火柱と昇る夏

腹痛太郎

第1話 第1章 夏の始まり ①

 目が覚めると昼になっていた。小林夏実は大きくあくびをして布団から体を起こす。

 目を覚ましてからも眠気は続いており、夏実はもう一度だけ布団に潜ろうとする。

 眠い。とてつもなく眠い。けれども時計を見ると時刻は十二時を指し示していた。もうすでに祖母がお昼ごはんを作ってくれているかもしれない時刻だった。

 夏実はどうしようもなく気怠い体を無理やり起き上がらせる。おそらく髪はボサボサのままだけれど、そんなことはどうでもいい。なぜなら外出する予定は一切ないのだから。

 夏実は尻を右手でかきながら和室を出て、祖母のいる居間に移動する。

「ふわぁ……」と大きな声で遠慮なくあくびをする。

 眠たい目をこすりながらフラフラと歩いていく。時には扉や机の角にぶつかりながら。

「おはよう」と居間に現れた夏実は言う。

「おはよう。早くはないけれど」と祖母の秋恵は返事する。

 ここは秋恵の家であり、いつも食事は秋恵が用意してくれている。夏実は大学の夏休みを利用して祖母の家に遊びに来ている。秋恵にはそういうことにしている。

 夏実がここに滞在してすでに一週間が経過している。夏実は以来、怠惰な毎日を送っている。秋恵はとくに文句も言わず、夏実の世話をしてくれている。

 夏実は祖母の厚意をありがたく受け取っている。でも何かを手伝ったり代わりに家事をしたりすることはない。なぜなら私は家事ができないからだ。だから私は仕方がなく怠惰な生活を送っているのだ。と夏実は自分に言い聞かせている。

 夏実が居間に現れたタイミングで、秋恵は待っていたように机の上に料理を並べていく。今日の昼食は白ごはんと味噌汁とだし巻き卵とししゃもとほうれん草のおひたしだ。秋恵の料理はシンプルでありながらいつもたまらなく美味しい。

