第2章 遮断機事件

 その場所には、三週間ほど前からアザミが芽吹いていた。

 駐車場と歩道の間、誰の手入れも届かない隅。草イチゴと笹の葉の間から、無骨な茎を真っ直ぐに伸ばし、力強く立ち上がってきた一本だった。

 通勤のたびにその成長を眺め、いつ咲くのかと小さな期待を胸に通り過ぎるのが、最近の密かな楽しみだった。


 その朝——ちょうど紫の花が開いていた。

 私は足を止め、スマートフォンを構える。画面越しに花びらの縁を追っていると、突然、背後からクラクションが鳴った。

 振り返ると、駐車場から出てきたトラックの運転席から、産廃業者らしい男性が顔を出し、「すみません、通ります!」と声をかけてくれた。

 私は軽く会釈を返し、足を職場へと向け——そのとき、鈍い痛みの後目の前が真っ白になる。

 何が起きたのかもわからないまま、意識が遠のいて行った。

 気がついたときには左の頬に冷たいアスファルトが当たり、左側頭部と腰に鈍い痛みがあった。そこで意識を失って倒れたことを自覚した。

「あ、ついに頭蓋骨骨折とか脳挫傷かな……」そんな考えがぼんやりとよぎる。

 そして、妙に冷静な自分が「人間ってこんなに簡単に気を失うんだなぁ」と思っていた。


 すぐに、「頭を打っていたら動かさないほうがいい」と判断し、そのまま身動きせずにいた。どうせ職場には医師がたくさん出入りしているし、すぐ隣は大学病院だ。すぐに誰かが来てくれる——そう思っていた。


 足音が駆け寄ってくる。最初に現れたのは女性だった。息を切らせた声で「急に倒れたんです! 誰か! お医者さんいませんか!」と叫ぶ。そしてなぜか、「私、精神科なんですぅ!」と付け足した。その一言に、状況の深刻さの中でほんの少し笑いそうになったのを覚えている。


 続いて駆けつけた男性が私の脈を取りながら、「名前言えますか?」「どうされたんですか」と問いかける。その声で、ぼんやりと「あ、遮断機にぶつかったんだ」と原因が輪郭を持ちはじめた。

 精神科と名乗った女性が、脈を取っている男性に「お医者さんですか?」と尋ねると「いえ、医学部の学生です」と答えた。

 私は心の中で「あぁ。この人は将来いいお医者さんになるなぁ」とどこか呑気なことを考えていた。

そして小説を書いている都合上、こういったハプニングはネタになるなと下衆なことも考えていた。


 やがて守衛が駆け寄り、無線で救急への連絡を取る。数分もしないうちに、何人もの医師がストレッチャーとともに現れ、私を優しく乗せて運んでくれた。

 見慣れた職場の敷地が、今日はまるで異国の景色のように揺れていた。


 点滴の管を入れ終わると、そばにいた医師が説明してくれた。

「なんで点滴をしたかというと、検査結果次第ではすぐにお薬を入れられるように確保するんですよ」

 その言葉で、私はようやく思い出した——そうだ、私は頭を打ったんだった。


 なんとなくまだ頭がぼんやりしていて、これから血栓が見つかるとか、最悪の場合は手術で丸坊主になるんじゃないか、そんなことが頭をよぎる。


 ストレッチャーは頭部CTの撮影室へと運ばれた。

 静かな機械音と、真っ白な天井。検査が終わると、そのまま処置室でしばらく待機する。


 やがて医師がにこやかに私を覗き込み、「なんかね、なんともなかったよ」と軽い調子で告げた。

「え? え??」

 拍子抜けする声が自分でも変に響く。

「結果は、骨折も打撲も脳への影響もなしってことで、安心してください」

 念のためと、看護師が「他に怪我はないか」と、服を脱がせて確認してくれた。だが、左側頭部にも腰には鈍い痛みはあるものの、痣ひとつ残っていない。


 そのまま裏口から退院することになった。そちらの方が、私の職場が入っている研究施設に近かったからだ。

 外へ出る通路まで、医師がわざわざ見送ってくれた。

 五月の風は少しだけ強く、紫のアザミが咲いていた場所を思い出させた。


 この出来事は、その後もしばらく職場で語り草になった。

 同じ職場では、転んだ拍子に頭蓋骨を陥没骨折した人もいれば、肋骨を折った人もいた。それに比べて、遮断機に直撃され、派手にひっくり返っても無傷で帰ってきた私の話は、妙に笑いを誘うらしく、何度かネタにした。


 後から聞いた話だが、「頭を打った」ということで職場に内線電話が入り、事件はすぐに教授の耳にも届いていたらしい。職場に戻った私の前にやってきた教授は、何とも言いにくそうな顔で——

「頭……大丈夫?」

 と、一拍置いてから尋ねてきた。その間と表情があまりにも絶妙で、思わず笑ってしまったのを覚えている。


 思えばうちの家系は皆、骨が丈夫だった。母は70代の頃に骨密度の検査を受けたが、まるで若者であるような結果が出たことにも驚いたのだ。

 祖父の死後、遺骨は骨壺に収まらないほどの量が残り火葬場の職員さんを驚かせた。

 体が丈夫なのには越したことは無い。けれど、私の胸の奥では、この事件は笑い話として片付けられない違和感が静かに沈んでいた。

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