第2話 第1章 夏の始まり ②

 目が覚めると昼になっている。朝まで起きていたのだから仕方がない。

 まだ少しだけ眠い体を無理やり起こして、祖母がいるはずの居間に向かう。

 祖母は居間の奥の台所で料理をしている。「おはよう」と秋恵がいう。

「おばあちゃん、おはよう」と眠い目をこすりながら夏実は返事をする。そしてぼーっとしたまま食卓の椅子に座っている。まだ半分眠ったままの頭では何も考えられない。

 しばらくして秋恵が料理を並べてくれる。今日の昼ごはんはハムエッグとロールパン。野菜サラダも欠かさずに用意してくれている。

 今日もおいしそうだなぁと夏実は思う。シンプルなのに世界一おいしそうな料理を秋恵は作る。それは一種の才能なのかも知れないと夏実は思う。

 夏実は祖母が作った昼ごはんを今日もあっという間に平らげる。

 普段はここから昼寝をしたりして怠惰に過ごすところだけど、昨夜のこともあって今日はそんな気分にはなれなかった。今日は家の中には留まらずに外に出ようと夏実は思う。

 ずっと家の中にいると、おそらくまた昨日のように憂鬱な思考の渦に落ちてしまう。

 だから今日は外に出て、頭の中を入れ替えたいという気分になっていた。

 夏実は自分の部屋には戻らず、手ぶらで居間からそのまま玄関に向かう。いつものようにTシャツと短パンという格好で、サンダルを履いてそれ以外には何も持たずに外に出る。

 行き先は夏実が時々散歩しにいく川だった。秋恵の家の裏手には山があり、その向こう側に湧き出たばかりの清流がある。そこが夏実のお気に入りの場所になっていた。

 普段は人気のない場所であり、夏実がこの場所で誰かと出会うことはほとんどない。

 でもこの日は普段とは違っていた。川岸の石の上に小学生くらいの少年が座っていた。その存在に夏実は少し面食らってしまう。誰かに出会う心積もりは出来ていなかった。

 少年は麦わら帽子を被り、川釣り用の網を手に持っている。そして水の中を息を殺してじっと見つめている。

 夏実がその様子を遠くから伺っていると、少年は次の瞬間に川の中に飛び込んだ。何をしているのだろうと夏実が訝しんでいると、やがて少年は川岸に上がってきた。

 びしょ濡れになった少年の手には一尾の川魚が掴まれていた。少年は魚獲りをしているのだとようやく夏実は納得した。夏実が頷いていると、少年が大きな声で話しかける。

「お姉さん、何してるの。さっきからずっと見てるようだけど」

「ご、ごめん。魚を獲ったのすごいなと思って。私は何もしてないよ。ただのお散歩」

「ふうん。お姉さん、寝起き? もうちょっとマシな格好した方がいいんじゃない。化粧とかも全然してないでしょ。めちゃくちゃ顔色が悪いよ」

「う、うるさいな。放っておいてよ。今日は休みなんだから別にいいでしょ」

 夏実は拗ねたように頬を膨らませる。少年は楽しそうに笑い声をあげて、夏実に言う。

「ねぇ、お姉さんも魚を獲ってみない? 結構、楽しいよ」

「そう? じゃあ、私もやってみようかな」そう言って夏実は川の中に入っていく。

 夏実はびしょ濡れになりながら、一所懸命に魚を獲ろうとする。でも、魚は夏実の手を簡単にすり抜けていってしまう。

「難しいね」と夏実は少年に呼びかける。

「まあね。でも慣れるとお姉さんも獲れるようになるよ。俺も最初は下手だった」

「コツとかはないの?」

「ない。そんなものがあれば苦労しないよ。ただ経験を重ねるだけだ」

「そう……最初はその網を使ってもいい?」

「いいよ。上手くいかなかったら、俺も使うつもりだったし」

 夏実は左手に網を持って、右手を使って魚を網に誘い込もうとする。網を使えば意外と上手くできることに気づく。それが夏実には楽しくなる。

「すごいね! 魚獲りめっちゃ楽しい! 全身がびしょ濡れになるけれど」

 夏実はそう言って、Tシャツの下に透けるブラジャーを強調して見せる。少年に舐められたくないと思った夏実は、「年上のお姉さん」としての魅力で見返そうとしたのだ。

「どう? わたしセクシーでしょ?」と夏実は少年を挑発してみる。

 でも少年は冷めた目線を向けるだけで、まったく興奮した様子がなかった。

「あれ? おかしいな……年頃の男の子だったらイチコロのはずなんだけど」

「ごめん、俺そういうのまったくピンと来ないんだよね。だって俺はゲイだから」

 少年の言葉に、夏実は声を失ってしまう。少年がゲイであることに驚いたのではなく、初対面の自分に臆面もなく打ち明けてしまうその大胆さに驚いた。

「……何?」と少年は焦ったく言葉を続ける。「俺のこと、引いちゃった?」

「そうじゃないよ。ただ、そんな大切なことを私なんかに言ってよかったのかなって」

「別にいいよ。それに俺にとってはそれほど特別なことじゃない。俺はゲイであることを当たり前として生きてきたから。まぁ、面倒くさいから親には言っていないけどね」

「そっか。君はすごいね。自分ではあんまり気付いてないかも知れないけど、君はとても強い人だなって私は思う。私がもし同じ立場だったら、絶対に怯えて生きていたから」

「同性愛者である自分に怯えてしまう気持ちはわかるよ。誰かにバレてしまった時のことを考えて怯えてしまう気持ちもわかる。一応、頭の中ではね。でも俺はそんなことでいちいち悩んでいる自分がバカバカしいと思うだけだ」

