日本語の理不尽さについて

伽墨

言語が世界を分節化するとか、しないとか

 まず、数を数えてみましょう。

一、二、三、四、……

 まあ、いち、に、さん、し、ですよね。なお、「し」に関しては「よん」とも読めます。


 次に、うさぎを数えてみましょう。

一羽いちわ二羽にわ三羽さんわ四羽よんわ……

 どうでしょうか。理不尽に気付きましたか。

そうなんです。四羽よんわとは読みますが、日本語が母国語な人であれば四羽しわとは絶対に読みませんよね。理不尽です。


 もっと理不尽なのが次の例です。

一匹いっぴき二匹にひき三匹さんびき四匹よんひき……

 「」ときたら、普通、「じゃあ次はだな」と思いきや、ここは素直に「」なんですよね。で、これはよしとして「じゃあ次は」と思いきや「さん」。もうめちゃくちゃです。


 よくよく考えてみると、そもそも「数詞の使い分け」が意味不明なんですよね。例えばゾウとかカバは「頭」で数えます。一頭のゾウ、とか。「なるほど、デカい動物は“頭”なんだな」と思いきや、例えばゴールデンレトリバーのような「デカい犬」は「一頭」とも言える気がするし「一匹」とも言える気もする。いや待てよ、「一匹狼」なんてことばがあるぐらいだから、狼ぐらいの大きさの犬もまた「匹」と数えるべきなのか。


 そして、「台」という数詞もわけがわかりません。トラックが一台、車が一台、これはよしとしましょう。じゃあ、なぜ原付も「一台」と言えるのか。さっきは動物をサイズで分類していたのに、デカいトラックも小ぢんまりとした原付も、今度は一緒くたに「一台」。何なんだこれは。


 数詞から離れたところにも、たくさんの理不尽があります。例えば、水とお湯。「ぬるい水」「ぬるいお湯」、どちらも自然な表現です。けれども、じゃあお湯と水の境界線ってどこなんだ。摂氏何度から何度までのH2Oが水で、どこにお湯との境界線があるのか。ぬるい水道水は「水」だけど、ぬるいお風呂は「お湯」。じゃあ、「洗面所のぬるいH2O」はどっちになるんでしょうか。


 そもそも、ひらがな、カタカナ、漢字という三種類の文字の使い分けからも、冷静に考えるとキリのない無数の「なぜ」が湧き出てきます。「がらす」「ガラス」「硝子」、どれも多分「窓の材料によく使われている、透明なあれ」を指すのでしょうが、一般的には「ガラス」とカタカナで書くことが多いでしょう。もちろん、外来語はカタカナで書かれることが多いという経験則が成り立つのは自明なことです。じゃあ、「1ヶ月」の「ヶ」、これは何なんだとなるわけですね。たぶん、月を数えるのは外来語由来の考え方ではないような気がします。「ヶ」が「箇」なのか「個」なのか説はあるけれど、結局みんな深く考えずに「あの小さいカタカナのケみたいなやつ」として済ませているすると、なおさら訳がわからないということになります。


結局、言語っていうのは「習うより慣れろ」、もっと踏み込んだ言い方をするなら「自然言語に理不尽はつきものなんだから、いちいち疑問に思わず“正しく”使え」ってことなんでしょうね。自然言語の、理屈では説明できない理不尽さ。それをただ受け入れ、そして同じ理不尽を受け入れる共同体ができあがり、やがて私たちはその一員として生きていき、「正しいことば」ができあがっていくということなのでしょう。待てよ、一員いちいんなのに「一人ひとり」……いや、この辺でやめにしておきましょう。

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