 夏実は祖母の料理が世界で一番おいしいと思う。大袈裟ではなく心からそう思っている。

 でもその気持ちを口に出すことはない。言葉にするのが恥ずかしいからだ。夏実は夢中になって昼ごはんを頬張る。秋恵は笑顔で、夏実が食事をする様子を眺めている。

「夏実はおいしそうに食べるわねぇ」と秋恵が言う。

「だっておいしいんだもん」と少し顔を赤らめながら、口を尖らせて夏実は言う。

 食事を済ませると夏実は「ごちそうさま」と言って部屋に戻る。

 そして夏実は昼寝をする。「さっきまで寝ていたのに」と自分でも思うが仕方がない。

 だって食事を摂ると絶対に眠くなってしまうから。生理現象だから自分には止めようがないのだ。と夏実は自分に言い訳をしている。

 夏実は自分の和室に敷いたままの布団に横になる。

 食事の後、横になってぼうっとするのは夏実にとってとても幸せに感じることだ。

 でも、今日の夏実の頭にはさまざまな思考が交錯する。鬱陶しいと夏実は思う。しかし一度開始されてしまった思考の渦は自分の力で止めることができない。

 夏実は考える。どうして自分はこんなところに辿り着いてしまったのだろう。どうして今の自分はこんなことになってしまったのだろう。

 考えても仕方がないと分かっていることなのに、いろんな考えが頭の中で渦を巻くようになる。これでは寝られるものではない。

 夏実は仕方なく布団から起き上がり、自分自身の回想に身を任せる。

 夏実は大学を休学している。そのことを祖母には言っていない。

 祖母を心配させたくないという気持ちもあるけれど、何となく言い出しにくかったのだ。自分の傷をすすんで誰かに言えるような気持ちではなかった。

 だから祖母には夏休みで遊びに来たことにしている。

 どうして大学を休学したのか、その理由をうまく自分で説明することはできない。

 一つの明確な理由があった訳ではなく、些細な出来事の蓄積で心が疲弊してしまったのだと自分では思う。

 夏実は東京にある自分の部屋を思い出す。とても小さくて暗い部屋だった。その部屋で夏実は鬱々とした日々を送っていた。楽しみや喜びのない真っ暗闇の毎日だった。

 毎日憂鬱な朝を迎える。重たい体を何とか布団から引きずり出して大学に向かう。友達と呼べるような人は誰もいない。

 たった一人、教室の隅で講義を聞くと、チャイムが鳴り次第そそくさと帰路に着く。

 サークルもアルバイトも何もしていない。とても孤独な毎日だった。

 周りの学生たちがとにかく楽しそうだった。夏実にはそれがとても眩しく見えた。真っ暗闇の中に鬱々としゃがみ込んでいる自分とは正反対だと思った。

 周囲を見渡すたびに自己嫌悪に陥った。孤独な毎日を送る自分があまりにも惨めだった。

 夏実はよく自分の部屋の中で頭を抱えて、声を押し殺して叫んだ。気がつくと涙が出ていることもあった。あるいは自己嫌悪からトイレで嘔吐してしまうこともあった。

 自分は何と醜いのだろう。それが自分自身に対する夏実の変わらない思いだった。

 気がつくと七時になっていた。ここはどこだろうと夏実は一瞬だけ分からなくなった。

 そうだ、ここはおばあちゃんの家なのだ。ここには東京の惨めな生活はない。たぶん。

 空は紺碧に染まっていた。そろそろ夜が来る時間だと夏実は思う。自分自身の中の暗闇に落ちることは終わりにしなければならない。祖母がごはんを作ってくれているはずだ。

 夏実は祖母がいる居間に向かう。居間の奥の台所で祖母が晩ごはんを作っている。

 その普段通りの安心感に夏実は少しだけ涙が出そうになる。あぁ、この場所では私の心は平和なんだ。いつものように祖母がそこにいてくれる。祖母が立てる料理の音が夏実の心を穏やかにしてくれる。そして心地の良い空腹感に夏実は気づく。

