【2】 異なる魂と体
❦
家は、村外れにぽつんと建つ
小さな木造の家だった。
壁にはところどころにひび割れが走り、
雨を凌ぐはずの屋根の藁は風に剥がれ、
まるで今にも崩れ落ちそうな有様だ。
長い年月を耐え抜いてきた証。
だがその傷は、確かにこの家が
そこに「生きてきた」証でもあった。
誰が見ても古びた家にすぎない。
けれど――ガルドにとっては違った。
そこは帰るべき場所。
戦場の喧騒でも、名誉の歓声でもない。
安らぎの記憶を宿す、ただ一つの場所。
――いや、今はユウリとして。
彼は震える指で己の胸に手を当てた。
鼓動は若者のそれ。
力強く、弾むように打ちつける命の証。
老いた身ではとうに忘れかけていた
熱と速さ。
(間違いない……肉体は孫のもの。
だが、この内に宿る魂は私だ。
私のものに他ならぬ)
死の瞬間、何が起きたのかは分からない。
黒き竜の炎に呑まれ、
全身を焼き尽くされ、意識は闇へ沈んだ。
痛みも、重さも、何もかも消えて――。
次に目を開けたとき、
自分はこの若い肉体にいた。
孫の、ユウリの体へ。
理由はどうでもよかった。
なぜかを追うより、
今を生きるほうが大切だ。
――この事実が揺るぎない以上、
受け入れるしかなかった。
❦
戸を開け、外へ出る。
村は混乱の只中にあった。
先ほどの竜が村をかすめ、
数軒の家が焼け落ちている。
鼻をつく焦げ臭さ。
立ち上る黒煙は夜空を覆い、
月さえも霞ませていた。
慌ただしく走り回る村人たちの叫び。
「水を! 水を持ってこい!」
「けが人だ、運んでくれ!」
泣き叫ぶ子供の声と、
その子を必死にあやす母の声。
それらが渦巻き、
村は今でも戦場のようだった。
「ユウリ!」
甲高い声が響く。
駆け寄ってきたのは、
ユウリと同じ年頃の少女――リアだった。
肩までの栗色の髪を乱れたまま結び、
泥に汚れた布の服を纏っている。
だが、瞳はまっすぐだった。
燃える炎の中に立っても怯まぬ芯を宿す瞳。
「よかった……無事だったんだ」
「あ、ああ……」
ガルドは思わず言葉を濁す。
その顔を見た瞬間、
胸に込み上げる感情があった。
英雄として戦った日々。
共に刃を交え、笑いあった仲間。
その血を受け継ぐ者が、
今こうして孫ユウリの隣に立っている。
(……時の流れとは。
なんと残酷で、なんと美しいことか)
真実を語りたかった。
「私はガルドだ」と。
だが、それは叶わぬ告白。
狂人と笑われるか、怪物と恐れられるか。
どちらにせよ、真実は届かない。
そして何より、今の彼は“ユウリ”だ。
「それにしても……ユウリ。
さっき竜の前に飛び出して……
怖くなかったの?」
リアは眉を寄せ、息をのんで問う。
「……怖かったさ」
短く答える。
その瞬間、胸に熱が灯った。
本当は、自分が庇った。
だが村人たちの目には、
ユウリが竜の前に立ち、
奇跡的に生還したと映っているのだろう。
(ならば――このままでいい)
英雄の魂は静かに決意した。
真実を語ることはない。
孫として歩み、孫を育てる。
それが残された最後の役目。
❦
その夜。
村がようやく静けさを取り戻し、
泣き声も叫びも途絶え、
人々が疲れ果てて眠りについた頃。
ユウリ――ガルドは納屋へ忍び込んだ。
埃をかぶった木箱。
それを開けると、
中には一本の木剣が眠っていた。
かつて自分が若き日に使った練習用の剣。
削れて丸みを帯びた刃。
手汗で黒ずんだ柄。
長年の時を経て、もう朽ちかけている。
だが、手に取った瞬間――胸が熱くなった。
握る。軽い。
いや、軽すぎる。
「……しかし。孫の体では、
この程度の木剣でさえ限界か」
筋肉も、腕力も、耐久力も足りない。
剣を振るだけで腕が重くなる。
だが――。
一度振るえば、すべてが蘇った。
戦場を駆け抜けた経験が、
体を勝手に導く。
老いた身では到底できなかった
俊敏な動き。
若い肉体なら、まだ間に合う。
振る。
振る。
振る。
夜空を裂く音が一定のリズムを刻む。
月明かりに照らされたその動きは、
村人が誰一人知らぬ速さと正確さ。
英雄の魂が宿るがゆえの奇跡だった。
「……フッ。悪くはない」
小さく笑みをこぼす。
呼吸は荒い。
腕は悲鳴を上げ、膝も震えている。
だが心は、満たされていた。
「これなら――
いずれ“奥義”にも至れる」
長年追い求め、
ついに果たせなかった究極の技。
少ない力で最大の力を生む秘剣。
――小功八卦。
今度こそ、この体で極めてみせる。
英雄の魂はそう誓い、
夜空を仰いだ。
星々が瞬く闇の下で、
一人の少年の影が、
確かに英雄へと近づいていた。
❦
翌朝。
ユウリ――の体を借りたガルドは、
夜明けと共に村の広場に立っていた。
空はまだ薄紅に染まり、
東の地平から射す光が、
