第5話 復讐は神のすることである。人は自らの手を汚すな。

 すると、女性客雪奈の担当ホストがあきら先輩のところにやってきた。

「なんとか場をつないでくれたな。これからもお願いできないかな。

 実はオレ、太い客(金離れのいい客)がついたんだ」

 あきら先輩は、それは良かったですねと言ったが、内心ではツケを踏み倒されたらどうなるんだろう。とぶ(突然、行方不明になること)しかないなとも憂慮していた。まあ、ホスト業界には、あまりにもよくあるパターンであるが。

 そう言い終わったあと、担当ホストはいつものようにドアまで雪奈を送っていった。しかしあきら先輩の立場は、あくまで担当ホストの場つなぎヘルプであり、一銭の金にもならない。

 ただ都合よく利用されてるだけかもしれないが、ツケを踏み倒されるよりは、はるかに安全だと安堵していた。


 村木兄さんは、あきら先輩のいう元彼女とは、現村木兄さんの彼女であるはるなではないかと、八割方思っていた。

 しかし、それを確かめてなにになるというのだ。

 もし、はるなの中絶相手があきら先輩だったとしても、それを今さら恨む資格はない。レイプだったら犯罪だが、はるなの同意の上でセックスしたのだから。

 また、はるながNHKドラマ出演という事実も、村木兄さんは知る由もなかった。

 当時、村木兄さんはバイトに追われていて、夜のドラマなど見る余裕はなかったのである。

 はるなのグレー過去ー中絶とアダルトビデオ出演歴ーをまさか問いただすわけにはいかないが、NHKドラマ出演なら聞いてみてもいいだろう。

 一度でもNHKに出演できたという事実は、むしろ、はるなにとってはNHK出演女優という誇らしい過去である。

 そういえば、キリスト教会に通い始めてからはるなは言っていた。

「十戒のなかに、あなたは姦淫してはならないという戒めがあるの。

 この姦淫とは、結婚以外のセックスであり、同棲も含まれるわ。

 戒めというのは、法律上、なんらかの罰を与えるというよりも、人間が生きていく上で不幸にならないための戒めだけどね、でも人間は欲望にかられて、ついつい十戒を破ってしまいがちね」

 村木兄さんは思わず質問した。

「でも、十戒ってモーセの十戒のことだろう。

 確か今から二千年以上昔の、紀元前の旧約聖書に記してあることじゃないか?

 まあ、いくら時代が変わっても、人間なんてそう変わるものじゃないからな」

 はるなは納得したように答えた。

「時代と共に世の中は変わるが、人の精神なんて変わるものじゃないわね。

 私も昔は、セックス=愛なんて少女漫画のようなことを考えていたが、肌のぬくもりなんて、なんの絆にもならないわ。

 いずれは、体温が冷え飽きられてしまうだけかもしれない」

 村木兄さんは思わず、のど元まででかけた言葉を飲み込んだ。

「ひょっとして、それははるな自身のことを語ってるの?」

 もちろん、口が裂けてもそんな質問はできるわけがない。

 このことは、墓場までもっていこうと村木兄さんは決心していた。


 ホストクラブでは、村木兄さんの客は離れることはなかった。

 まあ、どこのホストクラブでも永久指名制であり、一度指名した担当ホストを別のホストに変えるなんてことは不可能であるが、別の担当ホストの女性客雪奈が、担当ホストがいないときを見計らい、なぜか村木兄さんのボックスにやってくる。

 といっても、村木兄さんは高価なボトルを入れさせるわけではなく、ツケ禁止になっている現在は、それをすると退店に追い込まれる恐れがある。

 以前のような色恋営業は禁止されている。

一、客の許可も得ないで、勝手に注文したあとで「君のために入れたんだよ」

一、ツケの強要ー高価なものを注文させた挙句、後日まとめて支払うこと。

 女性客は強引に注文させるホストのいいなりになり、ツケがたまる一方で、高価なトータル金額さえわからなくなってしまうというよりは、明確に知らされていない。

一、メニューの料金表も知らせず、また虚偽の説明をした挙句シャンパンタワー(最低百万円)など、高価な注文をさせる行為。

一、「将来結婚しよう。そのために風俗店で働いてくれないか」と特定の風俗店を紹介し、紹介料を支払うスカウトバックという行為。

 女性を風俗店にスカウトすると、女性の月給の十分の一がバック料として支払われることになる。

 だから女性はがんじがらめに縛られてしまい、そこから抜け出すことは難しい。


 村木兄さんのいいところは、とにかくどんな相手でも話を聞くことにより、相手を受け入れようとするところである。

 なかには女性客の方から、人を裏切ったり、昔はなんと親子で万引きをしていたり、人に言えないような過去をペラペラと話してしまうケースもある。

 村木兄さんは、いやな顔ひとつしない。

 そしてもちろんそれに同調することもしないかわりに、厳しく叱ったりもしない。

 ただ「こんな秘密を話してくれてありがとう。しかし今、僕に話し終わった時点でそれは過去のこととして埋もれてしまったんだ。

 もう、二度と過去を振り返ってはならないよ。過去を振り返ると、過去の自分に戻ってしまうよ」

 女性は心に秘密を抱え込むことが不可能であり、こんなことを話しても、なんの得にもならない、いやそれどころか恥をさらすようなものだということを重々承知の上で、自分の心の傷を公表してしまう。