 お腹がすいたなぁ。今日のおばあちゃんの晩ごはんは何だろう。

 夏実はそんなたわいもないことを考えながら祖母の姿を眺めている。たわいもないことを穏やかに考えられるようになっている自分に夏実は驚く。

 おばあちゃんの家で私は少しずつ固くなった心をときほぐしていく。その感覚が夏実にはたまらなく嬉しい。

 今日の晩ごはんはシチューだ。夏にも関わらず冷え切った心を、祖母の作ったシチューが温めてくれる。やっぱりおばあちゃんの料理は美味しいなぁと夏実は思う。

 夏実はあっという間にシチューを平らげてしまう。

「おかわりはある?」と夏実は聞く。「たくさんあるよ」と秋恵は笑う。

 秋恵は台所に向かい、二杯目のシチューを入れてくれる。その温かいスープが夏実には何だか輝いて見える。

 夏実は目を輝かせながら笑顔でシチューを見つめる。よだれが口の中にいっぱいになる。

 夏実はもう一度シチューをかき込んでいく。温かいスープが胸の奥を伝わっていく。

 夏実はなぜか泣きそうになってくる。自分でもなぜだか分からない。

 祖母に見られるのは恥ずかしいから、夏実は慌てて目線を下にそらす。その体勢で闇雲にティッシュペーパーを手探り、鼻水をかむ振りをして目に溜まった涙を拭く。

 そんな夏実の涙に秋恵は気づいた様子がなく、下を向いて黙々とシチューを食べている。夏実は祖母に気づかれていないことにホッとする。

 シチューを平らげると「ごちそうさま」と夏実は大きな声で言う。

「ごちそうさまでした。たくさん食べたわねぇ」と秋恵は言う。

「まあね」夏実は照れ隠しの笑顔を返す。

「ありがとう。美味しいシチューを作ってくれて」そんな言葉が今日は素直に口に出る。

「どういたしまして。そう言ってくれると嬉しいわ」秋恵は笑顔を見せながら言う。

 そして夏実は自分の部屋に引き下がる。少しだけ胃を休めると風呂に入ることにする。

 夏実は着替えのパジャマを持って浴室に向かう。着ていたTシャツとショートパンツを脱いで裸になる。自分の裸を夏実は鏡に映してみる。バランスの悪い体だなと夏実は思う。

 必要以上に痩せた弾力のない下半身と左右で大きさの違う小さな胸。まるでスラム街で生きてきたような貧相な体がそこにはあった。

「全く情けないな」自分の裸を見て、夏実は思う。今まで送ってきた不健康な生活をそのまま反映したような体に夏実は苦笑いを浮かべる。

 夏実は浴室に入り、体を洗う。しばらく美容室に行っていない長い髪を泡立てる。

 そして夏実は浴槽の温かいお湯に浸かる。「ふぅ」と夏実はひと息をつく。

 ぼうっとしながら自分の思考を自然のまま宙に漂わせる。東京での様々な光景が走馬灯のように頭の中を流れていく。

 テレビだけが音を出す真っ暗な部屋。タイルにカビの生えた狭い浴室。こっそりと自慰に耽った小さなトイレ。自己嫌悪と無力感に包まれて私は何度も涙を流した。

 煉瓦造りの大きなキャンパス。広い教室と自分の周りに誰もいない机。

 小声でヒソヒソと話している学生たち。自分だけがその輪には入れない。

 授業が始まって講師の声だけが響く教室。うたた寝をしている学生。

 私は雑念を振り払うかのように、一心不乱に黒板の内容をノートに書き写していく。

 気がつくと湯船に浸かりながら長い時間が経っている。夏実は少しのぼせた顔を両手で軽く叩き、風呂から出てバスタオルで濡れた体を拭いていく。

 体を拭き終わると夏実は自分の部屋に戻る。そして持ち込んだマンガを読み進める。

 マンガを読んでいると時間はあっという間に過ぎていく。夏実はその自分を忘れるような感覚が好きだった。そして気がつくと深夜を迎えている。

 夏実は部屋の電気を消し、布団に潜って寝ようとする。眠気に襲われていたはずなのに、いざ寝ようとすると目が冴えていることに気づく。

 東京での夏実はいつもそうだった。どんなに眠くても目が冴えて眠ることができない。自分でもどうしてかは分からない。眠れないことで夏実は思考の渦に落ちていく。

 祖母の家に転がり込んでからは不思議と眠れるようになっていた。環境が変わって疲労と安堵があったのだろうと思う。でも今夜は再び眠れなくなっている。

 どうしてだろうと夏実は思う。ようやく眠れるようになって安心していたのに。

 私はまた東京の憂鬱な自分に戻ってしまうのだろうか。だとすればつらいことだと思う。

 私はどうすればいいのだろう。どうすればこの憂鬱と自己嫌悪から逃れられるのだろう。

 考えても無駄なことだとは分かっている。それでも考えない訳にはいかない。それほど私の生活は憂鬱と自己嫌悪に侵食されていた。そのせいで自分の生活は荒廃した。

 夏実は東京での荒廃した日々を思い出す。生産性など微塵もない鬱々とした日々。

 そして布団の中で頭を抱える。今は思い出したくないのに次々と記憶が溢れ出てくる。

 苦しい。たまらなくつらい。誰かに助けてほしいとすら思う。私は自分が大嫌いだ。

 夏実は吐き気を催す。自分に対する嫌悪感のせいだと思う。そして布団から這い出し、早歩きで部屋を出てトイレに向かう。口からは少しだけ嘔吐物が溢れていて、手のひらにその心地悪い手触りを感じる。

 空いている左手でトイレのドアノブを回す。そして便器に駆け込むと一気に胃の内容物を吐き出していく。あまりの気持ち悪さに涙が出そうになる。それでも嘔吐は止まらない。

 夏実はずっと便器の中に顔を埋めている。次々に胃の内容物が押し出されていく。

 一通りの嘔吐が終わると、夏実を急に脱力が襲う。私は何をしているのだろう。

 今まで我慢していた涙が一気に溢れ出す。私は醜い。なんと醜い存在なのだろう。

 私は果たしてこの世界に存在していていいのだろうか。それさえ分からなくなる。

 夏実は寝ている祖母には聞こえないように声を押し殺しながら涙を流す。

 私なんかが生きていてごめんなさい。生まれてきてしまってごめんなさい。それでも私には死ぬことができない。その権利すら私にはないのだと思ってしまう。

 私はどうすればいいのだろう。どうすれば私は許されるのだろう。いくら考えても私には分からない。

 夏実は涙を流し続ける。生きていることの罪悪感がとめどなく涙を溢れさせる。

 私はどうすればいいのだろう。

 そのまま孤独な夜の時間は流れていく。誰もその時間を止めてくれる者はいない。

 やがて気がつくと夜は次第に白み始める。あぁ、朝になってしまうのか。何度このような惨めな朝を繰り返してきたのだろう。いつの間にか夏実の涙は枯れていた。そして虚無感と無力感だけが夏実の残骸を支配している。

 情けない。私はなんて情けないんだろう。

 夏実は紺碧の中で人知れず冷笑を浮かべる。こんなところで私は何をしているのだろう。

 夏実の肩から憑き物のようなものが落ちていることに気づく。

 もうすぐ朝になるけれど疲れたからもう一度だけ眠るか。夏実はそう思ってトイレから出る。そして自分の部屋へと戻り、布団の中に潜り込む。さも、始めから自分はそうしていたのだと祖母に偽るかのように。

 外はいつの間にか朝になっている。そして夏実はいつの間にか疲れ果てて眠っている。

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