露に濡れた草をきらめかせる。
冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、
吐き出すたびに白い息が流れる。
村人たちが起き出すより早い時間。
誰もいない静寂を狙い、
彼は木剣を手にしていた。
(昨日の感触……悪くはなかった。
この肉体は脆いが、
基礎を徹底すれば必ず強くなる。
鍛錬は裏切らん。
それは何度死線を越えても変わらぬ真理だ)
彼は呼吸を整える。
小さな足を大きく開き、腰を落とす。
孫の未熟な手では重く感じる木剣も、
構えそのものは研ぎ澄まされ、
老英雄の記憶が導くように正確だった。
「ふっ!」
鋭い一撃。
――だが。
幼い腕はすぐに痺れ、
指が木剣を支えきれなくなる。
ガラン、と乾いた音を立てて地面に落ちた。
その瞬間――。
「あっ、ユウリだ!」
甲高い声が広場に響く。
振り返ると、
いつの間にか子供たちが集まっていた。
三人、四人……次々と顔を覗かせ、
眠そうな目を輝かせながら冷やかす。
「おい見ろよ、また剣振る真似してる!」
「英雄の孫だって言っても、
何の才能もないんだよな!」
「剣技のスキルも最低ランクだってさ!」
「魔法なんか
一度も成功したことないって聞いたぞ!」
子供の声は遠慮がなく、
小さな刃となって胸に突き刺さる。
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スキル――それはこの世界に生きる人なら
誰もが授かる力。
火を操る者もいれば、風を操る者もいる。
時には剣技や治癒に秀でる者もいる。
その優劣は生まれた瞬間から定められ、
等級によって未来さえ決まってしまう。
そしてユウリのスキルは――Fランク。
最も低く、最も無力と蔑まれる等級。
嘲笑の声はあっという間に広がり、
広場の脇を通りがかった大人たちまで
呆れた視線を投げかけていく。
「まったく……
英雄の孫と聞いて期待したが」
「剣を握れば転ぶばかり。
魔法も火花一つ散らせん」
「血は繋がっていても、
才は受け継がれんのか」
彼らにとって、ユウリは――
「落ちこぼれ」以外の何者でもなかった。
祖父ガルドが大英雄であった分、
その落差はなお鮮烈で、
容赦のない冷笑となって返ってくる。
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「……ふむ」
ガルドは小さく苦笑を浮かべる。
その顔は嘲笑に傷ついた少年ではなく、
むしろ戦場で
敵陣を見定める英雄のようなものだった。
(なるほど……確かに未熟だ。
この体では
剣を十度振るうだけで腕が痺れる。
周囲に侮られるのも当然か。
だが――)
胸の奥に、燃えるものがあった。
英雄の魂が囁く。
(ならば見返せばいい。いつの日か、
この目で彼らを黙らせてやる。
“孫ユウリ”の力でな)
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「ユウリ!」
甲高い声が再び広場に響いた。
人垣をかき分けて駆け寄ってきた影――
栗色の髪を揺らす少女、リアだった。
その瞳は真っ直ぐで、
冷笑とは対極にある温かさを宿していた。
「また馬鹿にされて……」
息を弾ませ、心配そうに立ち止まる。
ガルド――ユウリは首を振った。
その声は少年のものだが、
響きは静かで、揺るぎがなかった。
「いいんだ」
「でも……」
リアは唇を噛む。
彼女は知っていた。
ユウリがどれだけ泥に塗れても、
必死に剣を握ろうとする姿を。
嘲られても、俯いて涙を隠す背中を。
誰よりも近くで見てきた。
だからこそ――
彼の諦めを恐れていた。
❦
「大丈夫だ、リア」
ユウリの顔で、
しかし老英雄の魂を宿した声で、
ガルドは言った。
「俺は、諦めない」
その一言に、リアの瞳が大きく揺れる。
今までのユウリなら、
笑われれば悔しさを隠し、
すぐに背を向けてしまっただろう。
だが今日の彼は違った。
瞳に宿る光は子供のものではなく――
戦士のもの。
「……ユウリ、なんだか変わったね」
「ああ。これから、もっと変わる」
そう言い切り、ユウリは木剣を拾い上げる。
痺れる腕を叱咤し、再び振るう。
振る。
振る。
振る。
体は転び、嘲られ、泥を浴びる。
笑い声がまた広場に広がる。
それでも止まらない。
その姿は、
今の誰の目にもただの落ちこぼれ。
けれど――英雄の魂は知っている。
この泥臭い努力の積み重ねこそが、
やがて
世界を揺るがす力へと至る道であることを。
そしてそれを証明するのは、
他でもない――この“ユウリ”の未来なのだ。
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