「なるほどね。教えてくれてありがとう。私はすごく嬉しかった。ねぇ、そういえば君の名前は何て言うの?」

「田中颯汰だよ。小学六年生の十二歳。お姉さんは?」

「私の名前は小林夏実。今はまだ十九歳だよ。八月二十日で二十歳になる」

 この日は七月二十日だった。あと一ヶ月で夏実は二十歳を迎えることになる。

「へぇ、意外ともう大人なんだね。もうちょっと下かと思ってた」

「それは私が若く見えるってこと?」夏実はワクワクしながら聞く。

「違うよ。年齢ほど成熟して見えないってことだよ。少なくとも大人には見えない」

 颯汰が冷静に言ったその言葉が夏実の胸に深く刺さる。それは自分でも思い悩んでいたことだから。

 私は周囲の人たちと比べて、いつまで経っても大人になれないままだ。見た目も経験値も未熟なまま、私はここまで来てしまった。自分がすでに大学二年生であることに焦りを感じる毎日だ。自分の心はどうして子供のままなんだろう。

 夏実は颯汰の言葉を聞いて、落ち込まない訳にはいかなかった。

 そして「俺はゲイだから」という颯汰の告白に、夏実は自分の性のことを考えてしまうのだった。

 夏実には、恋愛感情がよく分からなかった。知識としては持っていたけれど、生まれて一度も自分の実感として恋愛感情を抱いたことがなかった。異性に対してときめく感覚も、触れたいと思う感覚も、今まで自分の中に生じたことがなかったのだ。

 だから夏実は今まで恋をしたことがなかった。物語とかで描かれる恋愛に共感したことがなかった。同級生たちが語るような恋愛に心を動かされたことがなかった。

 夏実にとって恋愛感情というのは、物心がついてからずっと得体の知れないものだった。

 夏実はそのことを長い間、自覚していなかった。自分に恋愛の気持ちが分からないのは、単に経験したことがないからだと思っていた。

 だから夏実は、自分には恋愛感情がないことを知らずに、東京で異性の恋人を作った。これで自分も恋愛が何たるものかを知ることができる。夏実はそう思っていた。

 しかしその恋愛は夏実が思い描いていたものとは違った。相手は大学生になってばかりの頃に出会ったサークルの先輩だった。夏実は大学生活の最初だけ、サークルに所属していたのだった。その先輩に「好きだ」と告白されて、夏実は付き合うことにした。

 先輩のことは人として素敵だなと思っていた。だからその好意を受け入れることにした。でもいざ恋愛を始めてみると、夏実にとっては苦痛に感じることばかりだった。

 心では素敵だと思っていたのに、先輩と手を繋ぐことも肌を重ね合わせることも、夏実には何の感動も呼び起こさなかった。むしろ言葉にならない嫌悪感すら抱いた。

 夏実はしばらく我慢していた。自分だって慣れればきっと、恋愛に心を動かせるようになるのだと思っていた。けれども恋愛に対するある種の嫌悪感は、いつまで経っても解消されることがなかった。むしろ時間を経るごとに違和感は膨らんでいった。

 やがて夏実は先輩から振られた。

「お前といても楽しくない。お前は俺のことが本当は嫌いなんだろう」と怒られた。

 夏実ははっきりと否定することができなかった。

 その日からサークルにもいづらくなった。先輩がサークルの皆に自分の悪口を言うようになったからだった。当然ながらサークルの皆は先輩の味方についた。そしてサークルの中に自分の居場所はなくなった。

 もしかすると憂鬱で味気ない大学生活を送るようになったのは、その出来事がきっかけだったのかも知れない。後から思い返してそう考えることもあった。

 もちろんそれだけが理由というわけではないのだけれど。私の自己嫌悪はもっと根本的なところから生まれたものだから。

 そしてそれ以来、夏実は自分の中に恋愛感情が欠如していることを自覚した。経験したことがないから分からないのではなく、そもそも存在していなかったのだ。そのことを、夏実は身をもって実感するようになった。

 ただ単に先輩のことが嫌いだったのではないかと疑うこともあった。だからそれからも何度か恋愛に挑戦した。異性に告白されることはそれからも何度かあったのだ。

 しかし、どの恋愛も結局はうまくいかなかった。

 そして、夏実はある時に思い至った。私はそもそも自分から異性を好きになったことがない。それから、夏実は恋愛をやめてしまった。

 夏実はしばらく颯汰と川遊びを楽しんだ。

 全身がびしょ濡れになったお互いを見て、二人は大きな声で笑い合った。

「夏実って髪が濡れると女の人の幽霊みたいだな」と颯汰は言った。

「どういうことよ」と夏実は言い返す。「あんただって捨てられた子犬みたいだよ」

「うるせえな。意味わかんねえよ」と颯汰は不服そうな顔をしている。

「ところでさ、夏実のおばあちゃんの名前ってもしかして秋恵じゃない?」

「そうだけど。なんでおばあちゃんの名前を知ってるの?」

「俺たちって実はわりと近所でさ。最近よくおばあちゃんの家に遊びに行くんだよ」

「え、そうなんだ。意外な繋がりがあるもんだね。あんたってどこに住んでるの?」

 夏実が教えてもらった場所は、確かに秋恵の家から近くだった。

 何ヶ所か曲がり道を通らなければ行けないが、歩いて五分もかからない場所にある。

「ねぇ夏実、これから俺もおばあちゃん家に行っていい?」

「そうするか。一緒に美味しいスイカでも食べよう」

 二人は濡れたサンダルを手に持って、裸足で帰り道を歩いていく。

 湿った地面の上を歩くと、足がひんやりとして気持ちが良かった。

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