 心の膿としてたまっていくものを誰かに話したい、そしてその上で素の自分を認めてもらいたいという承認欲求があるに違いない。

 女性が姦しい(かしましい)と言われる所以である。

 村木兄さんは、とどめの一言として「女囚、いや今は女性刑務者というけどね、刑務所から出所して門を出るときは、二度と振り返ってはならないと言われているよ。

 そりゃあ、将来が不安なのは当然だけど、誰でも将来がわかる人なんていやしないんだ。

 楽観的なようだけど、なんとかなると思えばなんとかなるものさ。

 不安のあまり刑務所の門を振り返った人は、八割方まで元の刑務所に戻ってしまうよ。また当時流行った歌も歌ってはダメだよ。新しい歌詞を勉強した方がいいよ」

 村木兄さんは、担当女性にそのことを話すと、そばにいた女性客はパッと表情が輝き、笑顔を浮かべた。

「わあ、いいこと聞いちゃった。これで私の人生もきっと救われそう」

 村木兄さんは、自ら救いを与えたことで、自ら救いを得たような気がした。


「あっ、それと暗い表情をしていちゃダメだよ。悪魔に付け込まれるから。

 悪党というのは、いつも暗い表情、また隠しごとが見つかるかとビクビクしている人を狙ってくるの。

 その人の心の弱みにつけこみ、最初は優しくして心を開かせ、ある日パッと優しいはずの態度が怖いものに豹変し、悪事に利用するんだ。

 もちろん最初からそれが目的で、近づいてくるんだけどね」

 村木兄さんの担当女性客は、うなづきながら言った。

「そうね。過ぎたことは済んだこと。

 過去は100%変えられない。でも未来は変えられる。

 人は80%以上変えられない。でも自分は変えられる。

 そんな言葉を読んだことがあるわ」


 そこにあきら先輩がやってきた。

 失礼ながら相変わらず、客にあぶれている様子である。

 他のボックスではあきら先輩は、年配者であることを理由に扱いづらいと思われているようであり、あきら先輩は孤独な存在になりつつある。

 村木先輩は、そんなあきら先輩に席を勧めた。

 あきら先輩曰く

「今日は、とっておきのホストテクニックを教えちゃいます。

 ときどき営業の一環として、3階のフロアにある風俗店に行くんだけどね、最初は女の子を抱かないの。ただ握手をするだけ。

 すると、女の子は自分をいたわり、大切にしてくれるいい人にめぐりあったという安心イメージを抱いて、ホストクラブに来店してくれる。

 まあ、こちらは営業の一環といってしまえばそれまでだけどね。

 しかしそのうち、風俗嬢の心の弱みにつけこんでいるようで、徐々にグレーの黒雲が心にグワーンとこたえるようになってきたんだ」

 村木兄さんは、思わず

「ええ、いいの。こんなテクニックをバラしちゃって。

 あっ、この話、このボックスだけの秘密、内緒話だよ」

 女性客雪奈は「またひとつ勉強しちゃった」と言い残し、担当ホストのボックスに戻っていった。


 翌日、村木兄さんがロッカーで着替えをし終わると、あきら先輩がやってきた。

「僕は今まで、罪責感に悩まされ、それを解消するために女性を癒すホストとして成功したかった。が見ての通り売れないホストで終わってしまった。

 でも、村木君に出会ったおかげで、生きていく自信がついたよ。

 もう、過去は振り返らない。でも二度と女性に中絶はさせないと誓ったんだ」

 村木兄さんは答えた。

「そうですね。中絶をさせない前段階として、アフターピルである緊急避妊薬ノルレボを使うという方法もありますよ。

 でも戦争中は、正式に結婚していても、育児に対する不安から中絶の道を選んだという不幸な女性もいたようですよ」

 あきら先輩はため息をつきながら

「村木君は、僕の二代目にならないでね」

と言い残したまま、退店していった。


 村木兄さんから一部始終の話を聞いた千尋は、大人への階段をまた一歩昇り始めたのだった。

 なんだか、村木兄さんの表情が妙に大人びて見えた。

「神様、感謝します。どうか私を神の道へと導いて下さい」

 暮れなずむ夕焼け空をながめながら、ふとそんな思いがけない言葉が出たことが、千尋自身、意外でしかなかった。


   完

 

 


 


 


 


 

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現代若者の心は戦争に向かいつつある すどう零 @kisamatuma

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