったら、ハーブティーでも入れようか」
真矢が笑うと、白俐もようやく笑みを返した。夜九時の帝都に、二人の足音が響いていた。
喫茶店の二階、居住スペースに戻ったのは九時を少し回った頃だった。
白俐は真矢の後に入浴を済ませ、濡れた髪を丁寧に拭きながらリビングへ向かう。
リビングの扉を開けると、照明は落とされ、ランプの光だけが部屋を照らしていた。
テーブルの上に飲みかけのハーブティーが残され、香りが微かに漂っていた。
視線をソファに移すと、そこには真矢が横になっていた。
「…こんなところで眠ってしまっては、風邪を引きますよ」
白俐はそっと呟き、ブランケットを手に取ってソファに歩み寄った。
真矢の眠る顔は戦いの緊張が解けたせいか、普段よりずっと穏やかで、どこか幼さすら感じさせる。
ブランケットをかけようとしたその時だった。
「…柑菜(かんな)」
寝息に混じって、彼の口から零れた微かな声。
白俐の指先がピタリと止まり、胸の奥にチクリと痛みのようなものが走る。
柑菜—白俐と出会う前、真矢が平安の世に生きていた頃、愛した少女の名。
旅の中で出会い、互いに想い合い、やがて結ばれた人。
数百年という時を経てもなお、真矢の心から消えることのない存在。
ブランケットを胸に抱えたまま、白俐は視線を落とす。
「…羨ましい」
小さく吐き出した声は、誰にも届くことなく夜に溶けていく。
白俐は真矢にブランケットをかけると、背を向け、足音を忍ばせて自室へと戻っていった。
自室へと戻った白俐は、ゆっくりと扉を閉めた。
灯りもつけずにそのままベッドへ腰を下ろすと、胸の奥に溜まった想いが堰(せき)を切ったように溢れ出す。
『私(わたし)がずっと側にいるのに』
戦いに時も、何気ない日常も、目を開ければ真矢の姿があった。
けれど、真矢の夢の中で呼ばれるのは、もうこの世にいない少女の名。
『真矢様は、私(わたし)のことをそんな風には思っていない』
分かっていた。だから、口にできなかった。
伝えればきっと、今の関係が壊れてしまう。
守りたいのはずっと隣にいる時間。
思えば、彼と出会ってからの何百年という時を、白俐は同じ想いを胸に抱え続けてきた。
その間に幾度も別れの危機があり、何度も生死を越えて共に戦ってきた。
それでも一度もその想いを告げたことはない。ただ彼の隣にいることだけを選び、想いを隠し続けてきたのだ。
ベッドに横たわると、思い浮かんでくるのは真矢の寝顔。
触れたいと願う指先を握り締め、白俐は目を閉じた。
『いつまでこの気持ちを隠していられるのかな…』
それから一週間後、『喫茶 白百合』の店内には午後の暖かな日差しが差し込んでいた。
カウンターでは真矢が丁寧に珈琲を入れている。
そして、四人がけのテーブルでは談笑の声が弾んでいた。
胸元に淡い桃色のブローチをつけた白俐、その向かいに椿と晴海が並んで座っている。
椿は年相応の明るい笑みを取り戻していた。
楽しげな会話と紅茶と珈琲の香り。
テーブルを囲むひと時は、失われた少女の想いを胸に抱きながらも、確かに前へ進んでいることを示していた。
─『喫茶 白百合』には今日も穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
【おまけ 〜設定資料〜】
★真矢
実年齢 九百歳くらい?
種族 半妖
能力 父は妖怪、母は巫女であり、妖力と霊力を兼ね備えている。父から戦闘力や毒への耐性を受け継ぐ。母から浄化、結界、封印といった術を受け継ぐ。
特性 半妖は月に一度妖力を失う日があり、真矢の場合は十六夜の月の夜。日没になると妖力を失い、夜明けと共に妖力が戻る。
趣味 古書収集、刀の手入れ
好きなこと 読者(古書や洋書など)、手間をかけて淹れる珈琲、白俐と過ごす時間
苦手なこと あまり親しくない人に自身の出自について深く踏み込まれること
イメージソング 「四季刻歌」
イメージカラー 藤色
モチーフの花 藤の花
モデル 『◯IND BREAKER』の蘇枋隼人(性格) 『◯夜叉』の弥勒(イメージカラー) 『◯タリア』の中国(後ろ髪)
名前の由来 『MAO』の摩◯
真矢のイメージソングは、歌詞が『好きな人が亡くなって何百年が経っても、忘れられずに想い続けている真矢にぴったりだな』と思い、「四季刻歌」にしました。
★白俐
実年齢 七百歳くらい?
種族 妖怪・化け猫族
能力 普段は子供の姿をしているが、老若男女に化けることが可能
趣味 茶葉の調合(店で使うものの試作)、裁縫や刺繍
好きなこと 食べること(特に甘味)、喫茶店の仕事、真矢の側にいること
苦手なもの・こと コーヒー、炎天下
イメージソング 「アサガオの散る頃に」
イメージカラー 白
モチーフの花 白百合
名前の由来 『千と◯尋の神隠し』のハク
白俐のイメージソングは、「この手じゃ君を繋ぎとめて置けない」という歌詞が『密かに真矢に対して想いを抱いているけれど、真矢は柑菜を想い続けているため振り向いてもらえない白俐に合っているな』と思い、「アサガオの散る頃に」にしました。
★柑菜
関係 真矢の想い人、かつての旅の仲間
真矢と出会った当時の年齢 十五歳(平安時代)
身長 一四五センチメートル
種族 人間
生業 妖怪退治屋
武器 薙刀
性格 明るく誰にでも分け隔てなく接する。困った人がいると手を差し伸べる思いやりがある。相手の素性や立場に捉われず(とらわれず)、その人自身に真っ直ぐ向き合う。
MBTI ENFJ-A
イメージカラー 向日葵色
モチーフの花 向日葵
名前の由来 『◯夜叉』の神無(かんな)
★晴海紗羅
名前の由来 晴海は東京都中央区にある『晴海町』、紗羅は沙羅の木から
★茅場椿
名前の由来 茅場は東京都中央区にある『日本橋茅場町』、椿は椿の花から
★箱崎ねむ
名前の由来 箱崎は東京都中央区にある『日本橋箱崎町』、ねむは合歓(ねむ)の木から
★月島すみれ
名前の由来 月島は東京都中央区にある『月島町』、すみれは菫(すみれ)の花から
【あとがき】
こんにちは、黒猫。です。
今作、「めぐり逢ひて —大正怪異奇譚—」を書くきっかけとなったのは、今から十七年前に完結したある漫画です。
半妖という設定はその漫画からお借りしました。
初めは舞台を平安時代にしていたのですが、その漫画に引っ張られすぎてしまいました。
そこで思い切って舞台を大正時代に移したところ、オリジナリティのある物語を書けるようになりました。
舞台を変えて本当に良かったと思っています。
そして、タイトルの「めぐり逢ひて」は紫式部の和歌に由来します。
夢の中で最愛の人に再開できても、すぐに覚めてしまって名残惜しい真矢の想いをタイトルで表しています。
今後、喫茶店での日常や柑菜との出会い、真矢と白俐の恋愛模様など、今作で書ききれなかったことを続編で書きたいなと思っています。
読んでいただきありがとうございました。
それでは、adieu!
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